暗黙の誓い
一万六〇〇〇年前。
災淵世界イーヴェゼイノ。
黒い影が空に現れた。
影の中から巨大な氷柱がぬっと突き出され、落下する。それは氷山の奥深くまでズゴォッと突き刺さる。
氷柱の中には人影が見えた。
災淵世界イーヴェゼイノの元首にして主神、災人イザークである。
上空の黒い影がぱっと払われると、そこに二人の男が姿を現す。
二律僭主ノア、そして第一魔王アムルだ。
「これで文句はあるまい」
ノアが言う。
誰に見られることなく、災人イザークを聖剣世界ハイフォリアから災淵世界イーヴェゼイノに移した。
これでイザークは最初からここに眠っていたと誰もが思うだろう。
「ついでだ。この辺りで遊んでいくか?」
含みを持たせ、アムルが提案する。
「お前の恩人に会ってみたい」
「残念だが、もうここにはいない」
イーヴェゼイノ上空をゆっくりと飛びながら、ノアは答えた。
ルナ・アーツェノンは災淵世界イーヴェゼイノを脱出している。彼女は目的を果たすために、今も戦っている。苦難は多いが、きっと、彼女ならば最後まで諦めないだろう。
彼女と過ごしたあの日々が、ノアには少し懐かしく思えた。
「家を見に行ってみるか?」
「ああ」
ノアは<転移>の魔法を使う。
視界が真っ白に染まり、次の瞬間、木々の緑が目に映った。かつてルナと過ごした森である。
「そこの小屋で過ごした」
ノアは歩いていき、鬱蒼と生い茂った木々の葉の間を抜けた。
すると、そこに小屋が見えた。
しかし、様子がおかしい。
屋根を突き破り、小屋の中から大木が大きく伸びているのだ。その枝はうねうねと動き、小動物に絡み
ついてはその生気を吸っていた。
「幻獣か。受肉しているようだ」
魔眼を光らせ、ノアはその正体を見抜く。
すると、アムルは右手を軽く上げて、多重魔法陣を描く。七重螺旋の黒き粒子がぼっと立ち上った。
「<極獄―」
「よい」
アムルの右手に軽く触れ、ノアはそれを制した。
ふっと魔法陣は魔力の粒子となって消えていく。
「恩人と過ごした場所だろう? こいつの物ではない」
大木の幻獣を睨みながら、アムルは言った。
「もう使われていない。彼女ならば、笑って譲るだろう」
無言でアムルはノアを見返した。
そうだとしても、荒らされたままにしていいのか、と言わんばかりだ。
「思い出が消えるわけでもあるまい」
そうノアは言った。
「……そうか」
アムルは静かに手を下ろす。
それを待っていたとばかりに、大木の幻獣が枝を伸ばした。
鋭い槍の如く、それは一直線にアムルの顔面に迫る。
だが、枝は寸前で止まった。
<心火の魔眼>。
それが幻獣の憎悪を吸い取り、アムルの力に変えていく。
大木はみるみる小さくなっていき、小屋の中に消えた。憎悪こそが、その幻獣の渇望だったのか、力の源を奪われているのだ。
アムルが魔力を放つと、小屋の中から小さな種が飛んでくる。
渇望が小さくなった幻獣の姿だ。
アムルが魔力を発すれば、その種は小屋から離れたところまで飛んでいき、大地に埋められた。
「きっと、お前が正しいのだろうな、ノア」
自嘲するようにアムルは言った。
「小屋が荒らされようと、思い出はなくならぬ。力尽くで移動させるほどのことではない。俺は――」
穴が空いた小屋の時間を魔法で戻し、修復しながら、アムルは言う。
「余計な世話ばかりを焼く」
「卿がそうするのは、いつでも他者のためだ」
ノアはゆっくりと歩いていき、小屋のドアを開けた。
懐かしい、ルナと過ごした部屋がそこにある。
「憎悪だけでなく、卿には他者の気持ちがよくわかるのだろう。ゆえに、他人事とは思えぬのだ」
後ろを振り返り、ノアは言った。
「災人のこともそうだ。卿ほど壊滅の暴君という名が似つかわしくない男もいまい」
ノアは真顔でアムルを見つめた。
すると、彼は椅子に座り、天井を見上げた。
「いつか」
ぽつりと彼は言った。
「いつか俺は奪った憎悪に狂うのだろう」
人はいつか滅ぶ。どれほどの強者であろうとも。
それと同じように、ごく当たり前に彼は自らの運命を口にした。
「消えないのだ。これまで奪ってきた憎悪は全て、俺の胸に今も燻り続けている。いつの日か、それは俺の中で致命的な火種となり、この身すらも焼き尽くす炎となって燃え盛るだろう」
その結末を見据えるように、アムルは遠くを見ていた。
「それでいい」
納得したように彼は言う。
「この世の憎悪を、この世の悪意を、集められるだけ集め、滅べばいい。それでこの銀海も少しは平和になるだろう。悪くない運命だ」
「運命か。卿らしくもない」
再びノアに視線を戻し、アムルは笑みを覗かせた。
「だとすれば、お前のせいだろう」
真剣な口調で彼は言う。
ノアが視線で疑問を向ければ、アムルは説明を続けた。
「過ぎた力だと思っていた。憎悪など、際限なくどこにでも転がっている。その数だけ、その強さの分だけ、この身は深淵に沈んでいく。際限なく深く。俺の行く末は憎悪の化身、壊滅の暴君なのだ」
<心火の魔眼>は憎悪を奪い続け、彼の身を焼き、その力を高め続ける。
ゆえに彼は壊滅の暴君と呼ばれる。
今ではない、遠いいつか訪れる日のために彼自身がつけた異名であった。
「だが、お前がいてくれた」
燃えるようなアムルの瞳が一瞬柔らかく変化する。
「お前は強い。俺と同じぐらいに。お前は正しい。俺と違って。ならば、お前は誰にも負けないだろう」
誇らしげに彼は言った。
まっすぐ見つめてくるアムルの瞳を、同じようにまっすぐノアは見返していた。
「それでいいんだ。ノア、我が兄弟よ」
「そうか」
淡々とノアは言った。
ごく当たり前のように。
「しかし、卿は狂いはしないと私は思う」
ノアの言葉に、アムルは僅かに目を丸くした。
「卿は私と同じぐらい強いからだ。アムル、我が兄弟よ」
憂いを吹き飛ばすようにノアは笑ったのだった。




