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いつか見た虹の向こう側【改稿版】  作者: 宙埜ハルカ
第一章:再会編
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【十】学級懇談

「お待たせしてすみません。学級懇談を始めます」

 図書室へ親を待つ子供達を送って行った後、急いで戻って来た担任教師が、教室に残っていた保護者にそう声をかけた時、私は教室の後ろの掲示板に貼られた係の当番表を見ていた。見ていたといっても、視線を向けていただけで、その内容はちっとも頭の中に入っていなかった。拓都が何の係をしているのかさえ、確認する余裕はなかった。

 いよいよだ。ついにこの時が、来てしまった。

 私はゆっくりと振り返ると、皆に声をかけた担任と目が合わない様に、視線を落とした。

 私は今、彼の視界の中にいるのだろうか?


 担任の指図で、保護者達が机を動かし出したのに合わせて、私も手近の机を持って動かす。会議をする時の様に、真ん中に空間を開けて、向い合せに四角く机で囲む。クラスの半分以上の保護者が残っていたが、後の人達は上の子供の所へ行っているのだろうか。

 黒板を背にした席に担任教師が座り、保護者達は彼に向ってコの字型に並べた席に座った。一年生の机と椅子は、こんなに小さかっただろうかと思う程、可愛らしい。

 私は、できるだけ彼の視線から逃れる様な位置を探したが、少人数のため、それは無駄なことだった。

 視界の端で彼を捕えながら、けしてそちらへは視線を向けず、私は彼とは垂直の位置の数人の間に紛れこんだ。

 緊張はピークに達している様な気がする。座った膝の上で、ハンカチを握りしめた手は、汗ばんでいる。私はどんな表情をしているのだろうか。そして、彼は、何を思い、どんな表情をしているのだろうか。

 まともに彼の方を見ることができない私は、彼の様子を窺うことさえできない。確かにそこに存在していることだけを感じている。


「一年間、一年三組の担任をさせていただく、守谷慧です。どうぞよろしくお願いします」

 皆が席に着いたのを確認すると、担任はまず挨拶をした。そして、学級での子供達の様子を話し出した。それから、今後の学級運営について、担任の方針や考えを丁寧に話し始めた。

 私は今更ながら、彼は本当に小学校の教師なのだと、立派に教師を務めているのだと、感慨深げに思った。

 あの「小学校の教師になりたいんだ」と言った夏の公園から、もう五年以上の歳月が経ち、彼は夢をかなえて、元気に教師を務めている。それは、なんて喜ばしいことなのだろう。

 私は馬鹿みたいに自分の罪悪感から、彼との再会を怖がっていたけれど、彼の夢をかなえた姿を見られるなんて、それこそ夢みたいなことじゃないか。

 どうして、まともに彼を見ることも出来ず、怯えた様に緊張しているの? 

 今こそ、彼への祝福を込めて笑顔を向けるべきじゃないの?

 私は彼の話を聞きながら、反省をした。そして、他の保護者達と同じように、担任の方に顔を向けた。今日の彼は、上着は着ていなかったが、ボタンダウンのシャツにネクタイをしている。下半身はよく見えないけれど、黒っぽいズボンをはいている様だ。首から顔写真入りの身分証明書をぶら下げているのは、父兄と見間違われないためか。

「それじゃあ、皆さんに一人ずつ自己紹介をして頂きましょうか?」

 えっ? 自己紹介? そんなのありなの?

 一人反省をしながら、彼の様子をうかがっていた私は、担任の言葉に驚いた。まさか、こんな所で自己紹介をしなければいけないなんて。

 端の人から順番にと言われて、窓側にいた担任に一番近い席の人が立った。

「西森翔也の母親です。よろしくお願いします」と頭を下げると、席に着いた。なんだ、それだけでいいのかと、ホッとした。次々に子供の名前を言って頭を下げていく。どの子の名前も初めて聞く名前だった。いよいよ私の番だ。

「篠崎拓都の母親です。どうぞよろしくお願いします」

 保護者の方に視線を向けて、頭を下げる。そして、担任の方を向いて、小さく会釈した。彼も私を見ていた。一瞬目が合うと、彼は小さく頷いた。

 ああ、目が合ったら、笑顔を見せようと思っていたのに。

 反省したのに、笑顔を作る余裕までは無かった。それでも、一番心配していた三年ぶりの再会の第一歩は、乗り越えられたようだ。私は小さく息を吐くと、肩の力を抜いた。

 最後まで自己紹介が終わると、「何かご質問やご要望がありましたら、おっしゃってください」と、年若い担任は、にこやかな笑顔で皆に向かって声をかけた。数人の保護者が持ち物や家庭学習などについて質問したのに対して、彼はよどみなく回答していく。まだ三年目の新米教師だというのに、貫禄さえも感じさせる安心感があった。


 ひとしきり質疑応答が終わると、本日一番の関心事の学級役員の話題に移った。担任が説明する学級役員の仕事は、由香里さんに聞いた話とだいたい同じだった。

 私はさっき廊下で聞いた守谷先生の噂話を思い出し、ファンクラブまである程の人気の担任教師のクラスの学級役員だから、立候補する人がいるだろうと、密かに期待した。しかし、母親達はシビアなもので、事前の立候補は皆無だという。学級役員程度では、守谷先生にお近づきになれないと思っているのか。やはり現実的に面倒な役員なんて、誰もしたくないのか。期待も虚しく、この調子だとジャンケンかくじ引きになってしまいそうだ。

「どなたか、学級役員を引き受けてもいいという方はいらっしゃいませんか?」

 担任は、人を引き付ける笑顔で問いかけるが、現実的な母親達ばかりなのだろう、皆その笑顔に引きずられまいと、俯いていた。

「しかたがありません。それではくじ引きでもいいですか?」

 否と唱えれば、学級役員を引き受けざるを得ないと思うのか、皆素直にくじ引きを了承した。彼がくじを作るのを見て、私は思い出した。

 そういえば、サークルで買い出し等の役目を決める時、くじを作るのは、いつも慧がしていたことに。

彼が作るくじは何本も棒線を引いて、当りを決めておいて、みなにその棒線を選ばせる単純なくじだ。その彼がある時「棒線の両端は、絶対に当りにしないから、美緒が嫌な時は、両端を選ぶといいよ」とそっと教えてくれた。

 くじを作るのなら、あのときの癖が出るかもしれない。

 案の定、回って来たくじは、単純な棒線のくじだった。私は片方の端に名前を書いた。私はこの時、もしかしたら、自分はこの担任の過去を知っているのだという優越感が、心の中にあったかも知れない。どこか高揚した気分で、名前を書いていたのだから。

 全員が名前を書き入れた後、彼は確かめるようにくじの書かれた紙を見つめて、フッと笑った。そして、折り曲げて隠してあった当りの箇所を確かめると、本年度の学級役員の名前を告げた。

「それでは、西森さんと篠崎さん、よろしくお願いします」

 私は呆然と彼の方を見ていた。彼は私を見て、悪戯っぽくクスリと笑ったような気がした。後からくじの書かれた紙を見せてもらったら、当りは両端の棒線だった。

これは、意図してしたことなのか? 私への意趣返しなのか。


 子供達の机を元どおり直すと、役員に決まった二人は残るように言われ、他の人たちは教室から出て行った。まだ呆然としている私に、もう一人の役員に決まった西森さんが声をかけてきた。

「篠崎さん、だったわよね? 当たっちゃったわね。仕方ないから覚悟を決めて、一年間頑張りましょう。よろしくね」

「あ、はい。こちらこそよろしくお願いします」

 私は、慌てて頭を下げた。すると西森さんは、プッと噴出すと「そんなにかしこまらなくていいわよ」と笑った。私は「はぁ」と答えることしかできない。

「そんなに緊張するようなことじゃないから。私は、一昨年、上の子の学級役員をしているのよ。それなのに、下の子でもこんなに早く当たるなんて。私ってくじ運悪いのよねぇ」

 西森さんはそう言いながら、ケラケラと笑っている。なんだか親しみやすそうな人だ。私は少しホッとした。

「こちらへ来てください」

 担任が、机を三つ向かい合わせにくっつけて、私達を呼んだ。西森さんは陽気に「はーい」と返事をすると、そちらへ向かって歩いていく。私もその後を歩きながら、何となく居た堪れない思いが、心の中を支配していった。

「守谷先生、今年もよろしくお願いします」

 西森さんは、席に着きながら、担任にぺこりと頭を下げた。担任も「ああ、西森さん、こちらこそよろしくお願いします」と笑っている。私がなぜ? と思っていると、西森さんが、「守谷先生は、去年上の子の担任だったのよ」と教えてくれた。

 そういえば、入学式の時、教室へ向かう途中、守谷先生のことを自慢げに話していたのは、この人ではなかっただろうかと思い至った。

 私は、担任と西森さんが座る向かい合った席に垂直にくっ付けられた机の席に座った。そこしか空いていなかったからだ。

 近い、近過ぎる。手を伸ばせば届くところに、彼の綺麗で長い指があった。彼は書類を見ているようだった。私は顔を上げられず、その書類を持つ指を見つめていた。

 息が止まりそうだ。いや、そんなレベルじゃない。この位置で目が合ったら、心臓が止まってしまうかもしれない。

「篠崎さん、すごく緊張していない?」

 西森さんは、私を心配して言ってくれたのだろう。でも、今はそのことに触れないで欲しかった。

「大丈夫です」

 西森さんの方を向いて、何とか笑顔を作ると、そう答えた。

「あ、わかった。篠崎さん、守谷先生があんまりカッコ良くてイケメンだから、緊張しているんでしょう?」

 西森さんは、罪の無い脳天気な笑顔で、そんなことを言う。私の緊張を解こうと思って、言ってくれているのかもしれないけれど、この状態でその発言は、地雷だ。

「そ、そんなこと……」

 ないと言おうと思ったら、西森さんはフフフフと悪戯っぽく笑うと、ワザと地雷を爆発させた。

「わかるわぁ。私も最初そうだったもの。他のお母さん達も同じよ。でもね、浮気はダメよ!」

 私の心臓は、止まったかも知れない。



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