第89話 血の宴、その後
光に呑まれる中で、俺は思い出していた。
俺は、ずっと孤児院にいた。
先生たちは厳しくて、優しかった。
少なくとも、そう“する”人たちだった。
だが、夕方になれば先生たちは帰る。
孤児院の外には、それぞれの家族が待っている。
子ども心にも分かっていた。
先生の“本当”はそっちにある。
ここは「仕事」なだけだった。
対価のない愛を知りたかった。
そんなものが本当に存在するのかを。
俺に感情がないわけじゃない。
ただずっと、理論で蓋をしていた。
そのほうが楽だったからだ。
母に会えば、欠けたものが埋まる気がしていた。
でも同時に、気付いていた。
……俺を捨てた母を、俺は嫌悪している。
頭では理解していた。
会ったとしても、望む答えは手に入らないことを。
***
その瞬間、閃光が世界を裂いた。
全身の神経が異常を訴え、オルフェは反射的に防御結界を展開していた。自動防御式。発動の誤差は限界ぎりぎりで、張っていなければ確実に命はなかった。
赤い光の槍が突き刺さる。
空間が血の蒸気で染まっていた。濃密な魔力。怒りと絶望の波濤。媒介になったのは、奪い取ったレナの血だった。
壁が崩れ、機材が火花を散らし、床が抉れ、天井が軋む。重力が傾いているようにさえ錯覚する。感覚が狂っていた。
それでも。
レナは、まだ立っていた。
ぐらつく身体を支え、赤い髪を乱し、涙をこぼしながら、燃える目でオルフェを睨んでいる。次の瞬間、その瞳が驚きに染まった。数拍遅れて、起きたことを飲み込んだようだった。
「……あ……。……私は、何てことを……。だ……大丈夫?」
掠れた声。あまりにも不釣り合いな問いだった。
オルフェは一瞬、言葉を失った。
追い詰められ、血を抜かれ、逃げ道を削られ、抵抗も無意味と知りながら、怒りを魔力に変えて放った極大魔術。その直後に、目の前の敵を気遣うのか。
殺せばいいはずだった。
そうしたほうが、楽だったはずだった。
胸の奥に鋭い痛みが走る。感情だった。素材ではない。意志を持った人間が、そこに立っていた。
足元でガラスが乾いた音を立てた。
並べられていたサンプルが倒れ、赤い液体が床に滲む。滲んだはずのそれは、熱でもない力に煽られ、泡立つように霧散した。何も残らない。
失敗だ。
けれど、オルフェの口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
「……素晴らしい」
喉の奥で笑いが零れる。
「君の怒りが、君の血が……これほどまでに俺を傷つけるとは。君の感情が、ここまで強靭な魔力になるなんて……」
***
オルフェの術式が、鈍った。張り詰めていた結界が一度だけ脈を打ち、表面に細い亀裂が走る。
エリックはその瞬間を逃さない。
掌を叩きつけ、割れ目に魔力をねじ込んだ。
ぎ、と空気が軋む。
硝子をこじ開けるみたいに結界が裂け、冷たい圧がほどけた。
次の瞬間、エリックは前へ踏み込んでいた。
轟音の余韻が、まだ石壁に反響している。
視界の中心には、血を媒介にして魔力を放った少女の姿があった。
──もう、普通の少女とは言えない。
歴史書でしか読んだことのない“呪われた家系”。
いつも控えめに笑っていた彼女が、その末裔だなんて。
(……洞窟で生き残れた理由が、繋がった。この魔力、異常すぎる……)
奪われた血が媒介になって、威力が引き上げられている。
結界の残滓が揺らぎ、火花みたいに散っていく。エリックは歯を食いしばって駆けた。
レナは、かろうじて立っていた。
その前にいるのは、血まみれで笑みを浮かべるオルフェ。
「大丈夫……?」
震える声だった。
敵に向けた言葉じゃない。瞳には、心配の色さえ宿っていた。
胸がざわつく。理解できない優しさに、背筋が冷えた。
その時。外から近づいてくる、重い足音。
(……レオンだ)
その気配に気づいた瞬間、オルフェは笑みを深めた。
血に濡れた白衣を翻し、足元へ滑るように符を刻む。
転移陣だ。
「また会おう。レナ・ファウレス」
低い声を残し、血の霧と共に姿が消えた。
部屋に残ったのは、焦げた魔力の残臭と、冷えた静寂だけだった。
***
血の霧が消え、静寂が戻る。
転移の余韻がまだ漂う床に、ただレナの荒い息遣いだけが響いていた。
全身の魔力を吐き出しきり、視界が暗転していく。
立っているのもやっとで、指先は冷え、膝は震えていた。
その時、足音が響いた。
規則的で、迷いのない、重い足取り。
「……レナ」
金髪の少年が現れた瞬間、レナの胸に熱と安堵が溢れた。
「……レオン……」
呼んだ途端、力が抜けた。
まるで張り詰めていた糸が切れたかのように、膝が崩れ落ちる。
倒れ込むその身体を、強い腕が抱きとめる。
胸板に顔が触れた瞬間、もう我慢できなかった。
「馬鹿……どうして一人で……」
掠れる声で呟くレオンの肩越しに、彼の瞳が鋭く光る。
だが怒りは自分に向けられていない。
すべては、彼女を傷つけた存在へ。
「もう、無茶するな」
その低い声が、震える身体に染み込んでいく。
レナはかすかに首を横に振り、彼の胸元にすがりついた。
「……ごめん……」
瞼が重くなり、世界が遠のいていく。
最後に見たのは、青い瞳に宿る烈火のような光。
レナは静かに意識を手放した。
***
床に残った転移陣の痕跡を、一瞥してレオンは低く吐き捨てた。
「……オルフェ……逃げたな」
すぐ後ろから、乾いた声が返ってくる。
「遅えよ」
壁際に立つエリックの表情は険しく、額に汗が滲んでいた。彼の腕の中では意識を失ったサラが眠っている。その姿が、この場所で何があったのかを雄弁に物語っていた。
レオンは腕に抱くレナを見やり、鋭い視線をエリックへ向ける。
「……何があった?」
エリックは短く息を吐いた。
「オルフェがレナの血を抜いたんだ。かなりの量、やられてると思う」
一瞬だけ言葉を切り、青ざめた横顔を伏せる。
「それで……レナが怒って、極大魔術を使った」
「……極大魔術だと?」
レオンの声が僅かに揺れた。驚愕が滲む。
「そう、禁術だよ」
エリックは淡々と告げる。
「使えば全魔力を喰われて、体がぶっ壊れるやつ。何でレナが知ってたのかは知らない。でも、オルフェに抜かれた血を媒介に使用したんだ。」
レオンは腕の中の少女を見下ろした。
弱々しく呼吸を続けているその姿に、胸の奥に鋭い痛みが走る。泣き顔は何度も見てきた。だが、怒りで力を解き放つレナの姿など、一度として想像したことはなかった。
「……素材扱いされたら、怒りもするよな」
小さく呟く声には、苦い感情が混ざっていた。
「サラは?」
レオンは短く問う。
「眠ってる。無事だ」
エリックは答えた。
「……わかった。レナは……学院の医務室には連れて行けない。これだけの怪我は怪しまれる」
「そうだろうな」
エリックが肩をすくめる。
「サラは医務室に連れていく。そいつを頼むよ」
彼は意識を失ったサラを抱え直し、歩き出す前に振り返った。その視線には、どこか確信を帯びた色が宿っていた。
「エリック、お前……レナの血を知ったな」
レオンの声は低い。
「ああ」
エリックは真っ直ぐに頷く。
「口外するなよ」
「当たり前だ」
鼻で笑い、短く返す。
「俺が喋るやつに見えるなら……相当見る目がないぞ、お前」
レオンは僅かに目を細め、ふんと鼻を鳴らすだけだった。
それ以上は言葉を重ねない。
重苦しい沈黙の中、レオンはレナを抱き直し、崩れた研究所を静かに後にした。




