第8話 優しさを演じる者
「……レナは、保健室?」
Eクラスの教室にいなかった彼女の姿を不審に思い、クラスメイトに尋ねると、そう返ってきた。レオンは無言で教室を出て、保健室へと向かった。中庭を抜ける石畳の脇、植え込みの向こうで、ふと足を止める。視界に入ったのは、見慣れた背中。そして、その隣に立つ“見知らぬ男”だった。
黒髪の優男。整った顔立ちに、気取りのない柔らかな笑顔。
その男が、レナの腕を軽く支えていた。
(……誰だ、あいつ)
レナは右手を押さえ、痛むのか微かに顔をしかめている。
歩きながら、ぎこちなく笑っていた。
「本当に、ごめんね。完全に僕のミスだよ……」
男の口調は丁寧で、声音も優しげだった。
だがレオンは、その“嘘”に瞬時に気づいた。
(本気で心配してない)
言葉も表情も“優しさ”に満ちている。
だが、目が虚ろだった。
(全部“作ってる”。この男、演じてる)
レナの怪我を気遣うふりをして、どこか上の空。
保健室に行くより手前で男が足を止めると、手を振って言った。
「じゃあね、レナちゃん。早く治るといいね」
「うん。ありがとう、アッシュくん」
レナは無邪気に微笑んで応じる。
だがレオンは、そのやり取りを黙って見ていた。
(保健室までついて行かないのか……?)
その瞬間、レオンの中で警鐘が鳴った。
(確信した。こいつ、“見てる”だけのやつだ)
アッシュがレナに背を向け、立ち去る。その時、レオンは前に出た。無言でアッシュの進路をふさぐ。
「……わざと、怪我させるなよ」
低く、冷たい声。
アッシュがぴたりと止まり、目だけでレオンを見る。
「え? ……レオン、くん? だったかな」
「……黙れ。名前を呼ぶな」
レオンは睨んだ。
(目が笑っていない。こいつは、目的がある)
「はは、怖いなあ……。ただのミスだよ。演習中、ちょっと手元が狂っただけさ。ほら、軽い怪我だったし?」
アッシュは穏やかに笑ったまま言う。
だが、レオンはその場を離れなかった。
(……“殺し”を知ってる目だ)
レオンの中に、静かに、しかし確かに――
不快と警戒の色が滲んでいた。
***
学院の裏手。学生が近寄らない、細く曲がりくねった小道を抜けた先。そこには、薄汚れた建物の一室があった。
コツ、コツと靴音が鳴り、扉の前でレオンは立ち止まる。
軽くノックすると、内側から低く、くぐもった声が返ってきた。
「──入れ」
無言のまま、レオンは扉を開ける。
薄暗い室内。ランプの明かりが、机の上だけをぼんやりと照らしていた。
壁には所狭しと、文書と地図。
椅子にもたれた初老の男が、目だけをレオンに向けて言った。
「……珍しいな。まだ何も壊してねぇだろうな?」
「調べてほしい奴がいる」
レオンは、懐から一枚の紙を差し出した。
それは、学院の名簿から写し取った、ある少年の顔と簡単なプロフィール。
──アッシュ。Eクラス所属。仮面のような笑顔を張り付けた少年。
情報屋はそれをひと目見て、眉をひそめた。
「学院の生徒……ね。お前さん、また厄介なもんに目ぇつけたな?」
「無害を装ってるが、目が違った。……殺しに慣れてる目だ」
淡々とした声。その奥に、怒気でも好奇心でもなく、“警戒”だけが宿っていた。情報屋は鼻を鳴らし、軽く肩をすくめた。
「ふん、了解。動かしてみるさ。……で、いつまでに欲しい?」
「すぐに。遅くとも3日だ」
「おいおい、それなりに情報料が張るぞ? 金、用意できんのか?」
「明日払う。裏の依頼は片付け済みだ。報告書と一緒に、ここにまとめてくれ」
レオンはそれだけ告げ、踵を返す。
だが、扉に手をかけたその瞬間――ふと、動きを止めた。
「……あいつが死んだら、何となく後味が悪い。……ただ、それだけだ」
吐き捨てるように言って、今度こそレオンは扉を開けて立ち去った。
ぱたん――と静かに閉まる音だけが、残る。
室内に残された情報屋は、手元の紙をもう一度見下ろし、誰にともなく呟いた。
「……“後味が悪い”、ねぇ。あの冷血なレオンがそんなことを言うとはな」
***
学院の廊下。
昼休みのざわめきの中、ひときわ柔らかな声が響いた。
「レナちゃん、今日も可愛いね」
振り向けば、アッシュがいた。
整った顔立ちに、柔らかい物腰。制服の襟元もきちんと整えられていて、どこから見ても好青年だった。
「……ありがと。アッシュくんも、今日も元気そうだね」
レナは少し照れたように笑って返す。
アッシュはEクラスに編入されてから、よく話しかけてきた。距離は近いが、不快な感じはない。むしろ、優しさと礼儀正しさが印象に残る。
そのやり取りの最中。
「……また話してる」
少し離れた場所で、クラスメイトたちがひそひそと囁くのが耳に入った。
「アッシュって、女子にはやたらフレンドリーだけどさ。男子には……ほとんど話してなくない?」
「……そう言えば、オレ、話しかけても完全スルーされたな」
冷ややかな視線が交錯する中、アッシュは気づかないふりをしたまま、微笑を崩さない。
***
放課後の中庭。日の傾き始めた時間、花壇のそばでアッシュが如雨露を持ち、静かに水を撒いていた。そのすぐそばで、数人の女子生徒が小声で話す。
「この前、中庭の裏で……猫が死んでたんだって」
「えっ、ほんと?どうして……?」
「首、折れてたって。誰かが踏んだのかなって話だけど……」
小さなざわめきが広がる。
「でもさ、アッシュくんが、すぐ見つけて埋めてあげたらしいよ。“可哀想だったから”って」
「……優しいよね、あの人」
一瞬の沈黙。けれど、その場にいた誰もが、口には出せない違和感を覚えていた。
なぜ、そんなに早く気づけたのか。
なぜ、そんなに冷静に“処理”できたのか。
そして――なぜ、彼は今も笑顔で水をやっているのか。
花壇の花が、風に揺れていた。
その隣で微笑むアッシュの瞳は、まるで鏡のように、何も映していないように見えた。
***
人目を避けた旧教会跡の地下室。
崩れかけた礼拝堂の奥、燭台の明かりだけが揺らめく中。レオンが無言で現れると、情報屋の男はすでに待っていた。テーブルの上に、古びた革の封筒を無造作に置く。
「……調べたぞ」
短く言い放ち、男は椅子に寄りかかる。
「“アッシュ”って名前、偽造された身分証で登録されてた。出所は裏市場。魔術的な記録も改竄されてる」
レオンは封筒を開け、中の紙束に目を通す。
そこには、いくつもの地方都市で発生した《若年女性の失踪記録》――いずれも未解決。
「捜索打ち切り。証拠不十分。……死体は全て弄ばれた傷がある…」
「そういうこった。魔力量が低い、身寄りがない、目立たない……そういう子ばかりが消えてる」
書類の末尾には、共通点のリスト。
《若年女性/魔力量少/身寄りなし/家庭環境に問題あり》
レオンの脳裏に、レナの姿がよぎった。
(……条件に、完全一致してる)
無意識に、書類を力強く閉じる。
「……殺すのか?」
情報屋が問うと、レオンは少し間を置いて言った。
「まだだ」
「じゃあ……監視か?」
「狩る前に、どこまで“見せてくる”か楽しむさ」
その声は低く、そして刃のように冷えていた。
***
「どうして泣くの?」
倉庫の中で少女が首から血を流し倒れている。
その傍らで、少年・アッシュが優しく微笑んでいた。
「ねえ、君、笑ってよ。……その方が、綺麗だから」
そう言いながら、アッシュは少女の頬に手を伸ばす。
だが、すでに少女は動かない。アッシュは悲しそうに眉を下げた。
「でも、大丈夫。また新しい“綺麗な子”を探せばいいんだ。
……僕は、完璧な瞬間を作るために生きてるから」
血のついた手を口にあてて、彼はひとり、くすりと笑った。
「今度は、もっと可愛い子を飾ろう。
今度は、もっと丁寧に。もっと、綺麗に」
目の奥には、感情などなかった。
あるのはただ、空洞のような欲望。
壊すことでしか得られない興奮。
絶望を刻むことでしか生きていると実感できない魂。
──そして、出会ってしまった。
“理想の生贄”に。
「レナちゃん」
その名を、甘く、優しく、呟いた。
「次こそ、完璧な“展示”を作るよ。君に似合う空間で。君にしか見せられない“僕”で」
***
翌日の昼休み。
食堂は、生徒たちの喧騒と食器の音で溢れていた。
木製の長卓には、今日も蒸した根菜のスープとチーズを包んだ小麦団子、干し肉のプレートが並ぶ。
だがレオンはそれを手に取らず、ただ水の入った陶器のカップを持って座っていた。
(……来たな)
視線を滑らせると、向こうの窓際席。
そこに、レナとアッシュの姿があった。実技訓練が終わった後のようだった。アッシュは相変わらず、穏やかな笑みを崩さずに話しかけていた。
「ねえ、今日の放課後、少し出掛けない?」
柔らかな言葉。やさしい声色。
だが、その奥には熱も真意もない。
レナは少し戸惑いながらも返す。
「あ……えっと、どうしようかな…ちょっと用事があるからまた今度でいい?…」
レオンは、水を口に含んで静かに飲んだ。
顔には何の感情も浮かばない。
アッシュは続ける。
「うん、今度でいいよ。レナちゃんともっと話してみたかったんだ」
演技は完璧だった。表情、声色、仕草――隙がない。
それが余計に、不自然だった。
(手慣れてる)
レオンは椅子を静かに引いた。
誰にも気づかせず、誰とも目を合わせず。
(レナが、あいつの誘いに乗ったら――)
(……その時は、“狩る”)
その思考は、感情ではなかった。
ただの手順だった。




