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Fated Oath ―誓約の果て―  作者: りんごあめ
第ニ章 真贋の饗宴─ Carnival of Blood
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第68話 レオンへの通達

 公園の端にある、誰も寄り付かない古びた水場。

 この場所は幸いキメラから壊されていなかった。


 ひび割れた石の洗い台から、鉄臭い水が音を立てて流れ落ちていた。


 レオンはそこで、血のついた手を洗っていた。


 ぬるい水が、指先を伝う。爪の隙間に入り込んだ血がなかなか落ちず、何度も擦る。その動作は無感情で、ただ“汚れ”を落とすためだけのものだった。


 (……まただ)


 ぽたり、ぽたりと赤い血が流れていく。落とすたびに、自分が何かを“削いでいる”ような感覚があった。


(レナが怯えた目で、見ていた)


 彼女の瞳にあった、怯え。助けたはずなのに。守ったはずなのに。あれは──間違いなく、恐怖の目だった。レオンは、水面に揺れる自分の顔を見つめた。その瞳は、どこまでも無機質で、口元は笑っていなかった。鏡のように揺れる水の中の“それ”は、もはや──“人間”ではなかった。


「……何を、守ったんだ。俺は」


 ぽつりと呟いた声は、風に飲まれて消えた。


 水が止まり、レオンは静かに手を払った。血の色はほとんど消えたはずなのに、指先にざらついた感触が残っている。背を向け、洗い場を後にして公園の小径に戻ると、レナが立っていた。


 まだ震えたままだが、どこか不安げに、真っ直ぐに彼を見ていた。レオンの足が、自然と止まる。レナが、ぽつりと口を開いた。


「……ありがとう」


 その声は、小さく掠れていた。

 けれど、確かに届いた。


「……さっき、言えなかったから」


 ただ、それだけの言葉だった。レオンは目を伏せた。その瞬間、自分の中に残っていた“人間”という名の何かが、わずかに息を吹き返した気がした。


 (……ああ、そうか)


 この言葉を、どこかで待っていたのだ。

 あの“恐れの目”に、完全に沈まぬように。


 彼女の一言だけで──救われるほど、

 自分はまだ、“壊れきって”いなかった。


「怪我は、ないか?」


「大丈夫だよ」


「……騒ぎが大きくなる前に、ここを離れるぞ」


 戦いが始まる前と何一つ変わらない冷静な声だった。


 “あの”殺気を孕んだ人間と同じとは思えないほど、落ち着いた声。レオンはそれ以上、何も言わずに歩き出した。



 ***



 夕暮れの街に再び静寂が戻った。


 先ほどまで暴れていたキメラの残骸は、破砕された肉片と焼け焦げた匂いを残し、公園の中央に横たわっている。


 風が吹く。瘴気はすでに散り、ただの“屍”となったその中心にひとつ、足音が降りた。


 石畳に靴音を刻みながら、白銀の髪の青年が現れる。


 オルフェ・クライドだった。


 ゆっくりと歩を進め、キメラの亡骸の傍に立った彼は、躊躇なく手を伸ばす。誰も近づけぬ死骸に、ためらいなく触れるその姿は──別の意味で恐怖を煽った。


 手袋を嵌めると、ぬめりの残る肉の奥から、砕けかけた赤い魔石を取り出した。


 掌に乗せ、光にかざす。多面カットの輝きは、確かに赤魔石特有の脈動を持っていた。


「……まがいもの」


 ぽつりと呟いた声は、どこまでも冷たかった。


 瞳に揺れる感情はない。

 あるのは、分析と、否定だ。


「本物の赤魔石には……こんな歪な魔力の揺らぎはない」


 言いながら、指先で石を弾く。赤い欠片が空中に浮かび、魔力の燐光を散らして消えていく。オルフェはそれを最後まで見届けると、何かを確認するように小さく頷いた。


「設計式は悪くない……でも、肝心の血が違う。“ファウレスの血”の反応じゃない。これは、普通の人間の血、か?」


 彼はひとつ深く息を吐き、封印式のペンダントに手を添えた。


(赤魔石を模倣する者が現れた……)


 手帳を取り出し、端のページに短く書きつける。


 記録:キメラ/赤魔石模倣体

 設計式:一部不明、複合型の構成

 状況:市街地にて暴走 → レオンにより処理

 対象:ファウレスの少女レナ無傷

 評価:危険度・中

 特記:赤魔石の模倣反応あり。血液系統に相違。黒幕不明。追跡要。


 ページを閉じたとき、遠くで甲冑の音が聞こえた。

 軍部の封鎖隊。ようやく、到着したのだ。


 オルフェはちらと目をやり、小さく鼻を鳴らす。


「……ふん、遅いな」


 そう呟いたまま、彼は背を向ける。

 足音もなく、静かに、静かにその場を去っていった。



 ***



 翌日、学院では騒ぎが拡大していた。


 夕刻の市街地で発生したキメラ及び逃亡したマンティコアによる襲撃事件は、学院の生徒が巻き込まれたことで無視できない問題となった。


 特に、目撃者によって「学院の制服を着た少年が、魔物と単独で交戦した」と報告されたことで、事態は学院の統制問題へと波及する。


 そして翌朝、通達が掲示板に張り出された。


【学院より通達】


 魔物出現に伴う市街地における被害と、学院生徒の無許可戦闘行為について、以下の対応を取る。


 ──


 ■ 魔術学院規則 第五章 改訂:

 1.市街地及び学院外における“無許可戦闘”を今後一切禁止

 (学院認可済み任務または緊急避難を除く)

 2.魔術制御の不安定な生徒に対する監視強化・制御指導を実施

 3.一部生徒について、魔力行使の制限措置を暫定的に導入する場合がある


 魔術学院 教務局


 ⸻


「……こうなるのかよ」


 レオンは掲示板の前で、それを一読し、興味なさげに肩をすくめた。隣ではサラが呆れた顔でため息をついている。


「市街地で暴れた人がそれ言うんだ……」


「面倒だよな。結界で壊れないように保護してるなら、アレくらいでやられるなよって話だ。……あの程度、俺が処理しなきゃもっと人が死んでた」


 レオンは気だるげに応じると、背伸びをして振り返る。


「“あの程度”じゃないでしょ、普通は……」


 サラが小さく呟いたが、本人には届いていないようだった。


 その後、レオンは一応「指導対象生徒」として教務局から呼び出され、後日、魔力の行使と心理評価を受けることとなった。


 その場で彼は、ザイラス・カイゼルの名を報告したが、学院上層部は「元学院生」という事実を世間に出すことを避け、公式には沈黙を貫いた。


 一方、レオンはその力があまりに突出しているため、処分や強制的な制限までは至らなかった。

 表向きは“緊急時の正当防衛”として処理され、レオン自身も「面倒な検査が増えた」程度の認識でしかなかった。


 その検査の帰り道、レオンはふと呟く。


「……俺がいなけりゃ、どんだけの被害だったろうな」


 皮肉でも自惚れでもなく、ただの事実を確認するような声だった。


 公園に突如現れた“伝説級”の魔物。

 動けたのはたった一人。

 それで済んだから、今ここに“日常”がある。


 だが──


「もういい。どうでもいい」


 新聞で見る被害者の顔。

 結界の脆さ。

 学院側の形式的な対応。


 そして「無許可戦闘禁止」のお達し。


 まるで、救った側が「規則違反者」であるかのような扱い。


 レオンの中で、何かが静かに冷えていった。


(レナがそこにいなければ、何が起きても構わない。被害が出ようが、誰が死のうが、俺の知ったことじゃない)


 それが、レオンの最終的な“切り捨て”だった。


 学院が求めた規律と平穏は、最も頼るべき戦力の「無関心」と引き換えに成り立つ──それに気づく者は、まだいなかった。

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