第6話 苛立ちの理由
午前の実技室での訓練が終わり、廊下を歩く。
「……今日は、よく動けてたな」
隣から、不意にレオンの声がした。
「え?」
思わず立ち止まり、レナは目を瞬かせる。
褒められるとは思っていなかった。
「結界の綻びを見つけた時もそうだが……無駄に慌てないのは悪くない」
レオンは前を向いたまま、淡々と話す。褒め言葉というより、観察結果を述べるような声だった。
「……それって、褒めてるの?」
レナが少し笑い混じりに尋ねると、彼はわずかに口元を歪める。
「どうとでも取れ」
それだけ言って歩き出す。以前なら、無言で去っていったはずだ。けれど今日は、廊下の曲がり角まで、彼は歩調を合わせていた。
レナはその背中を見ながら、小さく首を傾げる。やっぱり、少しだけ変わった気がする。
「あっ、そうだ。一応言っとこうと思って。バイト、決まりそうなんだ」
レオンはその顔をちらりと見て、思わず目を細めた。
「……お前、年齢誤魔化したんじゃねぇのか」
「当たり前でしょ。『十五です』って言った」
レナはさらっと言って、パンの袋を指先でくしゃっと握り直した。
レオンは返す言葉を探して、一拍だけ黙る。
「どこでバイトするんだ?」
「街の小さなカフェだよ。表通りから少し入ったところ。雰囲気すごくいいよ。よかったら、来る?」
「嫌だ。面倒くさい」
「だと思った。そういうの苦手そうだもんね」
「……ああ。苦手だ」
ふと、想像が滑り込む。
彼女がそこで他の誰かと笑っていたら。
客の男たちと、気軽に話していたら。
胸の奥に、さっきから消えない雑音が生まれる。
理由が分からないのが、いちばん気に食わない。
(……なんなんだ、俺は)
だからレオンは黙って、空を仰ぐ。空はどこまでも青く、やけに高かった。
***
その日は、レオンにとってたまたまだった。
裏の依頼を一件こなし、報酬の入った袋の重さを確かめながら、街を抜ける。情報の受け渡しも済んだ。あとは学院へ戻るだけのはずだった。
だが、視界の端に入った一軒のカフェが、足を止めさせた。
(……ここか)
レナが「バイト先」だと言っていた場所。まさか本当に年齢を誤魔化してまで働いているとは思っていなかった。けれど、あいつならやりかねない。そういう確信だけは、妙に正確だった。
扉のベルが小さく鳴った。誰かが出入りしただけだ。レオンは中には入らず、店の外からガラス越しに覗き込む。
カウンターの奥に、エプロン姿のレナがいた。
忙しそうに立ち働き、客に笑いかけている。注文を受け、ドリンクを用意し、すばやく配膳して、よろけたトレイを慌てて立て直しながら、深く頭を下げた。制服の時より動きが速い。失敗しても、すぐ取り戻す。
(……本当に詐称してんのかよ)
唇の端が、かすかに歪む。
(見た目も声も幼いのに、よく通ったな。……意外と、ちゃんとやってる)
そう思った瞬間、自分に少し戸惑った。
戦闘には向いていなくて、よく転んで、すぐ泣きそうになるやつ。それがレナだと思っていた。だが今そこにいるのは、自分の足で立ち、働き、誰かの役に立とうとする普通の少女だった。
客の笑顔に、レナが笑顔で返す。その光景が、胸の奥をざらりとひっかいた。理由は、分からない。分からないのが気に食わない。
レオンは一度、カフェから目を逸らした。
だが、その場から足が離れなかった。
ふと、今日の昼のことが浮かぶ。
(……今日のあいつ、とうとうパンすら食ってなかったな)
屋上で安いパンをつまむだけ。食堂の質素なセットすら、頻繁ではない。支給金が少ないだの何だの言っていたが、あんな食生活で身体がもつはずがない。
最近、医務室にもよく運ばれている。小柄なのも栄養のせいだとしたら、納得がいく。
別に特別なことじゃない。
ただの、飯。
ただの、栄養補助。
無駄に倒れられたら、パートナーの自分に支障が出る。そう自分に言い聞かせる。
店の前に立ち、扉に手をかけた、そのとき。
ガラス越しに見えた。
カウンターの奥。バイト終わりらしいレナがエプロンを外し、店長らしき男と笑っていた。
次の瞬間、店長の手が彼女の腕に触れた。
レナの笑顔が一瞬だけ引っ込み、肩が小さくすくむ。
半歩だけ距離を取る。
それを見た瞬間、胸の奥に、ぐつぐつと何かが煮えたぎる感覚が広がった。
(……何してやがる)
音が遠のく。光が薄れる。代わりに、頭の中に冷たい計算だけが浮かぶ。
(殺すか)
その言葉が、ごく自然に思考を支配した。指先に魔力が滲みかける。だがレオンは奥歯を噛みしめ、その衝動をねじ伏せた。
(……違う。今はそんな用じゃない)
静かに扉を押して、店内に入る。
ベルが鳴る。レナが顔を上げ、ぱっと表情を明るくした。
「レオン? どうしたの?」
「バイト終わったんだろ。飯、まだだろ? 行くぞ」
「……え?」
「何だ。食わねぇのか?」
「あ……ううん、行く!」
レナは店長にぺこりと頭を下げ、急ぎ足でレオンのもとへ駆け寄ってくる。
レオンはちらりと、その背後の男へ視線を向けた。笑みはない。温度のない目だけが刺さる。
(……次、触れたら)
言葉にする必要もない。考える必要もない。そういう処理が、体に染みついている。
レオンは先に歩き出した。
ただの飯だ。それ以上でも、それ以下でもない。
本当は、そうであるはずだった。
***
小さなレストランの窓辺の席。温かな灯りが卓上を丸く照らし、焼けたバターの匂いが鼻先をくすぐる。外の通りはもう暗く、ガラスの向こうの街灯が滲んでいた。
レナはメニューを両手で持ち、久しぶりのまともな食事に目を輝かせている。目が、ほんの少しだけ子どもになる。
「ねえ、これ見て。ハンバーグにチーズ乗ってる。美味しそう……! あっ、でも少し高いかな?」
「……好きにしろ。遠慮すんな」
レオンはそう言いながら、落ち着かない視線を隠せなかった。向かいの少女は何の警戒もなく、メニューと睨めっこしている。ここまで連れてきたのは自分なのに、その無防備さが妙に目につく。
注文を済ませ、料理が届く。湯気が立ち、鉄板の上でソースが小さく弾けた。
レナは「いただきます」と言ってから、フォークを手に取る。ひと口目を運ぶ前に、いちどだけ息を吸った。匂いを確かめるように。
(……俺は、何故こんなところにいる?)
レオンは自分に問い返す。たかが一食。たかが付き合い。そう言い聞かせてきたのに、腹の奥で静かな渦がほどけない。
さっきの店長の手と、レナの笑顔が消えた一瞬。
なぜ、あれほど苛立ったのか。他人が何をしようと関係ないはずだ。
レナがチーズの伸びる糸を見て、小さく目を丸くする。嬉しさを隠せない。
その光景が、胸の奥をざらりと擦った。
「……ほんとに奢ってくれるなんて、びっくりしたよ」
「別に。仕事の報酬が入っただけだ」
「うん……でも、嬉しい。ありがとう」
レナは柔らかに微笑んだ。何も疑っていない顔。礼儀でも演技でもない。
レオンは目をそらした。見ていると、理由の分からない熱が浮く。
「……やっと、笑顔になった」
「え?」
「……何でもない。食え。まだ足りてねぇだろ」
言葉はぶっきらぼうにしか出てこなかった。
苛立ちの理由が、自分でもわからない。
それが一番、面倒だった。




