第77話 異質な血液
(少しだけ……大通りの近くだし、大丈夫、だよね?)
学院の門を出る前、レナは何度もそう自分に言い聞かせていた。確かに学院からそう遠くはない。目的地は、大通りに面した文具店。学院用の記録紙と、万年筆の替え芯を買うだけ。すぐに戻るつもりだった。
(レオンも、「必ず大通りを歩け」って言ってたし……)
その言葉を思い出して、少し胸があたたかくなった。心配性すぎると感じることもあるが、彼の言葉にはいつも“根拠のない安心感”がある。
昼下がりの陽射しは柔らかく、通りには人の流れもある。今のところ、危険な気配はない。
(さっさと買って帰ろう。……うん、平気。ここなら大丈夫なはず)
そう思った、その瞬間だった。
ふと、視線の端に何か“ひっかかる”ような感覚があった。
何気なく、通りから一本奥に入った細い路地を横目で見る。
(……え?)
それは、瞬間的に脳が判断を拒むような光景だった。
制服姿の少女が、何者かに腕を掴まれて引きずられかけている。
辺りに悲鳴はない。路地の奥は人通りが薄く、声をあげる前に押さえられたのだろう。
大通りとの境目には、ザイラスが事前に用意していた薄く歪んだ結界。路地の内側で上がる気配も声も、外には届かない。
「……っ」
レナの足が、わずかに止まった。
身体が、反射的に動こうとする。だが同時に頭では考えていた。
(どうしよう、助けないと……あの子、殺されちゃう……でも。私じゃ力がない……)
そう思いながら距離をとりつつ路地へ足を進めた。
瞬間、路地の奥にいた“男”が顔をこちらに向けた。
場違いな程明るく笑う青年の瞳が、真っ直ぐにレナを捉える。
「……君、見たことあるなあ。公園で、金髪の隣にいた子かな?へぇ、偶然ってあるもんだねぇ」
男の声が、軽く弾んでいた。まるで買い物か何かの“当たり”を引いたかのように。
「今日は一人でお出かけ?こんなところにいたら、危ないよぉ?」
公園でレオンと戦っていた、あの男──ザイラス・カイゼル。
彼に腕を掴まれている少女は、既に脚から力が抜けていた。麻痺毒か何かを打たれたのだろう、抵抗する素振りすら見せない。
ザイラスは喉の奥で笑う。
「……二人ゲットかなーあ?」
その言葉に、レナの背筋が凍った。
***
(逃げなきゃ……大通りに戻れば、人がいる……!)
レナは反射的に体を翻し、光の差す大通りへと駆け出そうとした。
だが、その瞬間。
──ずるり。
背後から、冷たい“何か”が足首を掴んだ。
影だった。夕陽に伸びた路地の影が、まるで意志を持った生き物のように蠢き、彼女の足を絡め取ったのだ。
「っ……!? いやっ……!」
必死に足を振り払おうとしたが、粘りつく闇は逆に強く締まり、彼女の体をずるずると後ろへ引き摺っていく。
手を伸ばしても、届くのは乾いた石畳だけ。爪が割れるほど必死に掻きむしっても、抵抗は無意味だった。
視界が強制的に暗がりへと戻され、そして──
引き摺られるままに辿り着いた先に、ザイラス・カイゼルがいた。
「はい、捕まえた」
耳元に、軽薄な声が落ち腕を掴まれた。
その瞳は愉快そうに細められ、逃げようともがいた彼女の恐怖を、まるで玩具のように弄んでいた。
「離して……!」
レナは声を上げると同時に、掴まれた手を思い切り振り払った。そして、ポケットの中に忍ばせていた青魔石の力を放って逃げようとする。
「ふーん、それ、青魔石? 珍しいなあ、持ってる子がいるなんて。でも青魔石じゃあ赤魔石には勝てないよね」
彼は楽しげに言う。
「まっ、これは本物とは違うけどさ。普通の人間から作った“コピー”。実験中ってとこかな。君、一応魔術師?あんま魔力なさそうだけど……多少は作れるかなあ」
「……普通の人間の血から赤魔石を作るなんて……狂ってる」
レナの声はかすれ、震えていた。
ザイラスは笑う。
「研究成果だよ。ファウレス家の呪われた血だけじゃ足りないし、いずれ枯渇する。大量生産できた方がいいと思わない?」
ザイラスが細身の短剣を抜いた。レナはかろうじて回避を試みるが、鋭い刃が腕を切り裂いた。
「──痛っ…!」
腕から血がどくどくと流れる。
ごく普通の、少女の血。
それだけのはず、だった。
だが──
「……ん?」
ザイラスの動きが、不自然に止まった。
笑みを浮かべたままの顔が、レナの腕に伝う血をじっと見つめていた。
目を細める。ほんのわずか、舌が唇を舐めたように見えた。
「……今、君……血、出たよね?」
「……なに……?」
「いやさ、別にさ。血くらい、誰だって出るけどさ」
ザイラスは笑っていた。
まるで、子供が面白いおもちゃを拾った時のように。
「──君のそれ、普通じゃないよね?」
レナの背筋に、ぞわりと寒気が走った。
なぜ気付くのか。“その程度の血”で。
(……魔力なんて通してないのに)
ただの擦り傷、魔力を流していない無防備な血液。
本来なら、誰が見たって“ただの血”で終わるはずだった。
だが、ザイラスはそれを“識別”した。
しかも、一瞬で。ほんの微細な“揺らぎ”を、正確に。
「もしかして君……研究対象にしたら、面白いことになるんじゃないの?」
乾いた笑いが喉の奥から響く。
(なんで……気づけるの……)
身体が震える。
この男は、人を“素材”として見ている。
血の濃度も、温度も、魔力の波形も、すべて“解析”していた。
その異常なまでの執着が、“わたしの血”の異質を、無意識に見抜いたのだ。
レナは一歩、後退した。
その一歩が、無意識のうちに──命を守るための、本能的な“拒絶”だった。
「──君のような子が、一番“実験映え”するんだよね」




