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1935年1月7日 皇居御座所にて

 ――安易に御聖断を仰ぐべきではなかった。

 未来からもたらされたかの"テクスト"は、今から思えば禁書・妖書の類であったのだ。

 侍従の牧野は宮中の御座所にて、陛下の隣に侍っていた。

 陛下は静かに目を閉じながら、とある来客を待ち続けている。

 口元は強く結ばれており、まるで能面のように表情が見えない。

 先だって枢密院で繰り広げられた、大鉈を振るった苛烈さが嘘であったかのような寡黙ぶりである。

 牧野はその様を見て、陛下が御退出あそばれた直後、西園寺翁が忌々しげに呟いた言葉を思い出した。


『……一体、いかなる悪魔が陛下を変貌させたのか』

 西園寺翁を筆頭とする皇室の安泰を望む宮中閥は、今に至るまで様々な手練手管を用いて陛下を国政の場から引き離してきた。

 これは別段、陛下を疎んじていたわけでも我欲に駆られたためでもない。

 陛下を政治的な責任から解放するための方策であったのだ。


 そもそも国の政治は国際情勢や時代の影響を大きく受けるという構造上、どんな善政も時代と共に廃れていき、いつかは必ず破綻するというリスクを内包していた。

 失政を犯した為政者は当世の正義によって裁かれる運命にあり、次なる指導者は政治を革新することで新たな時代の始まりを告げる――。

 この繰り返しこそが、人類のあけぼのより続けられてきた歴史のプロセスなのだ。


 例えば、我が国においても古代の律令制が立ちゆかなくなれば、その矛盾を飲み込む形で武士という新たな社会身分が台頭してきた。

 その中で頭角を現した平家は源氏に、北条は足利に、足利は織田に、豊臣に、徳川にと打倒と刷新の連鎖が繰り返されてきた。

 このような政治権力の興亡と離合集散は今までも、そしてこれからも多大な犠牲を歴史の節目に強いることで延々と続けられることだろう。


 ……だが、明治の御一新を境にして、この国の元首に万世一系の皇室が就いた以上、今までと同じでは駄目なのだ。

 いかなる政治的失敗も皇室の屋台骨を揺るがしてはならない。

 皇室は、まるで木っ端な部品のように安易な気持ちで取り替えのきく存在であってはならないのだ。


 西園寺翁等、御一新を先導した元老たちは皇室の安泰を守るため、その政治的立場をイギリス王室になぞらえることで、国政の責任を議会という権力機構に擦り付けようとした。

 事あるごとに、陛下の国政への口出しを諫めてきたのもそのためだ。

 翁の試みはそれなりにうまく働いていたように思う。

 陛下も彼らの意図については重々に納得されていたはずで、もし何事もなかったのならば、この国は陛下の手から離れたところで史実と同じ道をたどっていたはずであった。


 ……つまり、今の事態を招いたのは陛下に"テクスト"を献上した牧野自身なのだ。

 未来の悲劇を知ってしまわれたことで、陛下が何をお考えになり、いかに行動されるかということまで予想しきれなかった牧野の失態なのである。

 まったくもって浅慮であったと、牧野は自らの頭を殴りつけてやりたい気分であった。


「……牧野、少しは落ち着け」

「落ち着けません。陛下の玉体は身を挺してお守りいたしますゆえ、決して私の前へお出になりませぬよう」

 陛下のお言葉に牧野は鼻息を荒くして答える。

 何せ、これより陛下の前に姿を現す者は王政に対する絶対悪と言っても良い相手なのだ。

 牧野の意を汲んだ近衛兵たちが、扉の前に控える侍従たちが、重ね重ねの入念なボディチェックを行っているはずだが、万が一がないとも言い切れない。

 何時凶刃を陛下に向けられたとしても、すぐに身代わりになれるよう、牧野は覚悟は決めていた。


「……講師の者が、参りました」

 引き戸の向こう側から、宮内次官である関屋せきやの上ずった声が聞こえてきた。

 恐らく、侍従長の鈴木貫太郎海軍大将は客人の傍についているのであろう。

 関屋の声色から、外の張りつめた空気が痛いほどに良く分かった。

 それほどまでに前代未聞の事態なのである。

 社会主義者――、レフ・トロツキーとの会談は。


「お招きしろ」

 陛下自らの返答に、関屋が息を呑んだ様子が引き戸越しにも良く分かる。

 しばしして、引き戸が静かに開かれて、侍従に連れられた西洋人がずかずかと御座所へと入ってきた。


 西洋人にしては背丈が低い。

 ボリュームのあるくせ毛と長髭、そして丸めがねが特徴的な、まるで羊のような風体の男であった。

 だが、その瞳のぎらつきようはまさしく肉食動物のそれである。

 トロツキーは入室するや否や無遠慮なまなざしを陛下と牧野へ向けると、


「シト、ヴァム、ウゴードゥナ」

 こちらに対し、ロシア語で何かを問いかけてきた。

 陛下はトロツキーの不躾な態度に好奇の色を覗かせながら、共に入室してきた日本人男性へと目を向ける。

 彼は吉村忠三と言う。

 今回の会談を実現するに当たって、当世で最もロシア語が堪能な日本人として、群馬県の小さな教会より呼び寄せられた男であった。

 顔を真っ青にして首元にかかった十字架を握り締めていることからも分かるように、彼は敬虔なクリスチャンである。


 日露戦争に反対した内村鑑三を筆頭に、日本の社会主義者は原則としてキリスト教人道主義を発端としたものが多い。

 午前中、枢密院で出会った安部磯雄や片山哲もそのクチで、吉村は彼らの紹介によって今回の通訳に抜擢されたのであった。

 吉村は、トロツキーが言葉を紡ぐたびに唇を震わせて、「ああ」だの「その」だの言葉にならない言葉を吐き出している。

 見たところ、トロツキーの礼を失する発言をどう訳したものか思い悩んでいるようだ。

 牧野はその狼狽えようを見て、安部たちの人選は間違っていなかったと内心安堵した。

 筋金入りの反体制派など、トロツキー一人で十分だ。


「吉村、彼の言葉をそのままに通訳してほしい」

「そ、そのままにでございますか」

 陛下のお言葉にびくりとした吉村が、一言一言を搾り出すようにして通訳する。


「……へ、陛下に拝謁の栄誉を賜り、まことに光栄に存じ上げます。此度は一体いかなるご用件にございますか、と」

 陛下の御機嫌がにわかに翳っていく。

 トロツキーの顔は明らかに「光栄である」などと思っているようには見えなかったからだ。


「――朕は"そのままに"と言ったぞ」

 薄氷を踏み抜いたと感づいた吉村は口をパクパクとさせて、固まってしまう。

 やがて、観念したかのように俯きながらトロツキーの言葉を正確に訳し始めた。


「……き、極東の専制君主殿が、この私に一体何の用だ、と」

 侍従の面々が怒りでざわつく。

 甚だしく不敬である。侍従長の鈴木が万が一が起きぬようにとトロツキーへ一歩近寄った。

 その面相からは、これ以上の無体は許さぬと言う殺気がありありと感じ取れた。


「よい」

 だがにわかに起こったその騒ぎも、陛下の一言で水を打ったように静まり返ってしまう。

 陛下はチェアから身を乗り出して、トロツキーに座るよう促された。


「吉村、朕の言葉を通訳して伝えてほしい」

「は、はい」

 さて、と陛下が前のめりのまま続けられる。


「昨年より、予め講義願いたい内容は書面にてお知らせしていたはずであるな。今日は"専門家による臨時講義"の時間であるから、目的はお知らせしたものと変わらぬ」

 陛下の日課には、政務の御親裁や外国大使の謁見の他に、帝王学に関わる様々な学問の講義があった。

 例えば火曜は行政法と財政に関する御進講。

 木曜は皇室令制と陸海の軍事学。土曜は生物学の御進講がある。

 そして月曜には専門家による臨時講義が行われるのだが、今日この時間はまさに臨時講義に当たるわけだ。


 今回ご所望されたテーマは"各国の政治施策に関する、社会主義的見地からくる評価とその展望について"。

 その内容は既に昨年の二月にはトロツキーへ連絡できていたことが遣いの人間によって確認されていた。彼がよほどの馬鹿でない限りは用件を忘れるなどありえないのだ。

 トロツキーは解せないと言った表情で首を傾げると、吉村を通して陛下に答えた。


「君主殿は、"リア王"になりたいのか?」

 その言葉に陛下が微笑まれる。 

「いや、違う。君を道化師として招いたわけではない。真剣に、助力を求めている」

 トロツキーの表情が更に「不可解である」といった風に歪んだ。


「私にヴォルテールたることを望むのか」

 トロツキーの推測を聞き、陛下は笑みを浮かべたまま頷かれた。

「率直に言えば、その通りだと言える。フリードリヒ大王に招かれたヴォルテールのように。エカテリーナ女王を諭したディドロのような立場を君に望んでいることは確かだ。もっとも、それだけでないことも確かなのだがね」

 ここに至ってトロツキーの瞳に理解の色が見えるようになった。


「成る程、つまり貴方は"啓蒙君主"を目指していると言うわけだ。この御時世に」

「否定はしない」

 苦笑いを浮かべられた陛下の反応を見て、トロツキーが口の端を持ち上げる。


「啓蒙君主の末路は皆似たようなものだ。失敗するだけならば良し、ひどいものを挙げるとすれば――」

「フランスのルイ16世。妻と共に断頭台に送られたな。朕の場合はこの首一つで済ませたいものだ」

「陛下、それは――」

 正月のラジオ放送を思い出し、たまらず牧野は口を挟もうとしたが、陛下に目で制される。

 トロツキーも、予想と違ったのか眉を顰めていた。


「……支配階級の死にたがりについて、私から特に講義することはない」

「ふむ。ならば、本題に入りたいのだが――」

 陛下はここで一度お言葉を区切り、


滅びに瀕した(・・・・・・)社会主義の見地から、この世界の展望を聞きたいのだ」

 部屋にいる誰もが絶句する爆弾を投下された。




「……話にならん」

 陛下のお言葉に静まり返る中、ただ一人トロツキーだけが反骨心をむき出しにして吐き捨てる。


「社会主義は未だ滅んではいない」

 彼の言うことはもっともであった。

 この世界には未だ社会主義の火種がくすぶり続けている。

 盟主たるソビエトは当然として、ソビエトから独立したウクライナも、オーストリアを筆頭とする東欧諸国も社会主義的な政治路線を明確に打ち出しているのだ。

 むしろ今こそが社会主義の萌芽期であり、これからその規模が拡大していくことは明らかであった。

 陛下はトロツキーの拒絶を受けて、顎に手を当てる。


「君の言う通り、"プロレタリアート主導国家"も"社会主義政党が政権を取った国家"も未だ健在だ。ところで聞きたいのだが、社会主義とは"格差を排した平等な社会を目指す思想"という朕の理解は間違っていないか」

 この御質問に、トロツキーは無言を貫く。

 彼の形相は、まるで羊が獅子に成り変ったかのような変貌を遂げていた。

 牧野は直感的に理解する。今浮かべている彼の表情こそが、かのロシア帝国の皇族を殺戮した社会主義者の顔であると。

 何時でも陛下を庇えるように牧野は身体を身構えたが、陛下に横目で窘められた。


「……朕は、"格差を排した平等な社会"を待ち遠しく思っている。すべての人民が健やかに暮らせるような、そんな社会が到来するならば、既存の階級制は打破されるべきであると、共感も覚えている。だが――」

 陛下はトロツキーを睥睨なさる。

 まるで咎めるようなまなざしであった。


「恐らく、このままではそんな世の中は到来しまい。あろうことかソビエトという国の打ち立てた事績が、社会主義という政治理念にとどめを刺したためだ」

「何を馬鹿なことを……」

「そも、"格差を排した平等な社会"を世界に広めるためにはいくつものクリアせねばならん条件があるように思える」

 トロツキーの言葉を遮り、陛下は「例えば」と指を立てられた。


「第一に経済について。これは圧倒的な国力差が必要だ。革命が成った段階で社会主義勢力が資本主義勢力を圧倒しておらんようではまずい。この世界は既に各国間の貿易によって経済が成り立ってしまっている。市場経済が支配する現代社会において、国際的な競争力とはつまり"格差"に他ならん。列強の持つ最先端の工業技術や、その他の国が持つ安価な労働力がこれに当たるであろうな」

 しかしながら、と陛下はため息を漏らされた。


「社会主義を採る国は、労働者の待遇を改善するために生産力を妥協する必要がある。少なくとも国際競争力においては資本主義勢力に勝つことはできんのだ。ウクライナの飢餓輸出は、要するにそういうことであろう?」

 痛いところを突かれたと、トロツキーが悔しげに呻く。

 ウクライナで生産された小麦を、人民が餓死するまで切りつめて海外へ輸出していたことは既に世界の明るみに出てしまっていた。

 この素人目に見ても理想からかけ離れたボリシェヴィキ勢力の愚行は、ソビエトの経済的な行き詰まりにそもそもの原因がある。

 たられば話になってしまうが、例えばもしアメリカ合衆国のような超大国で社会主義国家が誕生したのならば、このような行き詰まりは起きなかったはずだ。

 ロシアという広大な大地は、社会主義を養うにはあまりに貧し過ぎたのである。



「次に法制度。平等な社会には万人が納得できる政治的な仕組みが必要となろう。朕が思うに、万人が正しいと思える法とは為政者をも正すことのできる法であるように思う。指導者が"権力者"であってはいかんのだ。権力は、ただ絶対の"法"のみが持つべきだろう。絶対的に正しく人間性を排した"法"によって、為政者も含めた全ての人民を機械的に裁くことでしか法的に公平な世の中を作り上げることはできん」

 この御言葉に対してもトロツキーは苦虫をかみつぶしたかのような表情を浮かべた。

 何せ、彼自身が党内の権力闘争によって国を追われた身の上なのだ。

 独裁者による人治主義が、平等な社会の対極にあることは疑いようがない。

 陛下はさらに、軍事、外交、国家運営に関わる様々な要素について"理想的な社会主義の在り方"についての持論を述べられた。

 その尽くがトロツキーの顔色を苦々しいものへと変えていく。

 そして参加者の皆が一つの結論に行きついてしまう。

 それは、現状の"プロレタリアート主導国家"が理想的な社会主義国家から随分と程遠いものになってしまっているのでは? という疑いであった。


「社会主義が平等性、公平性を失っている現状こそが問題なのだ。これでは社会主義という考え方が、『資本主義と比べて欠陥品である』と一顧だにされぬという事態になりかねん。我が国にとって、それでは困るのだ(・・・・・・・・)」 

「――は?」

 トロツキーだけではなく、侍従までもが目を見開いて疑問を訴える。

 彼らに対し、陛下は真剣な面持ちで更に語られた。


「……朕は、この国の未来に社会主義の持つ理念が必要であると考えている。だから、社会主義に今死んでもらっては困るのだ。どうか共に各国の政治体制を研究し、この国の未来を救うための方策を講じてもらいたい」

「……君主殿は、この国を社会主義国家にされるつもりか」

 陛下はゆっくりと頭を振られる。


「正確には社会保障制度の整えられた議会制民主主義国家だ。雇用の保障と、格差の限りない是正。既得権益の破壊を目標とする」

「他ならぬ皇帝あなたが既得権益の権化であるように思えるが」

 低い声で、いぶかしむ様にトロツキーがそう問うと、


「……遅くとも、十年後には確実に捨てる権益だ。王位などというものは、他国に対する"箔付け"程度の価値だけあれば良い。今のところは国民統合の"象徴"にでも収まるのが妥当と考えているが……、まあ一市民になるというのも捨てがたいな」

 陛下は笑いながらそう仰られた。

 牧野はその笑顔を見て、宮中で良く語られる御幼少の陛下が仰った御言葉を思い出す。


『質素が好き。だけれど、身分があるから困るね』

 浅草の花屋敷へ気軽に行けぬ身の上を嘆いた、弟宮に向けられたお言葉であったという。

 もしかすると、このお方は君主というお立場を今も疎み、捨てたがっておられるのだろうか――。

 そのような疑念が牧野の胸中に渦巻く。

 顔を見るに、他の侍従たちも恐らくは同様の危機感を抱いているようだ。

 しかし、トロツキーは違った。

 険しい表情で陛下を睨みつけながら、彼は苛立った様子で別の観点から苦言を呈する。


「一昔前の啓蒙君主が何故改革に失敗したか――、それは既得権益を解体しようとしたからだ。例えばフランス国王は貴族が革命を煽ることで、断頭台へと送られた。プロイセン王の改革は地主ユンカーの抵抗によって失敗に終わった。既得権益を持つ連中は、"我々"と同じくらいに厄介だろう」

 見方を変えれば、それは陛下への助言ともとれる言葉であった。

 思わず、彼を凝視してしまう。

 トロツキーは、ただ陛下の目だけを睨みつけていた。


「……うむ、それは"テクスト"で学んだ。我が国では政財界や陸海の軍部が強固な既得権益を持っている。これを解体しようとすれば、当然クーデターか、最悪は革命に発展する恐れがあるだろう。だが、やらねばならない。この国は……、荒療治によってしか変わることはできないのだ」

 陛下が"テクスト"にあった"戦後"の日本を念頭に置かれていることは明らかであった。

 労働環境の改善や、市場価格の健全化……。

 "戦後"日本の辿った道は、牧野たち"戦前"の人間にとってはいささか眩し過ぎる道のりだ。

 もし、未来の日本がとった諸政策を今そのまま実施しようとしたとしても、既得権益層の激しい反発にさらされることだろう。

 構造改革には痛みが伴うが、人は誰だって自分が損することをひどく嫌がるのだ。

 

 "戦後"日本は"敗戦"というアメリカの強制力を背景に改革を行った。

 ならば、この時間軸においては……?

 "敗戦"による悲劇をなるべく避けようとする以上、この国の政治に大きな影響力を有している彼ら既得権益層と、正面対決をするより他に手はない。

 話して分かる相手だろうか?

 いや、枢密院で振るわれた"一喝"をもってしてもこの国の風向きが大きく変わることはないだろう。

 それで良い方向に進むのだとしたら、そもそも陛下は今頃これほどの苦労を重ねられる必要はなかったはずだ。

 陛下の望む改革は、単に今ある立場を捨てたいなどという安易な考えで成り立つものでは決してなかった。


「フム……」

 トロツキーは腕組みをした状態で、視線を下に落とす。

 今まで一貫していた不遜なまでの態度はすっかり鳴りをひそめてしまい、今は同じ問題に取り組まんとしているかのように見受けられる。 

 かの社会主義の申し子が、である。

 どういう風の吹きまわしかと思わず牧野が口をぽかんと開けているところに、陛下がトロツキーに問いかけた。


「できれば、君の助言を貰えないかと思うのだが」

「私の?」

「アジアのことわざなんだが、"蛇の道は蛇"という言葉を知っているかな」

 トロツキーはそこで面白そうに噴き出した。

 どうやら、その言葉の意味するところを知っているようだ。


「中国人から聞いたことはある。成る程……、つまりは既得権益に対する抵抗勢力を故意に作り出そうというわけだ」

 面白い、とトロツキーは野心に瞳をぎらつかせながら歯を見せた。


「啓蒙"同志"陛下」

 陛下以外が唖然とする中で、


「この国で試すことになる社会主義的な施策については、他国の同志へ広めてもいいのだろうか?」

「構わない。むしろ、他国との無用な軋轢を生まない限りにおいては歓迎しよう」

「それと……、悔しいことだが、確かに社会主義には汚名を返上する機会が必要らしい。今は陛下のヴォルテールに徹するが、機が熟すれば革命も辞さん。構わないかね?」

「無血の革命に限り、これを受け入れる。臣民の命はいかなる政治理念よりも重いということだけを、どうか分かってくれ」

 矢雨を思わせるやり取りに色を失った侍従たちが、「お止め下さい」と差し出口を繰り返す。

 だが、陛下の決意は固いようで意に介そうとなさらない。


「既存の政治体制に唯一の正解はない。"ぼく"は試せるものは何だって試す覚悟だ」

 陛下の御覚悟にトロツキーが拍手をもって答える。


「賢君の王治は寿命という限界がある。議会制民主主義は、寿命こそ長いものの少数派の犠牲に成り立っている。それに権力というものはいずれ腐敗するものだ。社会主義は……、残念ながら未完成のまま世に出てしまった。だが、私は未だ理想を捨てたわけではないぞ。人民の困窮を救うには、社会主義の理想が絶対に必要なのだ」

「当面の有用性は理解する。しかし、完成したからと言って、それが唯一無二の政治体制となるわけではないよ。大事なものは流動性だ。間違った時に、舵を切り替えられる"ゆとり"こそが大事だということを分かって欲しい」

 当面の共同戦線を約束しながらも、あくまでも持論を曲げない二人が一瞬睨みあう。

 牧野はその様を目の当たりにして、身震いが隠せなかった。


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