その34 青木晴斗の帰還
原初の神フォスが切り取った空間の先。
そこにあったのは日本全国どこにでも見られる平凡な駅前の景色だった。
夢にまで見た日本がそこにはあった。
フォスは俺との約束を守ってくれたのだ。
俺はボロボロの体で這いずって日本に繋がる扉を目指した。
俺の頭からは全てのものが消し飛んでいた。
日本に帰る。それが今の俺の全てとなっていた。
だから俺が自分の手に触れた何かに目を落としたのは、本当にただの偶然だった。
本来であれば気にしない程度の僅かな違和感。心に浮かんだ僅かな疑問。
実際に俺は、最初は眼に入ったそれが何なのかすら思い出す事が出来なかった。
「ティル・・・シア?」
そう。俺の手に触れていたのはボロボロになった色鮮やかな組みひも。
ティルシアがお守りに巻いてくれたあの組みひもだったのだ。
いつの間にか千切れたそれが地面に落ち、たまたま俺の指に触れたらしい。
その途端、俺の頭は酔いから冷めたように熱が引いた。
最初に浮かんだのは激しい憤りだった。
何故このまま日本に帰ったらいけないんだ? 俺は日本に帰るために今までずっと努力して来たんだぞ。
誰にも俺を止める権利はないはずだ。
次に浮かんだのは苛立ちと焦りだった。
俺は何をしているんだ。日本に帰るためにここまで来たのか?
自分が日本に帰った後、この世界はどうなる。ティルシア達は原初の神フォスに殺されてしまうんだぞ。
だが俺は・・・
俺は目の前の日本の景色を見た。
これは奇跡だ。俺の人生が何十回繰り返されても二度とあり得ない程の最大級の奇跡だ。
その奇跡をみすみす棒に振るのか?
俺は・・・
ティルシア達と約束しただろう。
無事に帰ると。
自分さえ日本に戻れれば彼女達が死んでもいいのか?
・・・
俺は・・・それでも俺は日本に帰りたい。
そう。それでも俺は日本に帰りたい。
この世界は嫌いだ。クズばかりでロクなヤツがいない。
デ・ベール商会のようなろくでもない悪党がのさばっているし、日本では考えられない程人の命が軽い。
仕方が無かったとはいえ、俺ですらこの世界では何人もの人間を殺している。
こんな世界は滅んでしまっても仕方が無いじゃないか。
元々この世界の人類はフォスの力を取り戻すために第三の神が生み出した存在だ。
フォスが元の力を取り戻した今、その役目を終えるだけ。
それのどこが悪い。
俺は神の巫女を見上げた。
吸い寄せられるような美貌だが、相変わらず無表情で何を考えているのかは分からない。
俺は日本に帰りたい。
だが、それでは誰も救われないのだ。
俺はティルシアの組みひもを握りしめ――ようとしたが、手の甲の骨が砕けているのかろくに力が入らなかった。
やむを得ず俺はひもを口に運んで噛みしめた。
このまま俺が日本に帰っても誰も救われない。
全員死んでしまうこの世界の人間は当然として、俺もこの世界で嫌な目に会って逃げただけになる。
そしてフォス。原初の神フォスも救われない。
全ての命を滅ぼした後、彼女はどうなる。
死に絶えた冷たい惑星に一人で君臨するだけだ。
今の俺は彼女の事情も知っている。
彼女は被害者だ。
乱暴者の神々によって面白半分に弄ばれた犠牲者だ。
本来であればその後にこの世界を訪れた第三の神によって、彼女の心の傷は癒されるべきだったのだ。
しかし、あまりに深く傷を負った彼女には彼の差し伸べた手を取るだけの勇気が残っていなかった。
フォスは俺だ。
この世界のクズ共に散々食い物にされて、自分以外の全てを拒絶していた頃の俺だ。
俺はそれでも何とか一人でやって来れた。
そしてティルシアによって自分が既に立ち直っていた事に気付かされた。
フォスに必要なのは環境だ。
彼女は神だが唯一無二の特別な存在ではない。
この世界の外には彼女と同等の生命体が他にも存在している。
だが自分の殻に閉じこもっている彼女には、それを自覚するきっかけがない。
そう。必要なのは気付くためのきっかけ。自分を客観的に見るための他者の視点なのだ。
全てが救われるにはこれしかない。
ティルシア。俺に勇気をくれ――
◇◇◇◇◇◇◇◇
原初の神は訝しんでいた。
目の前の別世界の人間は、ついさっきまでは自分の世界へ帰る門へと向かっていたはずである。
だが今彼は震える足で無理やり立ち上がろうとしている。
一体何をしようとしているんだ?
やがて人間はフラフラと体を揺らしながら、彼女の方へ――彼女のアバターへと向き直った。
今や立っているだけでも苦痛を感じるのか、息は荒く顔色は紙のように白い。眉間には深い皺が刻まれ、額にはビッシリと油汗が浮かんでいる。
原初の神が見つめる中、人間は手を伸ばし、彼女のアバターの手を握った。
それだけでも膨大な情報にアクセスしてしまったのだろう。人間の顔が苦痛に歪む。
だが人間は歯を食いしばって耐えた。アバターの手を離そうとはしない。
本当にコイツは何がしたいんだ?
「原初の神フォスよ。俺からの贈り物を受け取れ。そして願わくば俺の望みを叶えてくれ」
人間の望みとは、自分の世界に帰りたいという内容だったはずだ。
さっきは何故かこの世界の命を助けてくれるように懇願していたが、それは最初の契約には無い条件だった。
だから彼女は拒否した。
しかし贈り物とは何だ? それがこの人間の望みとどう関係する?
彼女が胡乱な目で見つめる中、人間は彼女の手を持ち上げると・・・ボロボロのシャツの上から自分の胸、心臓の位置にあてがった。
「むうっ!」
途端に電流に撃たれたように痙攣する人間。
彼女は人間の胸から彼の抱える情報が流れ込んで来るのを感じた。
それは彼女の総量に比較してあまりにも極小の情報だったが、その内容に彼女は思わず目を見張った。
それ程彼女にとって人間からもたらされた情報は意外なものだったのだ。
彼女は僅かな時間逡巡した。
しかし確実に人間の贈り物は彼女の心を動かしていた。
そして――
◇◇◇◇◇◇◇◇
その日、突然ダンジョンを巨大な振動が襲った。
ハルトのみが感じられる例の振動ではなく、物理的な現象を伴う振動だった。
その大地震は今やダンジョンの真上に建っているスタウヴェンの町も揺るがした。
建物は倒壊し、あちこちで火災が発生した。
せめてもの幸運としては、既に多くの人間が町を逃げ出していたため、地震の規模に比べて人的な被害が少なかった点だろう。
◇◇◇◇◇◇◇◇
月曜日の朝。
ベッドの中から少年の手が伸びると、鳴っていた目覚まし時計を止めた。
これから学校に行かなければならない。
少年はこの春から地元の中学に通う中学生だった。
少年はベッドから下りると、寝間着代わりのジャージを脱いで学校指定の制服に着替えた。
真新しい制服だ。少し袖が長い。
だが今の彼は成長期だ。卒業するころにはむしろ短く感じるようになっているだろう。
少年は部屋のドアを開けると食卓へ向かった。
「おはよう。早く顔を洗っておいで」
母親はキッチンで忙しく朝食の準備をしている。
今日はパートに出る曜日だ。お昼の弁当を作っているのだろう。
父親は既に家を出ている時間だ。
今頃は会社に向かう電車に乗っているに違いない。
「ん」
少年は小さく返事をすると洗面台に向かった。
洗面台の鏡に映る自分の顔。
これといった特徴の無い気の弱そうな顔だ。
黒い髪は中学の校則に合わせて短く切られている。
とはいえ小学校の頃から別に伸ばしていたわけでもないので特に違和感は無い。
と言うよりもこれは――
「・・・記憶の通りの顔だ」
そう。それは”青木晴斗の中学生の時の顔”だった。
家も母親も、そして自分の容姿も、10年前、異世界フォスに転移する直前の青木晴斗の記憶そのままであった。
次回「残された者達」




