壊滅の暴君
<願望の星淵>は<絶渦>となり、銀水聖海を襲った。
その混沌の大爆発は泡沫世界から火露を奪い、浅層以上の世界に破壊をもたらす。深層世界ですらも壊滅的な打撃を受けたところは少なくない。
そして、<絶渦>の中心部では――
「あっ、ぐぅ……!!」
渦巻く悪意を一身に浴びて、ムルガの幼い体がのたうち回った。
アムルの<心火の魔眼>は発動している。だが、追いつかないのだ。<絶渦>が集める悪意の量は桁違いであり、それがムルガの心身を蝕んでいく。
「……なんだ、あれは……?」
遥か上空からゆっくりと下りてきているのは、ぶよぶよした肉の塊である。
その肉塊は吸い寄せられるようにムルガに突っ込んできた。アムルは咄嗟に、その右手を紅蓮に染めて、落ちてきた肉塊を貫いた。
その瞬間――
「あっ、あああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁっっっ!!!」
まるで己の身を貫かれたように、ムルガが絶叫する。
「なに……?」
アムルが手を引くと、肉塊はぐちゅっとムルガの体にくっついた。
そうして、肉塊とムルガが少しずつ一つになっていく。
「ムルガを取り込もうとしている……いや、逆か。ムルガが肉塊を取り込んでいる」
肉塊の方が体積が大きいため、一見してムルガが飲み込まれているように見えるが、主従関係は逆だ。その肉塊はムルガの一部になろうとしているのである。
「ムルガは銀水聖海の人々が願った純粋なる悪――悪意の怪物となるべく、産み落とされた」
デュエルニーガは言った。
「あれは悪意の肉塊、集まる悪意が莫大すぎて、ムルガに辿り着く前に半具現化状態になっている。ムルガの真の体の一部……」
ゆえに攻撃すればムルガに痛みが返り、接触すれば彼はそれを取り込んでいく。
デュエルニーガは空を見上げ、その星の神眼を光らせた。
「深層世界の殆どは、ここまで辿り着けない。代わりに、ここに引き寄せられる悪意の肉塊を滅ぼすことにしたよう」
聖剣世界、鍛冶世界、傀儡世界など、名だたる深層世界が悪意の肉塊の破壊を目指し、軍を動かしている。
もうまもなく、銀水聖海中で戦いが始まるだろう。
「ムルガが真の体を得る前に、悪意の肉塊が攻撃されれば、今の幼い体が味わうはずのない苦痛に苛まれる」
だとしても、銀水聖海中から集まってくる悪意の肉塊を全て守り切るなど不可能だろう。
戦えるのはアムルとデュエルニーガの二人だけ、そして悪意には恐らく際限がない。
「ただでさえ悪意にさらされている心が、正気を保つのは困難だと思う」
すると、ムルガの体に張り付いていた悪意の肉塊がうねうねと変形して、巨大な手の形となった。
その手はまっすぐアムルに突き出される。
彼は咄嗟に身構えたが、反撃するわけにはいかなかった。それは、ムルガの体の一部なのだ。
戦うことのできないアムルに、二本の指先が伸ばされていき――
「見て、パパッ。ほら」
二本の指は、ピースのサインを作っていた。
「ぼくの体の一部なら、動かせるかと思って」
手を広げたり、閉じたりして、ムルガは悪意の肉塊を操っている。
「これなら、できるよっ」
「できる?」
アムルが問う。
「悪意の肉塊に色んな世界の人たちが集まって来るんでしょ。だったら、逆に話し合うチャンスだよっ。
ぼくたちは悪者じゃないって、伝えられるよっ」
瞳に希望を灯して、ムルガは言った。
確かに、理屈で考えれば可能なはずだった。
「悪意の肉塊が話してきたところで、応じてもらえるかは怪しいと思う」
デュエルニーガが言う。
「応じてくれない人たちのところにはパパが行けば大丈夫っ!」
「それはどういう?」
「パパがその人たちの憎悪を吸い取っちゃえば、絶対、話を聞いてくれるよっ」
得意げにムルガは言った。
「話し合い、理解してもらう。それが三人で決めた答えだ。異論はない。だが、俺がここを離れれば、お前は憎悪に飲み込まれ、説得どころではなくなるだろう」
今この瞬間も<心火の魔眼>がムルガに集まる悪意や憎悪を吸収している。
これまでなら、アムルが世界の外へ出ても数日はもったが、<絶渦>が渦動した今、更に多くの憎悪がムルガに集まっている。
数分もつかどうかさえ、怪しいところだ。
「その願いは叶えられる」
デュエルニーガが<希輝の神眼>を光らせる。
二人が目を合わせれば、その純白の輝きがアムルの魔眼にうつっていく。
「これであなたは私の神眼を通じて、<心火の魔眼>を使うことができる」
デュエルニーガがムルガを見ていれば、アムルがどこにいても、<心火の魔眼>の力が及ぶということだ。
「わかった」
アムルは空を見上げ、言った。
「ムルガを頼んだ」
言うや否や、彼の体は光と化して、あっという間に願望世界を離脱していった。
◇
銀水聖海。
全速力で飛びぬけているのは、何十本ものオールを使う巨大なガレー船である。
漕ぎ手は皆、人形だ。
人形自身に意思があるわけではなく、それらは思念により動かされている。
<思念平行憑依>。
その魔法の術者はベレー帽をかぶった、学者のような男である。彼は平行思考でガレー船を操りながらも、甲板で船団の指揮をとっていた。
思念世界ライニーエリオンが元首、ドネルド・ヘブニッチである。
「まもなく見える。合わせよっ!」
ドネルドの号令で、ガレー船に乗り込んでいる一〇八名の術者と思念破がつながり、同調される。
残り一七隻のガレー船でも同じことが起きていた。
「備えよ。見えた瞬間に全身全霊で叩き込む。奴の肉片を塵一つ決して残すな!」
各ガレー船から赤いオーラが立ち上る。
前方に見えてきたのは、巨大な肉の塊――悪意が具現化した悪意の肉塊である。
『待って!』
肉塊がうねうねとムルガの顔に変化し、訴えかける。
『ぼくたちは悪者じゃないよっ! <絶渦>は君たちの願望なんだ!』
ガレー船の甲板で百識王ドネルドは眉をひそめる。
「なんだ、これは……子ども……?」
「ドネルド様、惑わされてはなりませぬ! あの<絶渦>により、我が世界の被害は甚大。思念は乱され、力なき民草は死に瀕しておりまする! あれを討たねば、我らは……!」
家臣がそう声を上げる。
「わかっている! 行くぞ!」
赤いオーラが勢いよく膨れ上がった。
放出された思念が、像をなし、実体となっていく。
「<剛覇魔念粉砕大鉄槌>ッッッ!!!」
巨大な思念の大鉄槌が一八本、同時に悪意の肉塊へと叩きつけられた。
『あっ、あああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁっっっ!!!』
ムルガの絶叫が響き渡る。
肉塊は散り散りになったが、まだムルガの意思はそこに届いた。
『やめ、て』
散り散りに裂かれた肉片の一つ一つから、ムルガの声が多重に響く。それは、悪意を伴い、思念世界の者たちの思考に直接働きかけた。
『ぼくは……敵じゃない……! 助けて』
「ぐうぅっ……!!」
ドネルドが頭を抑え、苦痛に歯を食いしばった。
「なんだ、この不快な声は……?」
「ど、ドネルド様っ! 今の強烈な思念で、一〇〇名ほどが意識を失いっ……!!」
「おのれ……化け物がっ!!」
己を鼓舞するように声を張って、ドネルドは再び魔力を解放する。
描かれた魔法陣は深層大魔法<剛覇魔念粉砕大鉄槌>だ。
「くたばれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
「止まれ」
声と同時、ドネルドの体から炎が立ち上った。
同じく、次々と船団から炎が立ち上る。
ただの炎ではない。憎悪の炎だ。
<心火の魔眼>により、思念世界の者たちの憎悪が一か所に吸い寄せられていく。
その中心にアムルの姿があった。
デュエルニーガの神眼を経由して、ムルガの憎悪も吸い取っているため、その体は常に炎に包まれている。
彼の魔眼が更に赤く燃え盛り、船団からの炎が勢いを増す。
轟轟と激しい音を立てながら、その全ての憎悪の炎がアムルのもとに集まっていく。
ドネルドが冷静さを取り戻したように、はっとした。
それは彼の配下も同様だ。
<絶渦>により故郷が被った大被害、悪意の肉塊により配下たちが受けた傷。それらに向けられていた憎悪の一切が一瞬にして消え去った。
しかし――
「合わせよ。我らが思念世界のため、この銀水聖海の平穏のため、あの肉片を一片たりとも残すな!」
「「「は!」」」
思念と思念を合わせ、それが大鉄槌を作り出す。
「<剛覇魔念粉砕大鉄槌>ッッ!!!」
一八本の大鉄槌が振り回され、散り散りになった悪意の肉塊に叩きつけられる。
思念の衝撃波が弾け、肉片という肉片を消し去っていく。
ドネルドは魔眼を光らせる。
「全ての肉片は消滅した。次に向かう」
悪意の肉塊のもとへ向かうため、思念世界の船団は離脱していった。
アムルは彼らを追おうとして、しかし踏みとどまる。
憎悪を全て吸収しても、彼らは止まらなかった。
思念世界は決して報復のためだけに戦っているわけではない。理由の一つではあっただろう。しかし、<絶渦>が銀水聖海の大災厄であると知り、それを止めるために軍を起こしたというのが一番だろう。
つまりは、平和のため、正義のためである。
<絶渦>という悪を滅ぼす大儀があると信じている。ゆえに、憎悪がなくなっても戦いをやめることはない。
<心火の魔眼>では止められない。止められる世界を、止めた方がいいとアムルは判断したのだ。
けれども、どの世界も結局のところは同じだった。
『やめて……!!! なんで……!?』
ムルガの声が肉塊から響いては消えていく。
『どうしてっ!! 痛いっ! やめてっ! 痛いよぉっ……!!』
悲痛な声など無視して、奴らは悪意の肉塊を破壊していく。
その存在さえ、許さぬとばかりに。
『話を聞いてっ! 悪を望んでるのは、君たちっ! 君たちなのにっ!!』
深層大魔法が乱れ撃たれ、ムルガの悲鳴が繰り返される。
どれだけ憎悪を吸い取っても、正義の名のもとに彼は断罪される。
滅ぼされるべき、純粋な悪として。
なぜなら、それが彼らの願いだから。
『なんでっ……! ぼくは悪いこと、してないよっ……!! やめてっ! お願いだからっ……!!』
ムルガの懸命な訴えも空しく、悪意の肉塊は銀海の藻屑と消え、
『やめっ、あっ、うああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁっっっ!!!』
そうするごとに、ムルガ自身の憎悪が膨れ上がった。
それは<絶渦>に波及し、勢力を拡大させる。
<心火の魔眼>は絶えず発動しており、アムルの心を醜い怒りが覆いつくしていく。
それでも、なお<絶渦>に充満し、膨れ上がる悪意は吸い取り尽くすことはできない。
『アムル』
深刻な声で、デュエルニーガが<思念通信>を送る。
『悪意の肉塊が<絶渦>の中心部で生まれ始めた』
願望世界ラーヴァシュネイク――<絶渦>内にて、蔓延る悪意が実体化し始めた。
次々と悪意の肉塊が生まれ、ムルガに取り込まれていく。
それはまるで、巨大な肉塊がムルガを食らっているようにも見えた。
『ムルガの心身が変貌しようとしている。悪意の怪物に。これ以上は――』
悪意の肉塊は深層世界の者たちが破壊しているが、その痛みがムルガに返り、結果、彼の憎悪が積み重なる。
それによって、<絶渦>の外縁では勢力が弱くなっているが、中心部では逆に勢力が強くなり、直接、悪意の肉塊が生まれているのだ。
どうあがいても、彼は悪意の怪物となる運命にあるとばかりに。
「……外では悪意の肉塊の数が少なくなっている」
アムルは言った。
『悪意の肉塊の討伐に赴いた世界には数多くの犠牲者が出てきている。人々が悪意の怪物の消滅を願い始めた』
<絶渦>と悪意の肉塊は猛威を振るった。
ゆえに悪の誕生を願った人々は、今度は悪が討たれることを願っているのだ。
アムルの頭に、かつてデュエルニーガが口にした言葉が繰り返される。
なんて空しい自作自演、と。
彼は願望世界に引き返しながら、一つの決断をした。
「<心火の魔眼>を使う」
『すでに使っているのではないの?』
「この魔眼は悪意に反応して勝手に発動するものだ。それを制御してみる」
紅蓮の炎が尾を引きながら、銀水聖海を飛びぬけていく。
「より深く力を引き出せるはずだ」
「それは……」
デュエルニーガは言い淀んだ。
口ぶりから、アムル自身、己の意思で<心火の魔眼>を制御したことがないのだとわかる。
上手くいけば、ムルガを蝕む憎悪を全て吸収できる。あるいは<絶渦>を小康状態にまで戻せるかもしれない。
だが、現在、銀水聖海中に多大な被害をもたらしているその憎悪を、アムル一人が受け入れることになるのだ。
彼が無事で済む保証はどこにもない。
「他に手はない」
すでにアムルは覚悟を決めている。
デュエルニーガに被害が及ばぬよう、彼は直接ムルガに<心火の魔眼>を使うことを考えた。
混沌の銀河に突入し、まもなくラーヴァシュネイクが見えてくる。
アムルは気が付いた。
混沌の銀河にありながら、混沌に飲まれぬほどの強大な魔力の持ち主がラーヴァシュネイクに迫っている。
瞬時に彼は悟る。
とうとう大魔王ジニア・シーヴァヘルドが動いたのだ。
彼はラーヴァシュネイクに降下し、荒れ狂う<絶渦>に接近していく。
ジニアは自らの体内にある根源をつかむ。そうして、ゆっくりと手を引き抜き、拳を開いた。
そこに浮かんでいるのは黒い球である。
果てしなく深く、凝縮された力の塊――深淵魔法<深魔>が撃ち放たれようとしたそのとき、第一魔王アムルが空を切り裂いて急降下してきた。
すんでのところで間に合ったアムルは、一直線に大魔王ジニアに突撃する。
「<絶渦>を止めるなっ!」
生半可な相手ではない。
アムルは己の魔力を全て解放する。<心火の魔眼>により、彼は常に憎悪に曝される。それを強靭な意思で抑えつけ、平静を保っているのだが、その分、全力で戦闘することができない。
それでも、自力の高さゆえに、不可侵領海にさえ後れを取ることはそうそうない。
相手が同じ魔王であってもそれは同じことだ。
しかし、この相手は違う。
大魔王ジニア・シーヴァヘルドはアムルにとってこの海で唯一、格上の相手だ。全力でなければ、相手にもならない。
その魔眼が猛々しく燃え盛り、ジニアを睨み殺さんがばかりだった。
「止めねば、この銀海の全てが飲み込まれるじゃろう」
穏やかな声でジニアは言った。
彼の魔眼ならば、まもなく<絶渦>が大爆発を起こすことも見抜いているだろう。
されど、揺るぎのない声でこう言った。
「一分じゃ。お前が<絶渦>をどうにかできると言うのならば、一分だけは待とう」
一分では時間が足りない。
ジニアを説得する時間もなければ、その保証もない。
確実にムルガを守る方法は一つだ。
「<極獄界滅壊陣魔砲>」
アムルが放ったのは終極の黒炎。第一魔王アムルの最大にして最強の深層大魔法が唸りを上げて、大魔王ジニアを飲み込んでいき――
「<深魔>」
――寸前で、深淵魔法がそれを押し返した。
深き黒球は<極獄界滅壊陣魔砲>をものともせずに弾き返す。
<深魔>が己の身に迫ってきて、迷わずアムルは体で受け止めた。
<絶渦>を止める唯一の魔法。これさえ、やり過ごせば、まだムルガは生きていられる。彼の頭をよぎった思考はそれだけだった。
燃えたぎる魔眼で<深魔>を睨みつけながら、紅蓮に染まった両腕でそれを押さえ込む。
炎が激しく渦を巻き、夥しい数の火花が弾けた。
だが、止まらない。止められない。
「止まれ」
自らの腕すら焼き尽くすほどの憎悪を身に纏い、アムルは<深魔>を押さえつける。
「止まれ」
どれだけの魔力で対抗しても、<深魔>はアムルを押し退け続ける。
<絶渦>の中心が迫ってきて、アムルの魔眼が憎悪に燃えた。
「止・ま・れぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!」
<深魔>は弾けた。
本来、銀水聖海中に広がるはずの<絶渦>の渦動、混沌の大爆発が、<深魔>によって完全に内部に押し込められ、その中心部で逆巻いた。
世界は完全な闇に包まれる。時の流れが乱れに乱れ、光さえも方向を見失っている。
深淵魔法が<絶渦>とは反対に渦を巻き、大渦と大渦が衝突する。閉ざされた暗黒の空間さえも激しくかき混ぜられ、幼い悲鳴がただただ何度も木霊した。
それがどのぐらい続いたか、気がつけば声は止まっていた。
激しい大渦も止まっており、アムルは暗闇の中、必死に魔眼を凝らした。
世界が終わってしまったかと思うほどの深い闇の中、彼は我が子を捜して、捜して、捜し続けて、そうして小さな火のゆらめきを視界に捉えた。
即座にアムルは駆け寄った。
「ムルガッ!」
抱き起こし、声をかけるが、少年は返事をしない。
ただ呻き声を上げながら、焦点の合わない、どす黒い目で、体を震わせている。
間に合わなかった。
悪意の肉塊は<深魔>によって全て消滅したが、ムルガの心はすでに憎悪に覆いつくされている。
悪を願う人々の想いが完全に消え去っており、それは正義の勝利へと変わっている。
もうムルガは、この銀海には存在できない。
倒されるべき悪として、消え去るのみなのだ。
「許せ……」
アムルはムルガを抱きしめる。
そうして、己の意思で<心火の魔眼>を発動した。
もうこれで終わりならば、せめて最期の瞬間は安らかに。悪意の怪物ではなく、ムルガとして逝かせてやりたい。
アムルに残された唯一の願いだった。
憎悪の炎が燃え盛り、それが全てアムルの体に吸収されていく。
「……パパ……」
憔悴した声が響く。
正気を取り戻したようにムルガは父親の顔を見た。
その頭を彼は優しく撫でる。
「すまん……俺が……」
言葉に詰まる。
あの日、ムルガを拾わなけばよかったのか。
<心火の魔眼>を持つアムルがそばにいたからこそ、彼は悪意と憎悪に飲み込まれることなく、理性を持って成長した。
そして、それゆえに常に悪意と憎悪に苛まれ続けた。
アムルと出会ったからこそ、ムルガは余計な苦しみを背負うことになった。
最初から悪意の怪物として生きていれば、苦しみを増やすこともなかったのかもしれない。
だが、そうだとしても、彼はムルガと過ごした日々を否定したくはなかった。
「俺に、力が足りなかった。お前を守ってやれなかった。すまん」
「……パパ……」
震える唇でムルガは言う。
彼の手の中には、卵樹がある。芽が出たばかりだったそれは、悪意に曝され、枯れていた。
「僕は……なにか、悪いことをしたの……?」
アムルは胸が詰まり、声が言葉にならなかった。
彼は静かに首を横に振った。
「パパ……痛いよ……」
「どこが痛むんだ?」
尋ねるも、ムルガはうわごとのように言った。
「……痛いよ、パパ。あいつら、全員、やっつけてよ……」
アムルは目を丸くして、唇を噛む。
「悪者、全部やっつけてよっ……! みんな、僕に痛いことをするんだっ! 僕はなにもしてないのにっ! 話をしようって言ったのにっ! ひどいよっ!」
「ムルガ……」
「……僕、やっぱり間違ってた……!! 間違ってたよ! あいつらは悪い奴らなんだっ! ぜんぶ、壊してっ! 僕に痛いことした奴らぜんぶ、壊してよっ!!」
「それは……」
正しい行いではない。彼らは悪ではなく、ただ弱いだけなのだ。
それが事実だと信じてきたが、彼は口に出せなかった。
滅びゆく我が子に伝えるには、あまりにも理不尽だ。
正しさではこの子を救えない。
正義では、救えないのだ。
「……できるでしょっ。パパは、壊滅の暴君なんだからっ……!」
ああ、そうか、とアムルは思った。
そういう巡り合わせだったのだ。
ならば、もうそれでいい。
「ねえ……パパ……お願い……これが、最後のお願いだから……」
「叶えてやる」
なにも叶えてやれなかった。
ラーヴァシュネイクの復興も、正義のために戦うことも、三人で穏やかに暮らすというささやかな願い
さえも。
だから、最後の一つは、必ず――
「俺はお前の味方だ。愛している」
アムルは優しく我が子を抱きしめる。
滅ぼされるべき、純粋なる悪。全ての者に疎まれる運命を背負った息子を、自分だけは愛し続けようと思った。
命の灯火が消えていき、ムルガの魔力が瞬間的に膨れ上がる。
それに伴い、悪意と憎悪が膨れ上がり、<絶渦>は最後の大爆発を起こそうとする。
彼は<心火の魔眼>を発動し、我が子を見つめた。
――全てが憎い。
――正義も、愛も、秩序も、道理も。
――醜悪なものを外へ吐き出すことで、綺麗に輝いている全てが、
――憎くて、憎くて、仕方がなかった。
ムルガから憎悪の炎が燃え上がった。
――ぜんぶ、もらっていく。
――お前の憎しみを全て。
――代わりに、俺の愛を全てお前が持っていけ。
暗闇を塗り替えるほど炎の光が大爆発を引き起こし、そうして静寂が訪れた。
ラーヴァシュネイクに残ったのは<絶渦>とアムル、そして、その後ろに立つデュエルニーガだけだった。
「どうするの?」
デュエルニーガは尋ねた。
アムルは振り向き、頭上を見上げた。
「そう」
ラーヴァシュネイクの赤い空には、それより深い紅蓮に輝く星が一つ、暗く輝いていた。
◇
願望世界ラーヴァシュネイク。
その赤い空で、第一魔王アムルは自らの過去を語り終えた。
「この海の全てが、息子を滅ぼした。ゆえに、壊滅する」
彼の魔眼は憎悪の炎で燃え盛っている。
「それで気が済むのか?」
俺は問うた。
彼は否定も肯定もしなかった。
代わりに言ったのだ。
「この憎悪が燃えている間は、まだ俺はあの子とともにある」




