第55話 疑念と興味
オルフェが魔竜の森の縁を踏み越えた瞬間、空気の密度が変わった。
焼け焦げた匂いと鉄のような匂いが、冷たい風に乗ってオルフェの頬をかすめる。
足元には、炭化した木片と砕けた大地の断片。かつて鬱蒼とした森だったはずの場所は、今や深い灰の窪地に変わり果てている。まるで巨大な手で掻き取られたかのように、地形そのものが抉られていた。
オルフェは無言のまま、灰に覆われた地表へ膝をつく。紫の瞳が淡く光り、魔力の粒子が彼の指先で微かに揺れる。
風も音もない。虫も鳥も、獣の気配さえ消えている。
「……魔竜の死骸もない。完全に“消えた”のか」
低く呟く。声は、灰の世界に吸い込まれて消えた。
(……人為的な処理)
彼の目は、クレーターを中心に広がる地形の歪みに注がれていた。爆発や崩落ではない。これは確実に、術式によって“意図的に消された跡”。
(高位の魔術師による掃除だ。痕跡の消去も、結界の遮断も)
オルフェの指先が宙をなぞる。残存するはずの“情報”を探るように。
微かに、わずかに……それでも確かに、“残って”いた。
目を細め、足元の地に片膝をつく。
乾いた土をすくい上げ、魔力感知の術式を走らせる。
じわ、と漂ってきたその残滓に、思わず眉がわずかに動いた。
(この魔術痕、どこかで……)
細く、深い、独特の波形──
(これは、歴史の片隅に載っていた、途絶えた血脈……血の魔力?そんな馬鹿な。現代にそれがいるのか?)
手を止め、オルフェは顔を上げた。
吹き抜ける風が、髪を乱す。
通常の魔力では感知できない、微細な粒子となっていた。それを強引に押し潰した痕跡。緻密さはなくとも、力で捩じ伏せた跡がある。
(そして、力任せに消している、この痕跡。まさか、あの男が……ここに?)
学院で見た、金髪碧眼の少年──レオン・ヴァレント。
空白の大地の中心に、彼はしばし立ち尽くしていた。
空気は澄んでいたが、何かが不気味なまでに“整いすぎていた”。
空は青く、森の境界の先に、学院の尖塔がかすかに見えていた。
***
レオンが教室に戻る途中、反対側から現れた白銀の少年とすれ違う。
「……レオン・ヴァレント」
名を呼ばれ、レオンは足を止めた。
オルフェだった。童顔に似合わぬ紫の瞳は冷たく澄み、目の奥で“計測”の気配がきらめいていた。人を測り、魔力の流れと精神の傾きを探る“研究者”の目だ。
「お前、魔竜の森に行ったか?」
唐突な言葉に、レオンの瞳が一瞬、揺れた。次にはもう、何の興味も示さぬ風を装っていた。
「行く理由があるのか?」
「行ってないなら、それでいい」
オルフェは肩をすくめる。だがその表情は、まったく疑念を手放していなかった。
「ただ、気になっただけだ。あそこに“妙な魔術痕”が残っていてね」
一瞬、空気が変わった。
オルフェが、一歩だけ近づいた。その距離は、あと半歩で攻撃に転じられる間合いだった。
「じゃ、また模擬試合ででも」
軽く片手を挙げ、オルフェは歩き出した。
彼の背に向けてレオンは、一言だけ低くつぶやいた。
「……探りすぎるなよ」
オルフェの瞳は、何かを“確信”しているように見えた。
レオンはその視線を背に受けたまま、ゆっくりと歩き出す。
***
オルフェ・クライドは、昼下がりの中庭で本を開きながらも、視線の端でEクラスの少女を見ていた。
少女──レナ・ファリス。
柔らかな赤い髪、くるくる変わる表情、平均以下の魔力量。
記録上は“平凡”で、“特筆点なし”と記される女子。
だからこそ、オルフェには不可解だった。
(レオン・ヴァレント。あの男が……Eクラスに、頻繁に足を向ける理由がわからない)
あの男は異質で、理性的なふりをしているが、根底には暴力の影と支配欲の熱を孕んでいる。そんな男が、最下層の平凡な少女と、まるで対等のように言葉を交わしていた。
中庭の片隅で、談笑するふたりを遠目に見ながら、オルフェは視線をわずかに下げる。
(“レナ・ファリス”、魔力量、E-。実技成績、下位。座学も中の下……特に光るものはない。人格は“温厚・協調型”。仲の良い相手は、今はエリック・ハーヴィル……あのうるさい男か)
ページを捲るフリをしながら、観察を続ける。
少女はレオンと別れると芝生に座り、一人で空を見上げていた。ふわっとした雰囲気で、悪く言えば、学院には向いていない。魔術師になるより教師か、絵描きか、誰かの隣で笑っている役が向いている。
(この学院にいること自体が、間違っている)
そう思いながら、ふと気づく。
(……ああ、そうか。孤児だったな、この子)
彼女の提出書類の端に、そう記されていた。
「保証人なし」「出自不明」「両親死亡」──
それは、かつてオルフェ自身が提出した書類と酷似していた。
(似ているのは、立場だけだ)
あまりに普通で、だからこそ不可解な存在。
レオンの執着対象になっている理由がわからない。
(……まあ、いい。俺が興味を持つ理由には、十分だ)
ページを捲る手が、止まっていた。
オルフェは閉じた本を膝に置き、もう一度、レナの後ろ姿に視線を向ける。
どうやら図書館に行くようだ。
彼は立ち上がり、無音の足取りで歩き出した。
(──次は、もっと近くで見てやる)
***
天井まで届く書架の間を、少女が静かに歩いていく。
レナが手にしているのは、基礎魔術の理論書と、魔力操作に関する初心者向けの副読本。
読み込まれたページには、ところどころ付箋が挟まれている。
彼女の仕草は控えめで、誰とも目を合わさず、けれど周囲への配慮は忘れない。
棚の間をすり抜けるように動き、閲覧スペースの隅に腰を下ろした。
そんな彼女の背後に、白銀の髪の少年が立っていた。
本を抱えているフリはしていたが、ページを開く気はなかった。彼の瞳は、じっと少女の横顔に向けられている。
──静かに、淡々と、観察するように。
(やはり……“平凡”だ。喋り方も、佇まいも、目立たない)
やがてレナは席を立ち、読み終えた本を丁寧に返却棚に戻し、職員に一礼してから、図書館をあとにする。
その背中を、オルフェは目で追いながら、微かに息を吐いた。
(何なんだ、この子は)
その疑問が、彼にとっては既に「興味」へと変わっていた。
レナが扉を抜け姿が見えなくなった後、オルフェは棚に背を預けたまま、誰に向けるでもなく呟いた。
「……試してみるか」
感情はなかった。あるのは実験者としての純粋な探究心。
この少女が、何を引き寄せ、何を壊すのか。
それを知るには、世界の側を壊してみるしかなかった。
興味は、やがて導火線になる。
その火種が、まだ無垢な少女に向けられていることに──彼は、何の躊躇いも持たなかった。




