その4「青い紙飛行機」
「俺が、子供ん時の話なんだけどな」
とヨシダさんは話し始めた。冬の初め頃。蒲田駅正面の商店街にある回転寿司「若貴」のカウンターでごうんごうん回るマグロの握りを眺めながら僕は続きを待った。ヨシダさんはジョッキに残ったビールを飲み干して、ふう、とため息をついた
「十二ん時に預けられてた親戚の家が足立区の梅島ったかなー。下町の方にあったんだ。不便なところでな、駅から遠いんでどこへ行くにも歩くか自転車しかねえ。でもって学校なんかロクすっぽ行きゃしねえで、毎日その辺をぶらぶらしてた」
「あるある」
「でな。ある日、夏の暑い日だったよ──
その日も家は出たものの学校サボってさ、目的もなくウロウロしてたんだ。何しろ家に居るわけにもいかねえし、かと言ってガキが平日の昼間から店とか図書館とかゲーセンなんて行くわけにもいかねえしさ。そもそも、そんなに遊ぶところもなかったんだけどな。で、どこをどう歩いたんだかわかんなくなっちまって、しまいに知らねえ街のデカい道路をトボトボ歩いてた。もう汗が止まらねえし頭はフラフラする。帰り道もわかんねえでただただ足だけが勝手に歩いてたんだ。ぼけーっとしたままな
目の前が軽く歪むぐらい陽炎が立ってて、その道にかかってたながーーい橋を渡ったんだ。こんなトコに橋なんかかかってたかなって場所にあってさ。ドブみてえなきったねえ川が流れてて、向こう側から俺と同じくらいのガキが四人ぐらいバタバタっと走ってきた。そいつらとすれ違ってそのまま橋を下りて向こう岸に着いて……その先には高架があった。新幹線か、別の電車だったか。忘れちまったけどさ。んで橋には車もトラックもバンバン走ってた
「何処だんそれは」
「さあーな。今でもわかんねえ」
ごうんごうん、とコンベアの音だけがひと際大きく店内に響いていることに気が付いた。お客は僕たちだけらしい
何となくソワソワした感じの店員を目の端で見ながら僕は続きを待った
「橋の向こう側に降りて、まだずーーっと延々歩いてった。蝉のジワジワ鳴く声と、車の走る音がしててな。その大きな道路から分かれてちょっとした脇道に入って、そんでもひたすらトボトボ歩き続けてたら、行き止まりまで来ちまった。ああ、こりゃどうしようかなと思ってたら」
「思ってたら?」
「そのちょうどドン突きがおーきなお屋敷でな。ずいぶん立派で綺麗な青い屋根瓦だったよ。壁は白くて、高い塀とゴツい門の向こうに木が沢山生えててさ」
「豪邸って感じ?」
「そこまでじゃねえけどナ。でも立派なお屋敷さ。そのお屋敷の塀の向こうからスーっと何かおかしなものが飛んできて俺の足元に転がったんだ。何だろうと思って拾ってみたら、青い折り紙で作った紙飛行機でさ。それも折り目が綺麗で丁寧に作ってあるし、おまけになんだかいい匂いがする。ふと見るとそのお屋敷の門のとこに引き戸があって、ちょっと開いてたんで覗いてみたんだ。庇の下が日陰になってて、ひんやりして気持ちよかったな」
「中は?」
「これまた立派な庭だった。ただちょっと手入れが出来てねえんで草も木も生え放題だった」
「へえー。東京都内でしょ?」
「さあな、ヘタしたら埼玉だったかも」
「そんな歩いたの?」
「夜中、蒲田ウロウロしてたら多摩川渡って川崎まで来ちまって途方に暮れたことのある奴に言われたかねえよ」
「ぐっ、まあそうだけどさ」
「外は相変わらず蝉がワンワカ鳴いてるし向こうの通りでは車もバンバン通ってるんだけど、家の中はシーンとしてんだ。これが」
「誰も居ないの?」
「とりあえず紙飛行機を持ったままコッソリ入ってみたけどよ、ホントに物音ひとつしねえんだ。庭ん中に居ると外の音もしねえし」
「アンタ昔からそんなことしとるだね」
「まあな」
「自慢にならんて、犯罪スレスレじゃん」
「あの、お客様恐れ入りますが」
突然、カウンターの向こうから声が飛んできた。社員らしき若い男性が申し訳なさそうに閉店時間が迫っていることを告げた。恐縮したのはコチラの方で、そそくさと会計を済ませて店を出る
「お前、回転寿司でどんだけ食うんだよ」
「ごちそうさまでした」
店の外はしっかりと寒い。酒混じりの白い息を吐き出しつつ、お財布をしまいながらヨシダさんがボヤく。僕は膨れた腹をさすりながらハナシの続きを待った。二人して商店街を歩きながら、ヨシダさんは続きを語り始めた
「どこまで話したっけ。紙飛行機拾って、家に入ったとこまでか」
そうそう。でセミがワンワカ鳴いてるとこをフラフラ入ってったんだ。暑いし陽射しはギンギンだしで頭もボーっとしててさ。勝手に入ったのも忘れてウロウロ探検してた。たまにどっかで救急車が走ってったり、電車のゴーっと音もしたんでそんな辺鄙なとこまでは行ってなかったと思う。周りはそこそこデカい家とか小さな店ばっかりだったから、むしろ良いとこの住宅地だったのかもしれねえな
でさ、ガキにしてみりゃ結構広いんで探検気分で楽しくなって来ちゃったんだよ。探検、好きだろ。どんどん屋敷の奥へ入ってくと、もう庭の木の枝もしっかり伸びちまってるからいい感じに木陰になっててさ。芝生も伸びてて気持ちいいんだ。そこへゴローンと座るってか半分寝転ぶみてえにして休憩した。陽射しはジリジリ暑いんだけどそこだけ日陰だから平気でさ。相変わらずセミはジージーシャーシャー鳴いてるのが幾重にも渦巻いて聞こえてくるし、サイレンや電車の音もある。それなのに、この家はやたら静かだった。そんなことお構いなしに勝手に入って勝手に寝転んでたんだけどな、俺は
どれぐらい経ったかなあ、そのままちょっとウトウトっとしちまった。流石に暑い中ずっと歩いてたから疲れたんだな。ふっと目を開けた先に屋敷の二階があって、窓んとこに誰か立ってるのが見えた
やべえ!
と思ってよく見たら、それは髪が長くて色の白い女の子だった。当時の俺と同い年ぐれえかなあ、って感じ。こっちをじーっと見てるんだが怖がってるとか怒ってるとか、まあ悪いように思って無さそうな顔してた
俺は俺でどうしたらいいのかわかんなくて、とりあえずニッコリ笑って手ぇ上げてみた。オッス! みてえな感じでさ
「よくその状況でそんなのんきなマネが出来たね」
「ああ、怒ってなさそうだったしな。それに愛想よくしといた方がどっちみちいいだろ、ダッシュで逃げようかとも思ったんだけど、歩き過ぎて疲れちまってたし」
「ほいで、その子は何て言っとっただん」
「んや? なーんも」
「は?」
「なんも言ってねえよ」
「なんで?」
「別に話さなかったからさ」
「ほいじゃどーしたの」
「暫くそこでじーっと見つめ合ってた。結構可愛い子だったんだ、だから俺も満更じゃなかったしヨ」
カンカンカンカンカンカンカンカン……
踏切の前で立ち止まって、しばし黙った。しん、と染みるような寒さが歩いてきた体温を下げにかかる。厚着した中で汗ばんだのが急速に冷えてゆくのを感じながら、電車が通り過ぎるのを待った
ゴオォォォガタタンガタタン……!
轟音をあげて、乗客のまばらな列車が通り過ぎてゆく。やがて踏切が鳴りやんで、僕とヨシダさんは再び歩き始めた
「そっからさ、あの子が手招きしてんのが見えたんだよ」
ヨシダさんが話の続きを始めたのだとわかって、僕は黙って頷いた
窓んとこでオイデオイデしてるから、ああ入ってもいいんだと思ってさ。んで立ち上がってちょっと部屋の奥まで見えるようになったら……ビックリしたよ
あの子の後ろに、こっからでもわかるぐらい鬼の形相をしたババアが仁王立ちしてこっちをグーっと睨みつけてた。今にも
殺すぞ!!
とか怒鳴り散らしそうな、本当に凄えツラしてたんだ。ババアってもバアさんって意味じゃなくて、中年のオバサンぐれえの人だったけどな。髪の毛ボサボサで痩せてて目がギョロっとして頬骨が突き出てる、アゴの尖ったオバサンさ
それがまあー怖かったんで、飛び上がるみたいにして一目散に逃げた。真夏の灼けたアスファルトの上に陽炎が揺れてて、そんなかをセミがワンワカ鳴いてる。追いかけてきたらヤだなと思って狭い路地を幾つも曲がって、気が付いたら足立の自分ん家のそばの公園に居た。木陰でへたり込んでたら学校行ってた連中が帰って来たのが見えた。夕方ちょっと前だったのかな
けど、それからあの子の事が頭から離れねえんだ。逃げて来ちゃったし、後であの子が怒られたんじゃないかって思ってさ。あん時は勝手に入った俺に対してブチ切れてるんだと思ったんだけど、なんかそうじゃなさそうな気がしてさ
今頃どうしてるかな、と思ったら、もう居ても立っても居られない気持ちになって……次の日、起きて着替えるなり家を飛び出してあの子のところへ行ったんだ
「場所、わかったの?」
「いや──」
やがて目抜き通りの大きな信号の交差点に捕まって、僕とヨシダさんは足を止めた。夜中だと言うのに流石は東京、トラックやタクシーが結構なスピードで走ってゆく
開いているお店は小さなスナックやコンビニぐらいのもの
そのうちの飲み屋の一つから酔った客がフラフラと出てきて、それをダミ声で痩せぎすの女性が愛想よく見送っている。なんとなくヨシダさんの話に出てきた怖いオバサンと、そのスナックの中年女性が重なって見えた
わかんなかった。わかんねえけど、とにかく走った。なんとなく昨日歩いたっぽい道を探して闇雲に走ってったんだ。通勤とか通学の時間だったんでオッサンにぶつかりそうになったり、同じ小学校の奴に見つかったりしてもお構いなしに走った
何処をどう走ったかわからねえんだけど……その内に、ふと見上げた空から何かがフワフワっと飛んできた。
青い紙飛行機だった。地べたに落っこちたそれを拾って見上げたら窓の向こうにあの子が居た
ちゃんと着いたよ、昨日の屋敷に
その日も陽射しがキツくて、青い屋根瓦にそれが反射して白い壁が尚のこと白く見えたっけな。でもまたあの鬼ババアが居ると怖いんで、今度は慎重に辺りを伺ってた。もう通勤の時間は過ぎてたからか、やっぱり周囲に人が居る気配がない
そういえば昨日も、あんだけ外の音は聞こえてたけど家の中からは物音ひとつしなかったな……
門の前に来ると、また今日もちょっと開いてた。もしかすると来ると思って開けてくれたのかな……なんて都合のいいこと考えて、そのままスっと入った。けど今回は結構マジメでさ、鬼ババアに遭ったらそれはそれでちゃんと謝っちゃおうと思ったんだぜ?
それで玄関探してさ、呼び鈴押しても誰も出ねえんだ。ちゃんと音が鳴ってるかも分かりにくいやつなんだけどさ、ホラよくあるだろ、音符のマークがボタンに描いてあってクリーム色の丸っこいやつ。あれを何度も押したんだけど返事もねえ
仕方ないんで広くて静かな庭をゆっくり、ゆっっくり歩いて昨日の場所まで来た。家んなかからは、相変わらず物音一つしねえ。セミや遠くを走ってくサイレンだけが庭の中で陽射しを浴びて陽炎に溶けてくるくる混ざってるみたいな時間だった
「コーヒーにスジャータ入れてかき回したようなもん?」
僕が横から口を挟んだ。思わず笑ったヨシダさんが白い息をブハッと漏らした
まあそんなとこだな、お前は何でも食いものの話にするなあ。いま寿司食ったろ
でな、昨日とおんなじ場所に立ってみても、窓にはカーテンがかかってて中が見えなくなってるんだ。ああやっぱり見つかっちまって、怒られたのかなあ……なんて思ってさ。暫くそこでボケーっとしてたんだけど、朝から暑いなか走って来たんで疲れちまってたんだろうな。木陰に座り込んだらそのままスーっと寝ちまったらしいんだ
気が付くと完全に芝生で寝転んでた。そこへ、俺の顔に何かがコツンと当たった。やべえ! と思ってガバっと起きたら窓越しに目が合ったよ。昨日の女の子と
「心底オバサンじゃなくて良かったね」
「お前なんでちょっと残念そうなんだよ」
あの子は別に怒ってるわけでも、俺が来たのを嫌がってるわけでもなさそうだった。それどころか、ちょっと嬉しそうに微笑んでくれたんだ。起き上がろうと思って手を突いたところでカサっと音がしたんで見ると、また青い紙飛行機。あの子が折って飛ばしたのが当たったらしいんだな
照れ臭かったけど、今度は後ろに鬼ババアも居なかったんで手を振ってみた。向こうも控えめに手を振ってくれてさ、んでまたオイデオイデしてくれた。もう嬉しくてさ、昨日の事なんか忘れちまってさっきの玄関まで取って返してドアを開けようとしたら
ガチャッ
っつって、ホントにフツーに開いたんだ。鍵もかかってなかった。呼び鈴はさっき散々ぱら押したんだけど、まさかカギがかかってないとは思わねえじゃん。そのままクツを脱いで玄関を上がったんだけど、家の中は……正直、廊下も階段も埃っぽくてちょっと荒れてたな。床板もギシギシ鳴るし、襖が破れてたり窓ガラスが割れてたり、また階段を上がるとみっし、みっし、ってイヤーな音がするんだ。今にも床板が抜けそうでさ。見かけは立派なお屋敷みたいなのに、中はこんななんだな……って
あの子の部屋は、すぐ見つかったよ
二階の廊下の隅にあるドアのところに可愛いカエルちゃんのプレートがかかってた。ただ、なんて書いてあるかは読み取れなかった。そんぐらい、古くてかすれちゃってたんだ
ドキドキしたけど意を決してドアを開けたよ。カチャ、って乾いた音がして開いた先の部屋は妙にひんやりしてて、いい匂いがした。あの子は窓際のところに座って、こっちを見てニッコリ笑ってくれたよ
車椅子の上からな
まさか車椅子に乗ってると思わねえからちょっとびっくりしたけど、部屋に入ってドアを閉めた。オジャマシマス、なんて言ってな
彼女のそばに寄ってみると、シャンプーなのか柔軟剤なのか女の子らしい甘くてふわふわした匂いがしてさ。つやつやした髪の毛が肩のあたりまで伸ばしてて、肌の白いのもあって似合ってたんだそれが
目がくりっとして、鼻筋がすっと通ってな。少し薄い唇と白い歯
マジで可愛かった。ほんとに、可憐な少女って感じでさ
来てくれたんだ、どこから来たの? 学校は? お互いにそんな話から始まって、だんだんと自分の話をするようになった。彼女の名前は静香ちゃんといって、青く浄らかな香り、って言うのがぴったりな子だったよ
小さい頃に重い病気で歩けなくなって、以来ずっと立ち上がることは出来ないんだそうだ。そんで広いこの家で母親と二人暮らしだった。昨日、俺の事を睨んでたのは母親だったんだな。そう思ったんで聞いてみたら、不思議そうな顔をしてこう言った
「ううん。お母さんも、もうずっと見てないの」
ってな。なんだかわからねえけど、そのまま話を続けた。だってあんなおっかないババアだもん、出てこねえ方がいいじゃん
確かに家の中は荒れてたけどな……これじゃ気まずいんでハナシを変えることにしたんだ
「これ、静香ちゃんが折ったの?」
この家を見っけるきっかけにもなった青い紙飛行機を取り出して見せると彼女はまたニッコリ笑って答えた
「そ。座ってばかりで退屈だし、誰か通ったら拾ってくれないかなと思って」
まさに俺がそれを拾ったわけだ。わかるだろ、この胸の高鳴りというか、そん時もう俺はこの子に運命的なものを感じてたんだ
「おれ! あの、お、俺拾っちゃったよ」
「うん、ありがと」
来てくれて嬉しかった、って静香ちゃんが笑った。ニッコリ笑うと白い歯がキラっと並んでて、透き通るような美しさがあって……よく言う透明感のある女の子ってホントに居るんだなって思うよ
「ナンバーガー」
「お前それ以上言ったら蹴飛ばすぞ」
それでさ、部屋に入ってからずっと彼女の側に突っ立って喋ってたんだけど……そしたら彼女が言うんだよ
「ココ、座ってもいいよ」
って。敷布団のかかったベッドをポンポンしながらさ。それで、座ったんだ。彼女の隣に
近くで見るとホントに可愛くてさ、声も綺麗で澄み切ってるみたいだった
「ねえ、友達になってくれる?」
なんて言われてさ。勿論オッケーよ、二つ返事ってやつだ。幸せの絶頂だったな。こんなことってあるんだ、って。ずっとこのまま話してたかったし、もっと彼女の事を知りたいと思った……ただ
ヨシダさんはそれから数秒、なぜか沈黙した。さっきまで嬉々として静香ちゃんとやらの話を聞かせていたのがウソのように、ぐっとトーンを落として続きを話し始めたのは黙り込んでから100メートルほど歩いた頃だった
「ただ近くに寄って見ると、あの子の体はアザだらけで……パジャマの襟や袖からチラチラ見えるんだ。どす黒くて、まるでそこだけ肉が腐っちまったようなアザが」
「ああ……」
「あの鬼みてえな顔したババアの顔がそこでまたフラッシュバックして、脳裏で物凄い形相をして俺たちを睨みつけてやがる。目に焼き付いて離れなかったんだ」
「じゃあ、やっぱり」
「ああ、やられてたんだろうな」
ヨシダさんは苦虫を嚙み潰したような顔で、夜空を見上げてフーっとため息をついた
「よく見ると彼女は、その、ちょっと異様に痩せていたんだ。顔だけぷっくりしてたんだけど身体は細くてさ……白くて透き通るように見えてた肌もどこまでも青白くて……まるで……」
「お、お人形みたいだった、ってこと?」
僕は 死体みたいだった と言おうとしたのを咄嗟に飲み込んで人形と言い換えた
「そうだな、血が通ってないみたいだったよ」
ヨシダさんは遠回しにそれを肯定して、こう続けた
「そこで初めてゾっとしたんだ。この子もしかして……って」
そっからは、本当に恐怖でしかなかった。静香ちゃんは確かに目の前に居て、にこにこ笑ってくれてるんだけど……気が付くと歯がボロボロで息が物凄い臭いになってた。口臭なんてもんじゃない、黄ばんで所々黒く崩れた歯の向こうから漂ってくるのは乾いた下水か、野良猫が腐ったみたいな臭いだった。それに爪や指先がボロボロになって、自分と同い年ぐらいの女の子だったのがまるでバアさんの手みたいになった。パジャマも擦り切れて色が抜けちゃって……今にも向こう側が透けちまいそうだった。でもそれだって、透けて見えてる肌はボロボロのガサガサ。シミや斑点だらけで、アザも赤黒くくっきり浮かび上がって見えた
そん時ベッドに手をついてたんだけど、そこに何か落ちてきたんで見てみたら彼女の髪の毛がゴッソリ抜け落ちてた。落ち武者みたいになった頭は皮がめくれて、青紫色をしたぶよぶよの頭皮が垂れて来てた
流石に言葉に詰まって、思わず静香ちゃんの顔を見たら……
そこに座ってたのは目玉が二つとも抜けた、干からびた子供のミイラだった
それが、目玉のない顔のまま崩れた歯を見せて
ニイーー
って、笑いながら崩れたんだ。車椅子がコツーンと真横になった拍子に彼女の顔が俺の足元に倒れ込んで来て
静香ちゃんだったミイラが笑ったまんま言った
ヒューー
ヒヒヒヒ、ト モ ダ チ……ヒヒ
限界だったね、そのまま絶叫しながら部屋を飛び出した。ボロボロの廊下を跳ねるみたいにダッシュして階段を降りようとしたら後ろから
バターン! ガタガタガタガタ!!
って物凄い音がする。まさか!? と思って振り返ってみると静香ちゃんの部屋のドアが空いてる。けど、彼女の姿は見えなかった
ああーよかった……!
と思って階段を降りようとしたら
足元に上半身だけになった彼女がいた。お腹のあたりでパジャマごと千切れたみたいになって、白い骨が見えてた。そいつが俺の足を、半分骨になった小さな手の細い指でしっかり掴んで離さないんだよ
「ウワーーーーーーー!」
って叫んでもどうにも離しちゃくれないんで、腹ぁ括ってそのまま階段を飛びおりた。ほんの0コンマ何秒の間だったけど、俺の足から手が引きはがされてく彼女の顔がスローモーションで見えた。目玉のない顔がちょっと悲しそうで、寂しそうに思えたな……
次の瞬間には踊り場に落っこちて、転がった拍子にそのまま一階まで転がり落ちた。そん時に思いっきりアタマ打ってフラフラしたけど、怖いんでそのまま止まらずに玄関からひたすら走った走った。どうにか誰かヒトのいるところへ行きたくて、気が付いたら梅島駅の前に居た。怖かった。けどちょっと……逃げ切ったと思って我に返ったら、友達になってあげるって約束したのを破っちゃった気がしてたまらなくなって、俺、梅島駅の前で座り込んでシクシク泣いちゃったよ
誰か他の人の居るところに居ないと、寂しさと罪悪感でブッ潰れそうだったんだ
確かに怖かったよ、でもビックリしただけだったんだ
──悪いことしちゃったなあ」
最後の方は僕に対してじゃなく、ヨシダさん自身と……この暗闇のどこかで聞いているかもしれない彼女に言って聞かせるように話した
「あの子は、自分が死んでることに気づいてなかったのかもしれないな」
「それで、ずっとあの家に居たってこと?」
「そ。誰か友達を探してたんだろうな」
「あの子、気付いたのかな」
「さあーな」
「あれから、その家に行ったり彼女に会ったりは……」
「してねえ。というか、もうあの屋敷の場所、忘れちまった」
「だろうね」
「ああん?」
「覚えてたら今頃とっくに着いてるだろ。そのお屋敷に」
「違えねえや」
呵々と笑ったヨシダさんは、タバコでも取り出すような仕草でジャケットの内ポケットを探って何かを取り出した
「コイツは、まだ手元にあるんだけどな」
そう言ってヨシダさんが街灯に照らすようにひらひらさせたのは、くしゃくしゃになってボロボロの
青い紙飛行機




