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いつか見た虹の向こう側【改稿版】  作者: 宙埜ハルカ
第二章:婚約編
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【十四】今ここにある笑顔を

 いつの間にか二月になっていた。

 あの時、三学期が終わるまで、プライベートで会わないと、拓都にも言わないと約束し、三ヶ月なんてあっという間だからと言いながらも、時の過ぎるのがとても遅い気がしていた。三ヶ月がまるで何年も先のような気さえした。それでも時間は、遥か昔から同じリズムで過ぎてゆく。

 一年前では想像さえしなかった現実がここにある。

 転勤、引っ越し、入学。そして、再会。

 再会してから改めて、自分の中の彼が過去の人ではなく、現在も自分の心の真ん中に居座っている存在であることを思い知らされた。そして同時に二人の間にある三年間という時間の壁を意識せずにはいられなかった。それを作りだしたのは自分自身だという負い目さえも。

 それでも少しずつ近づいてきてくれた彼。そして去年のクリスマスに、その壁を一気に乗り越えて来てくれた。

 何を不安になることがあるのだろう?


「ねぇねぇ、ママ。今日、僕、二重跳び跳べたんだよ」

 仕事を終えて、拓都を学童へ迎えに行った時、飛び出してきた拓都の第一声がこれだった。

 三学期に入ってから、体育で縄跳びをするようになり、すっかりハマっている拓都だ。ここのところ毎日、縄跳びの話題ばかりで『○○君が二重跳び五回も跳べるんだ』とか、『○○ちゃんは、綾跳びを二十回できるんだ』とか、『守谷先生は、何回でも二重跳びができて、ハヤブサっていう跳び方もできるんだ』と、まるで自分のことのように自慢げに話す。お友達の話の中にさらりと彼の話題が語られる時、私はドキドキする鼓動を抑えながら、『凄いね』と答えるのが精一杯だった。こんな時考えてしまうのは、拓都に彼のことをどんなふうに話せばいいのだろうということで、千裕さんに話すこととはまた違う憂いがあった。

「拓都、良く頑張ったねぇ」

 拓都に笑顔を向けてそう言うと、拓都は一気に破顔した。よほど嬉しかったのだろう「今度は連続して二重跳びができるようになる」と新たなる目標を掲げた。

 拓都の成長していく様を見ていると、自分も頑張らなくてはと背中がしゃきっとする。拓都に恥ずかしくない生き方をしなくてはと、拓都と共に生きると決めたあの日から、私を芯の部分で支えて来たのは、そんな思いだったのかもしれない。

 その時ふと思った。

 拓都の保護者だったから、再会できたのだと。

 保護者であることを気にしていたら、再会できたことも間違いになってしまう、と。


 帰り道に足りない食材を買うためにスーパーに寄った。いつもは週一回届く生協で食品のほとんどを購入しているけれど、時々足りなくなるとこのスーパーへ寄って行く。

 拓都とかごを持って歩いていると、この時期だけ出没するお菓子のコーナーに気付いた。

 そういえば、バレンタインはどうしようかな?

「ママ、こんなハートのチョコレート、前に沙希さきちゃんにもらったね」

 拓都が去年のバレンタインに貰ったチョコレートを思い出したのか、そんなことを言った。

 沙希ちゃんというのは、同じ母子家庭仲間の子供の名前だ。沙希ちゃんは拓都と同級生で、保育園の頃から毎年バレンタインデーには、母親と一緒に作ったというチョコレートを、由香里さんのところの陸君と共に貰っていた。

 拓都はバレンタインデーだということも分かってはいなかったけれど、チョコレートを貰ったことは、とても嬉しかったらしく、忘れてはいないようだ。「そうだったね」と相槌を打つと、「沙希ちゃん、どうしているかなぁ」と拓都は子供ながらに遠い目をした。

「拓都が小学校へ入って、たくさんお友達ができたように、沙希ちゃんも一年生になって、たくさんお友達ができて、楽しく遊んでいるんじゃないかなぁ」

 語尾を拓都と同じように伸ばしながら、拓都の方を見下ろした。

「そうだね、沙希ちゃんもお友達たくさんできたよね」

 私の方を見上げた拓都は、安心したような笑顔になった。

 保育園の頃、拓都と陸君と沙希ちゃんは、よく三人で遊んでいた。保育園にいる時は、他の子たちも一緒に遊んでいたけれど、母子家庭の会の仲間達で集まると拓都の同級生はこの三人だけだったので、必然的に仲良くなっていった。その仲良しから引っ越しということで最初に離れたのは拓都だけれど、去年の夏に陸君がこちらへ引っ越してきたから、沙希ちゃんが一人ぼっちになってしまったと心配していたのだろうか?

 拓都はまだ七歳だけれど、出会いと別れを経験して来た。そんな経験の積み重ねも拓都を成長させ、離れた友達を思いやる気持ちを持てるようになったのだと思うと、感慨深いものがあった。

 私はどうだろう?

 拓都のように成長できているのだろうか?

 拓都と過ごしたこの四年近くの間、ただ一生懸命に過ごして来ただけで、離れた友や周りの皆を思いやる気持ちを持っていただろうか?

 自分のことだけ必死で、何も見えていなかったのではないだろうか?

 彼に対しても、罪悪感ばかりで、彼のことを想うことさえ罪のような気がして、彼への想いに蓋をすることばかり考えて、彼が元気だろうかとか、幸せだろうかとか、どうしているだろうかと思いやっただろうか?

 一方的に突き放して、彼との全てのことに目も耳もフタをして、背を向けていたのではないだろうか?

 ただ、思い出に縋りついて、まるで自分が悲劇に主人公のように涙を流していただけでは無かっただろうか?


 拓都におやつを買ってあげるから選んでおいでと言って、私はしばらくチョコレートコーナーを見て回りながら、また彼のことを考えた。

 彼も会わなかった三年の間、いろいろな出会いと別れを繰り返しただろう。それなのに、あの頃と気持ちは変わらないと言う。私のことを怨んだっておかしくないのに、私への想いをずっと胸に留めておいてくれた。私達の別れと離れていた三年間は、由香里さんの言うように試されていたのだろうか。そして、これからも二人の気持ちを試されるのだろうか?

 でもね、二人の絆が強いものになったら、そんなお試しなんて気付きもしないで乗り越えていくのだろうと思う。

 彼は、私の嘘も三年間の時間も飛び越えて来てくれた。

 けれど私は、私の知らない彼の三年間を気にして、不安になって……。私はまだ、あの別れも三年間の時間も飛び越えられずにいる。私の中の彼への想いは、負い目と不安で動揺しっぱなしだ。


 目の前の高級そうなチョコレートやキャラクターの形のチョコレート、定番のハートチョコから一粒一粒が宝石のようなチョコレートへと目を移しながら、彼が最初のバレンタインデーの時、あまりチョコレートは好きじゃないって言っていたことの原因を思い出して、私はクスッと笑った。

 彼は小学生の頃、五歳上のお兄さんが毎年バレンタインデーに沢山チョコレートを貰ってくるのが羨ましかったらしい。それはチョコレートを沢山食べられることが羨ましかっただけで、モテる兄が羨ましかった訳じゃないって、彼は言い訳していたけれど。そんな彼が、中学生になるとバスケを始め背も伸び、バレンタインデーに沢山チョコレートを貰うようになった。その頃の彼は女の子に興味は無く、ただ色々なチョコレートを食べられることが嬉しくて、一気に沢山のチョコレートを食べたら気持ち悪くなり、それ以来チョコレートを食べられなくなってしまったらしい。

 そんなトラウマのようなチョコレートを、手作りして彼に贈ったのは、二回目のバレンタインだった。まだあの頃は、彼がチョコレートを嫌う理由を知らず、ただ甘いものが苦手なんだというぐらいにしか思っていなかったので、甘さ控えめビターなチョコレートを贈ったのだった。

 私が『甘いのは苦手だろうけど、チョコレートしか思いつかなくて』と差し出すと、一瞬困ったような顔をした彼は、『美緒のチョコレートなら大歓迎』と言って、すぐにチョコレートを食べてくれた。そして、『チョコレートがこんなに美味しいものだったことを思い出したよ』と優しく微笑むと、チョコレートを食べなくなった理由を話してくれたのだった。

 何だかいつも彼には敵わないって思わされてしまう。年下なのに、まるで私よりもずっと大人な対応をしてくれる。


『美緒さんの気持ちがまだついてこられないことは分かっているから。これから少しずつ二人の気持ちが近づいて行けたらいいなって思っている』

 不意に初めてのバレンタインデーの時に彼が言った言葉を思い出した。

 そうだ、私はいつでも彼の隣に並ぶ自信が無くて、戸惑ってばかりいた。そんな私を彼は、いつも大きな心で待って歩調を合わせてくれた。

 今も同じだ。

 いいえ、あの頃以上に、自信が無い。

 裏切った私が、のうのうと彼の隣にいていいのだろうかと、常にどこかで考えている。

 負い目が自信の無さを助長させ、そして不安を大きくさせていく。

 千裕さんに言えないのも、自信が無いからだ。彼の恋人は私だと言えるだけの自信が無い。

 今でも本当に私でいいのだろうかって思ってしまう。

 これでは、あの初めてのバレンタインデーの時から、何も成長していない。

 『慧』と心の中で呼んでみる。

 あの時すぐに呼び捨てでは呼べなかったけれど、彼の名を呼ぶと少し彼に近づける気がする。

 彼に想われる自信は無いけれど、彼を想う気持ちは誰にも負けたくない。

 でも、それだけでは駄目なのだろう。

 彼を想う気持ちだけでは、また同じようなお試しがあったら、彼のためと思って身を引いてしまうだろう。


「ママ、おやつ決めたよ」

 拓都の声が私の思考を中断させた。声のする方を見ると、拓都が小さなかごを差し出している。お菓子コーナーに置いてある子供用の小さなかごの中には、十円ガムや二十円のチョコなどの細かいものが百円分入っていた。おやつを買う時に百円分というのは暗黙の了解だ。百円という制限の中で、楽しみながらおやつを選ぶのが拓都にとっては嬉しいことの一つだった。

「ねっ、拓都、沙希ちゃんに貰ったようなチョコレートをママと作ろうか?」

 今年のバレンタインデーは、沙希ちゃんからのチョコレートは無い。本当なら、こっそり買ってプレゼントした方がいいのかもしれないけれど、何となく拓都の嬉しそうな顔を見たら、ポンとそんな考えが浮かんだ。

「えっ? ママ、チョコレート作れるの?」

 カカオ豆から作る訳じゃないけど、チョコを溶かして形を変えたり、何かを混ぜたりするのも、作るってことだろう。「もちろん」と笑うと「わーい、嬉しいな」と拓都も笑って返した。

 拓都のそんな笑顔を見ていたら、あんまり難しいこと、考えなくてもいいのかもしれないと思った。

 今ここにある拓都の笑顔が、いつまでも続くことが一番の願いなのだから。

 彼と二人でその笑顔を守っていく未来だけを、今は見つめていたい。



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