⑧ 辺境令嬢は退屈を嫌う (ロザリンデ視点)
ロザリンデは、婚約というものにあまり興味がなかった。
好きか嫌いかで言えば、どちらでもない。
ただ「そういうものも人生にはあるらしい」と、運命の一種のように受け止めているだけだった。
辺境伯家の長女として生まれた以上、いつか誰かのもとへ嫁ぐことになるのは分かっている。
領地と領地を繋ぐ架け橋のような役目を期待されているのも理解している。
でも、それと「自分の感情」はどうも結びつかなかった。
ロザリンデ本人が今いちばん興味を持っているのは、婚約者候補ではなく、自領に伝わる古い地図と、城壁の外で見つけた小さな薬草と、夜になるとよく見える星座だった。
(……どれも婚約の役には立たなさそうですわね)
そう思いながら、今日もロザリンデは王都の屋敷の窓辺に腰掛けていた。
春の大舞踏会のために、辺境から呼び戻されて数日が経つ。
王都の空は、辺境よりずっと明るい。
夜でも灯りが多くて、星はかなり見えづらい。
その代わり、人の数だけ噂話があるのだと、ここに来てようやく知った。
「お嬢様、王都はお気に召しませんか?」
背後から侍女が様子をうかがう。
「いえ、嫌いではありません。星は見えませんけれど、そのぶん人の顔がよく見えますから」
「は、はあ……?」
侍女は困ったように笑った。
慣れていない者には、ロザリンデの言葉はときどき意味が分からないらしい。
窓の下には、春の大舞踏会に備えて行き交う馬車が見えた。
飾り立てた紋章旗、磨き上げられた車輪。
どの家の者も、今夜から始まる一週間の社交を前にそわそわしている。
(皆さま、本当にお好きですわね。踊ったり、笑ったり、噂したり)
ロザリンデはそこまで熱心にはなれなかった。
けれど、まったく無関心というわけでもない。
大勢の人が集まる場所には、それだけ出来事も集まる。
何か面白いものが見られるかもしれない、という程度には期待していた。
レオンハートと初めて会ったのも、別の夜会の場だった。
周囲の令嬢たちの評価はやけに高かった。
「優雅」「紳士的」「お話がお上手」「笑顔が素敵」。
聞けば聞くほど、どこにでもいる貴公子のように思えた。
実際に話してみると、評判通りに愛想がよくて、こちらの返答にもよく笑った。
ロザリンデが少し変わった感想を述べても、戸惑うことなく器用に合わせてくる。
(器用なお方ですわね。……そういう器用さは、あまり信用してはいけない種類のものですけれど)
それが、彼に抱いた最初の印象だった。彼女はこの時点では、既に彼が浮気するのではないかという察しは大方ついていた。
とはいえ、特別強い嫌悪を抱いたわけでもない。
不真面目であればそれはそれで分かりやすいし、
誠実ならなおいい。
器用であること自体は、領地運営には向いているのかもしれない。
彼から向けられた好意らしき視線も、ロザリンデは「この人は今、私を好きなのかな」と少し距離を置いて眺めていた。
好かれているのかもしれない。
そう考えることはあっても、そこに浮かれるほど単純でもなかった。
婚約に興味がないというより、「それ以外に考えたいことが多すぎる」というほうが近い。
そんな時、春の大舞踏会の招待状とは別に、彼女のもとへ一通の書簡が届いた。
深い青色の封蝋。見慣れた紋章。
差出人はレオンハート。
侍女から銀盆ごと手渡され、ロザリンデは少しだけ首を傾げた。
(招待状はすでに頂いておりますのに。何でしょう)
封を切ると、短い文が目に入る。
『春の大舞踏会、初日の夜。王城大広間にてお待ちしております。一度、お話ししたいことがございます。――レオンハート』
読み終えたあと、彼女はしばらく紙を見つめたまま動かなかった。
(……なぜ、わざわざ“初日の夜”なのでしょう)
大舞踏会は一週間続く。昼と夜、いくつもの顔ぶれが入れ替わる。
その中でわざわざ「初日の夜」と指定してくるあたりに、少しだけ引っかかりを覚えた。
彼女は窓の外に視線を移しながら、紙を指先で軽く折る。
(お話ししたいこと、ですか。……何でしょうね)
婚約に関わるような話であれば、もっと静かな場所で行われるはずだ。
少なくとも、人の出入りが激しく、視線の集まる大広間の真ん中という選択肢は考えにくい。
となれば考えられるのは、社交的な挨拶の延長か、あるいは何か面白いことに巻き込まれる予兆なのかもしれない。
それが面白いかどうかは分からないが、少なくとも退屈ではなさそうだった。
辺境の空の下で星を眺めているほうが気楽ではある。だが、この王都の大舞踏会でしか見えない何かがあるのも事実だ。
(……初日の夜、ですか。どのみち一度は顔を出すつもりでしたし、ちょうどいいですわね)
鏡の前に立ち、今日仕立て直したばかりの白いドレスの裾を軽く広げてみる。
辺境で着ていた実用的な服とは違う、いかにも「令嬢」といった装い。似合っているのかどうか、自分ではよく分からない。
でも、それもまあ、どちらでもよかった。
服は布でできていて、婚約は紙で決まって、噂話は人の口から口へ移る。
レオンハートからの手紙も、そのうち噂のひとつになるのだろう。
そこにどれほどの意味を与えるかは、多分、自分次第だ。
ロザリンデは一度目を閉じ、小さく頷いた。
その夜、自分が何を見ることになるのか。
誰が泣き、誰が怒り、誰が笑うのか。
それはまだ知らない。
ただ、「少しだけ面白そうだ」と思った。
それだけで、彼女が足を運ぶには十分な理由だった。




