壁
<願望の星淵>から、二つの人影が飛び出してきた。
赤子を抱いた第一魔王アムルと、ラーヴァシュネイクの主神、希輝星デュエルニーガである。
「街はどこだ?」
アムルが問う。
デュエルニーガは彼方を指さし、言った。
「あそこに行けばわかる」
デュエルニーガが指した方向へ、二人は飛んでいく。
ラーヴァシュネイクの海は広大だ。
<絶渦>があるためか、陸地は殆どなく、赤い海だけがどこまでも延々と続いている。
アムルが飛び続けるも、大陸は見えてこない。
それどころか、海からも生命の気配がまったく感じられなかった。
<心火の魔眼>を持つアムルは、憎悪には敏感だ。
動物や魔物は憎悪を抑えられないため、彼には容易に居場所がつかめる。
その憎悪の数で、大体の総数がわかるものだが、ラーヴァシュネイクにいる魔物、動物の数は、ゼロだった。
「ついた」
デュエルニーガが言った。
気がつけば、二人の眼下に都市があった。
海の上に作られた街で、建物や農園など、一つ一つが大きな船であり、それらが連結されている。
しかし、音がしない。
その都市からは、住人たちが発する生活音が聞こえてこなかった。
ただ海の波に揺られ、建造物が軋む音が響くばかりだ。
「水上都市リプロアーニ。この地に住む星雲族の多くが暮らす楽園だった」
「だった?」
デュエルニーガは水上都市の街道に降下する。
続いて、アムルも着地した。
「見ての通り、今は廃墟」
水上都市の建物という建物が、古く、痛んでおり、埃と錆でボロボロになっている。
道や橋もところどころ破損し、農園は雑草が伸びて荒れ放題だ。
人の姿はどこにもない。
「ラーヴァシュネイクの空には、人々の願いの数だけ星が輝く。鮮やかな白い星が」
そう口にして、デュエルニーガは空を見上げた。
夕焼けのような真っ赤な空に、しかし星は出ていなかった。
「夜に?」
「順序が逆。本来、ラーヴァシュネイクに朝は来ない」
デュエルニーガは言った。
「あの赤い空は、私たちの夜が永遠に失われてしまった証」
本来ならば、ラーヴァシュネイクは常に夜で、空には多くの星が輝いているのだろう。
「夜が来ないから星が出ないのではなく、星が出ないから夜が来ないのか?」
「そう。そして、星が出ないのは、誰もいないから」
デュエルニーガは悲しい眼差しで、赤い空を見つめ続ける。
「星雲族は滅んだ。元首も滅んだ。星も滅んだ。残っているのは、私と、<願望の星淵>だけ。それが願望世界ラーヴァシュネイクの全て」
「深淵世界がなぜ?」
「深淵世界だから」
アムルの表情が疑問に染まる。
続けて、デュエルニーガは言った。
「深淵世界には全てが集まる。泡沫世界、浅層世界、中層世界、深層世界、輝く星のように数多の世界から、火露と秩序と魔力が落ちてくる」
それによって形成されているのが、ラーヴァシュネイクの領海に広がる混沌の銀河だ。
「それは空から、全ての星が降り注ぐようなもの。少しの星なら大地や海に新たな恵みをもたらすだろう。けれども、大地と海が受け止められる量を超えれば、災いと化す」
デュエルニーガは視線を下ろし、再び廃墟となった水上都市を見た。
「銀水聖海の秩序は、深淵世界の生存を許していない。だから、滅びる」
それが事実ならば、次に起きることは明白だ。
「願望世界が滅びれば、次に深い世界が深淵世界になり、犠牲となる、か」
デュエルニーガは首肯した。
「一つずつ、銀泡は滅んでいき、やがて、全て海の泡となる。たぶん、今生きている人々がいなくなった遥か先、遠い遠い未来のこと。だから、どうということではない。ただ、そういうものだとわかっただけ」
諦観したように彼女は言った。
「まだこの子がいる」
不思議と言葉が口をついた。
深淵世界が滅びなければ、遥か先の未来も変わるはず。そんな風にアムルは考えた。
「この子を育て、ラーヴァシュネイクを復興すればいい」
デュエルニーガはアムルを見た。
星のような瞳が、ほんの僅かに輝きを発しているように思えた。
彼女はその赤子――ムルガに手を伸ばし、そっと抱いた。
あっ、あーっ、とムルガは火がついたように泣き始める。
「ごめんね」
彼女はムルガを優しく撫でると、再びアムルに手渡した。
彼の腕の中に収まると、ムルガは大人しくなり、すやすやと寝息を立て始める。
「あなたは、この子を助けたいの? ラーヴァシュネイクを救いたいの?」
デュエルニーガは問う。
「それとも、銀水聖海を救いたい?」
「すべてだ。ラーヴァシュネイクも、銀水聖海も、その子が生きていくために必要なものだ」
「助けたい理由は?」
再びデュエルニーガは問うた。
「正しいと思ったからだ」
すると、デュエルニーガは静かに目を伏せた。
「正しくあろうとすること、それこそが人々が抱く最も醜悪な願い」
一瞬、アムルは言葉に詰まる。
「正しくあろうとすることが、お前は罪だというのか?」
「誰もが正しくありたいと願う。自らが誤っているとは思いたくない」
デュエルニーガは歩きながら、そう口にする。
「だけど、正しさなどどこにもない」
暗く、沈み込んだような瞳で、彼女は言う。
「どこにも」
アムルは後を追い、歩いていく。
隣に並ぶと、デュエルニーガは赤子に視線を向けた。
「なぜ、この子は泣いているのだと思う?」
「……わからん」
正直にアムルは答えた。
「人々は醜い、銀水聖海は醜い。その理不尽なまでの人の醜悪さを、この子は憎んでいるから。だから、生まれ落ちた日からこの子はずっと泣いている」
「ムルガは<淵>から生まれたのか?」
こくり、とデュエルニーガはうなずく。
「<願望の星淵>には、銀水聖海中の願いが集まる。けれど、あの<淵>に生じた最も強い想いは、悪意」
アムルは視線を鋭くした。
「ありとあらゆる悪意が、<願望の星淵>に渦巻いている」
デュエルニーガは悲しげに、ムルガを見た。
「銀水聖海の人々が望み、そして生まれたのがその子。純粋なる悪、邪悪の化身。滅ぼされるべくして滅ぼされる、憎悪の塊。結局、人が望み、願っているのは、打ち倒すべき悪、自らの正義を証明することのできる悪。この海の理不尽を一手に引き受けてくれる、徹頭徹尾、どこまでいっても悪でしかない悪だった」
アムルに視線を移し、彼女は問うた。
「なぜだかわかる?」
「……人は、答えを求めるものだ」
アムルは言った。
これまで数多くの憎悪に触れてきた彼には、その理由が理解できるような気がしていた。
「俺たちは、いつか理不尽の壁にぶち当たる。己の力だけでは、どれほど努力しても超えられない壁に」
生まれ、種族、才能、財産、家柄、社会秩序、暴力、権力、最初から定められていた分厚い壁に、誰もが跳ね返される。押しつぶされるものもいるだろう。
「そこに悪などいない。仮に悪がいたとしても、その悪すらも理不尽の犠牲の末、そうなった。では真の悪はどこにいる? いない。恐らくは、いないのだろう。単にこの海が、その世界が、そういう形でできていたというだけの話だ。だが、それでは納得できない。誰かが悪いのだと思いたいのだ」
アムルの言葉に、デュエルニーガは深くうなずいた。
「理不尽を形作る、純粋な悪を人々は願った。だから、その子は純粋なる悪としてこの海に君臨し、そして人々から正義の鉄槌を受ける運命にある」
人は醜い、とデュエルニーガは言った。
銀水聖海は醜い、と。
その意味が、アムルにも理解できた。
「なんて空しい自作自演」
デュエルニーガは言った。
「もしも、そう思ってくれるのなら、今その子を殺してあげて。その子が笑っている間に。その子が真の悪ではないと知っているあなたの手で。それはこの上ない幸せなことだから」
アムルはうなずかない。
ただじっとしたまま、デュエルニーガを見返した。
「<心火の魔眼>を持つあなたになら、その子は憎しみを抱かず、<絶渦>が牙を剝くこともない」
「殺させはしない」
アムルはムルガを抱きしめる。
「この子は俺が守ろう」
小さな手がぎこちなく動き、アムルの人差し指をつかむ。
そうして、腕の中で、ムルガは「あー」と微笑んだ。
親子のような二人の姿を見て、デュエルニーガは悲しげな笑みを覗かせる。
「あなたが、あなたの正しさを信じている限り、その子を守ることはできない。けれど、この海の人々が、皆、あなたのように強ければよかったと思う」
ラーヴァシュネイクの赤い空には、一つだけ、小さな星が輝いていた。




