表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/68

1934年9月 カムチャッカ半島にて(2)

「Polnost'yu yeshche!」

 千早と"赤色"の航空士は満身創痍の体をおして、互いに拳銃を突きつけたまま対峙する。

 既に両者の撃鉄は引き起こされている。間もなく、いずれかの弾丸が千早か敵航空士の命を奪い去ってしまうことは最早疑いようがあるまい。

 銃口を敵の額に向けながら、じいっとその面構えを凝視する。

 恐らくは20代前半か。初見の印象通り、やはり若さが色濃く残った顔立ちをしていた。 

 西洋人は早熟だと聞くから、自分よりも年上ということはないだろう。

 だというのに、あの操縦技術である。

 はなはだ口惜しい話ではあったが、先の空戦では初撃の奇襲と最後の読み勝ちがあったからこそ引き分けに持ち込めたわけで、地力は間違いなく敵の方が上回っていた。


 一見したところ、"赤色"の傷は浅くない。

 飛行帽に収まりきらず飛び出ていた灰褐色の髪から覗く出血が、頬を伝って顎からぽたりと滴り落ちている。

 呼吸も荒く、辛そうだ。湿地帯特有の澱んだ冷たい空気の中に白い息がひっきりなしに立ち上っていた。

 上空で友軍と敵軍が未だ死闘を繰り広げている最中、不自然なほどの静寂が千早と敵の航空士を包みこむ。睨み合い、じりじりと互いに隙を窺い合う。

 両者の警戒心が生み出した、にわかあつらえの静けさであった。

 引き金に賭けた指が震え、千早は右腕が訴えかけてくる激痛に顔をしかめる。

 残された体力は、わずかばかりもなさそうだ。


「動くなッ!」

 "赤色"の航空士が持つ拳銃の銃口がわずかばかり動いたのを認めて、千早は英語で警告した。

 "赤色"は目を見開き、すぐに気を取り直してこちらを睨みつけ、口を開く。

 それと同時に千早も続けて言葉を発する。

 両者の声が綺麗に揃った。


「降伏しろ。最早お前に勝ちは無い!」

 紡がれた言葉は英語で、更に奇妙なことには一言一句が同じものであった。

 互いに訝しげな顔になる。

 無用な殺生をいとうがために降伏を促すまでは理解できるが、それで何故勝ちがないなどと言い張れるのだ。

 現に自分の仲間たちが空で果敢に闘っているではないか。自分は仲間を信じている。

 ならば、こちらの勝利は揺らぎようがなく――、とここまで考えてようやく相手が自分と同じ言葉を発した理由に思い至った。

 彼も、自らの仲間を信頼しているのだ。

 毒気が抜けていくような心地がした。からっとした、こいつは航空士らしい航空士の考え方だ。

 銃口は下ろさずに、千早は続けて言う。

 

「勅令護民総隊航空士、宮本千早。貴様は?」

 "赤色"がこちらの意図を測りかねたように眉根を寄せる。

 しばし黙り込み、何処かこちらの反応を窺うような目つきで口を開いた。


「イワン・カラマーゾフ」

 あからさまな偽名だった。

 想像したよりも小憎たらしい性格をしていそうだと、千早は苛立たしげに毒づく。


「……馬鹿にしているのか。『カラマーゾフの兄弟』くらいは読んでいる」

「ならば、『イワンのばか』は?」

「それはトルストイだ。ドフトエフスキーじゃない」

 千早の言葉に仮称イワンが皮肉げな笑いを浮かべる。

 インテリゲンチャにありがちな、人を値踏みしたがる不遜さが透けて見える。


「……私の負けで良いよ。降参だ、ヤポンスキ。トルストイもドフトエフスキーも偉大だね」

 言ってイワンは銃口を天に向け、降参の姿勢を取った。

 降参するというならば、無意味に命を奪う必要はない。

 千早はじりじりと警戒しつつ彼に近寄り、急な反撃を防ぐためにイワンから拳銃を取り上げる。


「頭の手当てをしても良いかい? こう見えて、立っているのも辛いんだ」

「……早く手当てをしろ」

「恩に着る。ちなみに家名以外は嘘をついたわけじゃないぜ。私にも色々と事情があるんだ」

 さっさと済ませろと促しつつ、千早もイワンから距離を取って自らの右腕を治療し始めた。

 見れば太い血管は傷ついていないようだが、細かいガラス片で剣山のようになってしまっている。

 出血以上に痛みでどうにかなってしまいそうだった。

 まず、腕に刺さったガラス片を引き抜かなければならない。

 ベルトに装着した救急嚢きゅうきゅうのうからヨードチンキと包帯を取り出す。

 治療をしていると、頭に包帯を巻きながらイワンが問うてきた。


「さっきの、アレは何なんだ?」

「アレとは何のことだ」

「貴方がやった機首上げ旋回(ピッチアップ・ターン)のことさ。まるで、大鯨が海面を跳ねたみたいな――、とにかく驚かされた」

「ああ――」

 千早は先の空戦を頭に思い浮かべる。

 一か八かの機動ではあったが、我ながらあの場の判断は会心の出来であったと言わざるを得ない。

 "海猫"は元々旋回性能の低い機体だ。

 あのまま"赤色"を追っていっても、旋回戦に持ち込まれて無駄に撃ち落とされるだけであっただろう。

 相手より旋回性能で劣る場合は、高度とエネルギーに気をつける。今後に生かすべき点は山ほどにあった。


「咄嗟のでたらめ機動だ。上昇失速寸前に方向舵を切る。貴様の"捻り込み"と要領は同じだと思う」

「……ああ、やっぱり手の内が知られていたのか。今まで一騎打ちで負けたことは無かったから、驚かされたよ」

「俺だって驚かされた。日本であの機動ができる人を、俺は一人しか知らん」

 そしてそんな機動をこなして見せる相手に追随できた事実を改めて自覚する。

 以前、生田が自分の飛び方が飛行学生時代と比べて変わったと言っていた。

 ここまできたら、謙遜は意味を為さない。蘇州からこの方、自分の操縦技術は確実に上達していっているのだ。

 千早の賞賛を受けて、イワンは「そうなのか」と少し誇らしげにしていた。


「提督たちは、皆お元気にしていらっしゃるのか?」

「誰のことだ」

「ヤポンの軍に捕まった、我が国の軍人たちのことだよ。心配だったんだ」

「……何のことを言っているのか、俺には分からん」

 新知・択捉の海戦で捕虜になったソビエト軍人たちの存在を、日本は固く秘匿していた。 

 彼らは軍港都市クロンシュタットでボリシェヴィキ政権に対して反乱を起こした政治犯であり、例え釈放されたとしても政治犯に逆戻りか、再び捨て駒として前線に送り出されてしまうだけだ。

 人道的な観点から、そして貴重な敵国の情報源であるということもあり、日本は彼らの存在を重く見ている。

 こんなところで口を滑らすわけにはいかなかった。

 黙して語らぬ千早を見て、イワンは再び皮肉げな笑みを浮かべる。


「私も細かくは知らないが、我が大祖国はあちらこちらにスパイ網を持っているのだよ。いくらとぼけたところで、貴方たちが皆を匿ってくれていることは私も承知している」

 イワンは包帯を巻き終えた巻き終えたらしく、立て膝をついてこちらへ向いた。

 拳銃は既に取り上げているし、すぐに反撃できるような体勢でもない。少なくとも、今すぐに何かを仕出かそうというつもりがないことは確かなようだ。


「……まあ、口が堅いことは愚鈍であると同時に美徳だね。それならば、私の独り言を聞いてもらいたい。提督たちのご家族は自己反省を申し出て、反革命罪を容疑を無事に晴らすことができたよ。その代わり反逆者との離縁と、同志トロツキー派閥の監視任務を条件に課せられたけれども、生命だけは守りきることができた」

「それは、一士官に漏らして良い内容ではないように思うが……」

 千早は目を丸くする。

 祖国の内輪揉めを公言したことがばれれば、彼の身柄も危うくなってしまうだろう。

 千早には、彼の独り言とやらが危ない橋を渡ってまで伝えるべき内容には思えなかった。


「家族は誰だって大事だから。貴方にだって、いるだろう?」

 その問いかけに、言葉が詰まる。

 千早の両親は物ごころがつく前に亡くなっていたため、上手く答えられなかったのだ。

 無言を貫く千早をじっと見ながら、イワンはすっと肩をすくめて続ける。


「ああ、別に伝えてくれなくても良い。これは私の自己満足だから」

「何故、俺に言えば伝わると思ったんだ」

「だって、貴方は航空部隊の部隊長だろうから。"大悪魔と小悪魔"はソビエトの航空士じゃ有名だぜ」

「待て、悪魔? そりゃあ、一体何のことだ」

 聞き捨てならないセリフに思わず食いつく。

 イワンは笑い声をあげて、その由来について言及した。


「もう、ヤポンスキの航空部隊と戦ったのも5戦を超えただろう。それだけ戦っていれば、どいつが手強い相手なのかも分かってくる。仲間内じゃ口を酸っぱくして言い含められているんだ。『ちょろちょろした小悪魔に食いつくな。あれは誘いだ。誘いに乗ると、大悪魔に食われるぞ』ってね」

 うへえ、と思わず呆れ声を洩らしてしまう。

 戦い方から考えて、小悪魔とは生田機のことで、大悪魔が千早機のことだろう。

「何で俺が小さい方なんだ」と生田が聞いたら、へそを曲げそうだ。


「本当、貴方たちの機体は厄介だったよ。驢馬イシャクが完成していて本当に助かった。私はこいつのテストパイロットだったんだ。去年、思わぬ戦果をあげてしまったのと同志書記長のお気に入りにせっつかれて、何時の間にやら前線住いになってしまったけれども」

「イシャクというのか、あの航空機は」

 大破して、轟々と炎上を続ける"赤色"であった機体へ目をやる。


「750馬力の最新鋭試験機だ。速度もすごいが、旋回性能が凄まじい。……この機体に勝てる奴なんていないと思っていたんだけどね」

 そう言ってイシャクを見つめるイワンの目は少し寂しそうに見えた。


「貴方の乗っていた機体は何というんだ? 名前くらいは教えてもらいたい」

「……海上護衛1型哨戒機、俺たちは"海猫"と呼んでいる」

「"海猫"ね。確かにガル翼がそれっぽい感じだ」

 へえ、と両目に好奇の光を湛えながら、イワンは"海猫"をしげしげと眺める。


「綺麗で、突っ込みのきく良い機体だと思う。乗ってみたいと、心から思うよ。……ただ、もう今後見ることはできないだろうな。残念だ」

「何故だ」

 幾分か警戒しつつ、イワンに問う。


「大祖国も、日帝も、今のままではこの戦いに勝てないと思ったはずだから。多分、大祖国はある程度領土を削られることになるだろうけど、戦争自体はこれからも続くと思う。そうしたら、互いに今の航空機では力不足だと思うに違いあるまいよ。熾烈な開発競争が始まるはずだ。次は貴方も私も違う航空機に乗っているんじゃないかな。残念なことだけれどね」

 次、の言葉に千早は表情を歪める。


「負けを認めて、逃げるのか」

「元々、貴方と会話をしたくて"ふり"をしたんだ。駄目なのかい?」

「逃がすと思うのか」

 千早はイワンと違い、拳銃を仕舞いこんでいない。

 威嚇するように撃鉄を引き起こすと、彼は殺意を向けられたというのに皮肉げな笑みを更に深めた。


「航空士同士、空で決着をつけないか?」

 空の頂きを目指す千早にとって、彼の提案はこの上なく魅力的であるように思えた。

 ロバート・ショートのいない今、命を削ってまで互いの操縦技術を競い合える相手は最早この世に存在しない。

 弟のエドワードには期待してるが、まだまだ切磋琢磨する相手としては力不足であった。

 そう考えると、目の前のこの男は操縦技術もその気概も好敵手と呼ぶに相応しいものを持っているよう思える。

 この男とならば、ロバートと競い合ったあの心躍る空戦の続きができることだろう。だが、


「魅力的な提案だが、日本の戦史に仏心を出した結果、身を滅ぼした例が山ほどある。仲間のためにも貴様はここで確保させてもらう」

 護民総隊の隊員としての責任感が、彼をここで逃してはならないと強く警鐘を鳴らしていた。

 彼はこれまでの戦いで輸送船1隻に加え、数多くの航空士を葬り去っている。

 今ここで見逃してしまえば、再び戦場に戻ってきた彼の手によって、多くの味方が命を散らすことになるだろう。

 無力化が叶わないのならば、ここで確実に息の根を止めなければならない。

 千早は引き金に力を込めた。


「私は逃げられると思っているよ。だって――、私は仲間を信頼しているから」

 嫌な予感が上空より降り注いでくる。

 レシプロ音が2機、死闘を繰り広げていたチャイカ戦闘機と部下の"海猫"が高度200メートルのあたりまで降下してきたのだ。

 先行するチャイカの機首は、明らかに千早たちを向いていた。


「くそっ……!」

 千早が引き金を引くと、イワンは猫を思わせる身のこなしで発射された2発の弾丸を回避してみせた。

 続けて撃った2発の弾丸も、イワンの肩を掠めるだけに終わってしまう。

 空戦をしていた時も思ったことだが、この男はとにかく勘が鋭い。

 5発目を撃とうとしたところで、耳を撃つレシプロ音に阻まれた。

 7.7mmの機銃掃射だ。

 味方もいるため、威嚇のつもりだったのだろう。

 転がり込んだ千早に当たった弾丸は一発も無く、チャイカは"海猫"に追われて再び空へと飛び去ってしまう。

 しかし、チャイカの稼いだ時間によってイワンは潅木の茂っている場所へと逃げ込んでしまった。

 怪我をおしての逃走のため、そう遠くまでは逃げられないだろうが、千早とてそれは同じである。

 千早はイワンの逃げていった方角を口惜しげに睨みつけた。

 胸の奥に渦巻く、複雑な感情に居た堪れなくなる。

 自らの不手際で敵を逃がしてしまったというのに、再び仲間を危機に晒してしまうというのに、その一方では再び好敵手と戦える安堵の気持ちが湧き上がっているのだ。

 救いようがない大馬鹿野郎だ、と千早は自らを恥ずかしく思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ