自重
――細い指先が、そっと俺の頬に触れた。
「どうかした?」
温かな声音に耳を撫でられ、意識を優しく呼び戻される。
場所はパブロヘタラの魔王学院宿舎。寝室のベッドに仰向けになった俺の顔を、ミーシャが覗き込んでいる。俺の頭は、彼女の膝にあった。
柔らかいプラチナブロンドの髪が明かりに照らされ、幻想的な輝きを発す。
静謐で慈愛に満ちた彼女の瞳には、月が見えた。
<源創の神眼>である。
「ふと白昼夢のようなものが見えてな。一万六千年前のハイフォリアだった」
たった今、脳裏をよぎった光景を思い出す。
「ロンクルスの記憶?」
ミーシャは俺の深奥へじっと神眼を向け、傷ついた根源の形を優しく整えている。
「そのようだ」
ロンクルスの姿は見えなかったが、樹海船はあった。
そこに乗っていたのだろう。
「なにか気になる?」
ふむ。
特に表情を変えた覚えはないのだがな。
「お前はよく気がつく」
すると、ほんの少し照れたようにミーシャははにかんだ。
「いつも見てるから」
「気になるのは三点。災人イザークはハイフォリアの先王オルドフとの誓約によって、眠りにつき、ハイフォリアの神殿に隠されていた。オルドフには、災人を滅ぼす機会があったはずだが、そうはしなかった」
「どうして?」
「夢があったそうだ。どんな夢かはわからぬが」
ぱちぱち、とミーシャは瞬きをする。
それから、ほんの少し笑った。
「優しい夢だといいと思った?」
「さてな。どちらにせよ、オルドフは退位している。彼がレブラハルドに夢を託せたならば、あの堅物っぷりにも理由があるのだろうが」
すると、ミーシャは俺に微笑みかける。
「わたしも」
俺の根源を視線で撫でながら、彼女は言う。
「優しい理由なら、嬉しい」
俺はミーシャに笑みを返す。
「オルドフはパブロヘタラには手を出すなとも言っていた。しかし、一万六千年が経過した今、ハイフォリアはパブロヘタラの学院同盟だ」
「それが気になるもう一つのこと?」
俺はうなずく。
先王の言いつけを、レブラハルドは破ったのやもしれぬ。
「パブロヘタラについて、詳しく知りたいところだな」
これまで、このパブロヘタラ宮殿で過ごし、銀水序列戦や六学院法廷会議などに興じてきたが、わからぬことはまだ多い。
そもそも、このパブロヘタラ宮殿はどの小世界が造ったのか?
創立者ならば発言力が強くなりそうなものだが、聖上六学院のいずれも別格扱いされている様子はない。
「ロンクルスは?」
「俺の根源の中が相当堪えたと見える。適応には時間がかかりそうだ」
<融合転生>からまださほど日数は経っていない。
ロンクルスが目覚めるのを待つより、自ら探った方が早いだろう。
俺が身を起こそうとすると、ミーシャの手が頭をつかんだ。
「今日はだめ」
彼女は俺の頭をゆっくりと下ろし、自らの膝の上に乗せた。
「明日は、パリントンの一件で六学院法廷会議がある。ミリティア世界が聖上六学院になれば、周囲も騒がしくなろう」
すっとミーシャが人差し指を伸ばし、俺の胸に触れる。
「根源がまたぐちゃぐちゃ」
彼女の瞳が訴えるように俺を見つめる。
「治すから。待って」
ロンクルスとの戦いの後、一旦は治りかけたのだが、パリントンの<赤糸>で再び根源の傷が開いた。
アーツェノンの滅びの獅子。その渇望に従い、自ら滅びの力が暴走しようとしたためだ。
無理矢理抑え込んだが、外から傷を負うよりも損傷は大きい。
「滅びの力は、二律剣に流せる。さして問題にはならぬ」
「無理ができるようになっただけ」
じとっとミーシャが俺を睨む。
「傷が深くても動けるようになって、心配が増えた」
「くはは」
と、俺は笑い飛ばす。
「そう大げさにとるな。これしきのことで、俺が滅ぼされるとでも思うのか?」
ミーシャは首を左右に振った。
「滅ぶこと以外も心配」
瞳に憂いを浮かべ、彼女は言う。
「血と傷に慣れないで。アノスが傷つくと、わたしも苦しい」
「……ふむ」
問題はないのだが、こう切実に訴えられては無下にもできぬ。
「心配性だな、ミーシャは。仕方のない」
すると、嬉しそうに彼女は笑った。
「心配性でごめんなさい」
感謝の印とばかりに、ミーシャが俺の髪を優しく撫でる。
なんともくすぐったいことだ。
「まあ、聖上六学院に入れば、パブロヘタラでも力が持てよう。明日まで待った方が調べがつきやすいやもしれぬ」
「ん」
「ところで」
俺は寝室の扉を指さす。
魔力を込めれば、バタンッと扉が開いた。
「きゃあぁぁっ!」
扉の向こうにいたサーシャがバランスを崩して、前のめりに倒れた。
「大丈夫?」
心配そうにミーシャが問う。
受け身も取れず、サーシャは顔面を床に埋めていた。
「……まったく問題ないわ……」
その姿勢では説得力がないのだがな。
「それで?」
床に顔を埋めたままのサーシャに、俺は問う。
「なんの遊びだ? パブロヘタラの床は堅いぞ」
「遊んでないわよっ! いきなりドアを開けたら、こうなるに決まってるでしょっ! ミーシャと真剣な話をしてたと思ったら、不意打ちにもほどがあるわっ」
バネ仕掛けのようにぴょんと起き上がり、舌鋒鋭くサーシャがつっこんでくる。
「もう。鼻がちょっと低くなったわよ」
サーシャは若干赤くなった鼻の頭を撫でている。
「すまぬな」
俺は身を起こし、サーシャのそばまで歩く。
ゆるりと手を伸ばし、彼女の鼻にそっと指先を触れた。
「え……? あ、あの……アノス……?」
「ならば、責任をとり――」
俺は朗らかに笑った。
「――高くしてやろうか?」
「や・め・て」
くはは、と思わず笑声がこぼれ落ちる。
「それで?」
意図がつかめなかったか、サーシャが怪訝な顔で俺を見返す。
「さっきからドアの前でなにをしていた? 用があるなら、入ってくればいいだろうに」
「……だって……」
伏し目がちになり、サーシャは呟く。
「……邪魔したら悪いもの……暴れてる力は二律剣に流してるから、<破滅の魔眼>で滅ぼす必要はないし……」
以前、俺の滅びの根源を抑えるために、サーシャの<破滅の魔眼>で魔力を相殺したが、二律剣に余分な力を流せる今となっては、さほど必要としない。
乱れた根源の形を整えることが肝心だが、それはサーシャの苦手分野だろう。
「……そうしたら、わたしにできることはなにもないわ……」
「なんだ、そんなことか」
「そんなことって……それは、アノスにとったら、そうなんだけど……」
サーシャが俯き、自らの制服の裾をぎゅっと握る。
俺はベッドへ戻りながら言った。
「治療中は退屈でな。暇ならば、話し相手をせよ」
サーシャが僅かに顔を上げた。
「……でも、ミーシャもいるのに……」
「お前と話していると飽きぬ」
すると、みるみるサーシャの顔が綻んでいく。しかし、ここで笑顔になってはあまりに現金だと思ったのか、それを隠すように彼女は顔を背けた。
「……そ、そうなの? じゃ、どうしてもって言うなら、考えるけど……」
「どうしてもだ」
背けた顔がこちらへ向く。
「……はい……」
嬉しさを抑えるようにしながらベッドに近づき、サーシャはその上に乗った。
「サーシャ」
俺の頭を再び膝に乗せ、ミーシャが姉に手を伸ばす。
「魔力、貸して」
「魔法線の方がよくないかしら? 邪魔じゃない?」
ふるふるとミーシャは首を横に振った。
「おいで」
ミーシャと手をつなぎ、引かれるままにサーシャは座る。
「もっと。くっついて」
「……うん……きゃっ……!」
サーシャがびっくりしたように声を上げる。
ミーシャが俺の頭をそっと持ち上げ、二人の膝の間に乗せたのだ。
「半分こ」
ミーシャが微笑みかけると、サーシャが恥ずかしそうに俯く。
「足、痺れるから」
「そ、それじゃ、仕方ないわね……うん……仕方ないわ……」
そう言いながら、彼女は赤い顔でちらりと俺を見た。
「……あ、そういえば、気になってたんだけど」
囁くような声でサーシャが俺に言う。
「アノスの前世は、ミリティア世界じゃなくて、どこかの深層世界にいた可能性が高いのよね? そのときの記憶って、取り戻せないのかしら? ほら、そうしたら、パブロヘタラのことも、わかるかもしれないし……」
先のミーシャとの話を、しっかり聞いていたようだな。
「転生するとわかっていたなら、どこかに記憶を遺していったやもしれぬな。我が父セリスや、イージェスがエレネシア世界でそうしたようにな」
<滅紫の雷眼>を封じ込めた魔法珠と緋髄愴、あれには力だけではなく、記憶も収められていたはずだ。
当時の<転生>では、転生が不完全になることがわかっていた。
ならば備えをしておいたと考えるのが自然だ。
「銀水聖海にいた前世の俺が、いつ死んだかにもよるだろうがな。エレネシア世界が、ミリティア世界に生まれ変わる前ならば、転生の秩序は限りなく弱い」
「でも、ミリティア世界ができたのって、七億年前でしょ?」
「銀水聖海では一万四千年ほど前でしかない」
サーシャは疑問の表情を浮かべる。
すると、ミーシャが説明した。
「ルナがエレネシア世界に落ちたのが一万四千年前だから」
「……あ、そっか、そうよね……あれ? でも、ミリティア世界は創世から七億年経ってるのは確かよね……?」
「時間がズレているのだろうな」
「……えーと、たとえば、この第七エレネシアで一日経つ内に、ミリティア世界じゃ一年とか、もっと長い期間が経つってこと?」
「簡単に言えばそうだ。だが、これまでに行った小世界とミリティア世界の間に、時間のズレは確認できていない。この第七エレネシアの一秒と、ミリティア世界の一秒はまったく同じだ」
サーシャはますます怪訝そうな顔になった。
「じゃ、どういうこと?」
「かつてなんらかの原因で時間のズレが発生した。そして、今は元に戻っているということだろう」
たとえば、この銀海の時間が止まっている内に、ミリティア世界だけが七億年近く経過したとすれば、辻褄が合う。
ミリティア世界が加速したのか、他の小世界が止まったのかは定かではないがな。
「それが気になることの三点目だ」
「今日はだめ」
間髪入れずにミーシャが言うので、俺は思わず笑ってしまう。
「これしきで滅びはせぬというのに。なあ、サーシャ」
「滅びさえしなければ無傷って考え、やめた方がいいと思うわ」
くつくつと俺は喉を鳴らして笑った。
なかなかどうして、さすがに姉妹、似たようなことを言うものだ。
謎はあれども、しばしの休息――




