第75話 助けられたサラ
その日、サラは一人だった。
本当は「一人で行動するな」と言われていた。
だが──
レナに迷惑をかけたくなくて、ほんの数分で済むと思った。その結果、どうしても一人になってしまったのだ。
学院の購買でレナと別れたあと、忘れ物を取りに行くために校舎裏の資料棟へと向かっていた。
(忘れ物とったらすぐに戻ろう! 本当にそれだけだし! 校舎の裏だよ? 外に行くわけじゃない)
自分を奮い立たせるように思った。
夕方、赤く滲む夕陽が鈍く空を染め、細い小道には人影がない。風が止み、空気がじっとりとまとわりつく。
(……変だな。誰もいない)
その時だった。
──ざぁっ。
足音。自分のものではない、もうひとつの気配。
「……誰か、いるの?」
振り返るが、誰もいない。
(……気のせいじゃない)
そう思った瞬間、背後で空気が裂けた。
「っ──!」
反射的に飛び退く。
足元を黒い“何か”が這うように滑っていった。
人の形をしているが、関節の位置がおかしく、皮膚はただれ、魔力の濁流が呻くように漏れ出している。
「な、なに……あれ……!」
サラは結界を展開する。
だが、魔物の腕は術式をすり抜け、冷たい感触で彼女の腕を掴んだ。それは生きていない。“死”の感触だった。
「はなっ──してっ!!」
叫び声が響いた瞬間。
──バシュッ!
空気を裂く鋭い音。
黒い腕が焼け、魔物が悲鳴を上げる。
「っ……!」
サラは崩れ落ちるように尻餅をつき、目を見開いた。
魔物の背後に、学院の制服を着崩して白衣を羽織った青年が立っていた。
「……運がいいね。君」
低く、気だるげな声が響く。
無造作な銀髪、紫の瞳。
──オルフェ・クライド。
「学院の命で巡回してただけなんだけど……どうやら、間に合ったみたいだね」
サラは震える声で「ありがとう」と呟いた。
だが、麻痺毒に侵された腕は震え、力が抜けていく。
オルフェは無言のままその体を支えた。
***
医務室で、治療師のアリスが慌ただしく手を動かし、解毒と治療を施す。
「危なかったわね……でも、さすがSクラス。オルフェ、ありがとう」
「気にしなくていいよ」
淡々と答える青年の声は冷静そのもの。
周囲から見れば、彼はただの救い主だった。
だが。
(模造赤魔石……か。あの男の実験は終わっていなかった。今度は“学院”に手を伸ばしてきている。魔力を持った生徒たちを──)
思考の途中で、ふと浮かぶ一人の少女の姿。
──レナ・ファリス。
(……狙われる)
背筋に冷たいものが走る。
もしこの場にいたのが、彼女だったら。
もし、あの実験狂の手に渡ってしまったら。
次の瞬間、彼の中で何かが音を立てて捻じれた。
(ザイラスに奪われるのは困る。あの男の手でレナを粗雑に扱われるのは、研究価値の毀損だ)
静かな視線が、ベッドで眠るサラを見下ろす。
(……この女は、レナ・ファリスの友人、か)
***
サラを医務室に預け、扉を閉じる。
静かな廊下に出た瞬間、オルフェの瞳から温度が消えた。
彼は再び、資料棟裏の現場に戻る。
焼けた匂い、崩れた壁、そして散らばった魔術の残滓に手をかざすと空間に刻まれた痕跡が淡く浮かび上がる。
──歪んだ転移陣の符号。
学院や軍部の体系とは明らかに異なる、粗雑で異質な構文。
(ザイラス・カイゼル……あの男の手だな)
残されたのは断片的な座標の一部。
完全な位置を割り出すことはできない。
だが、術式の揺らぎ方から、帰還先のおおよその方角を察することは可能だった。
北西。旧区画。
オルフェは静かに目を細める。
その唇に、かすかな笑みが浮かんだ。
「……なるほど」
それ以上は言わなかった。
けれど、その心の内にはもう、次の一手が形を成しつつあった。
***
薬の匂いが漂う医務室のベッドに、サラは静かに横たわっていた。麻痺毒の影響はすでに抜けつつあるが、動悸と震えはまだ残っている。
傍には、やや年上の治療師の女性、アリスが座っていた。柔らかな髪を後ろで束ね、冷えたタオルをサラの額に当てながら、優しく語りかける。
「……落ち着いてきたわね。もう少しだけ休んでいなさい」
「……はい。ありがとう、アリス先生……」
声は掠れていたが、瞳はしっかりと誰かを探していた。アリスが察するように微笑む。
「……レナのこと?」
サラは一瞬驚いたように瞬きをし、恥ずかしそうに目を伏せた。けれど、やがて小さく、うなずいた。
「……忘れ物取りに行くって言って別れたから、レナは大丈夫かなって思って……」
薄布の下で、手が小さく震えていた。自分が“たまたま”狙われたのか、それとも“何か”の始まりだったのか。それすら分からない中で、心に浮かぶのは、あの、優しい赤髪の少女のことだった。
「大丈夫よ、レナなら寮に戻ってるわ」
「……ほんと、ですか……?」
アリスがゆっくりと頷いた。
「ええ。レオンと一緒だったのを見かけたから、絶対大丈夫よ」
その言葉に、サラはようやく、深く安堵の息を吐いた。
シーツを握っていた指が、そっと力を緩める。
「よかった……」
その小さな声には、ささやかな友情の温度が宿っていた。
***
「~♪」
薄暗い地下室に、狂気じみた鼻歌が響いていた。
ザイラス・カイゼル。
彼の前には、幾つもの装置と魔術陣が並ぶ。
管で繋がれた一般人や魔術師たち、そして学院の生徒──血を抜かれ、半ば白目を剥いた状態で転がっていた。
「ほらほら、もうちょい頑張ってよ。あんたたちの“魔力持ちの血”がなきゃ、精度が落ちるんだからさぁ」
ザイラスは愉快そうに笑い、抽出された血液が結晶化していく工程を見つめた。赤黒く光を放ち、鼓動のように脈動するそれ──赤魔石の亜種。
「やっぱりファウレス家の血じゃなくてもいけるじゃん。ちょいと精製が荒いけど……このサイズならマンティコア級に丁度いいね」
怯えた声が聞こえる。
「た、頼む……殺さないで……家に、娘が……」
「んー、娘?へぇ、良いこと聞いた。次はその子も使ってみよっかな。──血筋って、続いてると精度が良くなるんだよね、マジで」
無邪気な声で、彼は赤魔石を手に取り、ニヤリと笑った。
「さて、次のマンティコアの核は……どいつの血にしようかなぁ」
工房の壁には、記録魔法で映された街の地図が浮かんでいる。
次の標的を選ぶ、それはまるで「新しいおもちゃ」を探す子供のようだった。




