【番外編十二】君に架ける虹《前編》(拓都視点)
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「おーい、拓都。おまえ、三者懇、今日だっけ?」
少しずつ春の気配を感じるようになった三月中旬、三年生は卒業してしまい、俺達二年生はのんびりとした放課後を過ごしていた。
「ああ、四時から。翔也、おまえんとこは?」
西森翔也、こいつとは小学校一年の時からの友達で、小・中・高ともう十一年も一緒にいる。
「明日。明日の三時半。それよりおまえ、この間の進路希望、なんて書いたんだよ?」
翔也がこちらを向いて睨んでいる。この前、M大へは行かないかもしれないって言ったせいだ。
俺の両親は二人ともM大出身で(M大で出会ったらしい)、小学生の頃はよくM大の話を聞いたり、大学祭に連れってもらったりしていたからか、いつの頃からかM大へ行くものだと思っていた。
「秘密」
俺はそう言って笑うと立ちあがった。
「なんだよおまえ、逃げるのか」
俺が誤魔化したからか、翔也はますます不機嫌になった。
ごめん、翔也。まだ言えない。この三者懇で母さんに話して了解してもらってからだ。
「もう、休憩は終わりだよ」
そう言って俺は大きく伸びをした。
俺と翔也は陸上部に所属している。俺は走り高跳びで翔也が短距離だった。まあ、そんなに熱心なクラブでは無いけどな。
「俺はさっき休憩に入ったとこだよ。もうちょっと付き合えよ」
「部長に睨まれても知らないぞ」
三者懇談のある間、顧問はクラブに顔を出さない。だから余計に部長が張り切っているのだ。といっても、部長も俺達の同級生だから、怖くは無いけど。
「波多野なんかに睨まれても、痛くも痒くもないよ。それより、陸も美大へ行くって言うし、おまえもまさか県外か?」
俺は溜息をひとつ吐くと、もう一度座り込んだ。
翔也は案外しつこい。けれど、勘はいいのかもな。俺の進学希望が県外だと気付いているなんて。
川北陸は、翔也よりももっと長い、保育園の頃からの付き合いだ。あいつは小学校の頃から絵が上手く、賞を貰ったりもしていた。中学・高校と美術部に入り、今は部長をしている。
俺達は小学生の頃から三人でM大へ行きたいなと話していた。それはやはり、M大の大学祭へ一緒に行っていたせいだろうと思う。大学の大きさや、大学祭の賑やかさが、子供心にテーマパークか何かのように感じ、大学生は皆明るく元気でキラキラ輝いて見えたから。
「まだわからないよ。それより翔也は、紺野がいるから良いじゃないか」
翔也は生意気にも紺野千佳という彼女がいる。彼女もM大進学希望らしい。
「彼女と友達は違うよ」
翔也は憮然として言う。翔也の気持ちは分かるけど、そんな気持ちが嬉しいとは思っているけれど。
「そうだよ。彼女は別れたらそれっきりだけど、友達は一生の付き合いだろう? どこの大学へ行っても、俺達はずっと友達だろ?」
「何だよ、別れたらって」
そう言いながら、翔也は不機嫌そうに顔をそむけた。
照れているんだなと心の中で俺はほくそ笑んだ。
翔也は友達思いの友情に厚い奴だ。その癖シャイで、ずっと友達だなんて言われると照れてしまうような奴だから、どうでもいいことに突っ込んだりしている翔也が、可笑しくて堪らない。
「まあ、彼女だって結婚したら一生かもしれないけどな」
俺がからかうように言うと、翔也は益々嫌そうな顔をした。
「そんなことより、やっぱり他の大学へ行くつもりなんだな。先生になるなら地元の大学の方が良いんじゃないのか?」
やけに真剣な顔をして問いかけてくる翔也を見て、俺は笑い出しそうになった。
「先生になるなら、なっ」
俺は軽くそう答えると、もう一度立ちあがった。
「お、おい、なんだよ。先生にならないのか? おい、言い逃げすんなよ」
立ちあがった俺を慌てて見上げて、翔也は焦ったように言う。
俺はそろそろ練習に戻ろうともう一度伸びをした。
その時、陸上部女子の騒ぐ声が聞こえて来た。
「ねぇ、ねぇ、あの人、カッコよくない?」
「どれどれ、あーホント! 誰かの親かな?」
「バカね、あんな若い親がいる訳ないでしょ。お兄さんじゃないの?」
「三者懇に来たのかな? 誰のお兄さんだろ?」
「イヤーン、こっち見て笑ったよ。笑顔も素敵」
「大人の魅力よね。高校生が子供っぽく見える」
「そんなこと言っていると、彼に告げ口するわよ」
げっ、なんでアイツが来るんだよ。
確か今朝、母さんが「今日は懇談の日だから、四時前には教室の前に来ていてね」って言っていたよな。
でも、よく思い出したら、母さんが行くなんて一言も言っていない。アイツが来るなんてこともな。
小さい頃は、ママ、パパって、何の屈託もなく呼んでいた。
いつからだろう、ママが母さんになり、パパが父さんになり、そしていつからか父さんのことを呼べなくなった。心の中でアイツなんて言ってしまう俺って、ガキなんだろうか?
「おい、あれ、篠崎先生じゃないのか?」
どうやら翔也も気づいたようだ。そして、アイツもこちらに気付いたようで、笑顔で近づいてくる。
俺は校舎を振り返って外壁に取り付けられた時計を見た。
まだ、三時半じゃないか。
その時、また別な方から声が上がった。
「ねぇ、あの人、篠崎先生じゃない?」
「あっ、本当だ。篠崎せんせー!」
陸上部の一年生がアイツに呼び掛けて手を振っている。
ああ、ここにもアイツの教え子がいたか。
あれは四年前、俺達が中学一年の二学期、今日と同じように三者懇談に来たアイツ。今日と違っていたのは、あの時はアイツが来ることが分かっていた。分かっていて、来たらクラブのところまで呼びに来てとお願いしていた。
あの頃の俺は、否、アイツと出会ってからあの頃までずっと、俺はアイツが大好きで自慢の父親だった。だから、皆に見せびらかしたかったんだと思う。
俺の通っていた中学校は、三つの小学校が校区だった。アイツはその中の虹が丘小学校とは別の小学校に、俺が小学六年生になる時に転勤した。それは、母さんが二人目の子供である弟を産んだ後職場復帰するのに、妹と弟の保育園の送迎のため、少しでも近い職場を選んだからだった。
だから、その時の中学校の同級生に篠崎先生を知っている奴は、結構いたんだ。けれど、俺と同じ小学校出身で、守谷先生を覚えている奴は、余りいないと思う。小学一年の時だけだったし、姓も変わってしまったから。
あの日も今日のように陸上部のクラブをしている二百メートルトラックのあるグランドに、アイツは俺のお願い通りに現れた。真っ先に気付いたのは、小学六年生の時にアイツのクラスだったという同級生。そして、その時グランドにいた他のクラブのアイツの教え子達も集まって来て、取り囲んだ。
「篠崎先生、どうしたの? 私達が心配になって見に来てくれたの?」
「今日は息子の三者懇談に来たんだよ」
「えー! 篠崎先生って子供いたの? ってか、結婚していたの?」
「うそー! 中学生の子がいるの? 先生って何歳なの?」
取り囲んでいた子たちが皆驚いている。それは、そうだろう。まだ三十過ぎなんだから。
俺はその輪の中に入れず少し離れたところから様子を窺っていた。
あの時の俺は、この若くてカッコイイ人が俺の父さんだと言いたくて、ワクワクしていた。
教え子達の質問を笑顔で流すと、アイツは俺の方に視線を向けると「拓都」と呼んだ。その途端、一斉に視線が俺の方を向いた。
「ええっ?! もしかして、篠崎君が息子なの?」
「えー、うそ! 余り似てないんだね」
中学一年生と言えど、まだ子供だ。当事者に対する気配りなんてできないから、思ったままの言葉が出る。
「篠崎先生がお父さんだなんて、羨ましいなぁ」
「こんなカッコイイお父さんなら、自慢しまくるのに」
こんな言葉に、俺のちっぽけな虚栄心は満たされていく。そして、時間だからと二人連れだってその場を離れた。
あの日は三者懇談が終わった後、アイツはまだ仕事があるからと小学校へと戻って行き、俺もクラブへと戻ると、アイツの教え子達が待ちかまえていたように質問攻めにして来た。
今まで話したこともない奴らが、アイツの息子だというだけで俺に興味をもつことに、その時初めて小さな違和感を覚えた。
それから数日後、あの時の教え子の中の数人が、俺に話しかけて来た。
「ねぇ、篠崎先生って、篠崎君の本当のお父さんじゃないんだってね?」
その問いかけは、長い間忘れていた真実を思い起こさせた。それ程俺にとって父親はアイツの記憶しかなかった。小さい頃に亡くなった本当の父親の記憶は、写真のなかの笑顔だけだった。
子供の純粋さなのか、残酷さなのか分からないけれど、わざわざ暴く必要のない真実を問うその同級生の心の中では、俺とアイツの血のつながりを許せなかったのだろうか?
俺は誤魔化す事も出来ず、素直に頷いた。するとその教え子達は、張りつめていた緊張が緩むように安堵の息を吐いて「やっぱりねぇ」と言うと、もう俺の事など興味の対象ではないと言わんばかりに背を向けると、「似てないと思ったのよ」とか「篠崎先生若過ぎるもんね」とか言いながら遠ざかって行った。
彼らに対する怒りも沸いたけれど、みじめさの方が勝った。それでも僅かなプライドが、そんな自分を認めたくなくて、平静を装い、アイツの事はもう口にしなかった。そして俺は、だんだんと父さんと呼べなくなっていった。
その事があってから俺は、家族の中で自分だけが異質なものなんだと思うようになった。アヒルの中にいる醜いあひるの子じゃなくて、白鳥の中にいるアヒルの子の様な気がしていた。
妹や弟は赤ちゃんの頃から母の手伝いで面倒を見て来た上に、甘えて懐いてくれるので可愛くて、母親に対してもやはり心配かけたくない思いが強くて、結局自分の中のあらゆる負の感情の原因をアイツのせいにする事で、何とか平静を保っていた。
誰が悪い訳でもない。ましてやアイツが悪い訳じゃないのに、アイツと血のつながりが無い事が、まるで罪の様で、アイツと血のつながりのある妹や弟を妬ましく思う自分が嫌だった。
ある時、俺がいなければ、完璧な家族じゃないかと思い始めたら、一緒に出かける事が苦痛になり始め、クラブや友達を理由に別行動を取りながら、「中学生にもなって親と一緒に行動するなんて」と自分の中の言い訳めいた正当性で自分自身を納得させていた。
そんな思春期の葛藤と家族の中での自分の位置の模索で中学時代を過ごしていた俺に、両親は特に何も言わず、それまでと同じ態度で接してくれた。家族から離れようとしている俺を、父さんと呼ばなくなった俺を、責める事もせず見守ってくれていたんだと、あの頃の自分しか見えていなかった俺には気づく事も出来なかった。
「おい、拓都。篠崎先生がこっちへ来るぞ」
翔也に言われて我に返ると見慣れた笑顔が近付いて来る。教え子達も一緒に驚いた顔で付いて来る。
四年前と同じ展開。どうせ俺が息子だと知って、似ていないと思っているんだろ。
「こんにちは」
翔也がアイツに挨拶をしている。アイツはいつもの様に爽やかに微笑んで「翔也、久しぶりだな」と返した。
「母さんは?」
俺が挨拶の代りに問いかけると、アイツは苦笑しながら「忙しいらしくてね」と答えた。
それで急きょ代打にアイツが登場した訳だ。
「まだ、時間早いよ」
「久々に拓都のハイジャンを見たくなったんだよ」
それに美緒の母校もゆっくり見たかったしね、なんて臆面もなく言ってのける。
はいはい、ラブラブで良かったですね。
それに俺にとってもいずれ母校になるんだけどね。
母さんのことをついでの様に言ったけれど、本当はそちらがメインなんだろ?
「本当に篠崎先輩と親子なんだね。言われてみれば、雰囲気とか似ているよね」
付いて来た教え子の一人が言った言葉に俺は驚いた。
雰囲気が似ている?
外見は似ていないのに?
「雰囲気が似ている? そうか」
アイツが嬉しそうにつぶやくから、俺の中に湧きあがった驚きと喜びは素直に出せるはずもなく、俺は「練習に戻るよ」とフィールドの方へ向かって歩き出したのだった。




