表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
いつか見た虹の向こう側【改稿版】  作者: 宙埜ハルカ
第二章:婚約編
55/98

【十】インフルエンザ(後編)

 一月二十日の木曜日、午後の業務が始まろうかという時間に、拓都の担任である慧から電話があった。担任モードの彼が告げたのは、拓都が高熱でインフルエンザではないだろうかということだった。

 仕事を早退して小学校へ向かい、今保健室のスライドドアの前で一つ息を吐いた。ドアをノックすると、中から「どうぞ」と言う声が返り、ドアを開ける。

「あ、美緒、お疲れ様」

 振り返った笑顔は、正月以来の親友の美鈴だった。虹ヶ丘小学校に勤務するようになってまだ二ヶ月弱だというのに、すっかりなじんだ様子の親友にぎこちない笑顔を向けて「拓都がお世話になって、すみません」と頭を下げた。

 普段と変わりない態度で接する美鈴に対して、保護者モードを崩せないのは、もう一人女性がいたからだ。

 見覚えがあるけれど名前を知らない女性(おそらく先生だろう)に会釈をし、その女性がいるので美鈴に対してどんなふうに接したらいいかと思い巡らせた。美鈴はそんな私の葛藤など気付きもせずに普段と変わりない口調で話しかけてくる。

「美緒、拓都君、熱が高いからインフルエンザだと思うのよ。最近どんどん増えているの。美緒も気を付けてよ」

 美鈴はそう言うと、カーテンで囲ったベッドの方へ歩いて行った。

「拓都君、ママが来てくれたよ」

「拓都、大丈夫?」

 高熱のためにうとうとしていたのだろう拓都が、うっすらと目を開けた。「ママ」と弱々しく呼ぶ拓都の額に手を当てる。熱い。


「拓都、お熱高いから、今からママと一緒に病院へ行って、お家へ帰ろうね」

 やさしく微笑んでそう言うと、拓都は安心したようにコクリと頷いた。

「今日は木曜日だから、おやすみの病院が多いけど、かかりつけの小児科はどこ?」

 美鈴の問いかけで、初めて今日が木曜日だということを思い出した。

「高尾小児科だけど、木曜日は確か午前中だけだったと思う」

 どうしよう? 他の小児科だってきっとお休みだろう。

「高尾先生のところなら、かかりつけの患者さんはお休みでも診てくれることが多いから、一度電話してみて? たぶん大丈夫だと思うから」

 美鈴は私を安心させるようにニコリと笑いながら言う。さっきまで友達同士の会話のようにタメ口で話していた美鈴が、急に養護教諭らしく見えた。

 早速に電話をしてみると、先生がまだいらっしゃるからすぐに来てくださいと言われ、ホッとし、美鈴の方を見ると、「良かったね」と彼女もホッとしたように微笑んだ。

「拓都君、起きられるかな?」

 美鈴が拓都に声をかけると、拓都はのろのろと体を起こした。けれど、高熱のせいでぼんやりしている拓都は、やはり辛そうだ。

「拓都、ママがおんぶして行ってあげるよ」

 私はそう言うと、拓都に背中を向けた。美鈴が手を貸して、拓都が背中から腕を前に回し、ピッタリくっ付くと、湯たんぽを背負っているように熱い。美鈴が私の鞄を手に持つと、それまで黙って私達の様子を見ていたもう一人の女性の方を振り返って声をかけた。

「岡本先生、篠崎さんを駐車場まで送って行きますので、留守番頼みます」

「わかりました。篠崎さん、お大事に」

 私に声をかけてくれたその女性の方を振り返り会釈すると、突然思い出した。

 あっ、キャンプの時にいた先生だ。

 岡本先生っていうのか。

 キャンプの時に千裕さんから聞いたかもしれないけど、全然頭に入っていなかった。

 私は、甦りそうになったキャンプの時の先生達の映像をかき消し、背中の拓都に意識を集中させ、車へと向かった。


 病院で診察をしてもらい、自宅へ帰りついたらもう午後の二時半を過ぎていた。やはり、検査の結果、インフルエンザだと診断された。そうだろうと思ってはいても、確定してしまうとショックもあったが、ハッキリしたことで開き直ることが出来た。

 拓都は相変わらずぐったりとしていて、目が届くようにリビングに布団をひいて寝かせる。帰りにコンビニで買ったスポーツ飲料を枕元へ置いて、すぐに手洗いうがいをし、買い置きのマスクを付けると、拓都の好きな卵おじや作りに取り掛かった。


 午後五時過ぎ、拓都は薬のおかげか眠ってしまったようで、私は拓都の見える所で取り入れた洗濯ものをたたんでいた。その時、玄関のチャイムが鳴った。いつもなら留守にしている時間帯だから、セールスマンだろうか?

「美緒、拓都君、もしかして、インフルエンザ?」

 ドアを開けると、いきなりそんな問いかけをしてきたのは、由香里さんだった。

「あ、由香里さん、どうしたの?」

 私は面食らって、彼女の質問にも答えず、問い返した。

「拓都君が早退したって聞いて。翔也君もインフルエンザで休んでいるし、拓都君もそうかなって思って」

「そうなのよ。インフルエンザになっちゃって。寒いから中に入って?」

 上にあがってもらおうと考えた時、拓都がリビングで寝ていることを思い出し、インフルエンザウィルスが蔓延している我が家へ上げるのはまずいかなと逡巡していると、玄関の中へ入ってきた由香里さんは、スーパーの袋を差し出した。

「私はこれ届けに来ただけだから、すぐに帰るよ。何か困っていること無い? なんでも言ってよ?」

 K市時代と同じように、困っているだろう友人がいると、すぐに駆けつけてくれる由香里さん。何度そうやって助けられてきただろう。

「いつもありがとう、由香里さん。食料品は生協で一週間分頼んでいるから、大丈夫。でも、買って来てくれたの、助かる。ありがとう」

 受け取った袋の中を覗くと、足りないかなと思っていたスポーツ飲料が入っているのが見えた。拓都の好きなプリンも。

「それ、千裕ちゃんと私からのお見舞いだから。千裕ちゃん、美緒のお見舞いをすごく喜んでいたよ。まだ、翔也君が休んでいるから、私が代表で来たのよ」

「ええっ! 千裕さんまで? わかった。電話でお礼言っておくね」

「うん、そうしてあげて。じゃあ、美緒も気を付けるんだよ」

「ありがとう。由香里さんも子供達、気を付けてあげてね。もちろん由香里さんも気をつけてね」

 由香里さんが帰った後、すぐに千裕さんに電話をして、お礼を言った。翔也君はやっと平熱まで熱が下がってきて、元気にしているらしい。それでも、インフルエンザは熱が下がってから二日経たないと学校へ行けないらしく、登校するのは来週からになるだろうとのことだった。

「ねぇ、ねぇ、子供が休んでいると、守谷先生から毎日電話があるのよ。最初の日は家まで来てくれたし。まあ、子供の様子を聞くための電話だけどね。だから今日、美緒ちゃんの家まで来てくれるわよ」

 千裕さんの嬉しそうな声と彼の名前に、心臓がドキドキと踊りだし、受話器を持つ手に汗がにじみ出した。

「わ、私は別に……。それに、早退だったから」

 千裕さんに本当のことを言わないということは、こういう突っ込みにも平静を装わなくてはいけない。

「まっ、美緒ちゃんは元カレしか眼中にないんだから、守谷先生ごときで喜ばないか」

 千裕さんは私の返事などお構いなしに一人で完結してしまった。私は返す言葉も無く、金魚のようにパクパクと口を動かすことしかできない。

 電話で良かった。目の前にいたら、この動揺ぶりは、隠しようが無い。

 結局千裕さんは、私の動揺に気付かないまま「お大事にね」と電話を切った。私は受話器を置いた途端、大きな溜息を吐いたのだった。


 その後、拓都の寝ている間に夕食の用意をしてしまおうと台所で調理をしながら、先程の千裕さんが言った言葉を思い返していた。

『だから今日、美緒ちゃんの家まで来てくれるわよ』

 ここだけ聞くと、全ての真実を知っていて言っているようにも聞こえるけれど、千裕さんにしたら『守谷ファンなら嬉しいでしょ』という暗黙の意味が含まれている。

 本当に来るのかな?

 千裕さんの暗黙の意味は、合っているとも言えて、なんだか複雑な気持ちになる。

 早く言ってしまった方がいいかな?

 それでも、嬉しそうに担任の話をする千裕さんの声を聞くと、真実を告げる勇気が萎んでいくのだ。

 やっぱり、役員仕事が終わってからにしよう。

 改めてそう決意すると、ちょっと心が落ち着いた気がした。


 夕食の用意ができたけれど、拓都がまだ寝ているので、起きるまで待つことにした。

 昼食が遅かったから、少しずれても大丈夫だよね。

 拓都の傍で静かに本を読みながら時間を潰していると、突然玄関のチャイムが鳴った。飛び跳ねるように立ち上がると、拓都を思い出して見下ろす。

 よかった、よく寝ている。

 私はそっとリビングのドアを開けて玄関へと出て行き、ゆっくりと玄関ドアを開けた。

「やあ、拓都はどう?」

 玄関灯の薄暗い明かりの下、担任が心配気な顔で、私を見下ろした。

 千裕さんの予告通りとは言え、どう対応したらいいかとドギマギしてしまう。

 今は担任モード? それとも?

 対応を決めかねている私の態度が変だったのか、彼はぷっと吹き出した。

「美緒、今日は担任として来たけど、緊張しなくてもいいよ」

「あっ、ごめんなさい。寒いから入って」

 私は、我に返ると慌てて彼を中へ招き入れた。

「それで、拓都はどう? やっぱりインフルエンザだったって聞いたけど」

 私は家に帰ってから美鈴に診断結果を報告しておいたから、それを聞いたのだろう。

「今、薬飲んで眠っているの。熱は病院で測ったら三十九度二分で、本当にぐったりして可哀想だった。気を付けていたんだけどな」

「子供はどうしても大人より抵抗力が弱いから、流行っている時は、どんなに気を付けていてもうつってしまうのは、仕方ないよ。それより、美緒まで寝込まないように、気をつけろよ」

 優しい言葉をかけてくれる彼に「慧こそ、気を付けてね」と返しながら、彼の顔を見上げると心配そうな眼差しとぶつかった。しばし見つめ合うと、お互いにフッと笑顔になり、彼が右手を伸ばして私の額に触れる。私は何事かと緊張したけれど、熱を測っているのだと分かると、そっと力を抜いた。

「熱は無いみたいだから、大丈夫だな。何か俺にできることがあったら……って、買い物ぐらいしかできないけど、欲しいものがあったら、言ってくれたらいいよ」

「うん、ありがとう。でも、さっき由香里さんが来てくれて、いろいろ買って持って来てくれたから、今のところ大丈夫」

「そっか。美緒の友達は、いい人ばかりだな。類友か」

「いや、そんな。私があまりに頼りないから、皆心配してくれているのよ」

「頼りないからじゃないけど、俺も心配だよ。美緒は一人で無理をするから」

「慧、ごめんね。心配ばかりかけているよね」

「何言っているんだよ。そんなことはお互い様だろ? それに美緒は、良く頑張っていると思うよ」

 彼の優しい眼差しと褒め言葉に、急に恥ずかしくなって、私はうつむいた。

「ううん。私は友達や慧に、甘えてばかりだから」

 私は僅かに首を横に振って言葉を吐き出すと、彼のつぶやきが聞こえて、もう一度彼を見上げた。

「そんな言葉が出るなら、安心だな」

 彼の言葉の意味が分からず、「えっ?」と首をかしげると、彼は苦笑した。

「以前の美緒なら、人に甘えることを良しとしなかっただろ?」

 そうだ、あの頃の私は変なプライドがあって、人に甘えることはしたくなかった。だけど……。

 彼の言わんとしていることが、イマイチ分からなかったけれど、昔の自分の思い上がっていたところを指摘されたようで、恥ずかしくなった。

「以前は自分のことだけ考えていればよかったから」

 私は彼から視線を外すと、恥ずかしさを隠すために言い訳をした。

「美緒、分かっているよ。美緒には守るべき存在ができたから、自分一人ではどうしようもない時は周りに甘えてもいいと思うよ。俺にももっと甘えてくれていいと思うし」

 名を呼ばれて、もう一度彼の方へ視線を向けると、ぶつかった視線がやけに真剣で驚いていると、また彼が言葉をつづけた。

「これからは、二人で拓都を守っていくんだから、お互いに助け合っていこうな」

 まるで決意のように真剣な表情で言う彼に、少し違和感を覚えながらも、私は同意するために頷いた。

「あっ、他にも寄らなきゃいけないところがあるから、そろそろ行くよ」

 彼は急に我に返ったようにそう言うと、持って来たプリント類を手渡した。

「わざわざ寄ってくれて、ありがとう」

 私はプリントを受け取りながら、彼を見上げ、感謝をこめて微笑んだ。

「何か困ったことがあったら、いつでも連絡してくれていいから。拓都のこと、頼むな。美緒も気をつけろよ」

 焦ったように言う彼の言葉に頷きながら、もう一度「ありがとう」と言うと、彼を見送るために後を付いて外へ出ようとしたところで、彼に止められた。

「外は寒いから、出てこなくていいよ。暖かくして、美緒も一緒に身体を休めるといいよ」

「うん、わかった。慧も身体に気を付けてね」

 ドアを開けて外へ出た彼が、こちらを向いて「じゃあ、お大事に」とドアを閉めた。


 砂利を踏む音で彼が遠ざかって行くのを感じながら、おそらく門の前に車を停めているだろうから、もうすぐ車が動き出す音が聞こえるはずと、ドアの手前で息をひそめた。

 見送れないのなら、せめて遠ざかる車の音を聞いてから中へ入ろうと息を詰めていると、いつまでたっても車の音が聞こえない。不思議に思って、ドアを細く開いて覗くと、門の前には車は停まっていなかった。

 えっ? 車の音、しなかったよね?

 彼に対する心配と好奇心で、私は外へそっと出て門の所まで行くと、前面道路を覗くようにキョロキョロと左右を見た。

 あっ、彼だ。

 街灯の明かりと家々からこぼれる明かりだけの夜の住宅街は薄暗く、三軒ほど離れたところにある公園の街灯の下に停めた車に、ちょうど彼が乗るところが見えた。彼が車のドアを開けると、車内灯が点き、車内の様子を浮き上がらせる。後ろからでも助手席に誰か座っているのが分かった。僅かに見えるその後ろ姿は、男性では無い雰囲気がする。そして、彼が車に乗り込んでドアを閉めると、車内灯はゆっくりと消えて行った。

 私はすぐに家の中へ戻ると、ドアを閉めた。

 あれはきっと、同僚の先生と一緒に休んでいる子の所を回っているんだよ。

 他にも寄る所があるって言っていたし。

 ざわつく心に言い訳しながら、私は不安を吐き出すように大きく息を吐くと、心に活を入れて、母親の顔へと戻って行った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ