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1935年12月20日19:00 グロリオス諸島北方沖にて

申し訳ありません。ボケて新見艦長を分身させてしまいました。

今回の更新は、海戦のコマ配置等決めちゃって話を作っているため、前回の更新から"海彦"を取り除き、こちらに移動させる形で修正を加えます。

前回更新分における修正箇所は以下の通りです。


・"海彦"の別働隊からの削除。それに伴い、旗艦を"早苗"に。

・"対馬"艦長として新キャラを挿入。

・新見視点を副官の吉野視点に変更。


以上です。ご容赦ください。

「田村さん!」

 大井の呆れた大声が、防音処理を施した"富山"の水測室内に良く響いた。

 来客の存在に気づいた田村は米国のボールドウィン・ラジオ社製のヘッドフォンを外し、大井を見る。

「どうした?」

 今は95式水中聴音補機で、周辺の水測をしている真っ最中であった。

「どうもこうもありません」

 大井は手をひらひらとさせて、自らが座る簡素な四角椅子を足で叩く。


「ここの村上艦長と主計の連中に頼まれたんですよ。『さっさと飯を食わせてくれ』ってね。もう7時間はぶっ続けでやっているでしょう。根を詰めすぎて体を壊したらどうするんですか」

 ここにきて、田村はようやく作業机に冷えた赤飯の握り飯と味噌汁が置かれていることに気がついた。

 これは申し訳ないことをしたな、と内心上司と同僚に詫びる。


「声をかけてくれてもよかったのに」

「何度も声をかけたのに反応がなかったそうなんですがねえ」

「そうだったのかい」

 ばつが悪そうに頭をかく。が、それでもヘッドフォンを放して休憩を取る気にはなれなかった。


「いや、ただ二度と無い好機だと思うんだよ」

 言って、片耳だけにヘッドフォンを当てて補機の表示板を見る。

 インクのついた針が、紙巻きのドラムに繊細な音の疎密……、つまりは縦波形を描き出していた。

 ヘッドフォン越しに聞こえてくる無数の2軸スクリュー音やタービン音、エンジン音。様々な音が、独立して、または合成されて記録されていく様子を見て、田村は思わず目を細める。


「イタリアさんだけでなく、イギリスやフランス艦の"音"が記録できるんだぜ? しかも海流は一定でお誂え向きに今は大規模なサイクロンが一過して水面下も透明なレンズみたいに穏やかだ。今記録しないで何時やるんだよ」

「"音"に国籍なんてないでしょう?」

「あるよ、国籍。皆、個性がある」

 大井が肩をすくめる。「結局、我が国は職人芸に行き着くんだよなあ」との呟きは気にしないことにした。今、田村は楽しくて仕方がないのだ。

 音のざらつき、滑らかさ、甲高さは二次元上ではいかに表現されるのか。具体的に、抽象的に、比喩的に。

 鼻歌交じりに聴音の結果をノートに書き付け、他艦で同様のことをやっている部下の電信を確認しては、更に書き付けていく。


「一体、何をメモっているんですか」

「他国艦隊の練度だな」

 走らせ続けていた万年筆を一端止め、感嘆の息を吐く。

「やっぱり イギリス(ロイヤル・ネイビー)さんは流石だよ。示し合わせたとおり、艦隊がきっちり南南東7000メートル先で等間隔に並んでいて、全く乱れがない。南西21000メートル先のイタリアさんも練度は良さそうなんだが、ちと負ける感じだ。というか、艦隊内のことはさておいても、他国と足並みをあわせんでどうするんだか……」

「は、え?」

 田村の言葉に大井は驚き、椅子をがたりと鳴らす。

「意味が分かりません。方位と距離は分かるとして、その練度を計る根拠は一体何処から持ってきたんですか」

 頬杖を突いていた手を解き、口をぽかりと開ける大井。

 田村は何を言っているのだという面もちで彼を見た。


「いや、普通に計算で簡単に出るだろ? ペンと紙があれば、お前さんにだってできるよ」

 田村はノートの白紙部分を指先で叩き、実際に計算を演じて見せた。


「まず、"富山"のハイドロフォンを角Aとして、"秋津"のハイドロフォンを角Bとするだろ? 音の出所は角C。辺ABの中点をMとして……、直角二等辺三角形2組の出来上がりだ。後は正弦定理を利用すれば、距離が測れる」

「ああ、サイン・コサイン・タンジェント……。まあ、そこは流石に理解できますけど」

 大井の表情が見るからに辟易としたものに変化した。


「何だ、"三角"は嫌いなのか。お前、曲がりなりにも兵学校の出身だろ。弾着計算だって球面三角法で計算するんだ。軍人が"三角"をマスターせんでどうする」

「日常、"三笠"の時代から器械で出来ることを、わざわざ人間様がやることに意義を感じません」

 典型的な"数学嫌い"の極論を振りかざす大井に田村は目を白黒させた。

 国を代表するエリートの言ではない。


「合戦中、測距儀が壊れたらどうする」

「測距儀が壊れる被害を受けている時点で、本格的な殴り合いに入っていますから、下手に狙いを付けるよりは目くら撃ちで数を撃つ方が妥当でしょう」

 田村の詰問に大井はしれっと答える。


「お前なあ……」

 田村は呆れて何も言えなかった。

 勿論、本気で言っているわけではないのだろう。恐らくは、彼も砲術士官コースに乗った場合は真面目に"三角"を学び直すはずだ。

 こうして憎まれ口を叩いているのは、彼本来の性分によるものであった。

 この大井篤という男は、意味のないこと、面倒をひどく嫌う。要領が良く、補給、通信、航海、渉外、おおよそいかなる分野においても有能であるのだが、生来の生意気さだけはいかんともしがたい。

 今は総隊の、自分の前だから許されているが、これが旧態然とした古巣ならば、一発や二発の鉄拳じゃ済まない。例えば生意気を耳にしたのが"球磨"の百武提督ならば、「惰弱だ」何だと激怒の末に艦首逆さ吊りの刑すら命じられかねないだろう。いや、うちの佐藤提督が聞いてもひどそうだ。

 要するに人を見て話しているのである。この野郎は。

 田村は片手で頭を抱え、大井を見た。


「どうしました?」

「どうしました、じゃないよ。お前さんが総隊の人間で良かったと思っただけさ」

「それについては、俺も全く同感なのですよね」

 もしこの男が総隊に移らず、古巣に残り続けていたなら、どうなっていたことだろう。

 まず間違いなく、とてつもない問題を同僚や上司との間で起こしていたであろうことは想像に難くなかった。

 これを天職を得たのだと捉えるか、水は低きに流れると捉えるかは議論が分かれるところだが……。


「こいつめ」

「おっと」

 拳骨を落とすジェスチャーを取ると、大井は機敏に椅子を立ち、田村から距離を取った。


「それはそれとして、結局答えになってないですよ。今の説明じゃ、練度が測れていないじゃないですか」

「いや、"三角"が出来ればもう練度も分かるよ。後は音の発生源を"長さ"や"範囲"で探っていけばいい」

「あー」

 ようやく理解ができたらしい。


「あれですね。尋常小学校でやった植木算」

「その通り。発生音の"範囲"が分かったなら、編成艦数でこれを割れば良い。んで艦ごとの平均間隔が出るだろ? 間隔が短ければ練度が高く、広ければ練度が拙い。きっちり割り切れれば等間隔で並んでいるし、割り切れなければばらけている可能性がある。簡単すぎる計算だ」

「良く、んなもん覚えていましたね」

 四角椅子を縦にしながら、大井が感心したようにそう言う。

 田村はため息をつき、大井を諫めた。


「スマートたるべき海軍軍人だが、温故知新を捨て去るんじゃあありませんよ。『計算常用表』くらいはもう一度読み直しておけ」

「ああ、あれ。一号生徒にあがった際に、 芸者(エス)の芳名録にしてしまいました」

「馬鹿野郎!」

 流石に我慢できず、田村は手近にあった物を投げつけた。





 1935年12月21日03:30時。

 マダガスカル島西方に浮かぶグロリオス諸島の北方250km沖、大発動艇旗艦の指揮所にて渋谷の盛大なくしゃみが木霊した。


「やっかましいなあ。シローさん。鼓膜が破れちまいますよ」

「うるせ。大方、内地の 芸者(エス)が俺の心をキャッチできるか、噂話でもしてんだろう」

「キャッチ・ 風邪(コールド)しちまえばいいのに」

「お、サウス。上官相手に良い度胸だな、この野郎」

 南部という部下の悪態に抗論しつつ、渋谷は鼻をすする。

 先ほどのくしゃみは霧中の冷え込みに因るものであった。

 夜明け前の海面には深い霧が立ちこめており、一寸先も見えやしない。

 それでも"秋津"の後方に大発動艇八艇を控えさせているのは、朝駆けで始まる掃討作戦に向けての準備であった。


「作戦開始時刻は06:30時でしたっけ。随分、中途半端な時間ですよね」

 シナッパチが疑問を呈するが、これについては石岡が答えた。

「この近辺で海面温度の上昇が始まり、濃霧が晴れる予定時間帯がそのあたりなのだそうだ」

「ああ、見晴らしの問題ですか。確かに同士討ちはぞっとしませんや」

「それだけじゃないけどな」

 説明が足りていないと感じたために、渋谷はここで口を挟む。


「見晴らしだけを考えるなら、海面温度が冷えきり、霧の消えた深夜に攻めたって同じだろ。探照灯や照明弾を使って夜戦にでも持ち込めば、こっちのもんだ。むしろ、そちらの方が一方的に敵を粉砕できるんじゃあないか。何せ、相手は根っからの"船乗り"じゃあないからな」

 海上戦闘において、"船乗り"かそうでないかの差は大きい。独特の数学的な素養が必要になってくるのだ。


「俺ら船乗りは、経験上意識してか無意識の内にかは知らんが、"三角"や"流体力学"なんかを勘定に入れた、独特の勘を持っている。だが、陸の人間にはこれを持っておらん。陸さんの出向組が未だに乗組員として慣れないのは、ここいらが原因なわけだが……」

「素養で言えば、商船出身の方がまだ"使え"ますからね」

「石岡」

 渋谷は心持ち非難がましく石岡を睨む。

 今まで内地で水兵の調練を担当していたこの若者は、このたび元海軍出身のエリートであるという経歴と、数年の忠勤が認められて、出世コースの途中駅として発動艇隊の一員に組み込まれていた。

 要するにキャリア的には、渡り鳥の羽根休めなのである。彼が手塩にかけたであろう水兵に対しての上から目線はまだ我慢できよう。それは可愛がりであり、しごきの一環と捉えられる。

 だが、商船出身の補充士官については渋谷の領分であった。渋谷にとって、海上での付き合いは商船出身の中谷や南部の方が長い。公平さを期すよう心がけてはいるものの、可愛がり方の序列に差が生じてしまうのは致し方ないことであった。

 石岡は場の空気と舌禍を悟ってか、頭を下げる。


「失言でした。彼らの奮闘は理解しています」

「……まあ、良いけどよ。ったく、石岡ってどうもあだ名がつけづらいのよな」

 恐らくは心理的な距離感があだ名をつけにくくしているのだろう。

 上に立つ人間として、全くもってからっとしていない。渋谷は心の内で自らの狭量を恥じながら、「話が逸れた」と仕切り直す。


「ともかく夜討ちをしない理由は何か? 同士討ちを避け、闇夜に紛れて敵を逃さないためなど色々言い訳も思い浮かぶが、結局のところは慢心だよ。敵さんを舐めていやがるんだ。弾薬費が惜しい。自分たちの活躍を、白昼の下で従軍記者に記録させたい……、ってな」

「見栄張りな横綱相撲だなあ」

 呆けたことを言う中谷。

 それとは対照的に、石岡が納得のできない顔をした。


「……軍人の慢心なぞ許されるものではありません」

 この若者の生真面目なところは、渋谷も好感を覚える部分であった。が、真面目が常に正義とは限らない。


「それでもイタリアさんは海賊退治に連戦連勝しているからよ。うちらが諫言したところで、負け犬の遠吠えと見られるのが関の山なんだわ」

 渋谷はため息をつき、続けた。


「俺たちは遠巻きにイタリアさんの活躍を見届けて、逃げた敵船を拿捕するだけさ。余計な仕事はする必要ない」

「納得できません」

 不貞腐れる石岡の胸を渋谷は拳で突く。


「お前のあだ名決まった。石頭(ストーン・ヘッド)でいこう」

「何ですか、それ……」

 笑いながら渋谷は目を細め、霧の中で乱反射する"秋津"の光信号を注意深く観察した。


「"海彦"からの電信は?」

「ええと、特に深刻な電波障害もなく届いております。はい」

 中谷の言葉に、小さく頷く。

「重畳。ご覧の通り、光信号が役に立ってない以上、各艦艇の水中聴音と電信による警戒態勢だけが頼りだ」

「渋谷指揮官は見守れと仰った割に、警戒もされるのですね」

 石岡の皮肉には、

「ここ数年、嫌な予感は外れたことがないんだ。これが」

 と大真面目に返す。


「水中の様子はどうだ? 何か変化はないか?」

 艇尾に陣取って、レシーバーを片手にハイドロフォンを海中へと沈めている部下へと呼びかける。彼は勘州事変においては陸軍に所属し、対空聴音機のソナーマンを勤めていた男であった。

「は、聞こえるものは各国艦隊が出す雑多な音くらいのものであります」

「そうか」

 異常なしとの答えを得ても、渋谷の不安は晴れることがなかった。

 十分置きに同様の問いを投げかけ、同様の答えを受け取り、それが6回続けられた後に――、変化が訪れる。


「連合艦隊右舷に人工音多数」

 にわかに艇内がざわめいた。




「敵速は?」

「およそ、25ノット!」

「まともな商船の船足ではないな。高速艦ならば振り切れる速度だが……、接触はいずれの艦隊が一番早いのかッ!」

 新見の声が"海彦"の艦橋に轟く。

 いつもならば、いの一番にのぞき込んでいるはずの双眼鏡は、光源のない霧中において無用の長物と化していた。

 恐らく、水中聴音による広域警戒を徹していなければ、こちらの懐にまで正体不明船団に潜り込まれていたに違いあるまい。

 備えていた甲斐はあった。が、これからの立ち回りでその備えは水泡にも帰しかねない。


「右舷前方80度……、我々の艦隊が一番早く接触します!」

「他国艦隊に連絡を。合戦準備!」

 言って、新見は周辺の海域図に配置していた船形の駒を睨みつける。

 駒は4カ国連合艦隊を表している。艦隊はいびつな複縦陣を取っていた。右陣がイタリア艦隊。左陣が英仏艦隊。そして後方の備えに護民・遣外艦隊が遊兵として単横に並んでいる。あくまでも今回活躍を望まれていたのはイタリアと英仏艦隊というわけだ。

 "富山"からの情報では、複縦陣を取ると打ち合わせしておきながら、イタリア艦隊は英仏艦隊の14000m南方に先行していたという。

 これは、南方200km以上先にあるはずの海賊拠点へ先んじて到着し、英仏艦隊よりも大きな手柄を立てようという意気込みの現れであろう。


 ――だが、予想に反して目当ての海賊らしき正体不明船団が新見たち護民・遣外艦隊の側面に出現した。このことはすなわち、

「我々の動きが悟られていた?」

 こちらの動きを誘導されていた可能性がある。

 海図を睨みつければ、連合艦隊の西方すぐ近くにアソンプシオン島なる三日月型の小島が浮かんでいることに気がついた。


「こちらの動きを窺っていたとするならば……」

 単なる捕り物では終わらない。嫌な予感が背筋を伝う。

 助言を仰ぐべき、佐藤の存在が恋しかった。だが、彼は今"球磨"にいる。いっぱしの艦長としてやるべきことは自身でこなさなくてはならなかった。


「照明弾用意」

 まずは光源の確保を努める。霧中の乱反射が厳しい中で、照明弾がどれほどの効力を発揮するかはわからないが、やらないよりはマシである。それに、他国艦隊に異常を知らせる狼煙にもなろう。


「分かりました。照明弾用意!」

 砲術指揮官の指示で部下が慌ただしく駆け回る中、通信士を通じて、"球磨"と連絡を取る。佐藤からの返答は、

「全艦、右回頭、合戦用意」

 とのことであった。

 新見は佐藤からの指示を吟味し、航海長に指示を下す。


「面舵、一杯」

「面舵、一杯!」

 "海彦"が傾き、右に回頭する。

 護民・遣外艦隊の単横陣は、ほどなくして単縦陣へと早変わりした。

 未だ正体不明船団の影も形も見えないが、水中聴音による測距位が、彼らの接近という警鐘をひたすら鳴らし続けている。


「"球磨"より伝令。単縦陣を保ったまま、左に回頭すべしとのことです」

「……他国艦隊との分断を警戒されたのだな。取り舵、一杯」

「とーりかーじ、一杯!」

 再び進路を南に取り、正体不明船団の接近を迎え撃つ形で待ち受ける。


「照明弾、てぇっ!」

 照明弾の発射音が1発轟き、しばらくしてから上空がうっすらと白んだ。

 新見は歯噛みする。やはり、濃霧の中での照明弾は意味をなさない。

 恐らくは探照灯も乱反射によって物の役に立たないだろう。

 "海彦"の搭載する60口径10サンチ単装砲は、45度の仰角を取ればおよそ2万メートル先の敵を砲撃することが可能だったが、それも探照灯の照射による有視界弾着観測あっての芸当だ。

 1km先もかくやという状況下において、探照灯による目標の指示ができず、組織的な戦闘が封じられているというのは痛い。


「水測で何とかならんものか、田村に聞いてくれ」

 ふと思いついた案については、即座に"富山"から「無理だ」と返事が返ってくる。

「一度砲撃戦が始まってしまえば、水中内がかき回され、まともな水測はできないとのことです」

「そうなれば、肉薄しての近距離戦闘に望むしかないということか……」

 両軍ともに肉薄してしまえば、ノー・ガードの打ち合いに持ち込まれてしまう。

 無論、投射火力で海賊風情に負けるつもりはなかったが、敵の全貌が未だに見えていないことが不気味であった。


「"秋津"発動艇隊が右舷方向に分離しました!」

「我々の盾として動くつもりか?」

 独断、ではないのだろう。

 時速30ノット強で迅速に艦隊から離れていく小さなシルエット群を見て、新見は呟く。

 元より護民式の大発動艇は艦隊・船団の護衛戦闘においては、大型商船の盾になるよう厚めの装甲で設計されていた。

 それに正体不明船団の足止めにもなろう。小さな艇体は相手の距離感を惑わせることにも使えるだろうし、渋谷からの進言か佐藤の指揮かは分からないが、初手の布石としては手堅く思える。だが、


「"球磨"及び遣外艦隊。増速し、右舷前方に出るとのこと。護民艦隊は陣形を維持と」

「やはりこちらではなく、渋谷隊と単縦を取るか」

 遣外艦隊のこの動きは納得できるものであった。海軍側の司令官たる百武中将は後方よりも前線を好む人となりをしている。渋谷隊を盾にするような立ち回りは当然受け入れられず、また先頭を渋谷に譲ることも軍人として、旗艦としての誇りが許さないだろう。

 白んだ霧中にゆらゆらと浮かぶ巡洋艦隊のシルエットが、右前方へと流れて消えていった。


「"富山"、"秋津"の水測は?」

「目下、継続中です。正体不明船団、依然としてこちらへと直進、増速しました。目標との距離、2万5000メートル!」

「増速したのか……」

 恐らくは照明弾の打ち上げがきっかけだろう。こちらの迎撃態勢に気づいて増速したということは、奇襲を狙っていたということに相違なかった。

 出鼻を挫かねばなるまい。


「右砲戦。各主砲塔、副砲、撃ち方用意」 

 60口径10サンチ単装砲と40mm単装高角砲が、おおよその距離と方位をとって準備される。

 こんな盲撃ちは不本意であったが、勝ち方にこだわって被害を出しては洒落にならない。


「目標との距離、2万メートル!」

 ついに正体不明船団が主砲の射程内へと侵入した。

 通信士より、佐藤の伝令が届けられる。

「合戦開始」

 新見は息を呑み、敵のいる方向を見た。


「主砲撃ち方、始め!」

 発射を知らせる警報ブザーが高鳴り、護民・遣外艦隊から砲弾が発射された。

 "海彦"から発射された砲弾は山形(やまなり)の弾道を取り、発動艇隊の頭上を飛び越える。

 目測による弾着の観測は不可能だ。しばらく経って、水測による弾着の知らせがもたらされた。


「これで敵が算を乱して、陣形を崩してくれでもしたなら万々歳なのだが……」

 恐らくそうはなるまい。

 水面下は一斉砲撃による衝撃で、聴音のできない状態になっていた。

 こちらに直進してきているという想定の上で、艦隊は予測射撃を継続。

 濃霧を切り裂く主砲の発射音が轟き、静寂に飲み込まれる。

 再び発射音が轟き、静寂に飲み込まれる。これの繰り返しだ。

 まるで三国時代の英傑、諸葛孔明と相対する曹操軍の弓兵にでもなったような心地がした。

 孔明は霧の中、曹操の水軍に偽りの奇襲を仕掛け、無駄に矢を射掛けさせることに成功させたと言うが、よもやこれも計略の類なのではないか?

 我々は翻弄させられているだけなのではなかろうか?

 姿の見えぬ敵と相対する重圧がのしかかってくる中、英仏艦隊から吉報が届けられる。


「英仏艦隊、合流!」

「何とか間に合ったか!」

 英仏艦隊は打ち合わせ通りにこちらの艦隊との間隔を7000メートル以内に収めていた。

 予想以上に速い合流であったが、それは最大戦速でこちらへと駆けつけたためであろう。

 姿こそ見えないが、ロイヤル・ネイビーの海軍旗が逞しくはためいているのを、新見は幻視する。


「イタリアさんは?」

「先行しすぎていたようで、敵方向へとUターンしてこちらへと直行しているようです」

「Uターンだと? しかも敵方向へ? 佐藤司令官がそうしろと要請なさったのか?」

 新見は驚きのあまり目を見開く。

 恐らくは敵の頭を抑えて丁字有利に持ち込もうという腹積もりなのだろうが、Uターンはいかにも拙い。

 下手に英仏や我が国の艦隊とすれ違うような進路を取ってしまえば、同士討ちの危険から何もできなくなってしまう。


「"球磨"より通信! 左回頭。正体不明船団から距離をとれとのこと」

 同士討ちを恐れてのこの指示。

 つまり、イタリアの動きは独断であったということになる。

「連携というものを知らんのか、イタリアは! せめてもう少し早く連絡しろっ!!」

 たまらず毒づく。

 "海彦"に連なる"富山"や"秋津"がまず回頭し、次に盾として陣取っていた"球磨"率いる艦隊がそれに続いた。

 問題なのは、英仏艦隊だ。

 戦闘海域への突入角度の関係で、どうしても転舵が遅れてしまう。


「くそっ。撃ち方止め! 同士討ちを避けよッ。英仏さんはどっちに動いた!?」

「分かりませんッ」

「確認急がせろ!」

 拙い兆候であった。

 忌々しい霧の中、各国の艦隊が統制を失い始めている。

 今、海賊と撃ち合う羽目になってしまえば――。

 そして、敵はこちらの混乱をあざ笑うかのごとく、ただひたすらに突撃を続けていたようであった。


「発動艇隊、船団を視認! 戦闘が開始されましたッ」

「ここでか! ここでなのかっ!」

 砲火の光が瞬き、先ほどとは比べ物にならぬほどに慌しい戦闘音が、数千メートル先から聞こえてくる。

 味方のシルエットの更に先に、船団のシルエットが揺らめいていた。

 敵と味方の距離が近すぎる。ここに至って、"海彦"をはじめとした護民艦隊は木偶の坊と化してしまう。


「右前方より主砲の発射音!」

「英仏と、イタリアのどっちだ!」

 戦場は互いに肉薄した混戦の相を呈してしまった。

 敵味方の砲火を掻い潜る、個艦の奮闘にすべての望みが託される。

 そして、

「あ――」

 まず、凄まじい爆発音に鼓膜がやられ、新見の全身に熱風が叩きつけられる。

 敵砲の直撃ではない。

 "海彦"のすぐ傍で、敵の小型艇が爆発四散したのだ。

 それは、弾薬庫の引火などによる不幸な事故では決してなく、もっとおぞましい意図によって引き起こされた何かであった。





「――何しやがった……?」

 呆然として指揮所に立つ、渋谷は言った。

 意味が分からない。

 目の前で敵船が光ったかと思えば、次の瞬間には爆散した。軍用艦の主砲を受けても、あんな都合の良い爆発の仕方は起こらないはずだ。

 大爆発によって急上昇した気温が、にわかに周囲の霧をかき消していく。

 何かがおかしい。

 渋谷は自らの直感に従い、無線に向かって叫んだ。


「取り舵、いっぱい。この場から最大戦速で離れろッッ!」

「Hard a Starboard!」

 渋谷の叫びとほぼ同時に、何処からか操船指揮の号令が聞こえてくる。

 声のする方へと目をやると、それは黒人兵士たちの操る小型軍用艇であった。

 爆炎によって照らし出された黒い肌と無数の目が、闇夜に浮かび上がって見える。

 船の燃える焦げ臭さとともに、独特の香りがこちらにまで漂ってきた。


「何だ、何をする気だ……?」

 恐らくは指揮官であろう男と目が合う。

 男はすぐにこちらへの興味を失い、部下を叱咤して小型艇を走らせる。

 艇の向かう先は英国艦、"ダナイー"級の一隻であった。

 速力を最大にして、小型艇は進む。黒人の指揮官が何かを叫び、十字を切る。

 周囲の状況が分からず、迂闊に動けなくなった"ダナイー"級との距離が見る間に縮まっていき――、


「おい、それはッ!」

 衝突の寸前に小型艇が爆発炎上した。

 炎の塊と化した小型艇が"ダナイー"級の側面装甲を容易く突き破り、艦内を煉獄で満たしていく。

 "ダナイー"級が真っ二つに折れた。弾薬庫か、機関部に火が回ったのだろう。


「それは――」

 続けて、別の場所から爆発音が聞こえてきた。

 やはり小型艇の炎上突撃を受けて、イタリアの巡洋艦が爆発炎上している。さらに爆発。

 爆発。爆発。爆発。 

 直撃を受けた艦も、回避ルートをとった艦も一隻の例外もなく海賊による大打撃を受けていた。

 思うに渋谷の艇が見逃されたのも、"大物"でなかったからに違いあるまい。

 彼らは、はじめから艇内に爆発物をわんさかと積み込み、即席の"生ける魚雷"と化していたのだ。

 魚雷に望まれる役割は"大物食い"。

 彼らは役割を見事に果たしていた。

 大戦果である。

 寡兵で、それも乏しい戦力を以って、列強の連合艦隊相手にここまでの痛打を浴びせかけた存在は今の今までいなかった。


「だが、駄目だろう……。それは」

 渋谷は力なく指揮所の防弾板にもたれかかった。

 勇猛な軍人は死を恐れない。

 歴史上、死兵や決死隊が戦況を覆した例もあるにはあった。

 それでも、渋谷の中にある一欠けらの人間性が、この地獄を遣る瀬無く思うのだ。

 有能な部下が、一刻も早くこの地獄から離れようと舵を切る。

 さながら漁り火のように、"コンドッティエリ"型軽巡洋艦2隻と"ダナイー"級1隻、他無数の駆逐艦が闇夜を明るく照らし出していた。

 これだけでもあってはならない光景といえるのだが、更に目を背けたくなるような光景が渋谷の視界に映りこむ。

 地獄は、何らかの原因で爆発を免れた英国の巡洋艦で起きていた。

 その側面には海賊の小型艇が形を保ったまま、突き刺さっている。甲板上に横たわる黒人海賊に対して、英国人水兵が挙って小銃の弾丸を撃ち込んでいた。

 皆が皆、鬼の形相をしている。やはり、ここは地獄なのか――。

 渋谷は天を仰ぐ。

 霧が晴れこそしたものの、空は厚い雲に覆われており、月も陽も、星の光も見えはしなかった。






 後に"グロリオス諸島の悪夢"と呼ばれたこの海戦によって受けた被害を数字の上で単純に総括すれば、次のようになる。


 イタリア艦隊の被害、"コンドッティエリ"型軽巡洋艦撃沈2。"フレッチア"級駆逐艦撃沈4。

 イギリス艦隊の被害、"ダナイー"級軽巡洋艦撃沈1、大破1。アドミラルティ改"W"級駆逐艦撃沈1、大破1。

 フランス艦の被害、無し。

 護民・遣外艦隊の被害、駆逐艦"朝顔"大破。駆逐艦"若竹"中破。

 エチオピア軍残党による海上戦力、壊滅。


 この戦いは参加国に膨大な経済的損失と様々な戦術的教訓をもたらすことになったが、それよりも注目すべきは世界中の人々の意識が"とある方向"へと変革したことにあった。

 白人種が有色人種に脅威を抱き、有色人種が白人種に今までよりも強烈な敵愾心を抱くようになったのである。

 1936年、1月に英仏独伊の間でとある協定が取り交わされた。


『非人道兵器の有色人種に対する使用の一部容認』


 白・黒人種間の溝を決定的に深める要因となったこの取り決めは、それと同時に左派であり少数派の立場から西欧の人種差別的な風潮に反発したワルシャワ・ドナウ経済連携協定の加盟国と、西欧との緊張関係をも高めることにも繋がった。

 そして……、1936年2月、大東亜連合設立。

 7月。スペイン内戦勃発。

 8月、第二次満州事変勃発。


 ――何億もの命を巻き込んだ大戦争の気配が、すぐ傍にまで迫り来ている。

 世に生きる幾人の人間が、悲劇の気配を感じ取っていたかは分からないが、その導火線に火がついていることは最早疑いようがなかった。


やっと主人公が出せる……。

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