第76話 月夜の独白
思い出すのは、平和だった頃の記憶。
母と歌いながら歩いた小道。
隣家の少年と遊んだ庭。
初めて見た自分の血の色の魔石。
ふっと思い出したのは、似ていたからだろう。
夕方、聞き覚えのある童謡を歌う少女と、手を引く母親をレナはすれ違いさまに見た。
幸せだったあの頃。
もう手の届かない過去だと思ってはいても、胸の奥ではまだそれを渇望している。
***
レナは真夜中に目覚めた。
あの日見た炎を今も覚えている。
運命に対する業火のように、揺らめく炎の前に立ち尽くした。
フラッシュバック──
あの日から数年経って、記憶そのものは忘れたいせいか薄ぼやけている。それなのに、感覚だけは今も鮮明だ。
(ダメだ、今日は、眠れない。)
ベッドから這うように起き上がると、窓の外の月を見た。穏やかな月明かりだ。
強くなりたい。そう願っていても本質は変わらない。
精神的な脆さは隠せない。レナは胸の真ん中に触れる。
ぎゅっと締め付けられるような心の奥。
目を瞑り深呼吸してみる。
「お母さん……」
小さな声で呟いた。
レナが呼んだ声は空中に溶けて儚く消えていった。
この部屋には自分しかいない。
そんなことはわかっていた。
それでも、もう一度名前を呼んだ。
本当は、もう少し助けがほしい。側にいてほしい。
孤独には慣れていたはずなのに、今は抱きしめてほしい。
不意に温かな日々を思い出してしまったから。
頬を伝って涙が流れる。
何度名前を呼んでも虚しく部屋に響くだけだった。
会いたい。
二度と会えないのは分かっている。
生が記憶の連続なら、死は記憶の断絶だろう。
死ぬということは、消えることだ。
思い出も、自分という存在の感覚さえも、永遠に消える。
たとえ今、再び会えたとしてもそれはもう、生きていた頃の“母”と微妙に違うのかもしれない。
視線を窓の外に向けた時、金色の髪が夜道を横切った。
レオンだ、とすぐに分かった。こんな夜中まで、何をしていたのだろう。外は危険だと散々言われているのに……。
(……どうして、何も怖くなさそうに歩けるんだろう。レオンにとっては、これくらい危険のうちに入らないのかな)
そう思って見つめていると、ふいに視線が合った気がした。レナは慌ててカーテンを閉める。
(泣いている顔なんて、見られたくない……)
静かな部屋の中に、自分の心臓の音だけが響いていた。
***
しばらくして、ドアを叩く音が聞こえた。
「レナ? まだ起きてるのか」
低く落ち着いた声。
レナは慌てて涙を拭き、震える声で答えた。
「えっ……あ、うん。なんか、目が覚めちゃって」
「……泣いてるのか? 何があった? ドアを開けてくれないか」
迷った末に、レナは扉を開けた。
「少し、昔を思い出しただけ。もう大丈夫」
そう笑った顔は、健気で、儚くて、あまりに脆かった。
レオンはその笑みに何も言わず、表情を変えない。
彼女が思い出したであろう“昔”──それは自分にとって突き刺さる刃。
絶対に知られてはいけないものだった。
「……部屋、入っていい?」
レナは小さく頷き、彼を迎え入れる。
「ここ、酒あるのか?」
「あるわけないでしょ」
「それは残念。……まあ、いいか」
レナはくすっと笑い、わずかに空気が和らぐ。
「……部屋、戻らないの?」
「お前、眠れないんだろ? 朝まで付き合ってやるよ」
レオンが微笑んだその横顔は、不思議と安心をくれた。
二人は他愛ない話をしながら時間を過ごし、夜明けが近づくころ──
レナはベッドの上で、彼の手を握ったまま眠りについた。
レオンはその寝顔を見つめ、静かに呟く。
「俺が側にいるよ。ずっとお前を守るから」
嘘で塗り潰した過去や秘密の中でも、その言葉だけは本当だった。
守ることで償いになるだろうか?
いや、これは贖罪とは違う。
いつか真実が白日の元に晒された時に、少しでも憎んでほしくないだけの自己保身だ。
犯した罪は消えない。
償うことすら出来ない罪を背負って生き続けるしかない。
彼は眠る彼女に囁くように、誰にも届かぬ声で言った。
「早く、俺のものになってほしいな」
淡く、切ない声だった。
だが、その裏に潜んでいるのは、強すぎる決意だった。
彼女を自分のものにしてしまえば、もう後戻りはさせない。逃がさない。
──豪華な鳥籠に閉じ込めて、羽根を折って、愛でていたいから。
***
翌朝、学院の中庭。まだ人の少ない早朝の静寂の中で、レナはいつものベンチであくびをしていた。
(ああ、ちょっと寝不足かな?昨日、遅くまで起きてたから──でも、安心して眠れた気がする。レオンが手を繋いでいてくれたからかな)
背後から声をかけられて、ようやく気配に気づいた。
「……おはよう」
穏やかな声に彼女が振り向くと、そこには見慣れた銀髪の青年──オルフェ・クライドが立っていた。
表情は変わらず無機質で、白衣の裾がわずかに風に揺れている。
「……おはよう。オルフェ、久しぶり……」
そう言ってレナが微笑むと、彼はほんの一瞬、反応に迷ったように間を空けた。
「……ああ。最近……忙しくて」
「結界の修復、お疲れさま。噂になってたよ、キメラもいたって……」
レナが心配そうに言うと、オルフェは頷く。
だが、その仕草は妙にぎこちなかった。
「問題はなかった。少し……思ったより面倒だったが」
(……違う)
レナは気づいた。
いつものオルフェなら、“冷静に観察し、核心だけを述べる”はずなのに、今の彼はどこか“よそよそしい”。
「……何か、あったの?」
そう尋ねた瞬間、彼はわずかに表情を止めた。すぐに首を横に振ったが、その目はレナをまっすぐには見ていなかった。
「……何も」
そう言いながら、彼の指先は無意識に、首元のペンダントへと触れていた。
震えていた。わずかに、かすかに。
オルフェは言葉を濁すように「じゃあ」とだけ言って、そのまま背を向けた。
レナは、残された空気に目をぱちくりとさせる。彼の様子は明らかに変わっていた。
まるで、何か大きな“決断”の前で、彼が揺れているような。
***
書類を閉じる音が、静かな部屋に響いた。
レオン・ヴァレントは、机に肘をつき、何気なく手元の報告書に目を落とした。
──“禁術の疑い。対象:オルフェ・クライド。死者蘇生に関する魔術構成を複数確認。”──
「……死者を、生き返らせる……?」
乾いた笑いが漏れる。
机に置かれたペンが、カツンと音を立てた。
「……夢物語だな。あの変態らしい」
オルフェ・クライド。
“感情を持たない理論主義者”の仮面を被った、異常者。
その手が“蘇生”に伸びたと聞いたとき、レオンはただ冷笑するしかなかった。
「死んだ者を、還すだと……」
愚かだと思った。
どうせ、成り立つはずもない術式。
たとえ肉体を再構成しても、魂は戻らない。
それはただの“影”だ。
喪失を慰める、粗悪な模倣品に過ぎない。
もし──ほんのわずかでも、指先が届くのだとしても。
たとえ、死者が還る道が、この世のどこかにあるのだとしても。
「……俺にはそんなものに手を伸ばす資格は、ない」




