深淵のその底へと
砂塵が舞い、蜃気楼の井戸が崩落していく。
火露を奪われ、枯焉砂漠が終わりを迎えようとする中、ヴェイドはニヤリと生意気な笑みを浮かべた。
「外れだぜ、不適合者のオジサン。オレは使いっ走りでも、飼い犬でもないからな」
すっと、ヴェイドは手の平をかざし、目の前に魔法陣を描く。
火露を吸収した体からは、神族をも超えるほどの強大な魔力が発せられた。
「この世界に君臨する、適合者ヴェイド様だ!」
暴風が纏うは雷雨と雪。<淘汰暴風雷雪雨>が吹き荒び、まっすぐ俺へ向かった。
それを迎え撃つべく、俺が魔眼に魔法陣が浮かべたそのとき、雷の如く激しい笛の音が鳴り響いた。
「空は移り気、心模様」
雷鳴が響き渡り、<淘汰暴風雷雪雨>を蒼い稲妻が迎え撃つ。
「歌おう。詠おう。ああ、謡おう。それはそれは風のように、ときに晴天の霹靂のように。転変神笛イディードロエンド」
転変神ギェテナロスがその権能にて笛の音を稲妻に変え、淘汰の暴嵐を阻んでいる。
蒼い稲妻と荒れ狂う嵐の衝突は、ジジジジジッとけたたましい音を響かせながら、崩れかけていた井戸を、更に砂塵へ変えていく。
「ちゃっちぃ雷。そんなんで勝てるつもりかよ?」
ヴェイドがぐっと虚空をつかむように魔力を込めれば、暴嵐が更に勢いを増し、蒼い稲妻を飲み込んでいく。
「ハッハーッ! スゲェだろ! このヴェイド様が淘汰すっぞっ、雑魚が!」
「転変した根源は、やがて生誕を迎えます――」
穏やかな声が響く。
「――その始まりの一滴が、やがて池となり、母なる海となるでしょう。優しい我が子、起きてちょうだい。生誕命盾アヴロヘリアン」
生誕神ウェンゼルは、紺碧の盾を掲げる。
淡い光が、ギェテナロスの放った稲妻を包み込んだかと思えば、それが巨人の姿へと変わっていく。
雷巨人は向かってくる<淘汰暴風雷雪雨>をその両腕で押さえ込んだ。
「力比べか? 木偶の坊に負けるかってのっ!」
ヴェイドが片手を勢いよく突き出せば、暴嵐がますます荒れ狂い、雷巨人を暴雪にて凍らせ、暴風にて切り裂いていく。
そうしながらも、奴の視線は絶えず俺を警戒していた。
「生誕後、根源は更なる深化を遂げる――」
手にした杖に、黙祷を捧げるように深化神ディルフレッドは言う。
「螺旋の森に旅人ぞ知る……この葉は深き迷いと浅き悟り……。底知れぬ、底知れぬ、貴君は未だ底知れぬ。螺旋の旅人永久に、沈みゆくは思考の果てか。ついぞ及ばぬ、迷宮然り。深化考杖ボストゥム」
雷巨人の左胸に、赤い木の葉が出現する。
それが心臓を模したか、巨人の隅々にまで赤い魔力を送り込む。
遙かに深化した巨人が、<淘汰暴風雷雪雨>をぐっとわしづかみにして、猛然と押し返した。
「螺旋穿つは、深淵の棘」
ディルフレッドが静かに言う。
彼が放った深淵草棘が、<永劫死殺闇棺>に突き刺さっていた。
まさに針の穴に通すが如く、術式の急所を正確に穿ち、崩れ落ちるかのように闇の棺がバラバラと分解された。
中から飛び出した終焉神アナヘムが、ヴェイドに迫る。
振り下ろされた枯焉刀グゼラミにヴェイドは右手を貫かせて、アナヘムの手をつかみ、封じた。
「魔王アノス」
ディルフレッドが言った。
「このホロの子は、私たち樹理四神が押さえる。貴君は火露を奪う元凶のもとへ。貴君に頼むのは筋違いではあるが……されど、懇願しよう。どうか、このダ・ク・カダーテを、秩序を守って欲しい」
深化考杖を手に、<深奥の神眼>を浮かべながら、深化神ディルフレッドは言った。
「……私には見えなかった深淵の底が、貴君には見えたのだろう……」
ディルフレッドにも、大凡のことがわかったのだろう。
神族である彼には、決してそこに辿り着けぬということも。
「ふむ。こいつの相手はお前たちの手に余るかもしれぬぞ」
「抜かせ、不適合者めが。このアナヘムに滅びはない。逆に終焉に没してくれるわ」
行け、と言わんばかりにアナヘムは砂塵のような魔力を全身に纏わせ、ヴェイドに枯焉刀を突きつけていく。
「不適合者のキミに頼むっていうのは癪な話さ? だけど、どうやら、今はそんなことに構ってる場合じゃなさそうだからねー」
ギェテナロスの周囲に、翠緑の風が集う。
彼は神の笛を口元に運び、風を注ぎ込むようにしながら、それを吹き鳴らした。
瞬間、雷巨人から赤と蒼の雷が放出され、崩れかけていた井戸が完全に崩落した。
砂塵が舞い散る空間に、俺たちは身を投げ出される。
「行ってください、魔王アノス。このダ・ク・カダーテが滅びる前に!」
ウェンゼルが叫んだ。
「この一件が落着したならば、お前たちとの決着をつけねばならぬ」
全身から魔力を放出し、<飛行>の魔法陣を描きながら、俺は言った。
「一つ約束せよ。人と神の今後について、議論を戦わせると」
「承伏した」
生真面目な顔で、ディルフレッドがそう答える。
「行くぞ」
サーシャたちに声をかけ、<飛行>の魔法陣に魔力を込める。
その最中、ミーシャは生誕神の方を向いた。
「ウェンゼル」
ミーシャの声に、彼女は優しい表情で応じる。
「ミリティア。ようやく、わたくしたち樹理四神は、あなたとともに」
こくりとミーシャはうなずいた。
「生きて」
「――なあ、オジサンたち」
ヴェイドがきょとんとした顔を浮かべ、魔法陣を軽く握り締める。
「さっきからなに言ってるんだ?」
<淘汰暴風雷雪雨>が激しく渦巻き、雷巨人を軽く捻るように弾き飛ばした。
「オラよっとっ!」
アナヘムを足蹴にして、ヴェイドは飛び退く。
「逃さん――」
「バーカッ! 後ろ見ろよ」
すっ飛んできたその雷巨人がアナヘムを背後から襲い、押し潰した。
「ハッハーッ! 逃げられると思ってんのか? 適合者のヴェイド様だぜっ!」
<飛行>にて、奴はまっすぐ俺のもとへ飛び込んでくる。
不気味な声が辺りに響いた。
グゼラミの鳴き声が。
「あがけどもあがけども、うぬらが築くは砂上の楼閣」
音が反響し、砂塵がヴェイドの周囲に渦巻く。
俺と奴を隔てるように、いくつもの砂の塔がそこに出現していた。
「深化した根源は、終焉に没す。グゼラミの一鳴きに、すべては崩れ、枯れ落ちる」
枯焉刀グゼラミが雷巨人を突き刺していた。
転変から生誕、生誕から深化、そして終焉に至るとばかりに、循環するその力を、アナヘムは束ね上げる。
その炎刃が塔に見紛うほど巨大化し、煌々と燃え盛っていた。
「砂上の楼閣崩れゆき、グゼラミ鳴くは、終焉の跡」
詠うように、アナヘムが言う。
「たとえ、擦り傷一つとて、抵抗空しく幕ぞ引け」
不気味な鳴き声が響き、激しく砂の楼閣が揺れる。
「埋没枯焉――終刀グゼラミ」
巨大化したグゼラミが、ヴェイドを閉じ込めた塔に振り下ろされる。
終焉を彷彿するが如く、砂上の楼閣が砂に変わって崩れゆく。
「行けいっ!」
魔力を蓄えた<飛行>を発動し、俺たちは光の矢の如く上昇した。
崩落する砂を逆行し、砂塵の天井を突き破って井戸を抜ければ、そこは変わり果てた枯焉砂漠だった。
大地には無数の亀裂が入り、割れている。
底が見えぬほど穴は深く、砂が滝のように流れ落ちる。
穴はどんどん広がっており、こうしている間にも、新たな亀裂が増えていた。
火露を失い、秩序を失い、枯焉砂漠が、終わりを迎えようとしているのだ。
「ふむ。またずいぶんと手酷くやられたものだ。ダ・ク・カダーテは秩序の根幹。ここが滅べば、神々の蒼穹もどうなるかわからぬな」
「って、そんな悠長に言ってる場合っ!? 世界の滅びの元凶があるのはわかったけど、それがどこにあるのか探さなきゃいけないんでしょっ?」
サーシャが慌てたように言う。
ミーシャはその魔眼で、枯焉砂漠を見つめていた。
「時間がない」
「なに、考えればわかることだ。お前は言ったな、世界の魔力総量が減り続けている、と」
枯焉砂漠を飛びながら、俺は言う。
隣でミーシャがこくりとうなずいた。
「破壊と創造の秩序は等しい。にもかかわらず、破壊された分だけ、創造されぬというのなら、どこかで魔力が奪われている可能性がある。このダ・ク・カダーテの秩序に言い替えれば、火露がな」
視線を巡らし、俺は砂丘にあるものを見つけた。
木々が映し出された蜃気楼である。
ディルフレッドの神域、深層森羅への入り口だ。
青々としていた火露の葉や大きな木々が、今にも枯れようとしていた。
その神域もまた、終わろうとしているのだろう。
俺はかろうじて残っていた足場に降り立った。
「はじまりの日より、火露は奪われ続けてきた。樹理四神も創造神ミリティアも、火露が減っていることに気がつかなかった。それは神族が秩序であるがゆえの盲点だ」
蜃気楼の前に立ち、俺は滅紫に染まった魔眼でその深淵を覗く。
「生命は生誕し、深化していき、やがて終焉に至り、転変を迎える。神族に悟られず、魔力を奪うならいつだ?」
ぱちぱちとミーシャは瞬きをして、サーシャは考え込むように視線を険しくした。
生誕、深化、終焉、転変、そのいずれのときに魔力を奪おうと、それぞれを司る樹理四神が気がつかぬはずもない。
どう考えても、魔力が減れば帳尻が合わぬ。
だが――
「ダ・ク・カダーテには、樹理四神の神眼が及ばぬ領域がある」
一歩足を踏み出し、俺は蜃気楼に手を入れた。
「灯滅せんとして光を増し、その光をもちて灯滅を克す」
あっ……とサーシャが口を開いた。
「滅びへ近づく根源は、魔力を増すからっ……?」
俺はうなずく。
「どれだけ魔力が増えるのか、滅びゆく当人には知る由もない。滅ぶ前に増大したその魔力を、僅かに奪っているのだ。無論、その場でなにが起こるわけでもあるまい。しかし、本来奪われるはずのない魔力を奪われれば、いつかどこかでそれが足りなくなり、消える」
生誕の際、深化の際、終焉、あるいは転変の際、そこで生じていたほんの少しの狂いが、巡り巡っていつの日にか、一つの滅びをもたらすのだろう。
ゆえに、破壊と創造は釣り合わない。
「この蜃気楼の向こう側に、狭間があるとディルフレッドは言った。深層森羅でも、枯焉砂漠でもない境が。だが正しくは、深層森羅であり、枯焉砂漠だ」
深化の果てに、終焉がある。
どこまでが深化で、どこからが終焉なのか。
恐らく、深化と終焉は重なり合っているのだ。
深化であり、かつ終焉なのだ。深化の先であるゆえに、魔力が途方もなく増大し、終焉の始まりであるゆえに脆く滅びやすい。
深化の果てを見ることのできる神族は、深化神ディルフレッドのみだろう。
しかし、自らの秩序に反する終焉であるがゆえに、その狭間に彼の神眼は届かない。
そして、終焉神アナヘムは、深化の底を見つめる神眼を持たない。
「火露を奪っていた者はこの盲点を利用していた。いや、恐らくは最初から、世界に仕組まれていたのだろうな」
俺は蜃気楼に飛び込んだ。
ミーシャもサーシャも後に続く。
一瞬にも満たないほどの僅かな猶予。
灯滅せんとして光を増し、その光をもちて灯滅を克す。
その瞬間をこれまで幾度となく見た俺の魔眼ならば、神界の深淵、このダ・ク・カダーテの更に底が、見えるはずだ。
恐らくは、ミーシャとサーシャにも。
刹那、僅かな光を捉え、俺はそこへ手を伸ばした。
俺の体は目映い輝きに包まれ、そして、景色がぱっと変わった。
空だ。
果てしなく雲海が広がっている。
俺たちの体は落下していた。
「ここって……?」
「樹理廻庭園の深淵の底?」
サーシャとミーシャが言う。
空には、大量の火露が蛍のように舞い、俺たちと同じように落ちていた。
「そのようだな」
眼下に視線を向ける。
神殿が無数に、所狭しと建ち並んでいる。
奥には一際巨大な三角錐の神殿があり、そこに門があった。
門は開かれており、蛍のような火露の光が次々と奥へ吸い込まれていく。
魔眼を懲らせば、門の向こう側に魔王城デルゾゲードと神代の学府エーベラストアンゼッタが鎮座しているのが見えた。
更にその彼方では、<破滅の太陽>サージエルドナーヴェと<創造の月>アーティエルトノアが重なり合っている。
日蝕を起こしているのだ。
「見つけたぞ、ミリティア、アベルニユー」
かつて神だった二人に俺は言った。
「ここが世界の瑕疵だ」
辿り着いた――




