狼が来た
166話
俺はその日の夜、なんとかスキー伯爵の屋敷を訪問した。
表向きの用事は、決闘で戦った相手へのお見舞いである。
礼節を重んじるヴァイト卿は、敗者への礼儀と気配りも忘れない。……ということにしておく。
伯爵は包帯でぐるぐる巻きにされて、ベッドでうめいていた。
傷は治っているが、顎の骨が歪んでいるし歯も再生できていない。神経が圧迫されて、当分の間は恐ろしく痛いだろう。
伯爵の治療を担当したのは、あまり腕の良い治療術師ではなかったようだ。あの程度の治療なら俺がやったほうがマシだ。
しかしあの治り方だと、元に戻すためにはもう一度顔面に全力パンチを打ち込む必要があるな。
俺は伯爵の名前をどうやって思いだそうかと悩みながら、従者のふりをしているラシィに声をかける。
「見舞いの品を」
「あっ、はいっ」
ラシィが見舞いの鉢植えを鮮血伯の側近に手渡す。エレオラの私邸にあったのをひとつもらってきた。
「どぞ、氷雪花の鉢植えです。鉢はマシューロフの陶器です、よろしく」
どっちも超高級品だが、よけいなことは言わなくていい。
俺はなるべく穏やかに側近に笑いかける。
「共に決闘を生き延びられた祝いも兼ねている。切り花より鉢植えのほうが、『末永く』眺めていただけるかと」
「おお……お心遣い、いたみいります」
こっちの世界には見舞いに鉢植えを贈ってはいけないという風習はないので、遠慮なく鉢植えを贈らせてもらう。
十年ぐらい寝込んでてくれ。
花言葉は「あなたに安らぎを」だそうだ。
側近とラシィが引っ込んだ痕、俺は伯爵に向き直った。
伯爵は包帯の隙間から、俺を憎悪の眼差しで見つめている。
だが彼は口元をひきつらせながらも、卑屈な笑みを漏らした。
「か、かたじけない、ヴァイト卿……。私も立場上、ああするしかなかったのだ……」
前歯がないせいで実際にはフガフガ喋っているのだが、何を言っているかはわかった。
一応、彼の言い分も半分は本当だというのはわかっている。
エレオラによると、王弟派の主流は北ロルムンドの領主たちだ。
帝都にいる宮爵たちは領地も兵もいないので、政治工作ぐらいしか活躍の機会がない。
だが領地も兵もいない貴族にできる政治工作など、たかがしれている。
王弟派の中でも微妙な連中なのだ。
彼らがエレオラ皇女や俺に大きな態度を取っていたのも、早い話が何もわからない下っ端だからにすぎない。宮廷の中の閉じた世界で完結している連中だ。
そんな有様だから領地がもらえないのだろうが、その馬鹿貴族たちをまとめていくのはそれなりに苦労があるだろう。
なんとかスキー伯爵は苦渋の表情を作ってみせて、わざとらしい溜息をつく。
「宮廷内の王弟派を束ね、無用な混乱を避けるためにも、あそこで私が退く訳にはいかなかったのだ……」
嘘ついてる汗の匂いがぷんぷんするぞ。
俺を騙す気なら、ユヒト司祭ぐらい平常心を保っていないと無理だ。
一応彼の言い分も聞いたが、俺を騙して逆襲しようという意図しか感じられない。
残念だが、彼とは分かり合えそうにもないな。
俺は周囲に誰もいないことを確認して、鮮血伯に近づく。
「貴殿の立場、よくわかった。では私もひとつ、面白いことを教えて差し上げよう」
「な、何かな?」
その瞬間、俺は笑いながら人狼に変身した。
俺は人狼の牙をむき出しにして鮮血伯を威嚇する。
もちろん包帯だらけの伯爵は悲鳴をあげた。
だが彼の声は誰にも聞こえない。俺が変身と同時に、自分の周囲に消音の魔法をかけたからだ。
それと前後して、俺の背後の壁に血文字が浮かび上がる。ベッドも床も血塗れだ。
消音の魔法を使うと俺もしゃべれなくなるので、ラシィに時限式の幻術を頼んでおいたのだ。
平面にスプラッタ風アートを施すぐらい、今の彼女には造作もない。
出かける前に見せてもらったときは、人狼の爪痕やおびただしい血糊など、おちゃめな飾りがいっぱいだったな。
肝心のメッセージはこうだ。
『人狼が何もかもを喰い尽くす』
本当はもう少し凝った文を考えていたのだが、あんまり長くなるとラシィが誤字をやらかすことに気づいたので簡略化した。
まあ脅迫できれば何でもいいんだ、何でも。
鮮血伯はベッドから飛び出そうとしたが、俺が人狼の怪力でがっちりと押さえつける。
そして俺は牙を剥き出しにして、鮮血伯に噛みつく仕草をした。
なんとかスキーが目を見開いて、音もなく絶叫する。
そして気絶した。
本日二度目だ。
俺は変身を解除する。今日はミラルディア南部風のゆったりとした民族衣装にしておいたので、服が破れずに済んだ。
壁の血文字は綺麗に消えている。ラシィの幻術は本当に完璧だな。
それから俺は伯爵のメイドを呼ぶ。
「伯爵はお休みになられるそうだ。やはりお疲れなのだろう。本日は失礼する」
「あ、ありがとうございます。玄関までお送りいたします」
「ありがとう」
俺は異国情緒を漂わせながら、にっこり笑う。
謎めいた異国の貴族っぽさが出ているだろうか。
玄関のあたりに着いたところで、上の階がなんだか騒がしくなっている。
人狼の聴覚に、会話が微かに聞こえてくる。
「化け物だ! 蛮族の化け物だ! 兵を集めろ! 陛下に、陛下に御報告せねばならん!」
「は、伯爵様!? お気を確かに!」
「放せ、馬鹿者どもめ! 壁だ、壁を見ろ! 壁に血が! 人狼が襲ってくるぞ!」
「壁!? いえ、何もありませんぞ、伯爵様!?」
「医者を! いやもうなんでもいい、男の使用人たちを呼べ! お前は伯爵様の足を押さえろ!」
狂乱状態のようだ。
後はあのなんとかスキーが騒ぎ立ててくれる。
「ミラルディアの人狼が人間になりすまして、エレオラ皇女と結託している」と。
だが残念なことに、物的証拠は何もない。俺は決闘相手をいたわって見舞いに来ただけだ。
そして俺は、宮廷魔術師たちから「ヴァイト卿は人間である」という公的な調査結果をもらっている。帝室公認だ。
ついでにいうと鮮血伯は今日、俺に決闘でボロ負けした。
エレオラ派以外で真実を知っているのは鮮血伯だけだ。きっと彼は死にものぐるいになって真実を訴えるだろう。
信じてもらえるといいな、えーと……なんとかスキー伯爵。
仕組んだ俺がいうのも変な話だが、決闘に負けた腹いせにしかみえないけど。
俺はラシィと一緒に外に出る。風がひんやりと心地よい。ロルムンドの短い夏が終わろうとしていた。
外では護衛のファーンお姉ちゃんとジェリクが、顔を見合わせてクスクス笑っていた。屋敷の騒動を聞いていたらしい。
俺はみんなの顔を見回して、大きく背伸びをする。
「ラシィ、お疲れさま。みんな、帰りに何か食べていくか?」
「おっ、話がわかるな大将。そりゃ肉だろ、肉。脂のしたたる焼き肉が一番だ」
「私は魚のパイが食べたいなあ。あと揚げた芋!」
人狼たちがわいわい言っていると、ラシィが目を白黒させる。
「えっ、でもさっき夕飯食べたばっかりですよ?」
「それはそれ、これはこれさ。なあ大将?」
ジェリクがウィンクするので、俺はうなずいた。
「そういうことだ。明日からまた忙しくなるぞ。しっかり食おう」
「おー!」
ラシィだけが頭を抱えている。
「ううっ。魔王軍に入ってから、私のおなかがどんどんプニプニになってく……」
「いいことじゃないか。しっかり食べろ」
「やだー!」




