⑤ 憂鬱な日々に差し込む光 (セシリア視点)
セシリア編です
セシリアは、毎日が憂鬱だった。
それは怠けているからでも、嫌な出来事が続いたからでもない。
ただ、生きるたびに積み重なっていく“期待”が、
彼女には少し重すぎるのだ。
伯爵家の長女として、誰から見ても“完璧なお嬢様”でいなければならない。
優雅に笑い、つつましく振る舞い、誰よりも華やかでなくてはいけない。
(わたしには……全部、難しいわ)
鏡の前に座りながら、セシリアは小さく肩を落とした。
透き通るような金髪を侍女が梳かす。
「お嬢様、今日もお綺麗ですよ」
侍女メアリーの声は明るい。
その優しい声に、セシリアは微笑み返した。
微笑めば、皆は安心する。“伯爵令嬢は今日も完璧だ” と。
セシリアは、人付き合いが得意ではなかった。
賑やかなお茶会も、気さくな会話も、皆が笑って言葉を交わす社交の場も――どれも少し苦手だった。言葉を選ぶたびに心がきゅっと縮こまってしまうのだ。
自分のことを誰かに話すのも同じだった。
親や侍女のように身近な相手でさえ、本音を言うのは気が引けてしまう。
「わたしはこうしたい」「わたしはこう思う」
そんな簡単なことを口にするのに、どうしてこんなに勇気がいるのだろうか。
だから、両親の望む“理想の令嬢”を演じることは、ある意味では楽だった。
自分の気持ちは胸にしまっておけばいい。
笑えば皆が満足してくれる。
期待に応えていれば、失望されることはない。
(……そのはずだったのに)
ふいに胸の奥が重くなる。
思い返すのは――レオンハートのこと。
レオンハートとのお見合いの話が持ち上がった時、両親は嬉しそうだった。
若くして社交界の中心に立つ人気者、家柄も良く、性格も穏やかで申し分ない――そう評判の青年だった。
「あなたにふさわしい方よ」と母は言い、
「誇りに思いなさい」と父は頷いた。
だがセシリア自身は、最初こそ乗り気ではなかった。
(だって……ほとんど話したこともなかったのに)
まだ他人同然の人と将来を決めるのは怖かった。
けれど、反対するという選択肢は、当時の彼女には存在しなかった。
伯爵家の娘として、親の勧めに背くのは“間違い”だと教えられてきたからだ。
拒めば誰かを悲しませてしまう。期待を裏切ってしまう。
そう思うと、胸が苦しくなった。
――自分の気持ちは、どうせ伝えられないのだから。
「……はぁ……」
小さなため息が、鏡の前で白く揺れた。
侍女のメアリーが心配そうに覗き込む。
「お嬢様? お疲れでしたら休まれても……」
「大丈夫よ。少し考え事をしていただけ」
セシリアは微笑んで答えた。心配をかけないように、いつもの癖のように。
けれど胸の奥には、誰にも言えなかった“本当の気持ち”が沈んでいた。
――私は……私のままでいても、いいのだろうか?
そのときだった。扉の向こうからノック音が響いた。
「セシリアお嬢様。郵便が届いております」
他の侍女の声が廊下から聞こえ、セシリアはゆっくりと顔を上げた。
「郵便……? 誰からかしら」
彼女がそう呟くと、すぐに銀盆を抱えて入ってきた。
その上には一通の封筒が置かれている。
「差出人は……レオンハート様でございます」
「……っ!」
小さな息が漏れた。
胸が、きゅっと縮む。
驚きと戸惑いが一度に押し寄せ、指先まで熱くなる。
(レオンハート様……? どうしてわたくしに……?)
婚約者とはいえ、まだ数えるほどしか直接言葉を交わしていない。
笑顔の奥にある本心さえ、まだよく分からない人だ。
セシリアは、震えかけた指をそっと押さえながら封筒を手に取った。
「……お嬢様、ご自身で開けられますか?」
「ええ。大丈夫よ」
封蝋に指をかけると、乾いた音がぱちんと響いた。
『春の大舞踏会、初日の夜。王城大広間にてお待ちしております。一度、お話ししたいことがございます。――レオンハート』
セシリアは、しばらく文字を見つめたまま動けなかった。
胸の奥で、何かがぽうっと灯る。
驚きと戸惑いが先に来たはずなのに、それを押しのけるように、じんわりと温かいものが広がっていく。
(……わたくしと、お話ししたい……?)
その言葉が、どうしてこんなにも胸に響くのか分からない。
けれど、レオンハートから彼女自身に向けられた言葉だと思うと、頬がひどく熱くなった。
「お嬢様……?」
メアリーが心配そうに覗き込む。
セシリアは慌てて小さく微笑んだ。
「……大丈夫よ。ただ……少し驚いただけ」
封筒をそっと胸に抱き寄せる。
紙越しに伝わる温かさは、錯覚なのだろうか。
(誰かに求められたなんて……初めて)
それは、他の誰にも言えない本音だった。
伯爵家の娘として“求められる役目”はあったけれど、“セシリアとして必要とされた”事は一度もなかった。
だからこそ、この短い一文が胸を焼くほどに響いたのだ。
胸に手を当て、そっと目を閉じる。
(……行ってみたい)
自分が望むようにそう言えたことが、何よりも不思議だった。
セシリアはゆっくりと立ち上がり、鏡の前へ向かった。
「……メアリー。舞踏会の支度、考えておかないといけないわね」
「はい、お嬢様。お任せくださいませ」
メアリーが嬉しそうに微笑む。
セシリアは胸の前で封筒をぎゅっと握った。
――憂鬱で仕方なかった毎日に、ほんの少しだけ色がついたような気がした。
次の舞踏会が、こんなにも胸を高鳴らせる日が来るなんて。
数日前の自分には、きっと想像できなかっただろう。
(……私だって、変われるのかしら)
そんな小さな期待が、部屋の空気をほんのわずかに明るくした。




