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 泡沫世界へ降りていった幼い影体を、遥か彼方からアムルは見つめていた。


 なぜだか、誇らしい気持ちだった。


 二律僭主ノアは強い。


 そして、いつも正しかった。


 銀水聖海の理すらも凌駕する力を持ちながら、彼はそれを他者のために使っていた。


 受けた恩を返しにいくだけ、とノアは死の壁に挑む決意を固めた。


 いや、彼にとっては決意というほど大層なものではないのかもしれない。


 ただ当たり前に、なすべきことをなしに行ったにすぎないのかもしれない。


「戻って来い」


 そう彼は言った。


 アムルが久しぶりにノアに会いに行ったのは、<絶渦>にいた赤子のことを話そうと思ったからだった。


 しかし、行方を追っていく内に、ノアが転生魔法に挑もうとしていることがわかった。


 大魔王ジニア・シーヴァヘルドにして、不可能と言わしめた理外の魔法。挑戦できるのは生涯に一度きりであり、失敗すれば永劫の死が訪れる。


 そして、奇跡を起こし成功したとしても、元の人格や記憶が完全に残っている保証はない。


 その一切を、二律僭主ノアは厭わなかった。


 そんな彼に比して、己の迷いがちっぽけなものに思えたのだ。


 あの赤子は、<絶渦>の深淵にいながらも、一切その影響を受けず、泣くことで<絶渦>を操ってさえいた。


 恐らくは、あの場所で生まれたのだろう。ノアがそうであるように、<淵>から生まれる存在というのは、銀水聖海でも何種類かは確認できている。


 そして、触れたことのない曖昧な憎悪――


 主神がそばにいたということは、あの赤子は元首か、それに類するものなのか?


 いずれにしても、主神の保護下にあるようだった。


 ならば、己の出る幕ではないとアムルは思った。


 ゆえに、引き下がったのだ。


 しかし、なぜか? あの泣き声が耳から離れない。


 自らに似ていると思ったからか?


 両親を失い、個別世界の砂漠に捨てられていた自分に。


「いや」


 願望世界の主神が、あの子にはついていた。


 それはすなわち、願望世界の全てがあの赤子の味方であるという証明だ。


 自分とは似ても似つかない。


 ならば、なぜこんなにも頭から離れないのか?


 わからない。


 しかし、馬鹿馬鹿しいことだと思った。


 気になるのならば、行けばいい。行って確かめてくればいい。


 死の壁に迷わず向かっていった兄弟を見て、アムルはそう思ったのだ。


 かくして、彼は再び願望世界ラーヴァシュネイクを訪れた。


 真っ赤な星々が形成する大渦、その只中へ降りていき、耳をすます。


 すると、聞こえた。


 赤子の泣き声だ。


 前回潜ったときに気がつかなかったのは、大渦だけに集中していたからか。


 それとも、赤子がいると知っていることが影響しているのだろうか。


 星々の大渦は、その泣き声に誘導されるようにして変化し、そしてアムルを襲ってくる。


 彼は紅蓮の身体で大渦を跳ね除けて、まっすぐ深淵に辿り着く。


 人影が見えた。赤子だ。


 アムルの<心火の魔眼>が自ずと発動し、赤子から立ち上った憎悪の炎が彼に移る。


 泣き声が止まり、<絶渦>が平穏を取り戻す。


 アムルがその赤子に近づいていくと、どこからともなく声が聞こえた。


「関わらない方がいい」


 白い輝きを放つ星がそこに現れ、少女の姿に変わった。


 希輝星デュエルニーガである。


 彼女をじっと見つめ、アムルは尋ねた。


「なぜ、この子は泣いているんだ?」


 アムルは問う。


 デュエルニーガは沈黙したままだ。


「この子の名は?」


「存在しない」


「なぜだ?」


 そう問えば、一瞬考えた後に彼女は言った。


「その子は生まれながらの純粋な悪。関わった全てを理不尽に傷つける」


「<絶渦>が、悪意の大渦と呼ばれていることに関係があるのか?」


「どこで、誰がそれを知って、そう名付けたのか、私たちは知らない」


 デュエルニーガは答える。


「深淵世界にある<淵>の名を、お前たちがつけたわけではないのか?」


「この<淵>は、<願望の星淵>と呼ばれている。<絶渦>と、悪意の大渦というのは、私たち以外しか呼ばない。けれど、それは私たちの行く末を知っていたかのような言葉」


「どういう意味だ?」


「銀水聖海には超越者がいると思っている。それも今はもう私たちには関係がないこと」


 星のようなデュエルニーガの瞳は、しかし暗澹として見えた。


「質問を変えよう。なぜお前はその子のそばにいるんだ?」


 関わった全てを理不尽に傷つけるとわかっていながら、デュエルニーガは赤子のそばにいる。


 その理由をアムルは知りたいと思った。


「ラーヴァシュネイクは……」


 静かに目を伏せながら、彼女は悲しげに言った。


「私たちは、もう滅びゆくのみだから」


 彼女の答えは、アムルが想像だにしていないものだった。


 ラーヴァシュネイクは、この海で最も深きに位置する、深淵世界である。


 全ては浅き場所から、深き場所へ移ろいでいくのが、この銀水聖海の理だ。


 ゆえに、浅層世界よりも中層世界、中層世界よりも深層世界の方が、住人たちは強く、博識であり、魔

法も発達している。


 無論、銀泡も強靭だ。


 深淵世界でありながら滅びゆくというのは、腑に落ちなかった。


「混沌をもってすら、敵わぬ敵がいるのか?」


 この世界には来るだけでも至難を要する。


 アムルや、二律僭主ノア、大魔王ジニア・シーヴァヘルドなど、銀水聖海でも限られた実力者しか、混沌の銀河を抜けることはできない。


 あるいは、それらが関係しているのかもしれない、と思ったのだ。


「敵は……」


 デュエルニーガはしばし思考する。


 数秒俯いた後に、彼女は言った。


「……いない。いないと思う」


「ではなぜだ?」


「泡沫世界がそうであるかのように、私たちは、自然と滅ぶ。今はもう、時を待つだけ」


 深淵世界が泡沫世界のように滅びる。


 それがどういうことなのか、具体的にはわからなかったが、だからこそ、デュエルニーガはその赤子のそばにいるのだろう。


 そして、だからこそ、名をつけなかったのだろう。


 彼女は運命を受け入れている。


 そして、敵がいないのなら、アムルにできることはない。


 銀水聖海の憎しみを集め、戦い続けてきた。この海が少しだけ平穏に近づくように、と。


 しかし、憎しみが滅びの原因でないのなら、<心火の魔眼>も第一魔王である彼の力も、大した役には立たないだろう。


「…………」


 アムルは無言のまま、赤子に視線を移す。


 すると、燃えるような彼の瞳を見て、その赤子は可愛らしく笑ったのだ。


 それが、始まりだった。


 そんな簡単な理由だった。


 背を押すような衝動のままに、彼は言ったのだ。


「ムルガ」


「……それは?」


 疑問の視線を向けてくるデュエルニーガに、アムルは言った。


「この子の名だ。俺が育てよう」



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