第43話 最後に呼ぶ名
空が赤く染まりだす頃に、レオンは森の入口へ辿り着いた。ローブの裾が風に煽られ、鞘に納めた剣が沈黙のまま重く揺れている。
(鍵の反応が朝から消えている。……嫌な予感しかしない)
最後に鍵で外での行動を確認できたのは、昨日の夕方、ギルドだった。そして今日、どれだけ待っても新しい反応は戻らない。ギルドに踏み込むと、空気がざわめいた。受付の机の上に受理票が残された。そこには、ひとつの依頼が記されていた。
ギルド。森。単独行動。
悔しさと怒りが混ざり合い、胸の奥で煮えたぎっていた。
森の中は、すでに夜の帳に包まれかけている。魔力の揺らぎ、風の流れ、木々のざわめき。全てに意識を集中させて進んでいく。
(レナの気配を探せ。残留魔力でも、痕跡でもいい)
森は静かだった。死んだように静まり返っていた。
それが、逆におかしかった。
虫の音もない。鳥もいない。
あるのは、沈黙と、不穏な“重さ”だけ。
(……この森、何かが、いる)
まるで、見えない捕食者が、全てを飲み込んだ後のような空気。魔力の探知を広げようとするが、意識を深く送るほどに、強い“圧”にぶつかる。
(ただの魔物の気配じゃない……これは)
ぞくり、と背筋を這う感覚。“何か”が目を覚ましている。この森一帯は、魔竜の森、と呼ばれていた場所だ。百年程、姿を見せていない魔竜が、静かに眠る場所だった。
(レナ、どこだ……。応答しろ。声だけでも)
焦燥が喉を焼く。深く息を吐くと、己の魔力が微かに波打った。
「──レナァァ!!」
森に、レオンの声が響いた。その叫びは祈りのような響きだった。
だが、応答はなかった。ただ、遠くから風がひゅうと吹き抜け、木々を鳴らすだけだった。
(……あの日以来、レナは俺を避けていた。鍵を外す行動を予測しておくべきだった。何があっても、連れ戻す。お前だけは、絶対に。どうか無事でいてくれ)
夜の闇に沈む森を見据えながら、レオンは剣の柄に手をかけた。目の奥に、怒りと不安が滲んでいた。
(もし何かが、レナに触れていたら?)
その“何か”を、この手で断ち切るために。彼は、再び森の奥へ足を踏み入れた。
***
空気が一変した。目の前は、別世界のような静寂に包まれていた。
「……なに、これ……」
レナの指先に持っていた結界札が、ゆっくりと焼け落ちた。
視線を上げた先。森の木々が不自然に焼け焦げている。円形に抉れた地面。その中心に、“それ”はいた。
歪んだ瘴気が満ちていた。炎を孕んだような双眸が、まっすぐにレナを見据えていた。
(魔物……? いや、違う……これは言い伝えの……)
魔竜だった。
ドゥゥン……と、空気が重低音を響かせるように震えた。
「──ッ、来る!」
咄嗟に飛び退いた瞬間、魔竜の尾が地面をなぎ払い、爆発のような衝撃が走る。土と木片が弾け飛び、耳鳴りが脳を突いた。
(早く逃げ──)
そのとき、魔竜の動きが止まった。
「……?」
魔竜が、レナを“見て”いた。いや、見ていたのは彼女の“血”だった。肌を切り裂いた枝の傷口から、ぽたりと血が滴る。
直後、魔竜の瞳が、歓喜のように輝いた。
「え……?気付いた?」
この魔竜は、“レナの血”に引き寄せられている。理由はわからない。ただ、これは逃れられない“運命の嗅覚”だった。
(ここから早く逃げないと……)
ナイフを抜くと、自らの手のひらを切った。鮮やかな血が流れる。空間が軋むように震え、レナの背に魔力の輪が浮かび上がった。
「お願い……力を、貸して」
血を媒体とした呪式が展開する。紅の紋様が、空中を舞う。その力を具現化するように、レナの足元から魔力が噴き出した。
「──喰らえッ!」
血の槍が具現化し、魔竜の胸部へと飛ぶ。数十本もの槍が放たれ、紅蓮の流星のごとく突き刺さった。
「……うそ、でしょ……」
魔竜は倒れなかった。焼け焦げた鱗の奥で、なおも生きていた。致命傷ではなかった。再生している。
(足りない……この血の量じゃ……)
魔竜が唸るように吠えた瞬間、その巨体がレナをめがけて突進してくる。
「っ……!」
回避は、間に合わなかった。
硬質な尾がレナの腹部を打ち抜いた。
ぐちゃり、と骨と肉が潰れる音がした。
視界が真っ白に染まる。
全身が宙に浮いたかと思った次の瞬間、レナの体は地面に叩きつけられていた。口から血が溢れ、息がうまく吸えなかった。
「が……ぁ、は……」
焼けるような痛みが身体中に広がる。呼吸のたびに、肺が悲鳴を上げる。指先から力が抜けていき、音が遠くなっていく。
(──ここで、死ぬの?こんな場所で?)
森の中、誰も来ない。助けは来ない。銀の鍵は自分から外した。
(レオン……)
意識が遠のくなか、レナは彼の名を、心の中で呼んだ。
(ああ、なんでこんな時に……)
無意識にその名前を呼んでいた。
傷ついたときも、怖くて震えた夜も、助けてくれたのは、いつも彼だった。どれだけ歪んだ手段であっても、彼は必ず、誰よりも早く傍に来てくれたから。




