隠狼ジェンヌルの試練
レイは台座から飛び降りて、ミサに手を伸ばす。
彼女はその手を取り、レイの胸に飛び込むようにして、台座から下りた。
「これを上れば、いいのかな?」
レイは円形の部屋の中央に生えた大木を見上げる。
ちょうど手足を引っかけて上れるように、一定間隔に枝が生えている。
「うん。そこを上れば、すぐ天辺だと思うよ」
リィナの言葉を<思念通信>で伝える。
「じゃ、この先に精霊王がいるんですね」
ミサが言った。
「精霊王についてだが、一つ厄介な可能性がある」
そう俺は伝えた。
「なんだい?」
「魔剣大会でメルヘイスの<次元牢獄>に力尽くで入ってきた仮面の男がいるが、そいつが精霊王だ」
「……アノスが言っていた、アヴォス・ディルヘヴィアの仮面をつけた男かい?」
「ああ。もっとも、あちらの仮面は魔力を完全に隠すための魔法具だ。お前が持っていたものとは、少々意匠が違っていた」
レイはしばし考えた後に、言葉を発する。
「なにが目的なんだろうね?」
俺と同じ疑問を覚えたのだろう。
レイにも思い当たる節はないようだ。
「まだわからぬ。だが、魔剣大会のときにお前を脅していたのはその仮面の男の可能性があるだろう」
ふっ、とレイは小さく息を吐く。
「……ぜんぶ、終わったと思ったんだけどね」
アヴォス・ディルヘヴィアの件はすべて片がついた。
世界はこれで平和になったと俺もレイも、確かにそう思っていた。
だが、胸騒ぎがする。
「先に行ってもいいかな?」
「俺が行くまで待てと行っても聞かぬのだろう」
レイは爽やかに微笑む。
そういう男だ。
「まだ終わっていないのなら、終わらせてくるよ。今度こそ、この手でね」
状況からして、神隠しにあった俺の配下がいつまでも無事とは限らぬ。
今の段階ですでに無事ではない可能性さえあるのだからな。
精霊王が何者か、その目的を一刻も早く確かめるべきだろう。
もしも、この時代の平和を壊そうとしているのなら、捨ておくことはできぬ。
「まあ、お前ならば心配あるまい。俺もすぐに向かおう」
「アノスの力を借りなきゃいけない事態なんて、想像したくもないけれどね」
霊神人剣と一意剣、そして七つの根源を持つレイが手に追えぬ相手などそうそういまい。精霊王がもしそれほどの敵だとすれば、胸騒ぎどころではないだろう。
とはいえ、ここはアハルトヘルンで相手は精霊たちの王だ。
これまでの試練の傾向からいっても、真っ当な勝負になるとは考えがたい。
レイが精霊王に優っていたとしても、油断はできぬ。
「ミサ」
レイが彼女の体にすっと手を伸ばす。
「えっ、あ、きゃっ……」
あっという間に彼女を抱き抱え、レイは微笑む。
「ごめんね。こっちの方が早いから」
そう言うや否や、レイは跳躍し、ミサを抱えたまま次々と枝から枝へ飛び移り、みるみる大木を上っていく。
<遠隔透視>でその様子を見ながらも、俺も先へ進むことにした。
ジステとは俺と共闘していることが精霊王に知られぬように、花畑で別れた。
元の見えない階段に戻り、リィナと二人で上っていく。
途中にいくつかの試練があったが、リィナの記憶と俺の魔眼がその深淵を看破し、難なく突破した。
なおも天辺を目指す途中、リィナが声を上げた。
「アノス、見て」
彼女が<遠隔透視>を指さす。
ちょうどレイが大木を上り終えたところだった。
その場所は、雲の中だ。
真っ白な雲が床となり、壁となり、天井となって、広大な部屋を形作っている。
レイは視線を巡らせ、奧に続く両開きの扉を見つけた。
そこへ歩を進ませようとして、しかし、彼は立ち止まった。
気配がしたのだろう。
レイが一意剣を抜いた瞬間、辺りの雲の色が黒く染まり始めた。
次の瞬間、目の前が目映く光り、ズガァァァンとけたたましい雷鳴が響いた。
無数の雷に照らされ、その場に姿を現したのは、巨大な狼である。
「隠狼ジェンヌル……」
ミサが呟く。本の森で学習したため、その姿は知っている。
二千年前の魔族たちを神隠しにあわせた、精霊王の番犬である。
ジェンヌルは口を開き、ひび割れた声を発した。
「――通るがよい――」
一瞬、レイとミサは虚を突かれたような反応を見せる。
「なにか試練があると思ったんだけど?」
「――この間にて試練は課さぬ。通るがよい――」
ジェンヌルはのっそりと起き上がり、道を空けるように、扉の前からどいた。
ギィ、と音を立てて、両開きの扉がひとりでに開いていく。
その先は大樹の天辺になっているのか、生い茂った木の葉と、雲の回廊が続いていた。
「離れないように」
レイはミサにそう言うと、慎重に歩いていく。
ジェンヌルの横を通りすぎ、二人は雲の回廊に足を踏み出す。
再び、ギィと音を立て、両開きの扉が閉まった。
ジェンヌルは襲ってくることも、試練を出すこともなかった。
「……なにかあるのかと思っちゃいましたね?」
ほっとしたようにミサは言う。
だが、レイは浮かない表情を浮かべていた。
「精霊王も僕たちに敵意があるわけじゃなく、ただの精霊なら一番いいんだけどね。あの魔剣大会でのことも、なにか差し迫った事情があったんなら……」
「その可能性は、ないんでしょうか?」
「どうかな。あればいいとは思ってる」
そんな言葉を交わしながら、二人は雲の回廊を歩いていく。
どのぐらい経ったか、彼らは雲の切れ目に辿り着いた。
そこから下を覗けば、地上があった。
その雲の切れ目の向こう側に緑豊かな地面が浮かんでおり、そこに小さな城が見えた。
レイとミサは<飛行>で飛び、その城へ向かう。
だが、前へ進んでも進んでも、城は一向に近づいてこない。
「あ……」
と、リィナが声を上げる。
「思い出した。雲の切れ目のぎりぎりに立って、待ってればいいはずだよ」
<思念通信>で送られたその言葉を聞き、二人は雲の回廊に下りる。そして、城を見ながら、ぎりぎりの場所に立ち、じっと待った。
すると、雲の足場が少しずつ、橋をかけるように、城に向かって伸びていく。
レイとミサはその雲の橋の上を、ゆっくりと歩いていった。
しばらくして、彼らは城の前に辿り着く。
レイは扉の前に立ち、その手を触れる。
「開けるよ」
「はい」
扉を押すと、簡単に開いた。
中は薄暗い。殆どの窓が塞がっており、明かりは太陽の光が僅かに差し込むばかりである。
レイとミサは城の中をまっすぐ歩いていく。
「よく、ここまで辿り着いたのう」
エニユニエンの大樹の声が城の中に響き渡った。
「精霊の試練を突破した褒美に、精霊王様へのお目通りを許可してしんぜよう」
窓の一部が開放され、ぱっと太陽の光が差し込んでくる。
照らし出されたのは木で作られた玉座である。
そこに漆黒の鎧を身に纏い、仮面をつけた一人の男が座っていた。
その男はゆっくりと両手を開き、レイたちを褒め称えるかのように拍手をした。
精霊王は立ち上がり、数歩前へ歩く。
「精霊王にお訪ねしたい」
レイが堂々と声を発する。
「あなたは、魔王に仇なす者か?」
精霊王は言葉を発さず、代わりに答えたのはエニユニエンである。
「精霊王様と言葉を交わしたければ、試練に挑戦するしかないのう」
レイはぐっと奥歯を噛み、それから尋ねた。
「……試練の内容は?」
「精霊王様と戦い、仮面を割ることができれば、試練には合格じゃ。ただし、魔剣や聖剣、魔法具を使うことは禁止されておる。使えるのは己の肉体と、精霊のみじゃて」
キラキラと光が集まり、周囲には十数本の剣が刺さっていた。
「精霊王様は精霊を統べる御方。アハルトヘルンの全精霊が味方じゃ。仮面を割るだけとはいえ、並の者では到底成し遂げられることではないからのう。敗北を宣言すれば、そこで試練は終わりじゃて」
「そこにある剣は使っていいのかい?」
「すべて精霊じゃ。使っても問題はないのう。お主に扱えるならば、の話じゃが」
剣としての噂や伝承を持つ精霊は、レイの母のように半霊半魔でもなければ、魔剣や聖剣とさほど変わらない。持ち主は選べども、喋るということはない。
精霊王の前と言えども、レイが手にすれば、使いこなせるはずだ。
レイは涼しげに笑い、一歩前へ出る。
「試練を受けるよ」
「よかろう。では、これより精霊王の試練の始まりじゃて」
***
そこで、俺はふと自分の視界に注意を向けた。
雲の中だ。真っ白な雲が床となり、壁となり、天井となって、広大な部屋を形作っている。
俺が上ってきた場所の反対側に、一人の魔族がいた。
顔半分を覆う眼帯をつけた男、冥王イージェスである。
「つくづく縁というものよ」
イージェスが言う。
次の瞬間、辺りの雲の色が黒く染まり始めた。
雷鳴が轟き、無数の雷を伴って、姿を現したのは、隠狼ジェンヌルである。
隠狼は大きくその顎を開き、ひび割れた声を発した。
「――ここを通りたくば、隠狼の試練を受けるがよい――」
妙なことだな。
「レイたちは素通りできたようだが?」
再びジェンヌルはひび割れた声を響かせる。
「――試練を受けねば、通ることは適わん――」
なるほど。
つまり、精霊王の狙いは、レイかミサ。
あるいは二人ともか?
でなければ、あの二人だけ試練を課さなかったのは不自然だ。
「隠狼の試練はどのようなものか?」
イージェスが鋭く声を発した。
「――我を捕まえてみよ。先に成し遂げた者、1名のみを通そう――」
生徒同士で競い合う試練か。
冥王がいなければ、通るのは容易かったのだがな。
と、そのとき、
――魔王アノス――
<思念通信>が聞こえた。
イージェスからだ。
奴はまったくそんな素振りは見せず、その隻眼をまっすぐ隠狼ジェンヌルに向けている。
<思念通信>を奴に返す。
『どうした?』
『共闘せぬか? 扉の先へはそなたが行くがいい』
『ほう。お前はどうする?』
『神隠しにあった余の配下を助ける。ついでにその他の者も解放しよう』
『ふむ。神隠しにあった連中を助ける方法はわかっているのか?』
『わかっておれば、そなたに共闘など持ちかけぬ』
『くくく。確かに、道理だな』
一瞬の間の後、冥王イージェスがまた思念を送る。
『答えを聞かせよ』
ニヤリ、と俺は笑い、口を開いた。
「いいだろう。時間が惜しい。さっさと試練を始めてくれるか、隠狼ジェンヌル」
少しずつ精霊王の狙いも見えてきました。




