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第90話 白い部屋

 薬草と消毒液の匂いが漂う医務室。

 窓から差し込む光は夜明けの名残でまだ薄く、部屋全体に静けさが満ちていた。


 ベッドの上で、サラが小さく身じろぎをした。

 顔色は青白いが、呼吸は穏やか。深い眠りに沈んでいる。


 その傍らに座るのは、学院の専属医務官アリス。

 冷やしたタオルを額に当て直し、安堵の息をもらす。


「……よかった。命に別状はないわ」


 声は低く落ち着き、職務的な冷静さを帯びていた。


 机の上には、簡易検査用の魔術石が並んでいる。

 麻痺毒の痕跡、睡眠系の術式の残滓──そのどれもが「意図的に眠らされた」ことを示していた。


「報告書類まとめて提出しなくちゃね。……ちょうどよかったわ。サラの付き添い、代わってくれる? 目が覚めたら、落ち着かせてあげて」


 アリスは医務室のドアの前に立つエリックに言った。


「はい……」


 エリックが頷くと、アリスは書類を手に取り、医務室を出ていった。


 その後、しばらくしてサラはゆっくりと瞼を開いた。


「……ここ、は……」


 掠れた声が漏れる。


「あ、目が覚めたか」


 傍らの椅子に腰を掛けていたエリックが顔を上げた。

 安心したように微笑みながらも、その緑の瞳にはまだ警戒の色が残っていた。


「……エリック……」


 サラは状況を思い出そうとした。けれど頭が霞がかっていて、はっきりした映像は出てこない。


「うん、あの、私……何も覚えてないんだけど……」


 震える指を胸の前で組む。


「……オルフェさんが……いたような、気がして」


 一瞬、空気が固まった。

 エリックは視線を伏せ、短く息を吐く。


「……サラ。お願いがある」


 声は穏やかだが、切迫していた。


「オルフェが関わってたってこと、誰にも言うな」


 サラは驚いて瞬きをした。


「え……でも、どうして……?」


 エリックは迷いを噛み潰すように言葉を選ぶ。


「今ここで騒げば、学院が動く。動けば相手も動く。

 次は“お前”が標的になるかもしれない。それに、レナもだ」


 サラの喉が小さく鳴った。


「何で……レナが?」


 エリックは目を逸らさない。


「ごめん。理由は今は全部言えない。だけど……お前とレナを守るためなんだ」


 それだけを告げる。


 サラはまだ納得しきれなかったが、彼の眼差しに、小さく頷くしかなかった。



 ***



 レナが目を開けた時、最初に映ったのは白い天井だった。

 けれど、それは学院の医務室のものではない。見覚えのない白。清潔ではあるが、どこか閉ざされた空気をまとっていた。


「ここは一体……?」


 かすれた声で呟いた瞬間、すぐ傍から声が返ってきた。


「レナ。起きたのか」


 レオンが椅子から身を乗り出し、彼女を覗き込んでいた。

 その青い瞳に浮かぶのは安堵と、深い苛立ちだった。


 レナの身体は鉛のように重く、全身に痛みが走った。

 頭はまだぼんやりしている。


 その時──扉が軋む音を立てて開いた。


「おお、ようやく目覚めたか」


 白衣を着た、四十代ほどの男が現れた。

 目元に刻まれた皺と、皮肉めいた笑み。落ち着いた雰囲気に混じって、妙に胡散臭さを漂わせている。


「……だ、誰ですか……?」


 レナの問いに、男は白衣の裾を整えながら飄々と答えた。


「ここは裏社会の診療所でね。学院の医務室じゃ扱えない怪我を運び込む場所さ。

 俺はディアン。──まあ、“闇医者”って呼ばれてる」


 言い方は軽いのに、目だけが状況を数える。


「こいつがすごい形相で君を抱えてな。ここに突っ込んできた。何があったのかは訊かないが……状況が状況だ。ろくなもんじゃない」


 レナが混乱した表情を浮かべると、ディアンは苦笑して付け加えた。


「安心しろ。この部屋は外界から遮断してある。通信も追跡もできない。……来たってことは、そういう事態だったんだろ? レオン」


 レオンは答えない。だが、その沈黙が肯定だった。


 ディアンは器具を手早く整えながら、淡々と続けた。

 魔力を帯びた点滴のような透明チューブが、静かに脈打っている。


「起きたことだし、必要なことだけ言う。君、血を抜かれてたね。とんでもなく貧血だ。薬を飲んで、しばらく動くな」


「は……はい」


 レナの声は、まだかすれていた。


「それで、極大魔術を撃ったんだって? 魔力をごっそり持っていく禁忌魔法。……その割に魔力の流れは不自然じゃない」


 ディアンはチューブを確認し、眉をひそめる。


「だが身体の方が悲鳴を上げてる。元々、魔力耐性のない体だろ。こんな強い魔法を撃ち続けたら内臓に負担がかかる。できる限り、やめておけ」


 レナは小さく頷いた。


 ディアンは魔法陣の刻まれたガラス容器を点滴台に掛け直し、流量を調整する。


「とにかく今は休め。ここなら誰にも邪魔されない」


 そう言って視線をレオンへ流すと、レオンは黙ったまま立っていた。

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