スリの少年とお嬢さまの小さなお茶会(前)
初出:エブリスタ
街の名を冠するケインズ通りは、いつだってひとに溢れている。
行き交うひとの流れを縫うようにして道路を横断した少年は、建物同士の隙間にある小道へ滑りこみ、そこからさらに奥へと進む。喧騒が遠くなるあたりまで来るとようやく足を止め、内ポケットにさしこんだ財布を取り出した。
革の財布からは、重なった紙幣がのぞいている。そこから三枚を抜き取ると、ズボンのポケットへと押しこんだ。
昨日つぎをあてたばかりなので、戦利品を落としてしまうようなヘマはしないはずだ。
財布はどうするべきか。もう一度持ち主に戻しておいてもいいけれど、足早に歩いていたあの男はもう遥か先へ進んでいる。となれば、再度の接触はむずかしい。
警備隊詰所の近くに落としておけば、善良なひとが届け出るだろう。
拾った誰かがそれをどう扱うかは、少年――ジェフの知るところではない。
その日、ジェフの主は、すこぶる機嫌が悪かったらしい。
表向きは「孤児を雇って世話をする慈善家」を通しているため、見えるところに怪我をさせるような真似はしない。けれど、今日にかぎっては頬を腫らすほどの拳が飛んできた。
なぜ、そのままくすねてこなかった!
ジェフが狙いをつけた男は、たいそうな金持ちであったらしい。その男の財布から、紙幣三枚しか抜かなかったことが、主を激高させた理由だった。
殴られて床へ転がったジェフの耳に、くすくすと笑い声が聞こえる。
ちらりと目をやると、孤児仲間の年長者とその取り巻きが、楽しげな顔で笑っているのが見えた。おおかた、彼らがチクったのだろう。なにかとジェフを目の敵にする彼らは、おなじ主に雇われた孤児ではあるけれど、考え方が違っている。
ジェフは、あるところから一部を抜き取るだけだ。たくさんあるうちの数枚程度。お金を持っているひとであれば、己の記憶違いを疑う程度をかすめとることを信条とし、薄い財布は狙わない。弱い者ばかりを狙う彼らとは、相容れなかった。
漏れる笑い声に、主はギロリと視線を転じた。
途端、ヒッと息をのみ、子供たちは散っていく。足音の騒々しさに苛立ったのか、主は腹立ちまぎれに床に足を振り下ろした。
ジェフのすぐそばで床を打った音に、おもわず体がすくむ。
立ち上がろうとしたジェフの腹に、主の右足が刺さった。尖った革靴の先端は、ジェフが着ている服の布地をたやすく切り裂き、「ああ、また布をあてて縫っておかないとな」と、そんなことを考えながら、衝撃がやむのを待った。
当然ながら昼食は食いっぱぐれ、空きっ腹をかかえたまま、朝とおなじように通りをながめる。
道沿いに座りこんでいるのは、ボロを着こんだ職なしの浮浪者か、あるいは小銭を稼ぐ靴磨きぐらいで、なにもせずただ座っているのはジェフひとりだ。
普段なら歩きながら対象をさぐるものだが、今日はあまり動きたくない。蹴られた腹はまだ痛みを主張していたし、腫れた顔は目立ってしまう。もしもスリに失敗した時、人ごみに埋没しながら逃げることは不可能だろう。
近隣の公園に設置されている時計台が、時刻を告げる。
そろそろ仕事帰りの市民が増え、客足を見こんだ商店が呼び声をあげはじめるころだ。ぐるりと鳴る腹を満たすには足りないだろうが、残飯をくすねる程度のことはできるだろう。
今日の様子だと、夕食がきちんと配給されるかもあやしい。となれば、なにかしら手に入れておかなければ、明日の仕事にさしつかえる。
痛む腹に手を当てながらよろりと立ち上がると、裏通りへと身を隠した。
幾ばくかの食べ物をくすねて腹に入れたあと、おそるおそる家に戻ったジェフを出迎えたのは、警備服を着た男たちだった。
いつもは威張りくさった使用人頭が拘束され、孤児たちもまた、制服を着た男たちに囲まれている。
屋敷で、なにかが起きたのだ。
とっさに逃げようと踵を返したジェフの目の前に誰かが立ちふさがり、止まりそこねて尻もちをつく。主と似たような革靴が目に入り身構えた頭上から降ってきたのは、いたわりに満ちた男の声だった。
カーティス・オルフェンというのが、その男の名だ。
胸に付いた勲章が、地位を表すものであることは知っている。星の数と縫い取りの色で区分けされるそれが示しているのは、ここケインズでも上に位置する階級。おそらくは、屋敷に立ち入った隊を束ねる長よりもさらに上の、生まれた家柄からして上位に位置する存在だ。
なぜそんな男が、自分にやさしく声をかけるのか。
ジェフが懐疑的になるのは、無理からぬことだった。
屋敷の者たちが捕えられたように、彼らの配下にある自分だって罰せられてしかるべきなのに、カーティスはジェフを制服の男たちから引き離した。そうして腰を落とし、自分と目線を合わせて問うてきたのだ。
「大丈夫かい?」
なにがですかと口にしかけて、痛みに顔をゆがめた。腫れた顔は未だ熱をもち、切れた咥内に血の味が残っている。
そうか――と、ジェフはさとった。
他の孤児たちと違い、あきらかな暴力を受けた己は、犯罪に加担していた側ではなく、保護すべき被害者としてうつったのだろう。切れた衣服から覗く肌には、昨日今日でついたわけではない痕が多数残されている。
ポロリ、涙をこぼしてみせた。
嘘をつくとき、言葉を尽くしてはならない。
ほんのすこし真実を織り交ぜながら、必要以上には語らないほうがよいことを、ジェフは短い人生のなかで知っていた。
カーティスという男は、善良な人間だった。彼の勘違いを都合よく利用して、ジェフは難を逃れた。
だが、そのかわりに、別の問題が降りかかった。
*
「娘のアリアだ」
「はじめまして、ジェフ」
おなじ年齢の女の子と接する機会はなかった。
主のもとに集められたのは男ばかりであり、孤児の女の子が売られた先は、そういった店がほとんどだったからだ。
陽が落ちるころになると、街のそこかしこで見かける彼女たちとは違う人種――おなじ性別でありながら、まったく別の生物のように思えたアリアだが、花を売る少女たちと違うところは、もうひとつあった。
こちらに向かって伸ばされた手は、空を掻く。隣に立った父親がその細い手を取り導いて、ようやっとジェフの腕をつかむ。
安堵の顔を浮かべ、けれどその瞳はこちらを映してはいない。
彼女は、視力に問題を抱えていた。幼いころから徐々に失われていったそれは、十歳を超える今はおおまかな形を捉える程度にしか見えないのだという。
形といえど、それがひとであるか物であるのか判別がつかない。色の伴わない、薄ぼんやりとした輪郭。アリアはそれらを記憶することで生活している。
家の中は彼女に合わせられ、調度品の類は角を落とした丸みあるものが主体だ。廊下には手摺りが据え付けられており、成長に合わせて高さを変えているのだという。
そんな大事な娘の『話し相手』として、どこの生まれとも知れない孤児の少年を雇うなど、カーティスはどうかしているのではないだろうか。
ジェフは、自身に用意された部屋の寝台で寝がえりをうちながら、胸のうちで呟いた。
わざと同情を引いたことはたしかだ。
顔の痛みが引かなかった理由は、頬が腫れていただけではなく、やや肉をえぐるように傷ができていたからだと、連れていかれた医務室で知った。
主の指にはごつい指輪がいくつもあった。硬い石と、それを固定した台座は蔦が絡んだような文様で、おそらくはそれが顔を傷つけたのだろう。
放置していたせいなのか、引き攣れたような痕が残り、左頬を斜めに走っている。これでは目立ちすぎて、あの仕事はできない。ひとごみにまぎれ、ひとごみを縫うように進むためには、この顔は不利になる。
虐げられていた下働きの孤児、という触れ込みだったせいか、屋敷の使用人たちはみな優しく接してくれたが、ジェフの心はそれらをうまく受け止められなかった。彼らはあまりにもひとが良すぎる。
あざを隠すようにと、長袖シャツと長ズボンが用意されたが、ジェフのような小さな使用人は他にはいない。
となれば、この服はジェフのためだけに用意されたもの、ということになってしまう。
手にしたときから穴が開いていない服なんて、はじめてだった。
「うちの子があんたぐらいの頃に着ていた服だ。古くて悪いねぇ」
アリアの世話をしている女が、そう言って背を軽く叩いた。
オルフェン邸に住む使用人の数は少なく、ひとりが複数の仕事を担っているようで、彼女は給仕も担当している。料理をつくる男が亭主ということもあり、厨房は夫婦の仕事場であるらしい。
ジェフの仕事は、夫婦の手伝いであり、女とともにアリアの傍で過ごした。
他の仕事がある女にかわり、アリアの『目になる』ことが、ジェフに課せられた仕事だった。




