願いは海を巡って
「滅ぼし尽くす、か」
暗い瞳に憎悪の炎を灯し、アムルは言った。
「いつだったか、お前は言ったな。俺は憎悪に狂いはしない、と」
その瞳で、アムルはまっすぐ俺を見据える。
「ノア。お前は常に正しかった。だが、一つだけ間違えた。お前と同じ強者などどこにもいない。人は弱い。お前以外、誰もが皆弱いのだ」
憎悪の瞳を見返し、俺は言った。
「そうは思わぬ」
「お前らしい答えだ。かつての俺にはそれが、正しさに見えた。違う。お前はただ強いだけだ」
諦観したようにアムルは言う。
「そして、それゆえにお前には人の憎悪がわからない」
俺の顔を指さして、彼はそう言い放つ。
その指先には僅かに亀裂が走っており、ゆっくりと黒き灰に変わっていく。
<黒八芒星二律影踏>を<黒七芒星掌握魔手>にてつかんだ彼の根源もまた、無傷とはいかぬ。
「最後に、俺が教えてやろう。我が子の願いを焼き払ったこの憎悪の炎で、お前のその強さごと、この銀水聖海を燃やし尽くす」
「来るがいい」
直立不動で構え、俺は言った。
「人の憎悪がどれほどのものであれ、この海は決して焼き払えはせぬ」
再び俺とアムルから魔力の光が立ち上る。
先ほどまでよりも更に強く、激しく、それはラーヴァシュネイクを震撼させる。
滅びに近づく根源が、その力をより深めているのだ。
アムルの狙いはわかっている。
<涅槃七歩征服>の七歩目を先ほど同様に<黒七芒星掌握魔手>にてつかみ、暴走させて、今度こそ銀水聖海を滅ぼすつもりだ。
そして、<涅槃七歩征服>でなければ、アムルは倒せない。
ゆえに、真正面からねじ伏せる以外の道はない。
「<涅槃七歩征服>」
魔法の発動と同時、予測済みだったアムルはすでに俺に向かって来ていた。
一歩目――
「<黒六芒星>」
「お前は知らん。この海の憎悪に底はない。<深魔>が浅く見えるほどに、おぞましく、底無しの坩堝だ!」
両の掌を突き出し、アムルは終末の火で魔法陣を描く。
七歩目を踏ませれば自らの勝利だと確信している奴は、俺が短期決戦を仕掛けると読んで、自らが誇る至高の深層大魔法にて、それを封じに来たのだ。
両手から最大級の滅びを双つ放つそれは、<双極獄界滅壊陣魔砲>。
俺の出鼻をくじくように、終極の黒炎が眼前に迫る。しかし、これを防いでいては次の手は打てぬ。
二歩目――
「<黒七芒星>」
深化魔法である黒六芒星を纏わせたのは、同じく深化魔法の黒七芒星である。
深化魔法に深化魔法を重ねがけし、更にその力が増幅する。
直後、俺の身に<双極獄界滅壊陣魔砲>が降り注ぎ、激しい
黒炎が、ラーヴァシュネイクの空高くまで立ち上った。
アムルは視線を鋭くした。
「確かにお前ほどは知らぬかもしれぬな」
<双極獄界滅壊陣魔砲>の直撃に、この身は耐えた。黒灰に化していく五体を、滅びに近づいた魔力にて無理やり抑え込んだのだ。
「それでも、その憎悪の炎とやらは銀水聖海はおろか、この身一つ焼き尽くすことはできぬ」
三歩目――
「<黒八芒星>」
黒六芒星と黒七芒星、更に黒八芒星を組み合わせ、深化魔法三つを重ねがけした。
「いいや、それは違う。お前一人を滅ぼすより、銀水聖海を滅ぼす方が遥かに容易い。お前が思うよりずっと、この海は脆い。数多の世界を旅したが、強いのはお前だけだった!」
アムルは<双極獄界滅壊陣魔砲>を再び撃ち放つ。
その黒き双炎に向かって、俺は四歩目を刻む。
掌に凝縮された紫電を握りしめて、
「<深掌魔灰燼紫滅――」
魔法発動の一瞬前、炎の光線が俺の掌を撃ち抜いた。
<双魔紅蓮滅掌極炎砲>だ。
四歩目を踏ませ、なおかつ<|深掌魔灰燼紫滅雷火電界>が発動するまで、その一瞬にも満たない刹那の間を、アムルは狙い撃ったのだ。
強大な魔力と、類稀なる魔法技術、そして戦闘センスの三つを併せ持つ第一魔王ならではの離れ業だった。
「だから、この海は滅び去る。悪意と憎悪の炎に焼かれ」
五歩目、再び俺が紫電をつかむと、やはりアムルが<双魔紅蓮滅掌極炎砲>にて撃ち抜いた。
俺と奴の距離が縮まっている。拳の間合いだ。
「人は負けはせぬ」
「負けぬのなら、あの子の願いは叶ったはずだ!!!」
六歩目――
両の掌に紫電をつかんだ俺に対して、アムルの憎悪の炎がこれまで以上に膨れ上がった。<双魔紅蓮滅掌極炎砲>を二発同時に放つことで俺の両手を撃ちぬき、二つの紫電を封殺する。
しかし、俺はアムルの影を踏んでいた。
「<二律影踏>」
アムルの両手がぐしゃりと潰れた。
奴の狙いは、七歩目の魔法を<黒七芒星掌握魔手>でつかむこと。
両手を失っては不可能だ。
七歩目――
「人が強いというのなら、俺はこんなにも憎悪で狂うことはなかったっ!!!」
<心火の魔眼>が禍々しく燃え盛り、彼の体を憎悪の炎が包み込む。
止まりはしない。両手を失おうと、その身が滅びようと、燃えているのはその心なのだ。
「力を貸してくれ、ムルガ! お前の願いを叶える! お前の最後の願いをっ!!」
炎が揺らめき、陽炎を作り出す中、彼の背後に、彼のものではない肉の塊が現れた。
悪意の肉塊である。
それは父親に寄り添うように、彼の手となり、その胸を貫き、根源をつかんだ。
「この海がお前を苦しめるだけのものなら、そんなものは俺が滅ぼしてやるっ!!」
アムルは<黒七芒星掌握魔手>を発動する。
同時に、俺は言った。
「やはり、卿は狂いはしないと私は思う」
それはかつて、二律僭主だった時に、俺がアムルに言った言葉だ。
「その憎悪はお前のものだ、アムル。お前が息子のために怒っているのだ。この海の憎悪をかき集めても狂わなかったお前は、息子への愛の深さゆえに、自ら壊滅の暴君となったのだ」
ゆえに、示さねばならぬ。
七歩目の魔法を――
「――<涅槃七歩征服>」
一瞬、時が止まったかのようにアムルは俺を見つめていた。
七歩目で発動した魔法は、<涅槃七歩征服>。
すなわち、深化魔法の重ねがけである。
八歩目――
「<二律影踏>」
影を踏む。
瞬間、願望世界ラーヴァシュネイクが丸ごと揺さぶられる。大地と海と空、そして<絶渦>にいくつもの亀裂が走り、膨大に膨れ上がっていた憎悪の炎が散り散りに消し飛んだ。
「……く……」
僅かに声を漏らし、アムルはがっくりと膝をつく。
彼は、ラーヴァシュネイクの大地に倒れたのだった。
「願いが星に変わる世界、か」
伏したアムルに視線を向けて、俺は言った。
「このラーヴァシュネイクはお前たちの最後の願いを叶えたのやもしれぬな」
「……叶えた……だと?」
アムルが疑問の表情でこちらを見た。
「お前の声に応えた、あの悪意の肉塊だ」
「……そんなものが、欲しかったわけではない……」
「おかしいと思わぬか? ムルガがいないのに、なぜ悪意の肉塊が存在する?」
俺の問いに、アムルは即答することができなかった。
「……なにが言いたい?」
「この世界の星はまだ輝いている。あの<絶渦>の中に」
俺は<絶渦>に指先を伸ばし、魔法陣を描く。
<背反影体>だ。
影が<絶渦>を覆いつくし、その場所は暗闇に染まった。
「来い」
俺は飛び上がり、暗い<絶渦>の中に入っていく。
アムルは、最後の力を振り絞ってどうにか身を起こし、俺の後を追ってきた。
暗い<淵>を沈んでいくと、ミーシャとデュエルニーガの姿が見えた。
デュエルニーガが警戒するように俺に視線を向けた。
アムルの訴えるような目を見て、彼女は黙ってまま様子を見守る。
俺たちは更に、底へ沈んでいく。
影に覆われた<絶渦>の中に、僅かに灯る白い輝きが見えてきた。それはかつて、ラーヴァシュネイクの空に輝いていた願いの星である。
「アムル」
俺がそう口にして、彼を促す。
辿々しい足取りの彼にデュエルニーガは肩を貸すと、二人はゆっくりと星に近づいていく。
そうして、アムルの手がそれに触れた。
瞬間、その場を光が覆いつくし、耳を劈く爆音が鳴り響いた。
凄まじい力が、その場で大渦を作り出しているのだ。
「これは……?」
事態が飲み込めず、デュエルニーガは疑問の声を漏らす。
「かつて、<絶渦>の渦動により、各世界の時間は乱された。浅い世界ほどその時間の狂いは大きく、数億年が経過した泡沫世界もあった。ラーヴァシュネイクは深淵世界。そして、その影響をより強く受ける<絶渦>の中心地点では、それと逆のことが起こったのだろう」
デュエルニーガが目を丸くする。
「……時間の経過が遅くなった……?」
「外で一万数千年が経過しても、ここでは数秒の出来事だったのだ」
瞬間、アムルは走り出した。
重傷であることも忘れたように、全速力で。
時間だけではなく、距離も狂っているのか、彼が走っても、近づいているのか、遠ざかっているのか、
判然としない。
だが、ここがどんな場所なのか、アムルは覚えているようで、息を切らせながら、必死で走り続ける。
やがて、光の先に彼は辿り着く。
見つけたのは、六歳ほどの少年だ。
その体には亀裂が走っている。根源が激しく損傷し、最早、滅びかけだった。
そう、滅びかけだ。
まだ生きているのだ。
「……ムルガ……」
彼の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。
それに浄化されたように、燃え盛っていた魔眼の炎がふっと消えた。
時間の流れが食い違っているのか、ムルガの声は届かない。
それでも、少年はアムルに手を伸ばした。
その手を、アムルは握りしめ、少年を強く抱きしめた。
「すまん……お前は、ずっとここにいたのに……俺は……気がつかなかった……俺は……こんなにも長い間……お前を一人に……」
大粒の涙がこぼれ落ちる。
握りあった二人の手に、もう一つ優しく手が重なった。
デュエルニーガだ。
寄り添うように、噛み締めるように、三人は抱き合う。
それはもう二度と、叶うことはないと思っていた、親子の再会だった。
ほんの僅かな間だけの。
「ノア」
アムルが俺を見た。
憎悪など一斉ない、まっすぐな瞳で。
彼がなにを言うのか。なぜか、わかるような気がした。
「三人一緒に逝かせてくれ」
デュエルニーガもアムルと同じ目をしながら、こちらに訴えかけている。
「よいのか?」
「……俺は間違えすぎた……多くの命を奪い、銀水聖海に混乱をもたらした。そして結局、なんの意味もなかった……なんの意味もなかったんだ……」
自嘲するようにアムルは言う。
「お前が正しかった。だから、それでいいんだ」
「そうか」
俺は言った。
「だが、それでは正帝が作ろうとした世界となにも変わらぬ。正義がすり替わっただけのな」
彼は静かに目を伏せる。
「……だとしても、この海になんの正義もないならば、弱者だけが奪われ続ける」
「間違えぬ者などおらぬ」
そう断言してやれば、アムルは目を丸くした。
「我が子のために、この海に復讐をしようとした。その行為をお前は間違いと評した。だが、俺はお前の愛が間違っていたとは思わぬ」
ままならぬ世界の中で、あがき、もがき、苦しんで生きた末、それでもどうにか最善を選んだ結果が、間違いであることもあろう。
「それを断罪するのが、この海の正義だというのならば、そんなものは俺が滅ぼしてやる」
精一杯生きておらぬ者などいない。
それでも、悪に進むこともあるだろう。
罪を犯すこともあるだろう。
誰も間違えたくて、間違えるわけではない。
一度きりの生で、正解を選び続けろというのがおかしいのだ。
「アムル。俺が欲しいのは、正しい世界ではない。やり直せる世界だ」
魔法陣を描く。
ラーヴァシュネイクの空に輝いたのは、影絵の<創造の月>と<破滅の太陽>だ。
「ミーシャ」
『ん』
俺の考えをすでに察して、彼女は空に舞い上がっている。
ミーシャが両手をかざせば、影絵の<創造の月>がゆっくりと欠けていく。
<源創の月蝕>だ。
「――三面世界<創世天球>」
赤銀の月明かりが、願望世界ラーヴァシュネイクに降り注ぐ。
「<優しい世界はここから始まる>」
俺の<背反影体>と、影絵の世界により、集めたミリティア世界の人々の想い、そして、滅びに近づくことで増大したミーシャの魔力が、願望世界を優しく照らす。
やがて、<絶渦>は消えて、その赤い空は夜空に変わっていく。そうして、満天の星が輝き始めた。
願望世界を秩序に支配されぬ世界へと創り変えたのだ。
それは銀水聖海の仕組みから言えば、願望世界をミリティア世界が所有したことを意味する。
すなわち――
「ミリティア世界は、これで深淵世界となった」
俺はそう説明した。
「同時に、ミリティアは主神のいない、未進化の泡沫世界。そして、全ての秩序は泡沫世界からより深い世界へと流れていく」
であれば、泡沫世界であるミリティアの秩序は、全ての小世界を経由した後、深淵世界であるミリティアに戻ってくる。
「ミリティア世界の秩序が銀水聖海を循環する。つまり――」
俺はアムルとデュエルニーガ、そしてムルガに魔法陣を描いた。
「この海の全てに転生の秩序が働く」
<転生>の魔法を俺は使った。
三人の体が光に包まれ、徐々に粒子に変わっていく。
「……いつだったか、アムル。お前は言っていたな。父と母の想いは永遠にわからぬやもしれぬ、と」
「ああ」
「今はどうだ?」
彼はしばし考え、そして言った。
「……そうだな。比べるのもおこがましいが、それでも少しだけ、わかったような気がしている。父と母は、やはり偉大だった」
ムルガを抱きながら、アムルは笑みを覗かせる。迷いは晴れたといった風に。
「ノア。もしも叶うなら」
「まだどこかで会おう、我が兄弟よ」
アムルはうなずいた。そうして、三人は光の粒子となって、消え去っていった。
俺は空を見上げた。
力を使い果たしたように落ち始めたミーシャの体を、飛び上がり、抱きかかえる。
彼女の体には亀裂が走っている。
最早、止めることはできぬ。
「ミーシャ」
声をかけると、ミーシャは優しく微笑んだ。
「待ってて。きっとみんな、また会えるから」
頷き、彼女に魔法陣を描く。
ゆっくりとミーシャは光の粒子となって空に昇っていき、そして完全に消え去ったのだった。




