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1935年12月14日 ダーラムにて

大変遅れました上に、文章・内容がとっちらかっている恐れがあります。

後ほど気づいた点は修正していきたいと思いますが、とにかく手直しは海賊編がまとまってからになりそうです。

 全く、事件というものは起きる時には相次いで起こる。錆び付いた秒針とて、油の一滴さえあれば動き出す、ということなのだろう。


 12月14日、陸軍出向組として港湾の巡検に努めていた寺尾明は、夜勤巡回のそろそろ明けようとしている0430時に、ダーラム港の埠頭にて海賊事件発生の報告を聞いた。


 発生地点はダーラム港に隣接したハーフムーン湾。アラビア半島の東岸は、総隊の遣アラブ艦隊が治安維持を担当している海域であり、海賊の鎮圧には当然ながら総隊の面々があたることになる。

 中東へ派遣されて、三ヶ月と少し。アデン湾での一件も冷めやらぬ内に、ついに勅令護民総隊は海賊どもと銃火を交わしたのであった。


 現場にいなかった寺尾は、事件の詳細を伝聞でしか把握していないのだが、どうやらこちら側にも相当の被害が出たらしい。

 先だっての0600時頃、遺体を乗せた大発動艇が次々にダーラムの埠頭に乗り付けた時、寺尾はその戦いの規模をおぼろげながら知ることができた。 

 大発動艇の舵を取る水兵たちの憤懣やる方ない表情、甲板上に横たわる民間人と、軍服を着た戦友……。

 それらは全て、総隊の行く先に立ちこめる暗雲を寺尾に幻視させた。


 戦友たちを水葬に付するか、それとも遺体を祖国に持ち帰るかは、この後の事件経過を鑑みて決めることだろう。

 誰が死んだのかまでは聞けていなかった。無論、艦隊組との面合わせは数えるほどしか行っていないため、名前を聞いたところで寺尾の知人である可能性は低い。……が、良い軍人であったことは事件の詳細を聞いただけでも良く分かった。


 事件当時、艦隊の水兵たちは例のごとくアラブ商人に混ざって、はしけ舟を操っての荷卸しに従事していたという。

 陸地で生きる者にとって、馴染みのある言葉ではないが、ようするにはしけ舟とは荷運びを専門とする小舟のことである。ここダーラムにおいて、大型の商船が直接接岸できる掘り込み港は未だ希少であり、現状その全てがサウード王家の指示で利益の見込めるアメリカ企業SoCal(ソーカル)の石油タンカーにあてられていた。

 積み荷はアラブ在住外国人向けの生活物資。イタリアの船舶であったことを考えるに、海賊どもの正体はアデン湾やアフリカ東岸で暴れまわっている武装集団――、"ラスタファリの殉教者"である可能性が高い。

 彼らはエチオピアの精鋭部隊だ。この執拗なまでのイタリア狙いは、戦時中から続けられている地道な通商破壊活動の一環と見て良いだろう。


 海賊どもの襲撃は乾燥帯特有の、丁度昼と夜の変わり目に発生する濃霧に乗じて行われた。

 まず銃声が鳴り、イタリア船の甲板上から悲鳴が上がったという。続いて、幾人かの商船員が海へと飛び込んだ。

 現地民の警戒心を和らげるため、海上における民間奉仕活動に従事する際、総隊員は武器を携帯していない。現場の指揮を行っていた渋谷少佐は部下の半数を母艦に戻し、残りの15名をもって事態の掌握に当たった。

 濃霧のはびこる甲板上に、渋谷少佐率いる総隊員が迅速に乗り込む。

 上がる際には目隠しになった濃霧も、甲板上では同士討ちを誘う厄介な障害に変わった。

 だが、そんな悪環境の中でも、海賊どもは何故か同士討ちをすることなく、的確にイタリア人を仕留めていたそうだ。何かしらのカラクリがあるのだろうが、現時点の自分たちにそれを知る術はない。

 殉職者は、そのほとんどがイタリア人船員を庇う形で発生した。例えばパニックに陥った船員を押さえつける形で物陰に匿おうとしたところを、背中から撃たれたという。

 最終的な被害はイタリア人船員が17名にアラブ人労働者5名、総隊の殉職者が4名の計26名。目も当てられない大損害であった。

 そして、忌々しいことに未だ下手人どもは捕まっていない。

 後に武装した総隊員が応援に駆けつけた時には、全て逃走した後であったのだ。


 安全が保障されて然るべき港湾部において、このように忌まわしい事件が発生してしまったことは、治安維持を預かる護民総隊遣アラブ艦隊にとって、まさに面目の立ちようもない失態と言えよう。

 今もここ護民総隊ダーラム支部では、イタリア船舶を保有している企業の役員が、猛烈な抗議の声を発していた――。



「話が違う! 船員たちの生命や船舶の受けた損害について、十分な保障をしていただけるのでしょうな!?」

 役員の怒鳴り声が、厚みのあるオーク製ドアの横に立っていた寺尾の耳朶を叩く。

 役員はドイツ系の面影があるイタリア人男性だ。西洋人特有の大柄から発する重低音で、威圧するように英語をがなりたてているものだから、聞く側としても鬱陶しいことこの上ない。

 室内のガラス窓がギシリと揺れたのは、決して外の風だけが原因ではないだろう。

 だが、そのようなひどい剣幕であるにも関わらず、テーブルを挟んで役員の怒声を直接受けていた牟田口は狼狽えることなく、言葉を返した。


「……その件については一刻も早く事態を究明し、弾力的にしかるべき対応をとることで、被害者の方々にも納得のいくよう迅速に事件の解決を図る所存である」

 艦隊の面々は海上にて下手人の捜索に当たっているため、本件にかかわる被害者の対応は陸詰めの牟田口参謀次長が行っている。彼は官僚的な作法に通じており、陸詰めの高官の中では最も渉外に適していたのだ。

 と、再びイタリア人役員の怒声があがる。

「のらりくらりと! 私は確かな言質が欲しいのですッ!」

 テーブルに拳が叩きつけられ、灰皿の灰が外へと飛び散った。

 寺尾はこのイタリア人男性の一時間前、多数の商売仲間を伴い、殉職者の弔問に来ていたアラブ人船主たちを思い出す。

『東の友人たちの魂が楽園へ帰る前に』とは、とある古参アラブ人船主の言であった。


「それについては――」

「……もう、よろしい! "ぼろきれは常に風に飛ばされるもの"だが、我々は決して"ぼろきれ"ではない。このことは大使館を通じて、本国にも報告させていただくッ!」

 男性はソファより立ち上がると、牟田口に背を向ける。

 寺尾は退出の気配を悟って間髪を入れずにドアを開けたが、すれ違いざまに返ってきたのは苛立たしげな舌打ちであった。

 既に関係は拗れてしまったのである。こちらがどんな対応を取ろうとも、それらは全て男性を苛立たせる効果しか生み出さないだろう。

 寺尾は無言で目を落とし、相手の退出を待つ。

 自身の経験上、軍の同僚や国内の活動家ならば、捩じれてしまった関係を修復することは簡単だ。腕っ節や法律に則って、暴力と正論をあびせ掛けてやればいい。

 しかし、生憎と相手は列強国の――、それもエチオピアにて英仏の義勇兵を容易く蹴散らしたと噂される軍事大国の一員である。

 故に騒動を避ける努力に徹した。

「……カッツォ!」

 悪態を伴った乱暴な足音が、部屋を出た先にある大理石の階段をくだっていく。

 男は総隊支部の何もかもが憎たらしいらしく、ギリシャ調の柱にも、壁上に飾られている現地人より贈られたアラビアオリックスの頭部剥製にも難癖をつけながら、アーチ状の正面出入り口をくぐっていった。途中、乱雑に当たられた同僚には内心でご愁傷さまと労っておく。


「はあ」

 男性の気配が完全に消えた後、部屋の中からため息が聞こえてきた。

 牟田口の嘆息だ。その表情は見るからに憔悴しきっていた。


「……牟田口大佐。お疲れ様です」

 本人に対し、ダーラム支部の"参謀次長"とは呼ばないことにしている。要らぬ不興を買うことになるからだ。

 しかしながら、こうした細心の注意を払った労いも、下降した機嫌を直すには至らなかった。牟田口はソファに深々と身体を預け、そのまま不愉快そうに鼻を鳴らす。

「んなことはどうでもいい。本国の井上さんに何と報告したら良いか、そちらの方が気がかりだ。よもや艦隊さんの悪口を言うわけにもいかんしなあ……」

 春の顔合わせ以降、彼の情熱は本部参謀長である井上成美の関心をいかにして引くかに注がれていた。

 傍から見ている寺尾が呆れるほどの忠犬ぶりである。

 よほど支部参謀長の座を石原大佐に盗られたことが気に入らないらしい。


「大体、艦隊さんも艦隊さんだ。何故よりによって、嫌がらせのようにハーフムーン湾での狼藉を許すかね。わしへの嫌がらせか何かか」

 これは寺尾も気になるところであった。

 ハーフムーン湾はダーラム港に隣接した小さな湾だ。

 ハーフムーン湾の沖合にはペルシャ湾が広がり、その先には外洋へと続くホルムズ海峡がある。

 遣アラブ艦隊はそれら全ての海域を日頃から巡視しているわけだ。

 こうした幾重にもなる厳しい監視網を作り上げているのは型落ちの駆逐艦1隻に、特設水上機母艦2隻。大発動艇母艦1隻に、給油艦、給糧艦などの補助艦艇4隻……。

 いささか小型に偏っているが、それでも海賊相手に戦力不足ということはありえない。

 恐らくここアジア方面で護民艦隊の投射火力に勝てる戦力は、正規艦隊。例えば、インド亜大陸に駐留しているはずの英国巡洋艦隊くらいのものだろう。

 要するに、わざわざアフリカくんだりから出張してハーフムーン湾での狼藉に及ぶためには、アジア有数の海上戦力をやり過ごさねばならないのである。


 ――では何故、海賊どもはわざわざ無駄なリスクを負おうとするのか?

 ただイタリアに打撃を与えることが目的ならば、警戒網をくぐりぬける必要などない。それこそ我々とイタリア海軍の警戒網がぶつかりあう、アラビア半島南岸で犯行に及べばいいはずだ。

 ――何故、海賊どもは未だ影も形も見つからないのか?

 霧の晴れた現状、海域の上空には総隊の水上機が飛びまわっている。船と航空機の速度差を考えれば、万が一にも逃走する不審船を見逃すということはないはずなのだ。

 それなのに、不審船を見つけたという報告は未だやってこない。

 こちら側の戦力がまだ足りていないとでも言うのであろうか? あちら側の手際がただただ鮮やかであったということか? まさか。

 分からない。寺尾の見聞きした情報の全てが常識的理解の埒外にあった。


「……周到な準備の上に行われたということでしょうか?」

 困惑の中に吐き出したその言葉に、牟田口が失笑する。

「何を馬鹿なことを。アデン湾の一件はつい先日のことじゃあないか。西岸で暴れ回り、返す刀で東岸を襲う、と? そこまで神出鬼没で広範囲の作戦を行える組織力を、未開国家の戦闘部隊が持っているとも思えん。つまらん疑問を呈すな。土人どもの作戦実施能力については、わしほどに良く知っておる者はいないのだぞ?」

「は、申し訳ありません」

 牟田口の指摘も尤もである。だからこそ、考えれば考えるほどしっくり来ない。

 思考の袋小路に陥らんとしている寺尾たちに対し、一つの可能性を提示したのは、部屋の外よりやってきた飄々とした声であった。


「要するに、賊徒を手引きした者がいるのであろうなあ」

 牟田口の舌打ちがやけに響く。陸軍出向組のトラブル・メイカー、石原であった。

 彼はダーラム支部の参謀長に任じられてから、盛んに現地有力者との伝手をつくるべく、アラブ・アフリカ地域を奔走していた。……が、その全貌は彼だけの秘密であり、寺尾たちが把握していることははっきり言って少ない。

 一応、現地武装勢力の情報を何処からか拾ってくるとはいえ、本部への報告義務を怠るというのは拙いだろうと部下ながらに思う。


 この件については牟田口が井上へ盛んに不行跡を注進していたはずだが、今のところ色好い返事をもらえたとは耳にしない。

 曲がりなりにも組織だった軍である以上、任務上の報・連・相は当然であり、自分たちのような外様の独断専行を放置するとは考えにくいから、恐らく「支部に関わる人事異動については、海賊案件が片付いてから」ということなのだろう。

 早いところ収まるところに収まってしまえと思わざるを得ない。

 外回りを終えて帰ってきた秘密主義者は、涼しい顔で雨覆と外套にこびりついた砂埃をはたき落とし、凝り固まった筋肉をほぐすように首をぐるりと回していた。


「お帰りなさい。石原大佐」

「ん、ただいま戻った」

 挙手礼で出迎えると、石原も軍帽を外した答礼をし、すぐさま新たに縫いつけられた金地に赤色の襟章が目立つ、大陸にいた頃から着込んでいた旧式夏衣の襟を緩めた。


「……普段の怠け者が、こういう時にペテンをかます。寺尾、そいつを構うんじゃない」

 牟田口の毒舌に石原は肩をすくめると、懐から煙草の包装を取り出した。が、中身を切らしてしまっていたようだ。ポリポリと耳をほじりながら、寺尾に声をかける。


「"かちどき"持ってないか?」

 寺尾はため息をつく。

 役職的には差があれど、階級的には同格の上司二人が織りなす主導権争いなど、武人肌の自分にとっては面倒なものでしかない。

 常々思うのだが、組織人たる自分たちはそもそもどちらかを立てれば角が立つ状況など、作らぬように努力するべきではなかろうか。

 まず互いに礼を返せ。いかに不仲といえども、見てくれ程度も取り繕わないとは、軍人精神を何処へやった。

 そう思うがゆえに、寺尾は中立を貫く。

 内地で買い込んでおいた煙草を一本差し出す。差し出す銘柄は、"かちどき"ではなくコウモリ印の"バット"であった。"かちどき"は自分で吸うと心に決めている。

「……"バット"とは縁起が悪い」

 差し出された銘柄を見て、石原は差し出された銘柄に若干眉をひそめ、素知らぬ風を装っていた牟田口が溜飲を下げた。

 どうやら、部内政治の中立宣言は上手く行ったようだ。


「士官がケチでは誰も付いてこんぞ」

 不承不承といった風に安煙草に火をつけるも、石原は満更ではなさそうに紫煙を肺一杯に吸い込んだ。

 他人の意見や気持ちに鈍感であることが、彼の長所といえるのかもしれない。

「後方の倹約は組織の美徳だろうが。そんなことより、今回は何処で油を売っておったのだ」

 牟田口はダーラムに来てから、この「油を売る」という慣用句をやけに好んで使うようになった。

 当人は上手いことを言っているつもりなのだろうが、正直面白くも何ともない。

 そんな下手な嫌味に石原は咥え煙草で答える。

「遠出はしておらんよ。ハーフムーン湾の事件に対応するため、急ぎ王宮と港務局ポート・オーソリティに顔を出していただけだ」

「それで、成果は? あるんだろうな?」

 石原は鼻から紫煙を吐き出しながら、吸いさしを備え付けの煙草盆に放り込む。


「――ある。というよりも、大きな成果がこれから出る見込みだ。巡回兵どもと大尉を借りるぞ。魚が逃げん内に網を曳かねばな」





 総隊のダーラム支部は、「中東地域への侵略的意図はない」という外交的な配慮から港湾部の外側に建てられている。あくまでも自分たちがこの土地に駐在しているのは、現地邦人を保護するため、というわけだ。

 寺尾たちは未だ舗装の完全に済んでいない幹線道路へと飛び出すと、内陸部から吹きしく砂埃の混じった強い陸風の中、軍帽を目深に被り、外套に身を潜めて先行する石原の後に列を成してついていった。


「……石原大佐。小官にはまだ事態が把握できておりません。我々はこれから何をするのでありましょうか」

 早足で通りを進む中、石原は寺尾の問いを受けて歩調を緩める。


「ああ。まあ、あれだ。大したことをするわけじゃあない。ただ、何かと甘い艦隊さんの尻拭いをするだけだな」

 寺尾の横に並び、前を向きながらそんなことを言う。

「尻拭い」とは、あんまりな物言いだ。寺尾は思わず面食らってしまった。

 確かに今回の一件は艦隊の面々が引き起こした失態であり、自分たち陸軍出向組に落ち度はない。

 だが、それにしたって言い方というものがあるのではないだろうか。艦隊の面々は、自分たちにとって紛うことなき友軍なのだから。


「艦隊さんは友軍でしょう。それに、勘州事変以降に宙ぶらりんとなった我々に居場所をあたえてくれた恩もあります」

 反感混じりに寺尾が返すと、石原は頬を掻きながら「それはそうだ」と首肯し、

「ただ……、いくら友軍だろうと所詮海軍なのだよなあ」

 と苦笑した。


「艦隊さんが海軍であることの何が問題なのですか?」

「貴官は随分と肩を持つね」

「勘州で被害を出しながらも我々の補給線を繋いでくれたのは、去年のことです」

 石原は呆れたように笑う。


「まあ、確かに。護民総隊の御歴々は本国の海軍さんよりゃ、ずっとマシだよ。ロジスティクスへの理解も、先々のことを考えて対策を取ろうとする脳味噌もある。ただ、小官の言いたいのは、要するに精神構造の問題なんだな。汚泥にまみれる覚悟と、悪辣さが足りない」

「悪辣、ですか?」

 言っていることが良く分からない。

 寺尾が困惑している中、石原は続ける。

「湾に敵が見当たらないのだろう? じゃあ、敵は既に湾を離れたというのが道理だ」

「それはそうですが……」

 ならば、海賊は何処に消えたというのだろうか。字面の道理を語られても、肝心な部分をさらりと流されては困る。

 解せない面持ちで唸っていると、石原は表情を歪めて吹き出した。


「……まあ、良いじゃないか。被害は艦隊さんが担当し、そして海賊の退治という実利を新参の我々が頂ければ、今後の組織内バランスも良い形で取れる。これからもっと動きやすくなるぞ。小官が司令官閣下に"道化であれ"と進言した甲斐もあったというものだ」

「大佐、それは――」

 流石に今のセリフは聞き逃せずに、寺尾は石原に抗論しようとした……、が砂埃まじりの風が寺尾の横っ面を叩き、それを阻む。

「模範的な軍人らしい目つきだが、もっと全体を、先のことを見据えなさいよ」

 霞んだ眼に映る、石原の皮肉げな笑顔がやけに癪に触った。



 ナツメヤシが街路樹として植えられた幹線道路をしばらく進み、外国企業が保有する新築のホテルに面した三叉路を曲がると、やがて一行の先にまるで南欧の神殿を思わせる方形の建築物が見えてくる。

 ダーラム港務局ポート・オーソリティ

 日米を中心とする外国企業の利益を調整するために設立された、中国の共同租界じみた――、民間でありながらも公の性質を持つ管理団体の拠点であった。


「港務局に何の用が……」

 解せない面もちでそう呟く。

 元々、港務局は港湾の管理に関わる様々な業務を担当しているため、近隣の治安維持を預かる護民総隊との関係も深い。

 だからこそ寺尾には分からなかった。

 彼らの情報収集能力がたかが知れていることなど周知の事実であり、海賊に関して有用な情報を持っているとは到底思えなかったのだ。

 困惑によって寺尾が一瞬踏みとどまったことで、自然と石原が列より抜け出る形になる。


「おい、立ち止まるな」

「ですが、海賊に関する調査で港務局が役に立つとも思えません」

「海賊を手引きした者がおる、と言ったろう? 敵は海ではなく、陸におる。そして、一端海に出た者は必ずや港に戻るはずだ。日米英仏蘭伊……、様々な国籍の民間人が働く港務局というのは、工作員にとって格好の潜伏場所だとは思わんか?」

 正面は何やら人だかりができており、局員が忙しそうに動き回っている。

 石原はそれを見やると「少し、急いだ方が良いか」と呟き、鼻先で行く先を示した。

 そして、そのまま先頭を切って港務局に隣接した倉庫区画の搬出入門へと向かう。


「艦隊さんは正面きっての喧嘩を得意としておるが、騙し騙されの搦め手を得意としておらん。こう言う時はな、まず味方か中立勢力を疑うもんだ」

 搬出入門には警備の人間が二人立っていた。

 総隊の人間ではない。寺尾も見知った外国籍の雇われ兵だ。身内は現在、海賊どもの痕跡を探して沿岸部を幅広く調査していた。


「貴官ら、局内では原則として小官の言うことに無言で従え。余計なことはしゃべるな」

「石原大佐。我々は海賊どもの痕跡を探すのですよね? ならば、密な連絡は必要と思われますが……」

「必要ない。小官の言うことに全て従っておれば、万事収まる」

 やけに断定的な物言いだ。

 寺尾は釈然としないものを感じつつも、その命令に従うことにした。

 高度に機密性の高い作戦の場合、部下にその詳細が知らされないこともざらにあるからだ。


「とにかく手続きを取ってまいります」

 寺尾は頷き、警備兵のもとへと小走りで向かおうとした。

 港務局は密貿易を防止するために港湾部の出入りするモノや人を細かく記録している。そしてそれは、彼らと協力関係を結んでいる総隊とて例外ではない。

 だが、寺尾の歩みは石原の手によって遮られることになる。


「不要だ。このまま進む」

 その言葉にぎょっとして抗議する。

「港務局を敵に回すつもりですか」

「いいや、敵にはならん」

 石原はそう言うと、警備兵には目もくれずに搬出入門をくぐってしまう。

 あからさまな不法侵入だというのに、警備兵は微動たりともしなかった。


「既に根回しは済んでおるということだ」

「……彼らは、既に我々の味方なのでありますか?」

「さて、それはどうだか。あるいは金を貸したり、はたまた弱みを握ったり……。心の底から味方になっているわけではなかろう。こういう類の仕事は、特務機関の仕事だから、小官も詳しいことは話せん」

「特務機関……、ですか」

 聞いたことのない組織名が出てきて、寺尾の困惑は深まる。


「昨年の勘州事変以降、我が帝国陸軍は情報戦の重要さを再認識したらしくてな。大枚を叩いて手に入れた伝手なのだよ。本国では"亜"号機関などと呼ばれているらしい。小官から言えることは、中々"使える"ということだけだ」

 一行は搬出入口を通り抜け、緩やかな切妻屋根を被った倉庫群と、停泊した帆船や動力船がずらりと並ぶ大通りへと出る。

 つい先頃の海賊事件が影響してか、通りを歩く人はいない。

 ……不自然なほどに全くいないのだ。寺尾は無人となった大通りに違和を覚えるも、それを敢えて口にはしなかった。既にここは局内であり、上官の命令は「一言もしゃべるな」である。

 やがて、迂回して避けたはずの港務局舎へと辿りつく。ヤシの木に囲まれた、ちょっとした林の先に白い建物が見えていた。

「そろそろかな」

 石原が懐中時計に目を落とし、そんなことを呟く。

 寺尾はごくりと生唾を飲み込む。何やら、自分には想像もできない計画が進行していることだけは確かなようであった。 

 しばし、その場に待機して、体感時間でおおよそ5分ほどを無言で過ごす。

 すると、忌々しい陸風に運ばれて、鉄錆のような臭いが寺尾の鼻腔に運ばれてきた。

「お、来たか……」

 やがて、息を切らせたアラブ人男性が倉庫のある方向――、つまり我々の待ち受ける方へと走ってくる。

 肩先から二の腕にかけてのシャツが大きく裂けており、赤く濡れていた。負傷しているらしい。

 石原は取り乱した風を装って、甲高い声で男性に呼びかけた。


「どうしたのですか!?」

 血の気を失っていた男性は石原のかけた声にまずびくりと体を震わせ、次に後ろを振り返り、意を決してこちらに向かって駆け寄ってくる。

「大日本帝国、勅令護民総隊港湾警備部の石原です。貴方は確か……、フサイン管理官でしたね」

「た、助けてくれ! 局内に暴漢がいるんだッ」

 口から泡を飛ばす勢いで、男性は流暢な英語をしゃべりだす。相当な量を出血してしまったのか、暴漢の居場所を指し示す指先が、力なく震えていた。

「まずは手当ていたしましょう。暴漢の特徴を教えていただけますか?」

「そんなことよりも暴漢の確保を! あんなのが局内で暴れていたら、おちおち仕事もできないじゃないかっ!」

 石原は「フム」と一瞬思案して、白手袋を嵌めなおした。


「確かに道理ですな。管理官が暴漢と遭遇した場所はどちらに?」

 ポンと管理官の肩に手を乗せ、石原は彼の隣に並び立つ。

「ああ、あそこの――」

 管理官の言葉は最後まで続かなかった。

 信じられないような眼で石原を睨みつけている。

 当然、寺尾や石原についてきた巡回兵も仰天していた。

 何故ならば、管理官の脇腹に石原の隠し持っていた短刀が突き立てられていたからだ。


「――フサイン・ピエール・デュポン管理官……。貴方の信じる神は果たしてアッラーですか?」

 管理官は悔しげに表情を歪め、言葉を発する。恐らくはフランス語であった。

「ううん。今際の際に、母国語を口にすると言うのは感心せんが……、まあ経験が浅いと言うことなのかも知れぬ」

 石原は抵抗しようとする管理官を地べたに押さえ込む。

「おい。貴官ら、壁を作れ」

 慌てて巡回兵と寺尾は石原たちの周囲を取り囲んだ。石原の取り押さえ方は、遠目に見ると急病人を介抱しているようにしか見えない。管理官への近寄り方も含めて、全てが事前に練習していたのではないかと思わせる鮮やかさである。

 管理官の抵抗は微々たるものであった。

 元から負傷しており、血を失っていたところで急所を貫かれたのだ。彼の人生が終わりを告げるまで、10分とかからなかった。

 亡骸となった管理官の姿勢を整え、石原は白手袋を外す。隠し持っていた短刀は、敢えて腰にぶら下げた。

 ……殺人の証拠を、何故隠匿せずに目に見えるところに置くのであろうか。寺尾には彼のする所作のことごとくが理解できない。理解できないのだが、この場では彼の指示に従うより他になかった。

 ただただ困惑して、石原の指示を待ち続ける寺尾たちに対し、石原は小声で言う。


「……今から大声を出すが、貴官らは動かなくていい。あくまでも狼狽している振りをしておけ」

 石原はそう指示すると、間髪を入れずに叫び声をあげた。


「下手人を捜せ! まだ近くに潜伏しておるはずだっ!!」

 破鐘のような大声に、果たして局舎の方から反応があった。

 寺尾たちの元へやってきたのは、肥満気味の欧米人男性と、その部下だ。

 欧米人男性は、寺尾たちの顔を見るとあからさまな侮蔑の表情を浮かべ、懐から身分を示す手帳を取り出し、吐き捨てるように英語で名乗りを上げた。


「……オスカー・イサカル調停官。黄猿がぎゃあぎゃあと騒いでいたようだが、一体何事だってんだ。アァ?」

 調停官は港湾部における列強国同士の諍いを解決するために置かれた職掌であった。サウード王家から、ある程度までの刑事調査権も付与されており、この土地の警官代わりとして機能している。

 本来、列強国同士が決定的な決裂の起きないよう調停を行うという職務上、調停官には人種的偏見のない者が就くことが望ましい。

 ……が、目の前にいる彼は望ましくない人となりをしているようであった。


「勅令護民総隊の石原であります。それが、負傷した管理官が急に我々のもとへと逃げてきたのです。何でも暴漢が局内で暴れていると……。事情を聞かせてもらっても?」

 しれっと石原がそう問いかけると、オスカー調停官は忌々しげに薄くなった頭髪を掻きむしり、遺体を囲んでいた寺尾を突き飛ばした。

「ちょっと、どけ。フン……、脇腹を一突き。致命傷はこれか。血痕は――」

 しゃがみこんで遺体を見聞していたオスカーが、局舎までの直線ルートを振り返り見る。

「成る程。読めてきた」

「調停官殿。小官らにも手伝えることはありますか?」

 石原がそう申し出ると、オスカーはぎろりと憎らしげな眼で石原を睨み上げた。


「誰が黄猿の手なんぞ借りるもんかよ。これは現地土人の間で起こった単純な諍いだ。状況証拠がそれを証明している」

「フムン。調停官の推理、拝聴させていただけますかな?」

 石原の頼みを素直に受け入れたわけではないのだろうが、オスカーは身振り手振りを交えて大仰に自説を語り始める。

 その様はいかにも得意そうであり、無知蒙昧な非文明国人に叡智を享受してやるという企みが透けて見えるようであった。


「犯人はアラブ人の人足で、日ごろから港務局に出入りしていた男だ。先ほど刃物を正面玄関より入ってすぐのところで振り回していたため、優秀なる我々が検挙した。現場を目撃していた者によれば、懐に隠し持った曲刀を取り出し、フサイン・ア・ラシード管理官に斬りかかったそうだ。フサイン管理官はこれを片手で防ごうとし、負傷した。取っ組み合いにもなったそうだから、その時に脇腹も刺されたのだろう」

「……調停官。目撃者の言に脇腹の刺傷は含まれておりません。致命傷を受けていたのならば、その場に倒れてもおかしくはないはずです。共犯者がいるのでは?」

 ここで調停官の部下から横やりが入ったことで、寺尾は肝を冷やすことになる。

 どう対処するのだ、と横目でちらりと石原を見れば、彼は憎たらしいほどに涼しげな表情を浮かべていた。


「人の推理を邪魔するんじゃねえよ。脇腹を突かれた程度なら、人はしばらく動けるだろう。それが金と生に汚いアラブ人なら言うまでもない――。とにかく管理官は脇腹を押えながら、失血死を必死に防ぎ、暴漢から逃げようとしたんだ。そして、逃げた先に"こいつら"がいた」

「ハテ、小官らがこの場にいたことがいかなる問題になるのですか?」

 石原の言葉をオスカーは鼻で笑い飛ばした。


「大アリだね。コイツは上手く止血処理を施せば、生き延びることもできたかもしれない。そこにアンタたちが登場したことで、不意をつかれて気が緩んだ。知っているか? 人は気が緩むと、筋肉も緩むもんなんだ。そして脇腹からの大量失血を招き、死に至った……。この付近に大量の血痕が飛び散っているのは、そのためだ」

 と言って、彼は懐から煙草とマッチを取り出す。

 悪態をつきながらマッチを擦るも、中々火がつかない。チッ、チチと妙にリズミカルな着火動作を繰り返し、ようやくついた火を煙草に移し、一服した。

「分かるか? アンタらは間接的に殺人を手伝ったようなものなんだよ。これが文明国人の殺人だったならば、大事件だ。よくよく自分たちの身の程って奴をわきまえて、今後の人生を過ごすんだな」

 吸った煙草の煙を石原に挑発するように吹き付け、オスカーは遺体の回収を部下に指示する。

 部下の中には納得のいかない者もいるようであったが、特に回収の作業は遅滞なく行われた。


「しかし、娼婦を巡ってのいざこざたあ、ろくでもない話だわな。知性というもんが感じられん」

「その娼婦についても、加害者が『自分の嫁を娼婦の身分に落とされた』と主張していたそうですが……」

「そんなもん、お気に入りの娘を"自分の嫁"呼ばわりなんざ何処でだってやっていることだろうがよ。こんな単純な事件、細かく調べる気にもならんよ」

 事態の蚊帳の外に置かれていた寺尾は、オスカーと彼の部下のそんなやり取りを目の当たりにして、開いた口が塞がらなかった。

 ……これは、自分たちに都合が良すぎる。

 何故こうもトントン拍子に自分たちの容疑が外れてしまうのか。

 目の前の調停官が、服を着た馬鹿者にしか見えない。全く意味が分からない。全く――。

 ……と、不意に肩を石原に叩かれた。


「撤収するぞ」

 石原はそう言うと、オスカーに呼びかける。

「事件が収束したのならば、小官らはこの場を失礼いたしましょう。職務、ご苦労様です」

「チェッ、黄猿と同じ空気を吸っていたくねえや。さっさと消えてくれ」

 こちらに振り向きもせずに返すオスカーに対し、寺尾たちも挙手礼を取って、その場を足早に離れる石原の後を追った。

 石原の足取りに迷いは見られない。

 まるでいままでの出来事が予定調和であったかのように錯覚する。

 ――そして、それは石原の言を信じるのならば、事実であった。


「さっきの調停官はこちら側の手の者だ」

「エッ」

 寺尾は自らの耳を疑った。

 あれだけ人種的な偏見に塗れた人物が自分たちの味方であるなどとは、到底思えなかったのである。


「死体の回収を急いでいたのは、スパイの所持品を迅速に奪取せんがためだろう。それに、あのマッチを擦る動作はこちら側へのメッセージだった」

「ただマッチを擦る動作にメッセージなど……」

「……少し勉強しておれば、あれがモールス信号だったことなどすぐに分かったはずなのだがな。まあ、いい。メッセージは『管理官室が現在無人になっている』だ。急ぐぞ」

 石原が駆け足になったため、寺尾たちも慌てて走り出す。

 ギリシャ様式の建築物に裏口から進入し、階段を上っていく。たどり着いた管理官室には施錠されていなかった。

 最早至れり尽くせりともいえる状況に、眩暈を覚えそうだ。

 たまらず、寺尾は呟いた。


「ここまで用意周到ならば、初めからスパイたちが行動を起こせばよかったのでは……」

「いや、それはできなかった。何故ならば、準備が足りなかったからだ。準備が足りていないうちに、今回の海賊事件が起こり、我々は手荒な手段に踏み切らねばならなくなった」

 石原は管理官室の戸を開けっ放しにして、自ら率先して港湾の管理にかかわる書類を引っ掻き回し始める。


「オンタリオ、仏領ギニア、モーリタニア、スーダン……。これは、違うか。おい、貴官は入り口の見張りに立て。誰もこの場に入れるなよ」

 入り口に立たされた寺尾は気が気ではなかった。

 何せ、やっていることは完全に空き巣強盗のそれである。第三者に見つかれば、どうとも言い訳のできぬ不正義なのだ。

 じりじりと時間が過ぎていく中で、石原が突然歓声をあげた。


「これだ!」

 石原は見つけ出した書類を懐にしまいこみ、もうここには用はないとばかりに踵を返す。

「一体、何を探しておられたのですか」

 裏口へと下る途中、寺尾がそう問いかけると、石原は満面の笑みを浮かべて答えた。


「オスマン皇帝、アブデュルメジトの封書ととある商船の積荷リストだ」

「何故、ムスリムの皇帝がこの件に関わってくるのですか……?」

 最早複雑怪奇に過ぎて、思考を放棄したくなっていたが、それでも寺尾は問いかける。

 今までのことがすべて、石原の暴走であるという可能性も捨て切れていなかったからだ。

 石原はその問いかけに、先ほどよりも饒舌に答える。決定的証拠を手に入れたことが、彼の精神を浮つかせているのかもしれない。


「まず大前提として、"ラスタファリの殉教者"――、現在アラビア半島からアフリカの東岸にかけてを荒らしまわっている海賊どもは、エチオピアの元正規兵だった。そして、イタリアとの戦争中は英仏の支援を受けており、彼らなりのコネクションが存在した。ここまでは分かるか?」

「それが前提だと理解することは、可能です」

 エチオピアが英仏の支援を受けていたことは周知の事実だ。ならば、正規部隊が独自のコネクションを持っていたとしてもおかしくは無い。

 類似する例を挙げるならば、中国大陸の軍閥がそれに似ているといえるだろうか。

 彼らは正規、非正規、玉石混合であったが、軍閥ごとに列強国との独自コネクションを構築していた。


「武器弾薬についてはアフリカ大陸を陸路で輸送することも可能なのだがな。海上戦力の受け渡しはもう少し手が込んでいた。英仏の植民港に直接モノを運び込むと、イタリアとの関係を著しく悪化させてしまう……。そこで中立国であるアラブ諸国を利用したのだ」

 石原は自信をもってそう言い切ったが、寺尾は納得できなかった。

 中立国がいくら非文明国であったとしても、素直に利用されるとは思えなかったからだ。

「言われてみれば、理屈は理解できます。しかし、中立国をそう簡単に利用できるでしょうか?」

 この問いに対し、石原は「できる」と断言する。


「トルコを追放されたオスマン皇帝を、フランスは国内に匿っているのだ。彼を利用すればアラブ諸国は動かせる」

「それはあくまでも皇帝に忠誠を誓ったものだけでは?」

 例えば、彼の理屈でいうのならば、サウジアラビアが皇帝に与するとは到底思えない。

 サウジアラビアの前身となったヒジャーズ王国は、オスマン帝国に反旗を翻し国を打ち立てたのだ。

 後にヒジャーズ王国から政権を奪取したサウジアラビアとて、オスマン帝国に従順である保証は無い。

 いや、オスマン皇帝が現在身を寄せていない時点で、もう答えは出ているようなものではないか。

 寺尾の反論に石原は大きく頷き、答える。


「皇帝の封書にはこうあったのだよ。『アリー・イブン・フサインにカリフの座を正式に譲渡する』と」

「アリーなにがし……、ですか」

「貴官は少々、ムスリムの風土と歴史に対して勉強が足りておらんようだな。ヒジャーズ王国の王子だよ。要するにこの封書は、サウジアラビアに残存するヒジャーズ派を焚きつけて、意のままに操るための方便というわけだ。管理官がこのような重要な書類を常に所持していたのは、協力者を増やすために常々利用しなければならなかったが故であろう」

 ようやく状況が少し読めてきた。石原の言うことが本当ならば、サウジアラビアの港湾部に潜伏したヒジャーズ派が蔓延っているということになる。そしてその者たちを利用すれば、確かに海賊どもの手引きも容易になるだろう。しかし――、


「そうだとしても、今回の海賊事件と繋がりません。動機が無いのです。フランスがわざわざ海賊の手引きをするという動機が……」

 石原が呆れたように眉根を寄せた。ここまで言っても分からないか、という表情だ。

「そんなものは簡単だ。我が帝国に成り代わって、サウジアラビアにおける利権を確保しようと離間策を仕掛けただけだよ」

 良いかね、と石原が手を広げ、歩みながら続ける。

「現在、サウジアラビアは新たな石油資源の埋蔵地が相次いで発見され、ゴールドラッシュに突入しようとしている。これはメソポタミア地域に強い石油利権を持つ英仏にとって業腹の事態であろう」

 寺尾は脳内に中東の地図を描いた。

 アラビア半島以北の石油利権はメソポタミアからトルコ、カスピ海沿岸に至るまで、すべてが英仏蘭の国際企業が牛耳っていると聞いている。

 共和商事が掘り当てたアラビアの油田が彼らにいかほどの不利益を与えているのか……、経済に疎い寺尾には想像も付かなかったが、少なくとも対立の構図は理解できた。

 寺尾の理解が見えたのか、石原はさらに続ける。


「例えば……、サウジ油田を合衆国が独占していたのならば、彼らは黙認していたかも知れん。敵が強すぎるからな。だが、生憎とここの油田は我が帝国と合衆国が折半する形で、その利益を享受している。彼らにとって、付け入る隙があると判断できたわけだ」

 石原の弁舌に熱がこもってきた。拳を強く握り締めたのは、興が乗ってきた兆しだ。

 彼の熱弁を、寺尾はただ聞き続けるしかない。


「故に海賊どもを焚きつけたのである! 上手く事を運べば、我が国の国際的な信用は失われ、更にサウード王家との関係も疎遠にできる見込みがあった。これは大きい。リスクとメリットを鑑みれば、大幅にメリットが勝つ策略であろう」

「ううむ……」

 フランスが我が国の失策を装って、暴力を仕掛けてきてもおかしくないということは理解できた。

 だが、それでも寺尾は首を捻らざるを得ない。

 彼の視点には、大事な部分が抜け落ちていたからである。


「待ってください。それでは海賊どもはただの手駒に成り下がります。以前"竜宮"で聞いたお話だと、彼らは既に英仏から見捨てられていたはずではありませんか? そう易々と英仏の言うことを聞くとは思えません」

 この問いに、石原は真顔で「いや、駒だろう?」と言ってのけた。


「精鋭部隊といえども所詮は亡国の残り火だ。一時的に局地戦で大戦果を得ることはあっても、補給が続かん。まともな軍事作戦能力なぞ、既に消失しているだろうよ」

 腹の奥底で気色の悪い何かが蠢いているかのような心地を覚え、寺尾はただ唸る。

 大陸で中国軍閥や民国軍、そしてソビエト軍と戦っていた頃から、寺尾明という陸軍軍人は終始前線指揮官としてあり続けてきた。

 その軍人としてのあり方は、まさに「軍人は武人たれ」といったものであり、陸と海の違いこそあれども"竜宮"で石原が語った陰謀論に不快感を露にし、海賊どもの身の上に同情すらした渋谷とほとんど同類と言って良い。

 だからこそ、許せなかった。

 亡国の精鋭部隊をただの手駒としてぞんざいに扱う考え方が。

 如何にも後方じみた唾棄すべきもののように感じられたのだ。

 石原はそんな寺尾の心境などさらりと流して、足取り軽やかに先を行った。


「それよりも、海賊どもへの支援物資だ。乗り捨てた船や武装など、もしかしたらまだこの近辺に残っているかも知れん。上手くすれば、総隊内での我々の立場を向上させることができるかも知れんぞ」

 裏口から倉庫通りへ、元来た道を通るようにして歩みを進める。

 既に遺体があった場所は現場の整理が終わっており、数人の調停官が屯しているだけであった。

 来た時には人気の無かった大通りも、今では嘘のように人出がある。

 まるで狐に化かされたかのようであった。

 日常の戻りつつある人通りの中を、練り歩く石原はぶつぶつと何かを呟いている。


「帳面から察するに、フランスの影響力が強い港を梯子していて、輸送された物資に違和のある倉庫が臭いと思うのだが……」

 一瞬俯き、石原は考え込む。

 だがすぐに何処かへ向かって歩き出した。今日はこの男に振り回されてばかりだと、疲労感しか覚えない。

 大通りから枝分かれする道をジグザグに進み、たどり着いた場所は何の変哲も無い倉庫の一棟であった。

 錠のかかっていないよろい戸は半分下ろされた状態になっており、中に明かりは点っていない。

 本当にここで良いのだろうか? 寺尾が石原を覗き見ると、

彼は当てが外れたかのように頬を掻いていた。


「スパイの協力者は……、居らんのか。積み荷も……、これは一足遅れたかな?」

「どうします? 中を調べますか?」

「そうだな……。手早く調査を終えて怪しい場所を虱潰しにしていこうか」

 石原は少し思案し、巡回兵たちに周辺の調査を命じる。

 寺尾たちもその指示に頷き、周辺を調べるために散らばっていった。

 倉庫から見つかるのは空いた酒瓶やかびの生えた食糧など、石原の期待から外れたものばかりだ。

 調査を進めていくにつれて寺尾の脳裏に疑問がわき上がる。

 ……どうもこの倉庫はおかしい。

 ここはまっとうな商売に使われた倉庫というよりも、むしろ何者かが長期的に潜伏していたような痕跡が残されていた。

 しかし娯楽に使われる嗜好品が全く見つからないというのも変な話であった。仮にこの倉庫で海賊どもが寝泊まりしていたのだったら、末端の士気を保つために嗜好品の支給くらいは行っても良いはずなのだが……。


「大佐、大尉。これは何でありましょうか?」

 まともな成果が現れないままに物漁りに終始していると、部下の一人が何かを燃やすために使われたらしき木製の器を発見した。

「……何だそれは。機密文書を燃やすために使われたのか?」

「どれ、見せてみろ」

 石原は部下の持っていた器を引ったくると、矯めつ眇めつしながら、自己完結的に検分し始める。

 やがて彼は、眉根を寄せて検分の結果を皆に知らせた。

「……燻し、吸引するタイプの麻薬だな、これは」

「海賊どもが麻薬を商っていたのでありますか?」

「んなわけがないでしょう。これは、自分たちで吸引したんだ。嗜好品としてではないな……。原始的だが今日まで続くマインドコントロールの技術だよ」

「ということは……」

 少なくとも海賊どもがこの場で機会を窺っていたことは疑いようがないらしい。

 おぼろげながら見えてくる海賊どもの影。さらに調査を続けようとする寺尾たちであったが、突如としてかけられた見知らぬ声に思わず手を止めてしまう。


「ア、アンタたち……」

 いずこかに身を隠していたであろうアラブ人男性が、ひょこりと姿を現し、たどたどしい英語で声をかけてきたのだ。

 あまりにも突拍子がなかったために、寺尾たちもすぐには反応できなかった……、が我に返ると一斉に拳銃を取り出し、男性の眉間に狙いを定める。

 男は悲鳴を上げて、アラビア語で何か口走った。

 何を言っているかは理解できない。だが、そのジェスチャーはどう見ても無害を主張しているようで、敵対者には到底見えなかった。

 複数の銃口を突きつけられる中で、男性はへなへなと座り込む。

 腰が砕けながらもその場に居座り、彼は何かを自分たちに伝えようとしていた。一体何を……?

 と、石原がアラビア語で何か男性に語りかけた。

 その言葉に食いつくようにして男性は早口でまくし立てる。

 9割方が理解のできない音声の連続だ。だが、その中に、聞き逃せない英語が混じっていた。


「……アンタたちは日本の軍人か。そう、聞けと言われた」

 一瞬の思考停止の後、寺尾は混乱する。

 質問の意味が分からなかったのだ。

 現在、ダーラムの港湾部を出入りしている軍人は日本人しかありえない。サウジアラビアの軍人は港務局には関与しないし、調停官は軍人とはいえなかった。そして何より、日本人かどうかなど、肌の色を見れば分かるではないか!

 石原も同じ疑問を抱いたのか、アラビア語で男に質問を続ける。

 一通り質問を続けた後、石原の発した言葉は、

「……どういうことだ?」

 の一言だけであった。

 たまらず寺尾は石原に答えを求める。

「彼は、何と言ったのですか?」

「うむ……。まず、彼に命令を下したのは海賊どもだ。妻子を人質に取り、ただ『お前らは日本の軍人か』と問わせるためだけに彼をここに残したらしい」

 いかにも納得のいっていないという風に石原は言う。

 確かに訳の分からない話であった。


「その理屈でいうと、彼は我々の回答を持ち帰る必要すらないように思えますが……」

 寺尾の指摘に石原は深く頷く。

「そう、まさしくそうなのだ。彼の言葉を額面どおりに受け取ると、"ラスタファリの殉教者"どもは我々にただメッセージを送りつけただけということになる。恫喝の一種とも思えんが……?」

 天井を見上げ、石原は呆とする。

 腕組みをして、頭を捻り、また捻り……、やがて彼は「全く分からん」という結論を一言述べた。


「分からんものは分からん。こういうことは"当人"に直接聞いた方が良い」

「"当人"ですか?」

 石原は至極当然だとばかりに真顔で続けた。


「フランスの息がかかった港に心当たりはある……。水上機で空を移動すれば、陸路を逃走中の彼らに追いつくこともできるだろう。だったら、もう頭目であるリジ・アルラと直接会談した方が早いと、小官は思うのだ」

 ――手柄の匂いがする。海賊どもの存念を、艦隊さんに殲滅される前に一つ暴いて置こうじゃないか。そう事も無げに言う石原の思考回路を、寺尾は全く理解できる気がしなかった。


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