些細なことさえも
楽しんでいただけると嬉しいです。
「わぁ……綺麗」
「圧巻だな……本当に」
目の前にあるものを見上げ、呆気にとられる。
ホールの中央に聳える広大な水槽。
相模湾の環境を再現したその大水槽にはありとあらゆる生き物が集まっていた。
最初に目につくのは、天の川のごとく水槽の上部で煌めくイワシの大群。
その下を大小様々な魚達が悠々自適に泳ぎ回り、共にエイ達が円盤のごとく舞う。
岩礁にはウツボや巨大魚が潜み、極め付けにサメ達が一際その威容を露わにしていた。
生きる名画──そんな表現が思い浮かぶ。
海という異なる世界の一部を切り取ったかのような光景が、目を惹きつけてやまない。
「本当に綺麗……」
繰り返された言葉に隣を見る。
晴海の横顔には感動と好奇心が入り混じっていた。
「不思議な感じ。上手く言えないけど、いつもは感じない命を身近に感じるっていうかさ」
「神秘的だよな。こんなにたくさんの生き物がいるなんて」
ここまでいくつかの展示を見てきたが、どの生き物も新鮮で驚きに満ちていた。
水族館に来るのは数年ぶりだけど、普段目にしない生物の生態を知るのはやはり楽しい。
それ以上に晴海が全力で楽しんでいる様子なのが嬉しかった。
今のように目を輝かせる姿を見ていると、自分の感情に素直なところが魅力的だなと感じる。
無意識なのか、川魚の遡上のコーナーを見て「頑張れー」と小声で言ってたのは可愛かった。
「あっ」
「どうしたの?」
「あそこ、上の方に人がいるぞ」
「ほんとだ」
ダイビングスーツと足かきを装着し、酸素ボンベを背負ったスタッフが作業をしている。
真っ青な水槽の中で黄色のシルエットはとても目立っていた。
「サメとかもいるのに、怖くないのかな?」
「ある程度満腹にさせて、落ち着かせてるって聞いたことあるな」
「そうなんだ」
実際、時折近くにくるサメも特にスタッフには興味を示さず通過しているようだ。
「今は何してるんだろ?」
「どうだろう。清掃したり水質をチェックしたりとか、色々あるらしいけど」
「ちゃんと管理されてるんだ。だからこんなにたくさんいても共存できてるんだね」
「本当にすごいよ。人間には水中を泳ぐヒレも、何百メートルも先のことを感じ取れる飛び抜けた感覚もないのにさ」
何百もの生き物を飼育するその裏には、膨大な試行錯誤の積み重ねがあるのだろう。
目の前にいるのはそうして保たれている命で、そう考えると関係者には心から敬意が湧く。
「確かにね。けどその分、あたし達にしかない長所もあるじゃん?」
「俺達にしかない長所か?」
「たとえばー、料理とか」
「おお、一理ある」
様々な食材を組み合わせ、個性豊かな料理を生み出すのは人間の特徴と言えるだろう。
時には毒物すら食べられるようにしてしまうのだから、その執念は凄まじい。
「あとは、いろんなものを言葉で表現できることとか? それとも……んー……」
「どうした?」
「や、たくさん思い浮かぶけどどれも一番の長所って感じじゃないなーって」
悩ましげな顔を作り、これまでより長く考え込む。
「あ、わかった」
そのうち何かを思いついたようで顔を上げた。
「恋を楽しめることだ」
「恋をすることじゃなくて、楽しめる、か?」
「うん。単純に番になるんじゃなくて、人間は誰かを好きになっていく過程を楽しめるじゃん」
かなり予想外の答えだった。
驚いていると、晴海は何かを思い出すように表情を変える。
「相手と話すたびにドキドキしたり、一緒にいられるだけで嬉しかったり。すれ違って悲しむことや……失恋して、苦しむことも。こんなにたくさんのものを感じられるように生まれたのって、すごいことだと思う」
「………」
「って、あ、あれっ? もしかしてあたしスベった?」
「いや、違くて。そうやって考えられるの、凄いと思ってさ」
「なんだ、良かったー。白けたかと思ったよ」
「悪い悪い」
でも、確かにな。
良い面も悪い面もひっくるめて、〝恋〟という心が見る夢に一喜一憂できること。
当たり前のように思えるけれど、その実、俺達はすごく恵まれているのかもしれない。
そう感じさせてくれた晴海の価値観には、いつもながら驚かされる。
だからだろうか、目を離すことができないのは。
(お前といて時折感じるこの胸の熱にも、いつかは名前がつくんだろうか?)
そんなことを考えていた時、質問が返ってきた。
「高峯は他に何があると思う?」
「うーん、娯楽が豊富なこととか?」
「それ、ありよりのあり! にひひっ、やるじゃん」
即興だったが気に入ってもらえたようだ。
「そろそろ、次の展示を見に行くか?」
「そうだね。イルカショーも時間が決まってるし」
十分に大水槽を堪能して、俺達はさらに奥へと進んだ。
◆◇◆
沿岸ゾーンの次は、深海のコーナーだった。
深海ゾーンと銘打たれたそこは深海の環境解説が小型モデルとともに展示され、またそこに生きる不思議な生物達に魅了された。
薄暗いエリアを抜けると、待ち構えていたのはクラゲファンタジーホール。
深海ゾーンとはまた異なった静かな空間は、感動続きで疲れ気味だった心を安らげてくれた。
さらに先の太平洋ゾーンやサメ水槽、海洋研究のコーナーなどを経て、ついにイルカショースタジアムの手前までやってくる。
ショーを見る前に、ちょっとしたカフェとなっているそこで一息つくことにした。
「こちら、クラゲプラネットドリンクとカラージェリーソーダです。気をつけてお持ちくださいね」
「ありがとうございます」
「ありがとうございまーす」
注文した飲み物を受け取って、カウンターの前から移動する。
近くにカワウソのコーナーがあるためか、室内はちびっ子達でごった返しているのでテラスの方へ。
テラスもそこそこ混んでいたが、それ以上に良いものがあった。
「おー、砂浜じゃん!」
「入口ではガラス越しだったけど、ここからは直接見えるな」
手すりの向こうに広がる片瀬海岸。
香る潮風や波打ちの音、颯爽とその流れを乗りこなすサーファー達の姿。
五感で感じる〝海〟に気分が高揚しながらも、ベンチに腰を落ち着けてドリンクを口にする。
「ぷは。やー、たっくさん見たねー」
「楽しめたか?」
「モチ。高峯の男の子っぽい面も見れたし?」
「ぐぬっ、あ、あれは忘れてくれ」
「やだもーん」
ぬう。深海生物のコーナーで、ダイオウグソクムシの標本につい興奮してしまったのは失敗だった。
引かれなかったのは幸いだが、いじられるとそれはそれで恥ずかしい。
「晴海だって、カワウソに熱中してただろ」
「いやあれは仕方ないっしょ。あんなつぶらな瞳で可愛く鳴かれたらメロメロにならない?」
「わかる」
あの犬や猫とも少し違った独特の愛嬌にはついつい心奪われてしまう。
まあ、イルカショーを見るか、その時間分カワウソを愛でるか本気で悩むのは凄まじいと思うが。
「カワウソって飼えるらしいぞ」
「うっそ、マジ!? 一般家庭で飼育できんの!?」
「かなり難しいだろうけどな。特に水回りとか」
「あー、水道代バカにならなさそう。うむむ、でもあの可愛さを家でも堪能できるなら……」
「おーい、本気で飼う気になってるぞー」
「はっ。危ない、カワウソ沼に飲み込まれてた」
「なんとも可愛らしい危機だな」
しかし、ここまでリアクションしてくれると来た甲斐がある。
デートの第一段階としてはひとまず成功か。
「売店に何か、カワウソのグッズがあったら見てみようか」
「ナイスアイデア。でもイルカショー見たらそっちも欲しくなっちゃいそうだなー」
どっちを取るかと思い悩んでいた晴海だったが、ふと何かを思い出した顔をする。
「そういえば、この飲み物! せっかく可愛いのに写真撮ってないじゃん!」
「ああ、確かに写真映えしそうだな」
「くっ、あたしとした事が見落とすところだった……!」
可愛いもの好きを発動させた晴海は、早速スマホを取り出してドリンクを撮り始める。
それを眺めていると、唐突に彼女がこっちを見た。
「高峯とも一緒に撮りたいから、協力して」
「……ですよね」
なんとなくそんな気はしていた。
ほらほら、と手招きする彼女に少し腰を浮かして、密着するように座り直す。
さっきので勝手はわかっていたので、構えられたスマホに入るようにした。
その時、カランと氷に押されたストローの先端が晴海のものとくっついてしまう。
「っ!?」
「この角度だと後ろのカワウソも映る? だったらもうちょっと……」
予想外の事態に声を上げそうになり、寸前で押しとどめる。
こ、これ、大丈夫か? 間接キス……とはまた違う気がするけども。
晴海の邪魔をするのもなんだし、ひとまず黙っていることにする。
「よし、ここがベスト……あっ」
「どうした?」
「あー、なんでもない。ただ、もうちょい右のほうが良さげだなって」
「そ、そうか」
……もしかして、気づかれたか?
しかしそう思っても突っ込む度胸はなく、程なくしてパシャッとカメラ音が鳴った。
「どうだ?」
「うん。いいんじゃないかな」
納得のいく1枚が撮れたようだ。
ほっとしながら拳一つ分ほど離れて、バクバクする心臓をこっそり手で押さえる。
晴海は何やら、スマホの画面を見つめていた。
「ねえ高峯」
「うん?」
「さっき入り口で撮ったやつ含めてさ、送っといてもいい?」
「ん、ああ。別に構わないけど」
「ありがと」
少々恥ずかしいが、まあ思い出を共有するものを持っておくのは悪くない。
「あっ。やばっ」
「え」
なんて考えていたら、切羽詰まった一言が聞こえた。
「今、やばって……?」
「…………写真、間違えて真里達とのグルに送っちゃった」
「うっそだろ?」
そんな古典的なミスすることある?
直後、ポケットの中でスマホが振動した。
恐る恐る取り出して起動すると……以前ふとした拍子に交換した美人トリオからの連絡が。
『随分陽奈とラブラブしてんね?』
『匂わせとか。ストロー同士で間接キスなんて高度プレイかよ』
『見せつけかこんにゃろー? 週明け覚えとけよー』
打ってる時の表情が透けて見えるようなメッセージに、ひくっと頬がひきつる。
横を見ると、晴海が俺の比じゃないほど顔を真っ赤にしていた。
「……もしかしなくてもテンパってた?」
「……ぅん」
めっちゃ声小さいし。やっぱり意識していたのは俺だけではないらしい。
つられてこちらも羞恥心が込み上げてきて、視線を彷徨わせながら頬をかく。
「その、あれだ。不可抗力っていうか、事故っていうか。そう思うことにしよう、な?」
「……そうだね」
ああもう、こういう時に恋愛経験が豊富だったら上手くフォローもできるだろうに。
初恋しかしたことのない俺にはそんなことできず、ただこの妙な空気が消えるのを待つばかりで。
イルカショーのアナウンスがされるまで、しばらく俺達はそこから動けなかった。
例の話は後に回します。
読んでいただき、ありがとうございます。




