第60話 美しき研究素材
学院の夜は静かだった。学生たちは寮に戻り、教師たちも仕事を終えつつある。だが、ひとり、影のように歩く男がいた。
エリック・ハーヴィル。かつてのSクラスであり、現在は自ら降格したEクラスの奇人。
彼は、ふざけた仮面の下に、鋭利な観察眼を隠していた。
「さて、どこから暴こうか──オルフェ・クライド」
彼は手馴れた手つきで封印術の印章を解き、
閲覧許可のない古いファイルを静かに引き出した。
紙の端には焦げ跡。長年、封じられてきた記録だ。
──被害者数:五名。原因:実験中の結界暴走。
──術式責任者:オルフェ・クライド。
──判定:禁術行使の疑いあり。
──処分:無期限休学、観察対象。
(……暴走、ね。随分、穏やかに書いてあるじゃないか)
呟きながら、彼は書類の裏面に貼られた小さな報告書に目を留めた。
『外部調査記録──同一の魔術痕跡を各地で確認』
『術式構成:血液媒介・魂座標・蘇生系統の転写式』
──血を鍵に、魂の位置を写し取る。まるで死者を地図上で再配置するような、狂気の構文だ。
指先が止まる。
淡々と書かれた一文が、かえって生々しい。
(死者蘇生……か)
その単語を口の中で転がすように呟く。
信じがたい。だが、オルフェならあり得る。
魂と器の境界を破る結界──理論だけなら、彼はそれを“ 完成させかけていた”はずだ。
ページの端に、学院印の赤い封蝋が押されている。
そこには小さく、こう記されていた。
『監査対象から除外:研究成果保留、継続観察を許可』
「……やっぱりな」
乾いた笑いが漏れる。
学院は“知っている”。
禁忌を犯したことも、人を殺したことも。
それでも、彼の力が国家級の戦力になると踏んで、黙認している。
(腐ってんな、ここも)
エリックは資料を閉じた。
その横顔には、珍しく笑みがなかった。
(あの洞窟の結界痕と酷似してる。
壊したのも、再構築したのも、同じ奴……)
エリックはファイルを棚に戻し、
窓から夜の中庭を見下ろした。
月光の代わりに、封印灯が青く瞬いている。
「オルフェ・クライド……お前、何を作ろうとしてるんだ?」
その呟きは、静寂に吸い込まれていった。
***
薄曇りの日の午後。学院の図書館の、人気のない上階にある閲覧室。誰もいないと安心していたレナは、ふと気配を感じて顔を上げた。
そこに立っていたのは白銀の髪に紫の瞳、Sクラスの天才と言われるオルフェ・クライドだった。
「初めまして。君がレナ、だね。洞窟では大変だったらしいね」
開口一番、彼はまるで日常の会話のように言った。
「……ええと、オルフェ……さん?」
「オルフェでいいよ。それよりも、Eクラスの君が、生き残れるなんて、運が良かったんだね」
その声に、悪意はなかった。レナは小さく会釈しながら、机に置いたままの本に視線を戻した。
「……ありがとう……ございます」
声がわずかに揺れた。レナはそれを悟られないように息を整える。
「でも、運だけじゃ説明がつかないな」
オルフェはレナの前の机に片手を置くと、わずかに身を屈め、彼女の目線に合わせるようにして言った。
「君の、その“血”によってじゃないかな?」
レナの指がページの角で止まった。
「……何のことですか?」
努めて平静に、視線も逸らさずにそう返す。だが、全身がこわばるのを止められなかった。
「だって、君、ファウレス家の末裔だよね?赤魔石──あれは、“血そのものに宿る魔力”が結晶になったものだ。君の血がそのまま魔石に変わる、特別な家系。……だから“呪われてる”って言われてる」
低い、囁くような声。だが、それは確かな確信に満ちていた。
「……」
「──ああ、答えなくていいよ。今の沈黙だけで、十分」
その言い方はどこまでも優しく、どこまでも冷静で──
レナは背筋が凍るような錯覚を覚えた。
レナは微動だにしなかった。オルフェの言葉の意味が、嘘ではないことを本能で理解していた。
「安心して。別に学院上層部に報告するつもりはないよ。俺だけが握っていたい秘密だから」
彼は穏やかに笑った。
「……」
「君、擬態が上手いね。普通に生活していたらまず分からない。魔力も抑えてるし、言葉遣いも無難で、立ち居振る舞いに特徴もない。けれど、違和感というのは残るんだ」
レナの口元にかすかに力が入る。
「それに、“あの時”の魔力を見たよ。あれはただのEクラスの子が出せる力じゃない」
オルフェは楽しげに続けた。
「血そのものに宿る魔力ってさ、強力な分使えば全身に反動がくる。俺は結界の残滓を見ただけで分かるんだ。無理してたでしょ?目、霞んでたんじゃない?」
レナは答えなかった。彼女の瞳は確かに揺れていたが、それでも決して崩れなかった。
沈黙の中で、オルフェはただ一言、楽しそうに付け加えた。
「君、面白いね。レオンが君に興味を持つ理由も、何となくわかる気がするよ」
その名が出た瞬間、レナの眉がかすかに動いた。オルフェはそれを見逃さなかった。
「じゃあ、また今度。レナ・ファリス──いや、ファウレスのお嬢さん」
さらりと言い残して、彼は踵を返した。
その背が消えた瞬間、レナはようやく息を吐いた。心臓の音がやけに大きく響いていた。
(……オルフェ・クライド。あの人が、洞窟の結界を壊した犯人だ……)
手のひらが、冷たい汗に濡れていた。
***
図書館を出た廊下で、オルフェは一度立ち止まり、窓の外に目を向けた。鈍色の空、雨になりそうな重たい雲。
「うん、やっぱり、ファウレスの血だよな」
口に出さずに、ただ思考の中で呟いた。
あの魔竜の森で感じた、かすかな“残滓”。緻密で、制御された血の魔術。
(魔竜の森にいたのが彼女だったなら、あの反応も納得だ)
思考は滑らかに繋がっていく。過剰に抑圧された魔力、揺らぎの少ない感情、擬態。自分と同じだ。いや、彼女の方が“人間らしい顔”を保っているぶん、より深い破綻があるのかもしれない。
(……あの時、血を流しながら戦っていたな。命を削ってまで、生きようと抗っていた)
オルフェの中で、微かに何かが揺れた。
“歪に削れた美しさ”に、ひどく心惹かれた。
まるで、芸術品のようだった。
触れれば壊れそうで、それでも目を逸らせない。
あの血と魔力にまみれた姿を思い出すと、心の奥に熱が残るような気がした。
「……レナ、って言ったな」
オルフェは微かに呟いた。
レナ・ファリス。学院では無力なEクラスの少女として暮らしている。だが、あの眼は死地を知っていた。
(……それに、“あれ”の弟が傍にいる。レオン・ヴァレント)
あれほど端整な顔も、自分にとって何の価値もない。が、その剣筋は美しかった。愚直なまでに直線的で、力と速さに全てを載せた、古いけれど洗練された剣。技巧ではなく、経験で磨かれた斬撃。
オルフェは笑みを漏らしながら、思考をレナへと戻す。
(彼女を、俺の研究対象にできたら……)
想像するだけで、心が躍る。血の魔術の系譜、それも滅んだ一族の末裔。今すぐに無理やり実験するつもりはない。そういう下手な真似をすれば、レオンが牙を剥くのもわかっている。
(時間はある。時が来るのを待とう)
レナを壊すつもりはない。少なくとも今は。
だが、どこまで抉れるのか、試してみたくなった。
「レナ、君は最高の素材だ」
独り言のように呟いて、オルフェは歩き出した。




