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鏡の世界のあたし(後)


 翌日、学校から帰ってきた実花は、まずクローゼットの前に立った。

 ママがいるときに、美香は出てこなかった。もしかすると、鏡の世界のあたしは、夢だったのかもしれない。おそるおそる開けると、そこには美香がいた。


「おかえり」

「……うん」


 今日の美香は、長袖のトレーナーを着ている。実花も着替えておこうと思って、ニットのセーターを出した。うすいピンク色のセーターはとてもあたたかくて、お気に入りのひとつである。

 鏡の世界にいる美香は、トレーナーとスカート。肌色のタイツを履いているらしい。

 それはちょっとダサいな、と実花は思う。足を見せるのがオシャレなのに。


 美香のうしろには、こっちの部屋と同じような襖があって、そこにはハンガーにかかった服がある。子どもが着るには大きいため、美香ママの洋服なのだろう。

 ぼんやり考えていると、鏡の向こうから美香が言った。


「実花ちゃんのおかあさんは、優しいよね」

「なんでそんなふうに思うの?」

「見てたから」


 美香が言うには、こっちのようすはもっと前から見えていたらしい。

 クローゼットのたてつけが悪くて、きちんと閉めたつもりでも開いていることがあるから、そのせいなのかもしれない。

 ――ずっと見てたとか、なんかずるい。

 実花は、鏡の世界にもうひとりの自分がいるだなんて、知らなかったのに。


「ねえ、そっちのママは? どんな顔をしてるの? ママに似てるの?」

「……似てるかどうかは、わかんないよ」

「自分ばっかり知ってるのずるいよ。写真は?」


 すると美香は複雑そうな顔をしながら、背中を向けてどこかへ行くと、また戻ってきて、鏡面に写真を押しつけた。

 そこに写っていたのは、きれいな女のひとだった。きっちりとお化粧をして、髪もくるくると巻いている。前の学校でたくさん見たママたちと同じぐらい、綺麗でオシャレなママだった。

 ――いいなあ、あっちのママは。

 胸の中がチクチクした。




「なんの教科が得意? わたしはね、国語が好き。でも算数は苦手」

「あたしも算数キライ。好きなのは音楽」

「すごいね。わたしは、絵を描くほうが好きだよ」


 鏡の中の美香は、実花とはすこしずつ違っている。実花が苦手なことができるし、逆に美香が苦手なことを、実花はきらいではないのだ。

 もしかすると、鏡の世界だから反対なのかもしれない。

 美香が描いたという絵を、見せてもらう。くやしいけど、とても上手だった。

 だから実花は、縦笛を吹いてみせる。

 もうすぐ笛のテストがあって、間違えずに吹けるようにならないといけない。だけど、みんなの前で吹くのだと思うと緊張して、いつもつっかえてしまうのだ。

 ――だけど美香は、鏡の世界のあたし。

 ふたりだけど、ひとり。

 自分だけで練習しているようなものだ。



 美香は、実花の演奏をとてもよろこんでくれた。たくさんたくさん、いろんな曲を吹いた。

 そうしたら、本番のテストでも一度も間違えたりせずに、さいごまできちんと吹けたのだ。それができたのは実花だけで、クラスのみんなが拍手をしてくれた。

 実花ちゃん、すごく上手だね。

 そう褒めてくれて、実花の胸はもぞもぞした。


 この「もぞもぞ」は、恥ずかしい「もぞもぞ」だ。「恥ずかしい」のは、みっともないほうの「恥ずかしい」じゃなくて、うれしくて照れくさいほうの「恥ずかしい」だ。

 アパートに帰るとクローゼットを開けて、美香に言う。


「笛、うまく吹けたよ。さいごまで吹けたの、あたしだけだったんだよ!」

「すごいね、実花ちゃん」


 鏡の中の美香は、なんだか元気がなさそうだった。

 実花が元気いっぱいだから、その反対の気持ちになっているのかもしれないけれど、もっとよろこんでくれるものだと思っていた実花は、拍子抜けしてしまう。楽しい気持ちがパチンとはじけて、なくなってしまったかのようだ。


「ママに言えば、なにか買ってくれるかな」

「なあに、それ」

「前はね、テストの順位がよかったら、欲しいものを買ってくれたんだよ」


 お気に入りのニットのセーターも、そのひとつ。雑誌に載っていて、すごくかわいかったのだ。

 なにをおねだりしよう。遊園地に連れていってもらうのもいいと思う。

 パパと離婚してからは、どこかへ遊びにも連れていってくれなくなったから、この機会に行きたい。そして帰りは、ファミレスじゃないレストランで、おいしい料理を食べるのだ。


 ところがママときたら、実花のお願いを叶えてはくれなかった。

 ぜんぶじゃなくてもいい。遊園地、レストラン、旅行、洋服。どれかひとつでもいいのに、「考えておくね」と言って、背中を向けたのだ。

 ママは意地悪になったと、実花は思う。

 やっぱりパパの言うとおり、ママはケチんぼなのだ。



 もうひとりの自分である美香に言うと、口をとがらせた。

「そうかな。実花ちゃんのおかあさんは、とっても優しいおかあさんだと思う。うらやましい」

「なんで? あたしの言うことなんて、ちっとも聞いてくれないのに」

 せっかく頑張ったのに、認めてくれない。

「そっちのママのほうが絶対いいよ。綺麗だし、オシャレだし。とりかえっこしたいぐらい」

「本当にそう思うの?」

 鏡の中の美香が訊いてきて、実花はうなずいた。


 美香は服装だってダサイから、あっちのママと釣り合ってないんだ。

 きっと自分のほうが、ちゃんとした子どもになれるはず。


「いいの? 本当にいいの?」

「しつこいなー。うちのママなんて、美香にあげるよ」


 本当にそんなことができるのだとしたら、実花も美香も、両方にとっていいことじゃないだろうか。

 すると鏡の中の美香は、笑顔で言った。


「じゃあ、今日からわたしがあなた。加賀実花だよ」







「……え?」

 テレビのチャンネルを変えたみたいに、気づいたら実花は、暗い部屋にいた。

 空室であるはずの右隣から、誰かの声が聞こえる。窓にかけてあるカーテンの向こうからは、車が走る音。だけど、窓がガタガタ揺れなかった。


 ――まさか、鏡の世界?

 見下ろすと、くすんだ色の長袖トレーナーを着ていた。スカートから伸びる足には、肌色のタイツが張りついている。

 美香だ。

 あの子が着ていた服によく似ている。

 似ているというより、そのものだ。

 本当に、入れ替わったのだ。


 立ち上がって、隣の部屋へつづく襖を開けると、横になっている女のひとの背中があった。茶色に染めた巻き毛が見える。美香のママだ。

 近づくと、プンとなにかが匂う。香水。そして、お酒のにおい。


「……ミカ?」

「う、うん。ママ、あのね!」

 縦笛のテストの話をしようと声をかけると、ゆっくり起き上がったママの顔が歪んだ。

「うるさい。大きな声出さないでよ。仕事まであともうちょっと寝られると思ったのに、なんで邪魔するの!?」

「……え?」

 立ち上がったママが手を振り上げる。それは勢いのままにこちらへ向かい、頬を打った。

「その顔イラつく!」

 怒ったママに腕を掴まれ、その痛さに悲鳴が漏れる。その声が気に入らないと言って足を蹴られて、床に転がった。

「もう仕事に行くから、片付けしといて」


 ママが出て行って、実花はトレーナーの袖をめくった。あんまりにも痛いから、血が出ているのかもしれないと思ったのだ。

 だけど、血なんて出ていなかった。

 そのかわり、赤と青がまじったような色の斑点が、たくさんあった。

 変色した肌を指で触ってみると、身体がびくんと震えるぐらいに痛みがある。じんじんして、涙が滲んできた。


 ママ、痛い。

 いつもならママが冷たいタオルを当ててくれるのに、鏡の世界のママは、実花を置いて出て行ってしまった。

 仕事って言った。もう夜なのに?

 ぐーとお腹が鳴る。

 台所に行ってみても、なにもない。半分になった食パンがひとつだけ残っていたから、それを食べた。




 玄関を開ける音が聞こえて目が覚める。こたつに入ったまま、眠ってしまったらしい。

 薄暗い部屋を誰かが歩いてくる。香水とお酒の匂いがして、ママだと気づく。起き上がろうとした実花の背中を踏みつけて、甲高い声で叫びはじめた。


 ママ、痛い!

 なにがママよ! いつもはそんな呼び方しないくせに!

 助けて!

 ここでおとなしくしてなさい!


 ガタンと音がして、クローゼットの中に閉じ込められた。隙間からほんのすこしだけ明かりが見えて、男のひとの声も聞こえる。

 ママが、誰かとなにかを話している。とても楽しそうに。


 いいっていうまで、出てきちゃダメだから。


 そう言ったママの声が怖くて、実花は逆らうことができなかった。

 扉の裏にある鏡に、ぼんやりと自分の顔が映っている。

 いや、違う。

 実花じゃない。美香(・・)だ!


「美香! 元に戻して!」

「どうして? 望んだのはあなたじゃない。わたしは訊いたよ、本当にいいの? って」

「そんなの……」

 言葉につまる実花の耳に、鏡の向こうのママの声が届いた。

「ミカちゃん、どうしたの? もう準備できたの?」

「うん。荷物ほとんどないから平気だよ」

「急にゴメンね」

「平気。おかあさんこそ疲れてない?」

「大丈夫よ。ありがとうミカちゃん」

 ママが笑って、美香の頭を撫でている。お気に入りのニットを着て、美香も笑っている。


 どうして。あれはあたしのもの。

 あそこは、あたしの場所なのに、どうしてあの子がいるの?


「よし。今日は引っ越し祝いで、外でご飯食べようか」

「いいの?」

「笛が上手に吹けたお祝い。パフェもつけちゃおう」






 笑顔を浮かべる娘を見て、加賀結花(ゆか)は胸を撫で下ろす。モラハラの夫と離婚して、彼の影響を受けていた実花は情緒不安定になった。環境の変化が大きいのだろう。最近は独り言も増えて、誰もいない部屋で呟いているので心配だった。

 借りたアパートは、取り壊しがすでに決まっているから安いのだと思っていたけれど、どうもいわくつきの部屋らしい。

 頼んでいた社宅もようやく準備が整い、すぐにでも入居できる。元夫に居場所がバレないうちに、越してしまおう。アパートの家具はほぼ備え付けで、持っていく物も少ない。


 手提げカバンに自分の持ち物を詰めこんでいる娘は、数日前からまた不安定だ。ずっとママと呼んでいたのに、急におかあさんに呼び名が変わって、夕飯の手伝いまで申し出てきたのだ。


 来年から中学生だもん。わたしも、おかあさんの手助けできるよ。


 そう言って立つ姿は大人びていて、目頭が熱くなる。

 子どもはある日、急に成長するというけれど、本当だ。まるでひとが変わったようで、誇らしさと同時に、すこしだけ寂しくもある。

 けれど、あまりに急激な変化は心配だ。注意して見ておかないと。



「じゃあね、バイバイ」

「どうしたの?」

 クローゼットの前で手を振る娘に声をかけると、振り返って笑う。

「いままでの自分にさよならをしたの。あたし(・・・)は、新しいわたし(・・・)になるんだ」

「そっか。じゃあママも新しい自分になろうかな」

 隣に立ち、鏡に映った自分に手を振る。光の加減か、娘の顔がいつもと少しだけ違って見えた。



 手に持てるだけの荷を持ち、結花は娘と一緒に部屋を出た。

 その背後で、クローゼットの扉がギイと悲鳴をあげた。






エブリスタの超・妄想コンテスト第139回「私からあなたへ」に参加。


「AからBへのプレゼント」話を考えつつ、「無理にこのテーマで書く必要性がない」と思って没。

次に浮かんだのが、この「AがBになる」という変遷の物語でした。

結果的には、盛大にレギュレーション違反をかましておりました(笑)

そんな供養投稿です。

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― 新着の感想 ―
[一言] 初出エブリスタとなっていて、読みながら「このテーマなんだろう?」と思っていたのですが、なるほどアレでしたか! てっきり、「自分がどれだけ良い環境にいるか、より悪い環境にならないとわからないよ…
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