第50話 サラの学院入学
彼がこの街のバーに来るようになったのは、サラ・クレインが働き始めるよりももっと前だった。マスターによれば「昔から来ている常連」だという。
その少年は、愁いを帯びた表情をしており、どこか大人びて見えた。静かにグラスを傾ける姿はお酒が好きなのか、それともこの空間だけが安心できるのか──サラには分からなかった。ただ、他の客と馴れ合うことは決してなかった。
ある日、人気のない裏通りでサラが複数の男に囲まれたときのことだ。息が詰まるほどの恐怖に凍りついた瞬間、彼が不意に現れ、何も言わず圧倒的な力で彼女を助け出した。
強かった。冷静で、まるで別の世界の人間のように思えた。
それ以来、サラの胸の奥には小さな熱が灯っていた。弱いままではいられない。彼と同じ場所に行きたい──その気持ちは消えることなく燃え続けていた。
だからこそ、彼女はカリグレア学院への進学を決めた。彼がそこにいるなら、自分もその場所に行きたいと願ったのだ。
***
「サラ・クレインと言います。よろしくお願いします」
久しぶりの新入生の登場に、教室の空気はわずかに緩んでいた。サラは素直な笑顔で挨拶を交わし、教師の指示に従って空いている席に腰を下ろす。
その隣の席から、小さな声が聞こえた。
「レナ・ファリスっていいます。よろしく」
琥珀色の瞳に、控えめな微笑み。彼女の柔らかな雰囲気は、騒がしいEクラスの中でもどこか異質だった。サラは、彼女を一度だけ見かけたことがあった。レオンを探してバーを訪れた夜のことだ。
昼休みにレナは校内の案内役をしてくれた。実技室、中庭、そして寮の入り口。学院の基本的な施設をぐるりと巡りながら、二人はゆっくりと歩いた。
「ねぇ、Sクラスの校舎って、どこにあるの?」
サラが問いかけると、レナは少し驚いたような顔をした。
「Sクラスの校舎は……Eクラスの反対側だよ。中庭を抜けた向こうにあって……建物がすごく豪華だから、すぐ分かると思う」
「へぇ〜。ちょっとだけ、行ってみたいな」
サラが屈託なくそう言うと、レナはふわりと微笑み返した。だが、その笑顔の奥に、わずかに緊張の色が混じっていた。
「どうかした?」
「ううん……。ただ、私、Sクラスの校舎って行ったことなくて……」
その言葉が終わるよりも早く、サラの目が何かを捉えた。
「あっ……おひさっ!」
手を振るサラの視線の先には、廊下を歩いてくるひときわ目立つ少年の姿があった。金色の髪に青い瞳。
レオン・ヴァレント。学院内でも目を引く存在だった。
「えっ、知り合い?」
レナが思わず聞いた。すぐ隣で手を振ったサラが、屈託なく笑う。
「ああ、言ってなかったかな? レオンの行きつけのバーで働いてるの。何度か来てたんだよ、すごく目立つからすぐ覚えちゃった」
そう言って、サラは軽やかにレオンに向き直った。
「入学試験突破してようやく来たの! Eクラスから始まるんだよ。いま、クラスメイトのレナに案内してもらっててさ」
サラの言葉に、レオンはちらりと視線を動かす。──だが、その目が向いたのは、サラではなかった。迷いなくレナの瞳を射抜くように見ていた。目を逸らすこともなく、ただ静かに、確実に視線を注いでいる。
「……お前、バーの仕事は辞めたのか?」
レオンが視線をサラへ戻し、問いかけた。
「ううん、やってるよ。学院終わりにバイトってことで。マスターも喜んでた」
「そうか。……また近いうちに顔を出す。そう伝えておいてくれ」
そのあとは、ごくありふれた世間話だった。最近の街の様子。酒場の新メニュー。学院の授業の話。どれも他愛もない話題だった。だがその間、レナはなぜか、レオンの視線の重さをずっと感じていた。
(……どうして、こんなに普通なんだろう)
魔竜の森での暴走。吊るされたクラスメイト。
位置情報付きの鍵を手渡されていたこと。
──どれも、“なかったこと”にされているように思えた。
(私といて、気まずくならないのかな……?あの日以降もずっと、レオンは平然としたままだ)
何もなかったように話す彼に、レナは小さく息を呑んだ。
「レナ、どうかした?」
レオンの声は、あまりにも優しすぎて、本当に心配しているかのように響いた。
「……ううん。なんでもないよ」
そう返すしかなかった。
(全部なかったことになってるの?……気にしてる私のほうが、おかしいの?あのとき、助けてくれた人なのに何でこんな複雑な気持ちになるんだろう)
レナの心は混乱していた。
***
サラはEクラスの教室で、静かにレナの様子を見ていた。
昼下がりの実技授業で前方ではエリックという少年がレナと並び、魔法の練習に付き合っている。誰にでも分け隔てなく接する、明るくて優しそうな男の子、クラスの人気者だ。
(……あの少年、きっとレナのことが好きなんだろうな)
エリックの視線やちょっとした仕草が、レナへの好意を隠しきれていない。サラは小さく笑う。人の心の機微を読むのは、バーで働いてきた経験から得た“得意分野”だ。
(レナは……どう思ってるんだろ?やっぱりレオンのことが好きなのかな?でも、さっき会った時なんか気まずかったんだよね。何があったんだろ?)
ふと、そんなことが胸をよぎる。エリックのような子のほうが、きっとレナには似合ってる気がする。
(それを言ったら、私だってレオンとは似合わないか)
思わず苦笑する。ちょっとした憧れ。ほんの一瞬、もし自分だったら、なんて考えてしまうこともある。けれど、サラは自分で分かっている。
(多分、レオンは危険な人)
時折見せる、あの冷たい目。どこか“暗闇”を抱えているような空気。
(それに、レナと三人で話していた時もレオンは私を見ていなかった)
サラは自嘲気味に小さく笑い、そっとレナたちの方へ視線を戻した。
***
魔術障壁に覆われたSクラスの教室の中。空中に浮かぶ立体術式が、複雑な螺旋を描きながら回転している。教師の声は穏やかだが、内容は命を削る前提の禁術解体。
レオンは、黒檀の机に片肘をつきながら、それをじっと眺めていた。
頭の中では、幻視された術式を三段階で分解し、毒素を含んだ血流魔術との干渉式に変換する図を描いている。
……だが、内心は静かだった。
(Sクラスってのは、こんなもんか)
教室の緊張に包まれた空気や、わずかな魔力の流れにも目を光らせている周囲の生徒たち。だが、彼にとってはこの空間すらも、生温かった。
(あの家を出て、兄と放浪していた頃の方が、よほど命懸けだったな)
レオンの脳裏に、ひび割れた石畳と、紅蓮の空を背景に剣を構える兄の姿がよぎる。振るわれる剣と、空間ごと裂けるような一閃。
何度、挑んでも勝てなかった。技術でも、魔力量でもなく、「在り方」そのものが違っていた。
(あの時の、最後。俺は……あいつに半殺しにされて。俺たちは、そこで終わった)
「生きてるの、奇跡だと思ってよ」
あの時、兄が笑いながらそう言ったのを、忘れてはいない。
(今、あいつはどこで何してる?)
カリグレアの教室で、与えられる任務や課題を淡々とこなす日々。裏社会からの依頼も減らし、レナの傍にいるための「力」を蓄えているつもりだった。
けれど、ふと考える。
(……俺は、あいつに追いついてるか?)
指先に、微かに力がこもる。
立体術式をなぞるように、魔力を送り込むと、その構造がふわりと崩れ、別の系統に変化した。
教師の視線が一瞬止まり、僅かに唇が吊り上がった。
満足そうに見えるその表情が、レオンには、ただの評価にしか見えない。
(……足りないな)
足りない。力も、実感も、確信も。
兄という絶対的な“怪物”と切り結んだ過去があるからこそ、レオンにとっての基準は、常に「兄」であり続けている。
その背中を超える日は、遠い。




