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いつか見た虹の向こう側【改稿版】  作者: 宙埜ハルカ
第二章:婚約編
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【十五】胸を満たす温もり

 もう暦の上では春だというのに、どんよりと垂れこめた雪雲が今にも白い溜息をつきそうで、私は空を見上げて先に白い息を吐き出した。この冬一番の寒波だと天気予報で言っていたなと思いながら、寒さに首をすくめたけれど、心の中はほっこりと暖かいものがある。

 節分の昨日は、四年ぶりの豆まきをした。K市では集合住宅だったということと、拓都は保育園で豆まきをしていたので、自宅では豆まきをしていなかった。私の子供の頃から姉達がいる間は、毎年この家で豆まきをしていた。小さかった拓都は記憶にない様だけれど、我が家では恒例の行事だった。

「ママ、鬼は誰がするの?」

 保育園での豆まきは、園長先生がいつも鬼の役をしていたからだろう。私はそんな拓都の問いかけに苦笑しながら答えた。

「我が家の豆まきは鬼がいないけど、病気とか怒りんぼ虫とか泣き虫とか、見えない悪いものを外へ出てけ! って、豆をまくんだよ」

 そう、私の中の不安もネガティブな想いも皆、私の心から追い出してしまうべく、「鬼は外」と外へ向かって豆を投げたのだった。

 今年は、初めて恵方巻きなるものを買って来た。これは、我が家では習慣が無かったことだ。

 豆まきの後、七種類の具が入っているという太めの海苔巻を、一本ずつでは拓都には多すぎるので、半分ずつに分け合って食べることにした。半分ではご利益は無いだろうかと、チラリと不安になったけれど、半分でも願いがかなえばと勝手に解釈することにした。そして、恵方を向いて願いことをしながら、何もしゃべらずに食べきるのだと拓都に説明し、二人で神妙に食べた。

「拓都は何をお願いしたの?」

 私は食べ終わって顔を見合わせると、嬉しそうに笑った拓都に興味が惹かれ、思わず尋ねていた。

「あのね、ハヤブサが飛べますようにって」

「ハヤブサ?」

「うん。綾跳びの二重跳びのことだよ」

「うわぁ、難しそうだねぇ」

「すっごく難しいんだ。でも守谷先生は何回でも出来るんだよ」

 ニコニコしながら話す拓都の口から、当たり前のように彼のことが語られる。その名を聞くたび、心臓がドキリとするのを押さえ込みながら、その憧れの先生がパパになりたいって言ったら、拓都はどう思うのだろうと、ボンヤリと考えていた。

「ママは何をお願いしたの?」

 拓都に問いかけられて我に返ると、拓都のキラキラ輝く瞳が私を見ていた。

「ママはね、拓都がずっと笑っていられますようにってお願いしたの」

 私が優しく微笑みながら言うと、拓都は大きく目を見開いた。

「僕も! ママ、僕もママにずっと笑っていてほしい!」

 勢い込んで言った拓都の言葉に、驚きと嬉しさで胸が詰まった。

「拓都、ママは拓都がいたら、いつだって笑っていられるよ」

 私は胸が詰まりながらも、頬を緩ませてそう言った。それなのに、拓都の笑顔が消えて行った。

「でも、ママ、溜息吐いていた」

 えっ?

 拓都の前では気を付けていたつもりなのに、どこかで拓都はまだ小さいから分からないだろうと高を括っていたのかも知れない。

 拓都は私の溜息吐いている姿を見て気になって、だから、笑ってほしいって思ったのかな?

「ママ、溜息吐くと嬉しいことが減っちゃうんだって」

 拓都の言葉に驚いて絶句していると、また拓都が思わぬことを言い出した。

「あのね、ママ。守谷先生が、溜息吐いたり怒ったりすると、嬉しいことが減っちゃうんだって言ってた。それでね、笑っていると嬉しいことが増えるんだって」

 私が何も言えずにいると、一生懸命に説明してくれる拓都。そして、当たり前のように出てくる彼の名。

 慧、そんな話を子供達にしているんだ。

 まるで諭すように私に話してくれる拓都の成長を喜びながら、その向こうに拓都の成長を促し導く彼の存在を感じて胸が震えた。

「ごめんね、拓都。ママ、溜息吐いていたね。これからは、溜息吐かないで笑うようにするね。拓都も一緒に笑おうね。それで、嬉しいこと、いっぱい増やそうね」

 嬉しそうに頷いた拓都の顔に、また笑顔が戻った。


 職場でのランチタイムの節分の話題に、昨日のことを思い出し、一人こっそりとほおを緩める。外は冷たい風が吹いていても、心の中はほっこりと暖かい。笑った拓都の顔と彼の温かい眼差しが私の胸を満たしていた。

「それでねぇ、娘が恵方巻きを食べている最中に笑いだしちゃってねぇ」

 職場のお母さん的存在で四十代の南野さんが、昨日の節分でのことを面白おかしく話している。この後、ご主人も笑い出して喉に恵方巻きを詰まらせて大変だったのだと、南野さんの話は身振り手振りでコミカルに語られ、みんな箸を止めて笑い合った。

 ひとしきり笑った後、私より一つ年上で独身の長尾穂波ちゃんが小さく溜息を吐いた。

「穂波ちゃん、溜息吐いちゃってどうしたの? お父さんは相変わらずなの?」

 穂波ちゃんの溜息に目ざとく気付いた南野さんが、心配気な顔をして声をかけている。穂波ちゃんは去年の年末に、恋人との結婚を父親に反対されていた。その後、何度も恋人が挨拶に来ても、父親は会おうとはしないらしい。父親が反対する理由は、婿養子に来てくれないのなら結婚は許さないというもので、彼の方も彼女の親の面倒は見るけれど、婿養子にはなれないと言いきっている。

 どこまでいっても平行線の二人の間で、苦しんでいる穂波ちゃん。二人とも穂波ちゃんを苦しめるのは本望じゃないだろうけど。

「なんだかね、南野さんの様な家庭を築けるのかなって思っちゃって。現実はそれ以前の問題なんだけどね。父はとうとうお見合いするように言いだして……」

「何それー! 穂波ちゃん、それはもうかけ落ちか子作りでもしないと先に進めないんじゃないの?!」

 三十代子持ち主婦の速水さんが声を上げた。この人はいつも騒々しい。

「速水ちゃん、穂波ちゃんのご両親を泣かすようなこと、そそのかさないの!」

 南野さんが速水さんをピシリと叱る。途端にしゅんとする速水さん。

「南野さん、いいんです。私も同じこと考えていましたから。でも、彼がそれはダメだって言うの。きちんと両親に承諾してもらわないといけないって……」

「はぁー、いい彼だよねぇ。そこのところをお父さんが分かってくれるといいのにねぇ」

 南野さんが溜息交じりに言う。私と速水さんが加勢するようにうんうんと頷いた。

 二人が想い合って、結婚したいと思っているのに、先に進めない穂波ちゃん達。

 裏切った私を許して結婚までしようと言ってくれる彼と、こんな私でも喜んで迎えてくれようとしてくれる彼の家族達。

 比べる訳じゃないけど、自分は何をしているんだって情けなくなった。

 負い目や不安で戸惑ってばかりいる自分が嫌になった。

「だけど、穂波ちゃん。絶対に諦めちゃダメだよ。お父さんに反対されて落ち込んで、彼との仲までギクシャクしないように、二人の愛情に自信を持って、胸を張っていなくちゃダメだよ」

 南野さんの力強い言葉に、穂波ちゃんが少し涙目になって頷いている。


 『二人の愛情に自信を持って、胸を張っていなくちゃダメだよ』

 南野さんの言葉が私の頭の中でリフレインしている。

 私は二人の愛情に自信を持っているだろうか?

 私はそんなことを考えながら、窓の外のチラチラと白いものが舞い始めた冬の風景を見つめていた。


               *****


 立春の翌日の土曜、由香里さんと電話で話をしてから、丁度一週間。その間にも彼から電話はあったし、メールのやり取りもしていた。けれど、由香里さんに勧められていたような肝心な話は何もできなかった。

 いざ、彼の何の屈託もなく話す声を聞くと、愛先生のことを気にしている自分が酷く恥ずかしくなってしまったのだ。

 それに、由香里さんの話を聞いてから、大切なことはそんなことじゃないと気付いたから。小さな不安に囚われるより、私にはもっと大切なことがあったのだと思い出せたから。彼が私に話さないことは、私が知らなくてもいいことなのだと、もう一度自分に言い聞かせた。


 今夜もまた彼とのホットラインが繋がる。彼の声が耳から身体中へ、暖かさを伴ってじんわりと広がっていく。

「拓都に聞いたか?」

「何を?」

「縄跳び。あいつ、二重跳び、今日は五回もできたんだ。よく頑張っているよ」

「聞いている。今日学童へ迎えに行ったら、満面の笑みで報告してくれたよ。そうそう、ハヤブサっていう跳び方は難しいの?」

「うーん、練習すれば跳べるようになると思うけど、一年生にはまだ難しいかなぁ。拓都も練習しているけど、まだまだかな?」

「拓都ね、節分に恵方巻きを食べながら、ハヤブサが跳べますようにってお願いしたんだって。よほど飛びたいんだね。それに、守谷先生は何回でも飛べるんだって自慢していたよ」

 私は少し笑いのふくんだ声で、拓都が自慢げに話していたことを思い出して言った。

「拓都は今、縄跳びがマイブームだからな。それにしても、何自慢しているんだか」

 彼は苦笑して言う。

「それでね、私のお願いは拓都がずっと笑っていてくれることって言ったら、拓都も私にずっと笑っていてほしいって言ってくれたの。でもね、ママは溜息を吐いていたって言われてしまって。溜息吐くと嬉しいことが減っちゃうって注意されたの」

「あっ、それ、俺が言ったんだ」

「そう、守谷先生が言っていたって。それで、笑うと嬉しいことが増えるんだって教えてくれたの。慧って、いい先生だね。私、感動しちゃった」

「ばーか。当たり前だろ」

 彼はそう言ってクスクスと笑っている。また、じんわりと暖かいものが胸一杯に広がった。

「俺さ、拓都に俺を意識しないで一年生を過ごしてほしいって言っていただろう? それで俺も拓都を特別視しないようにと思っているんだけど、最近、拓都を見る目が以前とは違うなって思うんだ」

「以前とは違う?」

「うん。父親の目っていうのかなぁ。どこか心配気に見ている自分に気付くことがある。これってちょっとまずいかなぁ」

「慧ったら……」

 彼の言った父親という言葉にドキドキしてしまった。

 彼と拓都と三人で家族になろうっていう話は、まだどこか現実味が無くて、こんな風に不意に彼の口から聞かされるだけで、頭のどこかで「いいの? 本当にいいの?」と問いかける私がいる。

 本当にいつまでたっても、どこか及び腰の私。

『二人の愛情に自信を持って胸を張っていなくちゃダメだよ』

 また、南野さんの言葉を思い出す。

 見えない気持ちを信じることは難しいけれど、彼がくれるこの胸を満たす温もりをずっと抱きしめていたいと思う。そしていつか、胸を張れる程の自信を持てる愛情に育てて行きたいと思った。


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