② 淡い期待を抱いたあの日 (エリザベート視点)
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侯爵家の離れには、午後の光が差し込んでいた。
青地に銀糸の刺繍を施した舞踏会用のドレスが、侍女の腕の中でひらりと揺れる。袖口と裾に散らされた細工は、庭のすみれを模したものだった。
「エリザベート様。衣装が整いました」
「ありがとう、マリア。……見せてちょうだい」
侍女マリアが恭しくドレスを広げる。エリザベートは指先で布地に触れた。ふわりと艶めく光沢。春の大舞踏会にふさわしい、控えめだが上質な仕立てだった。
その時、扉がノックされる。
「お嬢様。お手紙です」
別の侍女が差し出した封筒には、見覚えのある紋章が押されている。エリザベートは封を開き、中のカードを読んだ。
『春の大舞踏会、初日の夜。王城大広間にてお待ちしております。一度、お話ししたいことがございます。――レオンハート』
文字はきれいだが、どこか硬い。代筆だろうか。けれど、そんなことはどうでもよかった。
「……まあ」
侯爵家の娘である自分が、誰かに求められることなど珍しくはない。だが――レオンハートからの呼び出しは、違った。
「レオンハート様から……ですか?」
マリアが控えめに聞く。
「ええ。今夜、お話があるそうよ」
「まぁ……!」
侍女たちが顔を輝かせる。エリザベートは少しだけ照れた。
彼女には確信があった。レオンハートは社交界でも人気の高い青年だが、彼の態度や会話の節々から、自分もまた特別に扱われていると感じていた。丁度良い距離感、ちゃんと向き合ってくれる優しさ。
秋の夜会で、落とした扇を拾ってくれた時も。
「指先が冷たいね。風邪を引かないように」
あの声は、確かに自分に向けられていた。
「すぐに支度をいたします!」
「髪飾りは昨日届いた新作にいたしましょうか?」
侍女たちはもう準備を始めていたが、エリザベートは微笑んで手を伸ばした。
「慌てないで。……まだ日も高いのだから、ゆっくりでいいわ」
自分でも驚くほど落ち着いていた。舞踏会で告げられることが何であれ、受け止める準備はできている――そんな穏やかな覚悟があった。
鏡台に腰を下ろすと、ふと自分の表情が映った。期待に満ちた少女ではなく、堂々と未来を見据える女性の顔をしていた。
「エリザベート様、その……」
マリアが少しだけ言いにくそうに声をかける。
「もし今日、お話というのが……その、良いことでしたら」
「ええ?」
「本当に嬉しいです。私どもも、そのような機会に立ち会えて光栄です!」
エリザベートは小さく笑った。
エリザベートが生まれ育ったのは、代々文官を輩出してきた侯爵家だった。華やかな武勲ではなく、地味だが堅実な行政手腕で王家に仕えてきた一族。父も祖父も、財務や法務の要職を歴任し、宮廷内での信頼は厚かった。
領地は大きかった訳ではないが、民が飢えるような手腕をしておらず、彼女自身もそれが誇りだった。
エリザベート自身も、幼い頃から数字と言葉に親しんできた。社交の場でも、派手な振る舞いより、落ち着いた会話と気配りで信頼を得てきた。
この家では、誰も彼女を妬まない。誰も邪魔をしない。侯爵家は娘の幸せを第一に考え、侍女たちもまたエリザベートを誠実に支えてくれている。
「ありがとう。……でも、期待しすぎてもいけないわ」
そう言いながら、胸の奥にほんのり温かい幸せが満ちる。
――けれど、その幸せに溺れないのがエリザベートという女性だった。
例え、結婚の話でなくとも、責任を伴う役目を任されるのなら、喜んで引き受ける覚悟がある。彼の隣に立つことが、そのひとつであるなら――それもまた然り。
「では、髪を整えますね」
「お願い」
マリアの手が器用に髪をまとめていく。高く結い上げ、青いドレスに合わせて銀の飾りを差し込むと、清楚な中にも凛とした気品が宿っていた。
「……いいわね」
鏡の中の自分に頷き、ドレスを身に纏う。
◇
夕方になり舞踏会へ向かう馬車の中、ゆるやかに揺れる振動が、気持ちの高鳴りを静かに落ち着かせてくれる。
(焦らない。浮かれない。……私は侯爵家の娘なのだから)
だが、胸の奥ではひとつだけ願いがあった。
どうか――あの方に、恥じない私でありますように。
王城の門が近づく。光に包まれた塔の影を見上げながら、エリザベートはそっと息を吸った。
春の大舞踏会。この扉の先で、自分の未来は変わるかもしれない。
エリザベートは、静かに馬車を降りた。




