【番外編四】本郷美鈴の苦悩の日々《前編》(美鈴視点)
九年付き合ってきた直也と別れた。
あんなに長く付き合っていたのに、同棲を始めて四ヶ月で破局してしまった。
大きなプロジェクトに参加するようになった彼は、毎日が忙しそうで帰宅時間も遅くなった。それでも、別れる一ヶ月前までは、どんなに遅くなっても必ず帰ってきてくれたし、今までと変わったところは感じなかった。
しかし、別れる一ヶ月前ぐらいから、仕事や出張を理由に帰らない日が増えていった。仕事だと信じていたけれど、どこかで不安も感じていた。頭の中でもしかしたらという疑いが、湧き起こりそうになるのを、必死で抑えていたような気がする。この予感を自覚してしまえば、私の九年間積み重ねた物が、粉々に壊れてしまいそうで。あの頃は彼の言い訳に縋っていたのかもしれない。
そして別れは突然やって来た。
ある日、彼が私に頭を下げた。同じ会社の女性との間に子供ができたと。責任を取りたいから別れてほしいと。驚きすぎて、涙も出なかった。
現実感がなかった。あまりの衝撃は、悲しいという気持ちさえ起こさせないのか。
ただ、九年間の思い出を壊したくなくて、私は物わかりのいい女を演じた。いつまでもアイツの中で、いい女だったと思って欲しくて、縋りついたり、泣き叫んだりできなかった。
一人きりになってから沸々と怒りが込み上げ、わたしの九年間に対する責任はどうやって取ってくれるんだとか、青春を返せとか、下世話な話、私の時には完ぺきな避妊をしておきながら、どうして浮気の彼女には避妊しないのだとか、いろいろな思いが湧きあがったけれど、ひとしきり怒りが出尽くした後、私は泣いた。
涙は心の傷を癒す作用があると言う。
私は思い切り泣いた。時には悪態を吐き、時には自分を慰めるように泣いた。そして、就職してから知り合った友人たちに慰められ、癒され、ようやく私は実家へ帰ろうと決心した。
高校の時からの親友の篠崎美緒が、彼と別れた時のことを思い出す。
あの時の美緒は、理由も言わずに心変わりを理由に別れを告げた。最愛の彼に。
あの時は不幸に見舞われた美緒に同情して、守谷君の気持ちまで考えなかったけれど、今なら彼のショックと悲しみが分かるかもしれない。彼も幸せの絶頂から奈落の底まで落とされたのだ。本当の理由も知らされずに。
あれから三年以上の時が過ぎて、彼の心の傷はもう癒えただろうか?
時間はいつも傷ついた者に優しい。
私もいつか、懐かしい思い出として、この九年間の日々を思い出すことが出来るのだろうか?
美緒だって辛かったのは分かっている。
美緒の性格上、あそこで彼を突き離すことしかできなかったのだろう。
人に頼ることを良しとしないあの性格。ましてや相手が男だと余計にそう思うのは、母親の苦労を見ているせいなのだろうけれど。最愛の人にまで、頼らないなんて。
いや、美緒は愛するがゆえに彼を巻き込めなかったのだ。
そして、自分にとって一番つらい道を選んだ。
それが美緒の強さなのだと分かっている。だから、私も友に恥ずかしくない生き方をしなければと、今回、直也との別れの時に思った。取り乱さず、毅然として現実を受け入れようと。せめて彼の前だけでも。
そして私は、泣くだけ泣いて九年間の恋にピリオドを打ち、生まれ故郷に帰って来た。彼と一緒にいたくて一度は諦めた夢を叶えるために。
帰ってきて美緒に連絡した時も、二人で母校の大学祭へ行った時も、美緒は何も言わなかった。だから、その事実を知った時の私の衝撃は、言葉に表せないほどだった。
申し込んでいた養護教諭の臨時採用の依頼がこんなに早く来るとは思わなかった。なんでも妊娠中の養護教諭の急な入院で、なかなか引き受け手がなく、私のところへまわって来たようだった。
連絡を貰った次の日には来てほしいと言われ、私が向かったのは、なんと! 美緒のところの校区の小学校で、拓都君の通っている学校だった。
私は美緒を驚かせてやろうと思って、虹ヶ丘小学校で臨時採用されたということは連絡しなかった。
しかし、驚かされたのは私の方だった。
どうしてこの小学校に守谷君がいるのよ?!
朝の打ち合わせの時に皆の前で紹介され、「よろしくお願いします」と頭を下げて、顔をあげた時に目に飛び込んできた彼を見て、私は目が飛び出るかと思うほど驚いた。
そんな私と目があった彼の方も驚いている。
これはどういうこと?
この小学校は、拓都君の通っている小学校だ。美緒は知っているのだろうか?
私は朝の打ち合わせが終わるのを待ちかねて、終わるとすぐに守谷君のところへ行った。
「守谷君、どうしてあなたがここにいるのよ? 美緒は知っているの?」
教室へ向かう準備をしていた守谷君は、私の顔を見て驚いた顔をした後、溜息を吐いた。
「まさか何も聞いていないんですか? 拓都は俺のクラスですよ」
彼は怪訝な眼差しを向けた。そして私は又驚いてしまった。
拓都君の担任だと言うの? それって……。
「何も聞いてないわよ! でも、でも、拓都君の担任だったら……」
美緒に会ったということ? と続けようとしたら、彼は「教室へ行かなきゃならないので」と職員室を出ていった。
遠目に私達のやり取りを見ていた先生達も、担任をしている教室へ行くため出て行ってしまい、職員室の人口密度は一気に下がった。
「本郷先生、守谷先生とお知り合いですか?」
そう訊いてきたのは優しそうな笑顔の教頭だった。
「ええ、大学の時のサークルの後輩でして」
「何かとても驚いていられたようですが」
「彼がまさかここで先生をしているとは思わなかったものですから」
「そうですか。守谷先生はとてもいい先生ですよ。今年三年目ですが、一年生の担任をしていて、保護者にも信頼のある先生です」
教頭ののんびりとした雰囲気に、私はホッと息を吐き出したけれど、この朝の守谷君と私のやり取りは、他の先生達の間でセンセーションを巻き起こしていたらしい。
「朝は、子供たちが登校してくる様子を見て、健康観察をしてください。そして、保健室を訪れる子供たちや職員の対応をしながら、去年の資料の控えを見ながら、保健室便り、教育委員会への報告書等の作成をしてください。毎日欠席者等の健康報告が各クラスから集まりますので、データの記録資料も作成してください。それから、校務分掌は養護の青木先生と同じ保健部会に入ってもらいますので、会議等に出てください。分からないことがありましたら、保健主事か私に聞いてください」
教頭は一緒に保健室へ来ると、去年の資料を出しながら、すらすらと説明した。
私はさっきのショックが後を引いているのか、教頭の言葉がすんなり頭に入って来ない。とりあえず去年の資料通りにやればいいかと、自分なりに理解して「分かりました」と微笑んだ。
教頭が保健室を出て行った後、去年の資料を見て溜息が出た。
養護教諭って、保健室で怪我や病気の手当てをするだけじゃないの?!
なんでこんなに作成文書が多いのよ!!
そうこうしている内に、休み時間になると子供たちがたくさんやって来た。最初は驚いた。そんなに体調が悪い子がいるのかと。でも、話を聞いてみると、朝の会で保健室に新しい先生が来たと聞いて、私を見に来たのだ。
見世物じゃないっての!!
最初はにこやかに対応していたけれど、子供たちのストレートな好奇心に、ホトホト疲れてしまった。
好奇心旺盛なのは子供たちだけでは無かった。
「本郷先生、保健室はいかがですか?」
そう言って入って来たのは、同じ年頃の女性教諭で、岡本香住と言うらしい。彼女は担任を持っていないからか、授業中だというのに保健室へやって来た。
「経験がないものですから、何をしたらいいのか戸惑ってしまって……」
私がそう言うと、彼女はニッコリと笑った。
「焦らなくていいですよ。青木先生はきっちりと資料をまとめていらっしゃる方ですから。私も同じ保健部会に入っているので、分からないことがあれば聞いてくださいね」
私のことを気にして来てくれたんだと感動して思わず「ありがとうございます」と頭を下げた。
彼女は苦笑しながら「いえいえ」と言い、そして「ところで」と話を変えた。
「本郷先生は、守谷先生とお知合いなんですか?」
その質問を聞いて、何となくわかってしまった。
彼女はこれを訊きたくて来たんだということを。
「ええ、大学のサークルの後輩なんですよ、守谷先生は」
私は心の中で、守谷君はどこにいても女性の目を引き付けるんだと溜息を吐いた。
「へぇ、守谷先生って、大学の時はどんな感じでした?」
彼女の好奇心の炎が燃え上がったのを感じた。
「どんな感じって、うーん、今の守谷先生はどんな感じなんですか? 大学を卒業してから五年ぶりに彼を見たので」
私は守谷君のことを正直に話していいものかどうか考えながら、今の守谷君の情報を聞いてからにしようと思い直した。
「今の守谷先生ですか? 真面目で一生懸命で、爽やかで、誰にでも優しくて。あんなにイケメンなのに全然気取ってなくて、とてもフレンドリーな人ですね」
な、何? その完ぺきさ。
「なんだか話聞いていると、パーフェクト過ぎない?」
私は話題のせいか、いつの間にかタメ口になっていた。
「いや、本当にパーフェクトな人ですよ。でもそれが仇になって、勘違いしちゃう母親がいたりして、誤解されることもあるんです。本人は仕事に一生懸命なだけなのに」
勘違いする母親? どういうこと?
「勘違いとか誤解とかって、どういうこと?」
「去年、守谷先生のクラスの母親が、不登校気味の我が子のことで心配して、何度も守谷先生に電話で相談していたんですよ。守谷先生も一生懸命対応していたら、その母親は守谷先生が自分のために一生懸命になってくれていると思い込んでしまって。何度も何度も電話していたのを、単身赴任していたご主人が、様子のおかしい母親の携帯の履歴を見て、担任と不倫しているって思いこんで、学校へ怒鳴りこんで来たんです。守谷先生は一生懸命対応しただけなのに、先生の中には色目を使ったんじゃないのかとか、モテると思って誘ったんじゃないのかとかいう人もいて、気の毒だったんですよ」
私はあまりの話に驚いてすぐに声が出なかった。
守谷君はやはり容姿のせいで今も苦労しているんだ。あの頃は、寄ってくるなオーラを出していたけど、今はそういう訳にいかないのだろう。
「へぇ、大変な思いしているんだねぇ。まあ彼はどこへ行ってもモテモテだから。ある意味仕方ないところもあるのかなぁ」
私はあの頃のことを思い出して、感慨深く答えた。そして、美緒のことを思い出しかけた時、又興味津々な声で岡本先生が訊いてきた。
「あっ、やっぱり大学の頃もモテモテでした? 彼女とかいたんですか?」
「そうだね。あの外見なら、モテるでしょ? でも、あの頃は外見だけでモテてただけで、本人は寄ってくる女性がうっとうしいのか、寄ってくるなオーラを出していて、それでも近づく女性には酷く冷たい態度を取っていたよ。でも今は大人な対応をしているんだね。安心した。彼女とかの話はプライベートだから、本人に訊いて?」
そう、迂闊に彼女のことは言えない。その元カノがこの学校の保護者なんて、言えるはずもない。
それにしても、美緒は守谷君と再会したこと、なぜ言ってくれなかったのだろう?
親友だと思っていたのに。
「えー!! 女性に冷たい守谷先生なんて想像つかない! 寄ってくるなオーラですか? 信じられない!!」
彼女のいきなりの驚嘆に、私の思考は中断された。
ええっ? そこまで驚くこと?
「ちょっと! 守谷君には私が言ったなんて言わないでよ」
私は慌てた。こんなに驚かせるのなら、言わない方が良かった。
私が言ったことを知ったら、どう思うだろう?
「わかっています。でも、守谷先生って、彼女の話とか昔のこととか、訊いても妙に話をはぐらかしてしまうから、教えてくれないんですよ」
へぇ、この岡本先生って、そんな話を守谷君とできるんだ。親しくないとそこまで突っ込んで訊けないよね。
「岡本先生って、守谷先生とそんな話をすることあるんだね。今、守谷先生って、誰かと付き合っている感じなの?」
私はそばに座っている岡本先生をもう一度見た。美人というほどじゃないけど、はつらつとして普通に好感のもてる女性だ。もしかして、守谷君と付き合っているとか?
それで、彼のこと知りたくて探りに来たのかな?
私は、守谷君を忘れたと言いながら、苦しい表情をしていた美緒の顔を思い出した。
美緒、仕方ないよ。もう時間が経ち過ぎて、お互いに違う道を歩んでいるんだから。
「守谷先生が誰かと付き合っているって話は聞いたこと無いんだけど。実は、この学校の先生といい感じなんです。私の友達なんだけど、とてもいい子なんですよ。二人で出掛けたりしているみたいなんだけど、まだ、付き合ってはいないらしくて。でも、周りから見ても、とてもいい感じなんですよ」
そうなんだ。二人で出掛けたりする相手はいるんだ。
そうだよね、守谷君なら選り取り見取りだろうね。
美緒に対して仕方ないと思いながらも、この現実が少し辛かった。
美緒がまだ想い続けていることは、何となく分かっているけれど、早く現実を受け入れて、前を向いて進んで欲しい。
私はその夜、美緒に電話をした。
美緒が私に言えなかったのは、余計な心配をかけたくなかったからだろうとは、分かっていた。
それでも、チクリと言わないと気が済まない。
それに、今の守谷君のことを考えると、美緒も早く他の人の方を向いてほしいから、心を鬼にしてキツイことを言おうと決めていた。
もう過去を追いかけるのじゃ無く、新しい未来を見てほしい。
そして、苦しんだであろう守谷君も、幸せになってほしいもの。
二人ともが苦しい過去の呪縛から逃れ、それぞれに幸せになってほしい。
電話を終えて、私は大きく息を吐き出した。
分かってはいたけれど、美緒はやはり守谷君のことが忘れられなくて、別れの本当の理由まで話そうかなんて言いだして、驚いた。
もう遅いのよ。彼にはいい雰囲気の彼女がいるらしいから、いくら美緒でも邪魔しちゃいけないよ。
今更別れの理由を言って、また彼を苦しめて、なんになると言うの?
もう、守谷君をそっとしておいてあげてほしい。
やっぱり今の私は、振られた方に味方してしまうのかな。
美緒、ごめんね。




