⑥ 想いに終止符を (セシリア視点)
春の大舞踏会。その夜の王城はいつになく賑やかだった。
大広間へ続く長い廊下には花と香水の匂いが漂い、人々の笑い声が遠くから波のように押し寄せてくる。
セシリアは、胸元に気をつけながら歩いていた。
ドレスの内側に、レオンハートからの封筒を忍ばせている。
肌に触れる小さな紙切れが、なぜか心細さをやわらげてくれる。
(大丈夫……。ちゃんと笑えているはず)
緊張で肩が固くなり、歩幅も小さくなる。
それでも、逃げ帰りたいほどではなかった。
ほんの少しだけ、楽しみでもあった。
レオンハートと話すのは怖いけれど、“私宛てに手紙をくれた” という事実が背中を押した。
大広間の扉が開いた瞬間、一気に光と音が押し寄せる。
煌めくシャンデリア、宝石のように磨かれた床、
カップを手に談笑する男女の輪。
(全部……眩しい……)
息を呑んで立ち止まった、そのときだった。
青いドレスを揺らす令嬢の姿に目を留める。
――胸元に、白い封筒の端。
(……あれ、もしかして)
自分の胸元に忍ばせた封筒とまったく同じ紙で同じ大きさ。
セシリアの胸がきゅっと鳴る。
彼女は驚きのあまりか、人見知りを忘れて、思わず歩み寄っていた。
「……あの、失礼いたしますっ!」
少し声が上ずった。
青いドレスの令嬢――エリザベートが振り返る。
「ごきげんよう。どうかされまして?」
「そ、その封筒……!もしかしてレオンハート様から、ですか……?」
エリザベートは驚いたように目を瞬かせ、
ゆっくりと頷いた。
「ええ。……あなたも、ですの?」
「わ、私も……その、レオンハート様から同じようなものを」
「……お二人とも、その封筒を?」
静かで落ち着いた声が背後からした。
振り返ると、白いドレスに黒髪をゆるくまとめた令嬢、ロザリンデが立っていた。
彼女は優雅に一礼し、手に持つ封筒を三人の目の前に出した。
「初めまして。……私にも届いております。文面は、おそらくお二人と同じでしょう」
ロザリンデは何故だかどこか申し訳なさそうな声音をしていた。
三つの封筒が並んだ瞬間、空気がひやりと冷えるのをセシリアは感じた。
沈黙を最初に破ったのは、青いドレスの令嬢 エリザベートだった。
胸元の封筒をそっと握りしめながら、彼女は小さく息を整え、二人を見つめた。
「……わたくし達で、ご一緒に伺いませんか。三人であれば……誤解もすぐに解けるはずですわ」
落ち着いた声だったが、その奥に揺れる戸惑いがセシリアにも分かった。
ロザリンデが静かに応じる。
「……そうですね、異存ありません。同じ文面を頂いたのですもの。確かめるべきでしょう」
二人の視線が、そっとセシリアに向けられる。
(……わたしも行くべきよね)
セシリアは震えそうになる声を押さえ、そっと答えた。
「はい……。私からもお願いします」
エリザベートが小さく微笑み、ロザリンデも優しく頷く。
三人は自然と横に並び、レオンハートのいる華やかな輪へ向かって歩き始めた。
レオンハートの姿が近づくにつれ、胸の奥がきゅうっと縮まっていく。
紅いじゅうたんの上で、彼はいつもと変わらぬ微笑みを浮かべながら、令嬢たちに囲まれていた。
その姿を見て、セシリアの胃の奥がひっそり痛んだ。
(……お話があるって書いてあったのに)
もちろん、婚約者として特別扱いされる立場ではない。まだほとんど話したこともない。
それでも、たった一行の手紙を信じた自分が急に幼く思えた。
エリザベートが、先に口を開く。
「レオンハート様」
その声に、レオンハートが気軽に振り向いた。
そして――三人を見た瞬間。
笑顔がぴたりと止まった。
「エ、エリザベート……っ?セシリアに……ロザリンデ……?ど、どうして……三人で?」
エリザベートは震える指で封筒を示す。
「こちらの件で、お伺いしたいことがございます」
ロザリンデも続けて封筒を掲げる。
「わたくしにも、同じ文面が届いております。
どういう事なのか、説明していただけますか?」
「これは……!その、誤解で……!
二人が問いかける間、セシリアは胸元の封筒をそっと握りしめていた。
声を出したら泣きそうで、でも、泣くほど子供ではなくて。
ただ、自分の鼓動がうるさく響いていた。
レオンハートは狼狽し、視線を泳がせた。
「ま、待ってくれ。これは……誤解なんだ!三人とも、落ち着いて……!」
その声があまりにも軽く聞こえ、セシリアは思わず俯いた。
(誤解……?)
じゃあ、手紙は何だったの?
呼ばれた理由は?
わたしが、嬉しくなった気持ちは?
何一つ答えにならない。
エリザベートが悔しそうに唇を噛む。
そのとき、深紅のドレスが視界に入った。
ダイアナが静かに歩み寄り、三人の横へ並ぶ。
「皆様、お揃いでしたのね」
華やかさよりも冷静さをまとった声だった。
その声だけで、場の空気が引き締まる。
ダイアナは三人へ向けて、丁寧に一礼した。
「レオンハート様は、わたくしの婚約者でございます。ご存知でない方がおられましたら……申し訳ありません」
セシリアは息を呑んだ。
(……婚約者)
わかっていたはずなのに、胸の奥にひどく重いものが落ちた。
「……レオンハート様」
するとエリザベートは、ゆっくりと口を開いた。
「婚約者がいらしたのなら……今夜、話があるなどと、どうして私に?」
「ち、違うんだ!本当に違う、あれは……!」
「違うのでしたら、どう違うのですか?」
レオンハートは口を開いたが、言葉が出なかった。
暫くの沈黙の後、エリザベートはほんの少し笑った。
「……そうですか。あなたが何も答えられないということが……すべての答えなのだと、理解いたしました」
エリザベートは、静かにレオンハートへ歩み寄った。そして――。
パァンッ!
乾いた音が響く。
「もう結構ですわ。これ以上、私を弄ばないでください」
そういい、エリザベートは胸元にあった手紙を破り捨てて、怒り心頭で立ち去る。
レオンハートの頬は赤く腫れ、彼は呆然としたまま何も言い返せなかった。
セシリアは胸の奥で何かが大きく揺れるのを感じた。
怒り――ではない。悲しみだけでもない。
言葉にできない複雑な感情が、胸の奥で蠢いていた。
自分だけが何もせずに立っているのは、まるで“まだ縋っている”ように思えた。そして、それが腹立たしくも思えた。
そんなつもりはない。もう、分かっている。
初めての手紙も、胸の奥が温かくなったあの一瞬も、全ては勘違いだったのだと。
ならば、自分の手で区切りをつけなければ。
レオンハートが驚いたように顔を上げる。
「セシリア……?」
彼女は右手を静かに持ち上げ――
パァンッ!
乾いた音が、大広間に響いた。
自分の手のひらがじんと痛む。それでも、胸の奥は少しだけ軽くなった。
「……これは、わたくしの分ですわ」
いつの間にか声は震えていなかった。
「わたくし……あなたの言葉を、信じましたのに」
小さく息を吸い、セシリアは一礼した。
「どうか……もう、私達の前に立たないでください。迷惑です」
それだけ言うと、彼女はレオンハートを見ることなく踵を返した。




