五枚の絵画
ファリスとザイモンから十分に距離を取り、<幻影擬態>で透明化、<秘匿魔力>で魔力を隠し、俺たちは二人の後ろを追った。
『……もう少し近づかなくて平気ですか?』
尾行中のため、<思念通信>にてミサが問う。
『<幻影擬態>も<秘匿魔力>も、ミリティア世界より働きが弱くてな。術式を調整しても、制限時間が生じる』
バルツァロンドの銀水船にはりついていたときに、<幻影擬態>と<秘匿魔力>が自然と弱まったのはそのためだ。
重ねがけが一番だが、そうすると魔法の持続時間がどんどん短くなっていくようだ。最終的には発動前に魔法が終わるだろう。
一旦魔法を切り、三秒の間隔を空け、再び魔法を使うのが現実的だ。
あまり近づきすぎぬ方がよい。
『人も多くいます。この距離ならば、気配で察知するのは難しいでしょう。私よりも遙かに手練れでなければ、の話ですが』
シンが気配にて二人を捉えられる外側に俺たちはいる。ザイモンがシンより気配の察知に優れている可能性をふまえ、倍の距離の余裕を持たせた。
『お父さんより気配を察知できるって、そんなことってありますか?』
想像しがたいといった風に、ミサが言う。
『ここはミリティア世界ではありませんからね』
鋭い目つきでシンは言う。
『空気の重さも、足音の反響も、風の鋭さも違います。どうやら気配の感じ方も。残念ながら、深層世界で生きた年月が長い分、あちらに一日の長があると考えた方がいいでしょう』
シンは足を止める。
それを見て、俺も立ち止まった。
『あのザイモンって人、お父さんより強いんですか?』
『一合で流崩剣を折ったのは、魔剣の差だけではありません。少なくとも、純粋な膂力や速さ、魔力といったものは、今の私では及ばないでしょう。この深い世界で、彼はどうやら強者のようです』
過酷な環境を生きる生物はその分強い。
深層世界の者が、シンを上回る魔力を有しているのはむしろ自然な話だろう。
『……じゃ、やっぱり強いんですね……』
『ミサ。強いのは、最後まで立っていた方のことですよ』
娘の質問に、シンはそう答えた。
『行きましょう』
ザイモンとファリスがパブロヘタラ宮殿の外へ出ていく。
それを見て、シンは再び歩き始めた。
見慣れぬ建物が並ぶ往来を、行き交う人々にぶつからぬよう気をつけながら、俺たちは歩を進ませていく。
やがて、二人はある門の前で立ち止まった。
その向こう側に庭園があり、奥には無骨な城が見える。
街中だというのに物々しく、そこ一角だけが戦時中であるかのようだ。
オットルルーの説明によれば、各学院の宿舎はパブロヘタラ宮殿内に設けられている。
虎城学院は、あえて外にも城を建てたのだろう。
『止まれ。一度ここで<幻影擬態>と<秘匿魔力>を切る』
物陰にて俺は魔法を切った。
その瞬間、門をくぐろうとしたザイモンがはっと振り返った。
奴は魔眼にて、じっと付近一帯の魔力を注視している。
「どうしました?」
ファリスが問う。
「……妙な魔力の乱れを感じた気がした……」
「それは美しくありませんね」
「気のせいだろうが、バランディアスには敵も多い。一応警戒しておけ。お前の魔眼なら、なにか見えるかもしれない」
「ええ、そのように」
ファリスは鉄柵の門を開く。
「そういえば、シンはどうでしたか?」
「……どう、と言うと?」
「最初から力を量るきっかけを探していたのでしょう? あそこで元首を斬ってもバランディアスに利がないことはあなたもわかっているはず」
は、とザイモンは笑った。
「お前の魔眼は誤魔化せんな」
言いながら、彼は門をくぐる。
「浅層の者にしては強い。まともにやれば、負ける気はせんが、切り札の一つや二つはありそうだ。立ち会うなら、慎重かつ確実に倒す」
「あなたらしい評価ですね」
「お前ならどう戦う?」
一瞬考え、ファリスは答えた。
「雲のように、風のように、波のように。彼の剣は自然なれば、目を奪われないように注意する他ありません」
「相変わらず、意味がわからん。それでどう戦うのだ?」
ザイモンとファリスは並び、城の中へ入っていった。
『……だ、大丈夫でしたね』
物陰で身を硬くしながら、ふう、とミサは息を吐く。
<幻影擬態>と<秘匿魔力>を再び使って透明化すると、俺たちは門の前まで歩いていった。
城の様子をざっと見回す。
『ふむ。門の中から先は隅々まで監視の魔眼が行き届いているな。庭にいる蟻一匹の動向さえ把握できるだろう』
ずいぶんと厳重なことだ。
それだけ、カルティナスには敵が多いということか。
『……どうしましょうか? どこにでも魔眼があるんでしたら、魔法が切れた瞬間に見られちゃいますよね……』
『お前を連れてきた甲斐があったというわけだ』
一瞬首をかしげ、すぐにミサがはっと気がついたような顔になった。
『もしかして、精霊魔法……ですか? えと、ジェンヌルの……』
『常に魔眼があるのなら、好都合だ』
彼女はこくりとうなずき、手を頭上に掲げる。
ミサの身を暗黒が包み込んだかと思えば、細い指先がその闇を払った。いつもと違い、雷が走らぬのは、音を立てぬようにしているからだろう。
檳榔子黒のドレスを纏い、背には六枚の精霊の羽が現れる。
長く延びた髪を優雅にかきあげ、彼女は<秘匿魔力>を使いながら全員に魔法陣を描いた。
『<悪戯神隠>』
俺たちの胸に、二枚の輝く羽根が現れ、ぴたりとくっついた。
一枚は妖精の羽根、もう一枚は隠狼の羽根だ。
『ジェンヌルとティティの力を融合させましたわ。これでどんな狭い場所でも通ることができますの』
精霊魔法と精霊魔法の融合。<精霊達ノ軍勢>の簡易版といったところか。
『レノに似てきましたね』
『お父様。このようなときに言う言葉ではありませんわ』
そう言いながらも、ミサは嬉しそうだ。
『魔眼だけで感知しているとは限らぬ。お前の<悪戯神隠>と俺の隠蔽魔法を併用して進む』
偽の魔王の力を持つミサだけでもそれは可能だが、役割を一つに絞った方が精度も上がる。
『行くぞ』
門へ向かって、俺は足を踏み出した。
体は霧に変わり、門の鉄柵をすり抜けるように内側に入った。
魔眼の視界に入った途端、ジェンヌルの力が発揮され、俺たちの存在は知覚できない神隠しの精霊と同等に変わった。
『……<悪戯神隠>にも制限時間がありそうですわ……』
『あまり長居はせぬ方がよさそうだな』
庭園をまっすぐ進み、城の扉の前に立つ。
シンに目配せすれば、彼はうなずいた。
付近に気配は感じられぬということだ。
バランディアスの拠点だけあって、こちらの魔眼は視界が悪いな。
手探りで進むしかあるまい。
扉の僅かな隙間を霧の体ですり抜け、中に入る。
視界に入ってきたのは、広大なエントランスだ。
奥には階段、それから別々の方向へ続く通路が見える。
『上だ』
『おわかりになりますの?』
『あいつは見晴らしの良い場所を好むものでな』
ファリスがどこへ向かったか、どのみち手がかりはない。
虱潰しに捜すしかなければ、かつての趣向を頼りにした方がマシだろう。
俺たちは階段を上り、慎重に最上階を目指した。
しばらく進むと、足音が聞こえてきた。数人いる。
「城主を全員集めろ。明日、ミリティア世界の魔王学院と銀水序列戦が決まった」
「まだ字のない小世界ですか……なにか特徴は?」
「わからん。しかし、オットルルーが確認したところ、できそこないの小世界で、殆ど泡沫世界だとか。元首のアノスという男は、不適合者。恐らく、他の者も不適合者だと思われる」
階段を下りてきたのは、虎城学院の制服を纏った者たちだ。
「……泡沫世界で不適合者? それはまたなんというか……ずいぶん雑魚のようで……」
「うんざりするほどにな」
「確実に倒せる敵のみと戦うのが定石……。とはいえ、銀水序列戦は戦とは違う。これでは、バランディアスの城主は皆腑抜け揃いと言われても否定はできん」
城魔族たちは、口々に不平を漏らす。
「いつ何時、外界から脅威が来るか知れん。今は領海に敵なしと不動王は、髙をくくっているのではないか。むしろ、今の内に深層世界との銀水序列戦を増やす機会だろうに!」
「進言しても無駄ぞ。所詮、政略だけでのし上がった元首。重い腰を上げるはずもない」
「まさに不動王というわけか」
「おい。滅多なことを言うな。首が飛ぶぞ。一族郎党な」
「貴殿とて気持ちは同じであろう。機を待つのも限度というものがある」
「落ちつけと言っている! あの日、我らが希望を託した翼は必ずバランディアスの空を飛ぶ。信じるのだ」
ふむ。どうやら不動王は、あまりよい王ではなさそうだな。
上に立つ者は嫌われるのが宿命、俺とて暴虐と恐れられた。とはいえ、戦場で肩を並べる連中までこれでは、長くはあるまい。
「幽玄樹海を調査中の者はいかがなさいましょう?」
「なにか判明したか?」
「いえ。各学院ともに調査の手を伸ばしているようですが、まだ誰もつかめていない様子です」
「あの深き森が一瞬で消え去るなど尋常ではない。それも復元できないほどの損傷を負わせるとは……。長らく沈黙をたもっていたと思えば、二律僭主の奴、ずいぶんと派手に動いてきた。ねぐらの森をあえて丸裸にし、いったいなにを企んでいる……?」
「一つだけ気になることが」
「どうした?」
「聖剣世界ハイフォリア。狩猟義塾院だけは、幽玄樹海の荒れ地を観測している気配がありません。すでに、なにかつかんでいるのかも……」
「なるほど。先を越されるわけにはいかんな。二律僭主に比べれば、魔王学院の不適合者どもとの銀水序列戦など些事だ。引き続き、調査を続けさせろ。ただし、くれぐれも深い追いするな。相手は、不可侵領海だということを肝に銘じろ」
「は!」
存在が消えている俺たちとすれ違い、虎城学院の者どもは去っていく。
樹海はただ滅びただけだというに、ご苦労なことだ。
まあ、ロンクルスとの約束もある。
なにかあったと思っているのなら都合がいいやもしれぬ。
近い内に、二律僭主として一暴れする手もあるな。
『行くぞ』
再び階段を上っていき、五階にさしかかる。
目の前に真っ白な扉があった。
他の階とは少々雰囲気が違い、壁はすべて真っ白だ。
『……ここだけ毛色が違いますわ……』
『見ておくか』
ミサが霧の手を扉に伸ばそうとする。
瞬間、二律剣が震えた。
『待て――』
彼女が振り向く。
『――神の魔力だ』
滅紫に染まった魔眼で、扉を睨む。
部屋全体に、神族の魔力を感じる。
ここまで近づかねば見通せぬほどだ。エクエスのものに近いな。
『ここを守っている神がいる。入れば気がつかれるやもしれぬ』
『<悪戯神隠>を使っていてもだめそうですの?』
『敵の城だ。そう考えておいた方がよい』
『あら、それは困りましたわね。どのみち、行かなければなにもつかめませんわ』
すると、シンが静かに天井を見上げた。
『ふむ。そうだな。部屋の中にさえ入らなければ、気がつくまでに時間も稼げよう』
『承知しましたわ』
ミサは地面をそっと蹴り、天井の僅かな隙間に霧化して入っていった。
彼女の魔法に導かれるように、俺たちもその後へ続く。
天井裏を霧となって漂いながら、進んでいき、また僅かな隙間を見つける。
そこに、魔眼を凝らした。
内部は白を基調とした部屋だ。
壁には五つの絵画がかけられている。どれも城を描いたものだ。
穏やかで、美しく、愛に溢れている。
まるで絵描きの魂が込められたかの如く、強大な魔力がそこに封じられていた。
だが、それは神のものではない。
絵画がある他にはなにもなく、神族の姿は見えなかった。
『絵が飾られているだけですの?』
『……そのようだな』
だが、神族はここにいる。
恐らくは、バランディアスの主神だ。部屋に入れば、すぐにでも姿を現すだろう。
あの絵画を守っているようにも見えるが、主神自らそこまでする価値があるのか?
と、そのとき、部屋の扉が開く音がする。
足音が響いた。次第に近づいてくる。
入ってきたのは、ファリスだ。
彼はまっすぐ五つの絵画が飾られた場所へ歩いていく。
絵画付近の空間が歪み、そこに強大な魔力が集う。
光とともに姿を現したのは、白金の体毛を持つ、一匹の巨大な虎だ。
その神眼が光り、ファリスを見据える
「ご機嫌麗しく、バランディアスが主神、王虎メイティレン様」
「また絵を観にきおったか?」
「はい」
「好きものよなぁ」
王虎はそう言うと、くつろぐようにそこで丸くなった。
慣れているのか、主神を気づかうことなく、ファリスは五枚の絵を見ている。
「そんなに絵が欲しければ、妾の誓約に応じればよい」
「柄ではありませんよ、元首など」
「なにを言う? 妾はバランディアスの意思、この神眼の選定に狂いはない。主の創造魔法は、銀城世界に愛されている。ファリス。主が元首になれば、バランディアスに揺るがすことのできぬ城が建つだろう。張り子の城などではない、真の不動城が」
王虎は、ファリスを褒め称えるように熱弁を振るう。
「機は熟しておりません。大きく強大な城を建てるには、揺るぎない基礎が必要でしょう。今のバランディアスにはそれがない。民を導く、強き光が」
「それが主じゃろう。元首ファリスの誕生により、バランディアスはますます栄える。主は好きなだけその絵を眺めればよい」
「器ではありませんよ。王とはおぞましくも美しい存在。清濁、矛盾を併せ呑み、それでも笑みを浮かべ、ひたすらに前へと進む人物。私はバランディアスに、王の器を持つ者が生まれる日を待っております」
ファリスの言葉に、しかし王虎は緩やかに首を動かすばかりだ。
「ないものねだりじゃのぉ。バランディアス誕生より、元首の首など幾度となくすり替わったわ。しかし、主より相応しい者は見たことがない。ファリス。主は強く、美しい。バランディアスにそびえる銀城そのものじゃ。妾が求め、待ちに待った翼じゃ」
それを否定するように、ファリスはそっと瞳を閉じた。
「美しくなどありません。私は」
「……わからん奴よなぁ。妾の選定を拒否するなど聞いたこともないわ。そうでなければ、カルティナスなんぞに良いように使われずに済むものを。主さえその気なら、バランディアスも、とっくに聖上六学院に入っていただろうに。いっそ、妾があやつに言ってやろうか?」
ファリスは真顔で、主神を見返す。
「メイティレン様。わかっていると思いますが、くれぐれも不動王には」
「ああ、わかっておる、わかっておる。言ってみただけじゃ。あやつは嫉妬深いからの。主の首が飛びかねんわい」
メイティレンはその場で猫のように丸くなった。
ファリスは、再び視線を五枚の絵画に向けた。
「主はなにが気にいらんのじゃ? なんでもやるというておろうに。あらゆる羨望が、あらゆる誉れが主のものとなる。絵も城も金銀財宝も、バランディアスのすべてが主のものじゃ。誰もが元首ファリスの美しさに見惚れ、そして笑みを浮かべるのじゃ。こんな素晴らしいことは他になかろうて?」
ファリスは答えず、ただ絵を見ている。
「まただんまりかの」
静寂が続いた。
メイティレンが諦め、目を閉じた頃、彼はそっと呟いた。
「美しくありませんね、それは」
主神を拒み、彼は絵画を見つめ続ける――




