人々の願い
一万四千年前――
「……これが、混沌か」
第一魔王アムルの目の前に広がるのは、銀泡よりも目映く輝く混沌の銀河。
凝縮された魔力、凝縮された秩序、銀水聖海中から集まってきた力という力がそこに集い、光を放っている。
力試しとばかりに、アムルはそれに触れた。
すると、その指先が光に変わった。
混沌がアムルを取り込もうとしているのだ。
「なるほど。あいつが言った通りだ」
彼の右手が紅蓮に包まれ、浸食してくる混沌の光を弾き返した。
「二千年前なら手を焼いただろうが」
アムルは前方に終末の火を放ち、それを使って魔法陣を描く。
強大な魔力が魔法陣を中心に膨れ上がり、混沌の銀河さえも震撼させた。
「<極獄界滅壊陣魔砲>」
終極の黒炎が目の前の混沌を飲み込み、吹き飛ばした。
憎悪を吸い取り、魔力に変える<心火の魔眼>。
この二千年でアムルは様々な世界を巡り、多くの理不尽を、多くの悪を倒してきた。
その度に彼は強くなり、混沌さえも跳ね除ける純粋な力を有していた。
銀河が割れるように、アムルの前に道ができている。
彼はゆうゆうと自らが作った道を飛んでいく。
やがて、見えてきたのは赤い銀泡である。
混沌に包まれ、普段はその存在が隠されているのだろうが、先ほどの<極獄界滅壊陣魔砲>により、はっきりと視認できた。
アムルは銀泡を降下していく。
最初に目に映ったのは、鮮やかな赤い色。
夕焼けのようにも見えるが、明らかにそれとは違う異質さを感じる不気味な空だ。
広大な海は、血のように赤く、荒れ狂っていた。
海の深い場所、その深淵では赤い星々が大渦を作っている。
先の混沌よりも、更に深い。
深すぎて、アムルの魔眼をもってしても、底が見えないほどだ。
「願望世界ラーヴァシュネイクの<淵>――<絶渦>」
眼下を見据えながら、アムルはぽつりと呟いた。
ここは深淵世界。そして、<絶渦>はその中でも、最も深い。この銀水聖海において、なによりも深き存在がその<淵>なのだ。
なにかに導かれるように、アムルはその海の中へ飛び込んでいった。
「さあ、その力を見せろ」
赤い星々の大渦に、迷いなくアムルは突っ込んだ。
混沌さえも容易く引き裂きそうな星々が、アムルの身に襲い掛かる。
刹那、彼の全身が紅蓮に染まり、その魔力が跳ね上がった。
アムルは苦痛に顔を歪めたが、深淵の<渦>に身をさらしておきながらも、その流れに飲まれていない。赤い星々が衝突するも、紅蓮の身体を滅ぼすことはできないのだ。
大渦を無理やりねじ伏せるように、彼は更に沈んでいく。
目指したのは<絶渦>の深淵。なによりも深き場所。
そこになにがあるわけでもない。
だが、この海に最も深いところがあるというのならば、行ってみたい。
それを超えてみたい。
純粋にそう思った。
深淵を征服したい、というのが第一魔王アムルの動機だった。
ゆえに、彼は驚いたのだ。
辿り着いた深淵には、赤い星々に包まれた人影があった。
小さい。彼の腕に包まれるほどの大きさしかない。近づくと、それがよりはっきりとわかる。
<絶渦>の深淵にいたのは、赤子だった。
大きく、くりっとした目がアムルを見つめた。
「あー」
と、赤子が声を上げる。
あー、あーー、とその子は大声で泣き始めたのだ。
頭が割れそうになるぐらい大きく、激しく、心を揺さぶる。
すると、<絶渦>が荒れ狂い、激しく渦を巻いた。
「力を増している……?」
恐るべき力を誇る<絶渦>が、更に勢力を増し、輝きを増した。
赤い星々は不気味なまでに濃くなり、その内部は生物の存在を許さぬほど滅びの力で溢れ返る。
銀泡が終わる瞬間のような爆発が、<絶渦>のあちこちで発生した。
そして、その爆発の大渦がアムルめがけて襲い掛かってきた。
それは紅蓮の身体でさえも削っていき、血を溢れさせる。
アムルを敵と定め、意思があるかのように<絶渦>の星々は次々と彼に衝突し、滅びの爆発を巻き起こす。
「<極獄界――」
終末の火で魔法陣を描こうとしたその時だった。
彼の両眼が燃え盛った。
感じたのは曖昧な憎悪。
<心火の魔眼>が自ずと発動し、憎悪を吸い取っているのだ。
この<絶渦>のただ中で、憎悪を抱く存在は一つしかない。
アムルは、赤子に視線を向けた。
その子の体から憎悪の炎が燃え上がり、それがアムルの魔眼の炎へと変わっていく。次第に、泣き声が小さくなっていき、その子は目を閉じた。
それと同時に荒れ狂っていた<絶渦>が穏やかになり、アムルを飲み込もうとする流れも止まった。
赤子に視線を移す。
すやすやと寝息を立てながら、その子は眠りについていた。
「奇妙な赤子だ」
アムルは赤子に魔法陣を描き、<飛行>を使う。
そうして、その子を連れて、浮上を始めた。
なぜ<絶渦>の深淵に赤子がいるのか?
その子がいったいなにに憎悪を覚えたのか?
これまで知らなかったその曖昧な憎悪に、彼は興味を覚えたのだ。
「――待って」
声が聞こえた。
キラキラと赤い星々の渦の中に、一つ真っ白に輝く星があった。
その白い星がひと際大きく光を放つと、そこに一人の少女が現れた。
「私は希輝星デュエルニーガ。願望世界ラーヴァシュネイクの主神」
少女は言った。
「その子を<絶渦>の外に出してはならない。外に出せば、その子は多くの銀泡を滅ぼし、そして滅ぼされる」
「なぜだ?」
アムルは問う。
「それが人々の願いだから」
そう少女は答えたのだった。




