兄と弟
一万四〇〇〇年前――
それは一人の狩猟貴族が<聖遺言>に託した、一縷の希望だった。
聖剣世界ハイフォリア近海。
レブラハルド男爵所有、銀水船ネフェウスの一室。
「長く待たせてすまない。三日後、ようやく私は選定の儀を授かる。必ず、霊神人剣を抜いてみせる」
椅子に丸くなって座っているルナに、レブラハルドはそう言った。
鍛冶世界バーディルーアで災禍の淵姫ルナ・アーツェノンと出会ってから、長い年月が経っていた。
霊神人剣とは聖剣世界ハイフォリアの象徴。それを抜いた者は次代の元首、すなわち聖王になる資格を得ることができる。
五聖爵の一人といえども、簡単にその機会を得ることはできなかったのだ。
「だが、この船に対する災淵世界イーヴェゼイノの監視が強くなった。君がここにいることも、大凡はもう見当がついているんだろう」
ルナは俯きながら、黙ってそれを聞いている。
自らの渇望と彼女は必死に戦っている。これまでずっと戦い続けてきたのだ。
その様子を間近で見てきたレブラハルドの心にも、変化が現れていた。
狩猟貴族が獣と呼ぶ災淵世界の住人たち。奴らは本能のままに人を襲い、理性も良心もなく、ただ渇望を満たす。
だが、目の前の少女は違った。
身中に潜む、邪悪なる獣を抑え続け、なにより自らの愛を信じている。
同じではないか。
レブラハルドはそう思った。
自分たち狩猟貴族となにも変わらないのではないか、と。
「一つ、お願いがあるの」
顔を上げて、ルナは言った。
辛抱強く、決してわがままを言わなかった彼女が初めて口にしたことだ。
どんなことでも叶えてやりたい、とレブラハルドは思った。
「聞こう」
真摯な瞳をルナに向けて、彼は言う。
「この間、すごく綺麗な銀泡を見つけたの。泡沫世界に行くなら、そこに行きたいわ」
「場所は?」
ルナは魔法陣を描き、海図にて銀泡のある場所を指し示した。
彼女がこれから人生を送る場所だ。選ぶ権利があるだろう、とレブラハルドは思った。
「わかった。では、先にここへ向かわせるように手配する。待っていてくれ。霊神人剣を抜き、必ず馳せ参じよう」
「ありがとう、男爵様」
レブラハルドは微笑みで応じて、船室を後にした。
ルナと別れ、聖剣世界ハイフォリアに戻ったレブラハルドは、選定の儀にて見事、霊神人剣エヴァンスマナを引き抜いた。
その後に執り行われる祝福の儀式を受けたレブラハルドは、ルナのもとへ戻るため、すぐさま自らが所有する銀水船ネフェウスへと向かう。
「レブラハルド卿!」
銀水船の甲板で一人の狩猟貴族が手を振った。
レブラハルドの従者ノエインである。彼が最も信頼している腹心だった。
「出発の準備はできています!」
規律正しく、ノエインは言った。
「出してくれ」
レブラハルドが指示すると、「了解」との返事の後、彼を乗せるより先に銀水船ネフェウスが飛び上がった。少しでも早く、ルナのもとへ向かうためである。
レブラハルドはそれを追いかけ、ふわりと飛び上がる。
「兄上っ」
背中から声をかけられ、レブラハルドは振り向く。
彼の弟、バルツァロンドが追いかけてきていた。
「急にどこへ? 民は兄上が顔を見せるのを待っている。霊神人剣エヴァンスマナを抜いた勇者、さすがは聖王オルドフの息子と!」
興奮冷めやらぬといった口調でバルツァロンドは言った。
彼にとって兄は、憧れの英雄も同然だった。
「ルッツ」
レブラハルドは振り返る。
そうして、無邪気に自分を称える弟にこう告げたのだ。
「次はそなたの番だ」
一瞬、バルツァロンドは返事に窮する。
「……しかし、兄上のようには……私は五聖爵の候補にすらなれぬ未熟者だ……」
ばつが悪そうにバルツァロンドは俯く。
二人の兄弟はともに育ち、狩猟貴族としての訓練を積んだ。しかし、常に先を言っているのは兄のレブラハルドだ。
バルツァロンドにとって、偉大な兄の背中は大きく、そしてどんどんと離れているように感じられていた。
「そなたは己の良心に従い、常に正義の道を邁進してきた。己の不利益を厭ったことは一度としてない」
弟を鼓舞するようにレブラハルドは言う。
「私ならばそなたを選ぶ。利を求めず、害を恐れず、常に正しくあろうとした者が選ばれぬわけがない」
「……はい……」
弱気になっていたバルツァロンドの瞳に光が宿る。
「つい、弱音を吐いてしまった」
「自信を持て、ルッツ。君に足りないのはそれだけだ」
レブラハルドはそう断言する。
バルツァロンドは大きくうなずいた。
「私はこれから、己の正義を成しに行く」
レブラハルドは言った。
「そのために、霊神人剣が必要だったのだ」
「わかった」
素直にバルツァロンドは納得した。それが、レブラハルドには少し意外だったのか。彼は問うた。
「理由は聞かないのか?」
「兄上。頭よりも機敏に手が動く私も、これまでの経験で多少は学んだことがある」
ようやく兄から一本取った言わんばかりに、バルツァロンドは得意げに笑う。
「話せることならば、兄上はとうに話している。ならば、私がすることは一つ」
当たり前のように彼は言うのだ
「兄上が歩む道を信じることだ」
一瞬、レブラハルドは真顔になり、それから薄く微笑んだ。
「行ってくるよ、ルッツ」
「ああ。留守は任せてもらおう」
レブラハルドは速度を上げ、銀水船ネフェウスに向かっていく。
「ノエインっ! 兄上は強く、賢く、正義感に溢れており、失敗など決してしない男だが、頼んだぞ!」
「……なにを頼まれればよろしいか……?」
心底疑問でならないといった風にノエインが聞き返す。
「つまりだ。兄はあえて険しき道を行くところがある。支えてやってくれ!」
ようやく考えがまとまったかのように、バルツァロンドが言った。
ノエインは柔らかい笑みを覗かせる。
「ええ。そのために、私はレブラハルド卿にお仕えしているのです」
レブラハルドを乗せた銀水船ネフェウスは更に速度を上げ、聖剣世界ハイフォリアを離脱していった。




