④ 淡い光が差す午後に (エリザベート視点)
舞踏会から一週間ほどが経ち、王都の噂好きたちは依然として “あの騒動”を話題にしているらしい。
だが、エリザベートはその中心にいることを、以前ほど煩わしいとは感じていなかった。
書斎の窓辺で本を開いていると、庭園から風が入り込んでくる。花の香りが混じった、柔らかな風だった。
ページをめくる手が止まる。
あの夜のことを思い出さないわけではない。けれど、思い出すたびに胸が締め付けられることは、もうなかった。
「お嬢様、騎士団から使者がお見えです」
侍女マリアの声に、エリザベートは手を止めた。
「騎士団?」
「はい。アシュレイ・ローレンス様と伺っています」
一瞬、エリザベートの胸が小さく跳ねた。
あの夜、大広間の隅で静かに立っていた人物。視線が一度だけ交わったことを覚えている。
「応接室へお通しして」
「かしこまりました」
エリザベートは本を閉じ、鏡の前で身だしなみを整えた。髪を軽く撫でつけ、ドレスの裾を整える。
騎士団の人間がわざわざ訪ねてくる理由が分からない。だからこそ、きちんとした姿で迎えなければならないと思った。
応接室へ入ると、アシュレイは立ち上がって丁寧に礼をした。
淡い金茶の髪が柔らかく揺れる。騎士特有の堅い雰囲気はなく、どちらかと言えば誠実で穏やかな青年という印象のほうが強い。
「突然の訪問、失礼いたしました。エリザベート嬢に……ぜひお伝えしたいことがありまして」
「わたくしに、ですか?」
「はい」
「先日の舞踏会でお見かけしました。その後、お変わりありませんか」
「ええ。ご心配いただき、ありがとうございます」
「……実は、お詫びを申し上げたくて参りました」
「お詫び?」
アシュレイは真剣な表情で頷いた。
「あの場にいながら、何もできなかった。騎士として……いえ、一人の人間として、あまりに無力でした」
エリザベートは少し驚いた。
そんなことを言われるとは思っていなかったのだ。
「いえいえ、アシュレイ様が謝られることではありませんわ。わたくし自身のことですもの」
「それでも……何も言えなかったことを、後悔しています」
「ありがとうございます。でも、気にしていただくようなことではありませんわ。実はもう立ち直っていますから」
エリザベートは他の侍女に紅茶を用意させ、二人は向かい合って座った。
会話は驚くほど自然だった。政治の話でもなく、噂話でもなく、ただ――互いの価値観や日々の出来事を話す時間だった。
アシュレイは騎士団での日々について語った。訓練の厳しさ、仲間たちとの絆、王都を守る責任の重さ。
エリザベートは、侯爵家の令嬢としての日常を語った。社交界の煩わしさ、読書の楽しみ、庭園で過ごす静かな午後。
互いの世界は違うのに、不思議と話が弾んだ。
エリザベートは気づいた。話すことが心地よいと感じるのは久しぶりだった。
レオンハートとの会話は、いつも彼の言葉に合わせることばかりだった。彼の興味に寄り添い、彼に笑顔を向ける。
けれど今、目の前にいる人は、自分の言葉にも、ちゃんと耳を傾けてくれていた。
しばらくして、アシュレイは少し躊躇うように口を開いた。
「……実は、もう一つお願いがありまして」
「お願い?」
「はい。今度の騎士団主催の『乗馬会』に、ご参加いただけませんか。よろしければ、わたしがエスコートさせていただきたいのですが」
「……わたくしを?」
「無理にとは申しません」
アシュレイは少し微笑んだ。
「ただ、貴方と話す時間を……また持てたならと思いまして」
それは敬意と好意が丁寧に包まれた誘いだった。
「……はい。お誘い、光栄に思いますわ」
アシュレイの表情が、ぱっと明るくなった。
「ありがとうございます。必ず、楽しい一日にいたします」
その言葉に、エリザベートは自然に微笑んだ。
それは誰かに期待する笑顔ではなく、自然に出てくる笑顔だった。
アシュレイが帰った後、エリザベートは庭園へ出た。
手すりに手を添え、静かに目を閉じる。
「……ふふっ。悪くないわね」
足元には小さな花が咲いている。淡い紫色をした可憐な花だった。
空には薄い雲が流れ、青空は深く、遠く、どこまでも澄んでいた。
次話以降はセシリアに纏わる話です。




