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タクシー運転手のヨシダさん  作者: 佐野和哉
タクシー運転手のヨシダさん #2
38/41

その3「吸血鬼は病院に居た」

「でさ、朝の七時前だに。まだ暗いんだ冬だったし。配達に行った先の病院の裏口へ回ってエレベーターのボタンを押して待っとったじゃんね。正面からぐるっと回り込んで一番奥がエレベーターと地下に続く階段でさ。そのエレベーターで二階に上がって行こうとしたんだ。ほいで三階にいたエレベーターが二階、一階と来てドアが一瞬だけ、ちょっと開いてすぐ閉じちゃったんだけど……そのほんの少しだけの隙間の向こうに、灰色のパジャマを着たおじいちゃんが見えたんだよね。痩せててぼんやりした顔の、白髪がちょっと禿げた普通のおじいちゃん。あっ、誰か乗ってたんだ、と思ってドアの前からどいたんだけどドア閉まっちゃってさ。咄嗟にもう一回ボタン押してドアが開いたら、誰も乗ってなかったんだよ。え!? と思って思わず辺りを見渡したらさ、そのエレベーターのすぐ向かいのドア、霊安室だったんだよね」

「……ふーーん」

「怖くない?」

「別に」

「なんでえ」

「つけヒゲでもして掠れ声でやればちっとは怖いかもな」

「やだなあーこわいなーー、って」

「似てねえよ」


 明るく話しているあいだにも二人分の足音は着々と真夜中の山道を登っている。道路は麓の段階でどんどん狭くなり、登るにつれてどんどん荒れてくる。大きくうねった木の根っこがアスファルトを突き破って涙の数より強くなってたりところどころ大きな穴が開いてたりして酷い有様だ。だけどこれから目指す場所は、もっと酷い場所だ。


「なあーヨシダさん!」

「ああん?」

「まだ?」

「まだ」

「どんだけ登んのさ」

「全部」

「全部、って、このてっぺん!?」

「そ」

「そんなとこに病院なんかあんの?」

「そ」

「マジで? マジで行くの?」

「そ」


 今回ヨシダさんと僕が向かった先は、某県山奥のそのまた奥。いまどき携帯電話の電波も入るか怪しいくらいの場所に建つ忘れられた墓標のような廃墟。

 ヨシダさんは当時、大阪の生野区に住んでいた。大阪環状線の桃谷駅から真っすぐ伸びた商店街を抜けて、たこ焼き屋さんの前の信号を渡って右へ。区役所や区民センターに向かってテクテク歩いた辺りのちょっと裏手にある二階建ての青と水色のアパート。

 そこから勝山通に出て派手なスーパーの前を通って、あびこ筋へ。ヨシダさんの好きなアジアン料理店の前を通ってハルカスを見上げながらさらに西へ。この辺りは特に混雑していて夕日を浴びながらじりじりと走っていたのも束の間。国道以上に混み合う阪神高速に乗ってさらに進み、ヨシダさんの愛車こと白いスカイラインを飛ばすこと数時間。山の麓に着いたときにはすっかり夜も更けていた。そこから暫くはクルマで登って来られたけれど、思った以上に路面状況が劣悪だったらしく言い出しっぺのオッサンの

「コレ以上はクルマが傷付くから、ヤ!」

 という田舎のチンピラみてえな駄々っ子のせいで延々と歩いて登るハメになったのだ。


「なんでこっからクルマ出さねえんだよ、アンタが行くって言い出したんだら!?」

「るせえ! お前だってノコノコついて来たじゃねえか」

「こんな山道どころか獣道みてえなの歩かされるなんて聞いとらんもん!」

「当ったり前ぇだろ言ってねえもん、言うわけねえだろバァカ!」

「アンタもう五十前だら!? ワヤだでいかんわ、まー!」

「お前こそハタチそこそこのくせにババアみてえな三河弁でヤイヤイ言うな!」

「そら文句も言いたくなるわな!」

「るせえな。デブなんだから歩け、痩せろ!」

「アンタだって運動不足なんだろ、タバコ抜けるしちょうどいいわな!」

「オイ、カズヤお前もっと他に怖い話とか無ぇのかよ」

「はあ? この状態でまだそんなこと話せってか」

「無ぇのかよ」

「あるけどさ」

「じゃあー話せよ」

「うーーん、実は色々話したけどイッコだけ、あんまワケわかんないんで今まで話さなかったのがあるんだけど……」

「おうそれ聞こう」


「あんね……高校生んときにさ、草野球チーム入っとったじゃんね」

「キャッチャーでロースか」

「どこの漫才師だん6番ライトだよ」

「ちゅーーとはんぱやなぁーー!」

「だからどこの漫才師だよ! ほいでさ、ある年の夏にキャプテンの家でバーベキューをやることになったんよ。みんなで食材とか飲み物持ち寄って。道具はウチで持ってたから、免許持ってるメンバーに迎えに来てもらったりして」

「お前バーベのセットなんか持ってたんだな。自分で自分を串刺しにして炙る趣味でもあるのか」

「違わい。いくらデブでも何が悲しくてのセルフサムギョプサルだよ」

「んでそのバーベがどーした」

「うん、結構遅くまで騒いでてさ、そのうちに食べ物もあらかた片付いちゃって。でも楽しいんで帰りたくないじゃん。みんな」

「お前ちょっと待て!」

「はん?」

「それ女の子も居たのかよ」

「そこかよ!? るわけねえじゃん」

「つまんねえの! ハッ」

「あからさまに聞く気なくしてんじゃねえよ!」

「何が悲しゅうて男だらけのバーベキューなんか」

「まあ聞いとくれんよ。ほいでね、あんまりやる事ないんで、みんなでキャプテンの家の周りをウロウロほっつき歩いてたんだ。夜中っても十時ちょっと過ぎくらいだったと思うけど。キャプテンの家ってのが豊橋でも東のほうにあってさ、火葬場のすぐ近くだったんよ。周りは公園になってて遊歩道もあるし、ほいだもんでそこへ行ったじゃんね。なんとなく」

「お前ほんとババアみてえな話し方だな」

「おばあちゃん子だもん」

「バーベの次は火葬場か。女の子と火遊びするわけでもねえのに」

「火のない所に煙は立たないとはよく言ったもんだね」

「で続きは」


「うん。みんなでやることもないし歩きながらダベってたんだ。ほいで田舎だもんで見上げると星がよく見えるんよ。あー綺麗だなーって思ってたらさ、火葬場の森の向こうから空に向かって、しゅーーって、白い光が上がってくのが見えたじゃんね」

「お前らのツレか他の誰かが花火でもしてたんじゃねえのか」

「ほんなわけないじゃん、みんなそこに一緒におっただに。それにぐるっと回ったけどそれっぽい形跡もなくってさ。ゴミとか花火の匂いとか。音もしなかったし……」

「ふーん」

「それ見たの一人じゃなかったんだに、みんなで止まって空を見とったもんで。そしたら、どれくらい経ったころかなあ。また、しゅーーって」

「白い光が出たのか」

「うん、ほいで光が出た方に行ってみただけど、結局は公園っても真ん中は火葬場だもんで入れんだよ。たぶん、ちょうど炉のあった辺りだと思うんだけどね、光の出所は」

「ふうん……」

 ヨシダさんは息を整えながら相槌を打ち、左手の人差し指で自分の鼻の頭を軽く弾いた。汗を拭うような仕草だが、これは彼の癖で別段どうというわけでもなく、何か考え事をするときによく見せる。さっきまでとは違って、この話に興味を持ったのかなと思った。


 僕のオチもなくなんだかよくわからない話が終わるころには二人ともすっかり息が上がっていた。僕は体重百キロ近いデブちんだし、このオッサンはヘビースモーカーなうえ万年運動不足と来ている。

「ヨぢダざん」

「ああ?」

「……まだ?」

「まだ」

「あづい」

「デブ」

「アンタだって滝のような汗じゃん」

「誰が電気グルーヴだ」

「ピエールじゃねえよスウェットのほうだよ」

「スウェット瀧?」

「トロくさいことっとるじゃないだに、まだ着かんの?」

「もう着く」

「いっつもそれじゃん、ほいですぐ着いた試しがあるだかん」

「だからそのババアみてえな話し方なんとかしろ」


 そういっている間にも道はどんどん酷くなってゆく。木の枝でも相当太いものがへし折れているし、石ころではなく小さめの岩のようなものも転がっている。足を踏み出すたびにゴロゴロと不安定で、大袈裟な音がして耳にも障る。そんな足音と僕とヨシダさんの青息吐息混じりに投げつけるお互いへの罵詈雑言だけが暫く、無人の山道に響き続けた。そして最早そんな声も出なくなるほど疲れ切って、ぜぇぜぇと荒い息だけを吐きながら下を向いてひたすら暗いなかを歩き続けること数十分。漸くその建物が見えてきた。


「オイ、着いたぞ」

「げえっ……」

 それはこんな辺鄙な場所に建てられたのにしては思った以上に立派な建物で、地上四階建ての廃病院だった。

「でっか……もっとこう小さい、個人でやってる診療所とかじゃないだね。これじゃまるでサナトリウムじゃん」

「まあーそうだな」

「なんでまたこんなとこに」

「昔ゃ道路ぐらいはマトモだったろうしな、昭和の終わりごろまでは存続してたんだよこの病院。でも」

「でも?」

「色々あってな。悪評が悪評を呼んで、事実もそうでないものも、尾ひれ背ひれがどんどんついて……」

「どうなったの」

「悪事千里を走るって言葉があるだろ、その中にはウソみてえなホントの話もあったんだ。んでそれが千里も走らないうちにポリス沙汰になってな。結局、院長は自分の築き上げたこの病院で首を吊って死んだんだと」

「ざっくりだなー」

「まあ噂だからな」

「よくそんなこと知ってたね」

「悪評が何里走ってきたか知らねえけど俺の耳にも届くくらいだからな、ここらの地元じゃ当たり前の話なのかもしれん」

「ほんで何がホントの話だったの?」


「吸血鬼」


「は?」

「院長が患者の生き血を絞って飲んでたんだと。だからカゲじゃ吸血鬼って呼ばれてて、それが他の色んな噂をぶっちぎってホントだったんだ」

「よくそんなとこに診察に来たり入院する患者が居たねえ」

「そりゃお前、好きでブチ込まれたりしねえだろうよこんなとこ」

「ああ、隔離……」

「殆ど老人か精神科の寝たきり病棟だったみたいだな。俺が乗せた客にも親類が入ってたって人いるし。生々しいんだよ、噂話にしちゃあさ。噛まれたとかそういうんじゃねえんだもん」

「どうされたの……?」

「だから、あらゆる手段で患者の血を抜くんだよ。んで、それを飲むんだ」

「飲血鬼だねそれじゃ」

「ぜんっぜん怖くねえな」

「インケツキって、なんかヤだね」

「インキンのケツに蹴り入れるみてえだな」

「いい大人が何たわけたことっとるだん」

「お前が最初に言い出したんだろうがよ!」

「インキンだのケツだのはアンタだら!?」


 二人でワーワーと実に低俗なケンカをしながらも建物の中に入る。正面玄関の分厚い自動ドアは随分前にぶち破られたようで、割れた部分にも砕けたほうにもしっかりと土埃が積もっていた。カビ臭さと雨の日の砂場みたいなにおいが混じったような空気のほんの薄皮一枚向こうに何か嫌な臭気が漂っている。動物が腐ったみたいな臭いだ。

「犬か猫でも死んどるだかね」

「くたばってんのが動物ならいいんだがな」

うなよなそれを」

「いいじゃねえか、何を今さらビビってやがる」


 ガサガサと散乱するゴミや積もりに積もった土埃を蹴飛ばし、踏みしめながら奥に向かう。二つの懐中電灯がロビー、受付、会計窓口、院内薬局、テレビとソファや長椅子があったらしき空間を照らす。ロビーはがらんとしていて、奥にちょっとした小部屋がある。

「自販機コーナーかな」

「かもな、ありがちだな」

「吸血院長の病院なのに事務の人が飲み物の手配して業者さんが来てフツーに自販機の補充してたのって、なんか面白いね」

「知らぬが仏っていうか、言わぬが花っていうかな。みんな思ってても口には出さねえでココ通ってたり、入院してたり」

「働いてる人も居たわけだね」

「こんなクソ不便なとこよくもまあ」

「院長が聞いてたら噛まれるに」

「噛まれるならお前だろうが」

「なんで」

「血といっしょにアブラも抜いてもらえ、ちったぁ痩せるだろ」

「アンタだってタバコのヤニとか抜いてもらいんよ」

「俺の血はおぇと違って、んな汚れちゃいねえの!」

「何を!? 年中運動不足で酒とタバコばっかりじゃんか、ヘドロみたいな血しとるくせに!」

「っせえな! 俺がヘドロならお前はラードだ!」


ジリリリリリリリリ!

ジリリリリリリリリリン!!


 二人の不毛な言い争いに割り込むように、けたたましいベルの音が鳴り響いた。無人の廃墟にびりびりと余韻が震えるほど鳴りまくる電話のベル。

「ヨシダさん、コレなに……?」

ジリリリリリリリリ!

「電話」

ジリリリリリリリリリン!!

「んなこたわかってるよ! なんで!?」

ジリリリリリリリリ!!

「誰か用があんだろ、電話かけて来てんだから」

ジリリリリリリリリリン!!

「誰にさ!?」

「お前に」

「はあー!?」

ジリリリリリリリリリン!!

ジリリリリリリリリリン!!

「あーーもう、うっせえな!」

 怒鳴り合っている間にもお構いなしに鳴り続けるベルに腹を立てたヨシダさんは周囲を見渡し、ソファの足だったと思われる手ごろなスチールパイプを拾い上げると、音の出どころを探して懐中電灯をゆっくり振った。ベルはどうやら例の自販機コーナーから聞こえているらしい。


ジリリリリリリリリリン!!

ジリリリリリリリリリン!!


 壁で仕切られた小部屋で僕たちを呼ぶかのように鳴り響くベル。狭いところで聞くと猶更ビリビリして、実に不快でやかましい。

ジリリリリリリリリリン!!

「あった! コイツか!」

 そしてとうとう音の出所であるところの古い公衆電話を見つけると、ヨシダさんは片手に持ったスチールパイプを高々と振り上げた。

ジリリリリリリリリリリリリリィ……!

 最期の瞬間だけ、電話機がひと際高く、大きな音でベルを鳴らした気がした。ヨシダさんがスチールパイプを勢いよく振り下ろし、腰ほどの台に乗せられたままの公衆電話の側頭部に命中して鈍い音を残した。


ドキャッ!!


アギャアアアアアアアアアアーーッ!


「ギャーッ! ヨシダさん、電話が叫んだ!!」

「うお!?」

「ちょっと、今のなんだん……!?」

 スチールパイプが振り下ろされたのは確かに電話機だった。かつてはどこにでもあった緑色の古い公衆電話。それが今、勝手に上がり込んでギャーギャー言い合っていた狼藉者の片割れに思いっきりヒットされた瞬間、明らかに断末魔の絶叫をあげた。

「いま、絶対この電話だったよね!?」

「ああ、ビックリさせやがって」

 ヨシダさんが捨て台詞を吐きながらガツン、と追い打ちに一発くれてスチールパイプを片隅に放り投げた。側頭部の砕けた公衆電話が死体のようにごろりと横になって、幾つかこぼれずに残ったボタンがこっちを見上げて泣いているように見えた。


 ロビーに戻ると、さっきにも増してがらんとした広さと暗さが不気味に思えた。狭い範囲に目が慣れてしまったので暗闇の奥まで視線が届かない。足元の色んな破片やごみをつま先で蹴飛ばしながらウロウロと歩き回っていると、今度はまた違った音が聞こえてきた。

プキュ、プキュ、プキュ

「ヨシダさん、アレ……」

「ああ? んーなんか、ガキの穿いてるサンダルみてえな音だな」

プキュ、プキュ、プキュ、プキュ

 やっぱり聞こえる。はっきりと、こっちに向かって歩いてくる。よく小さな子供が履いてるアニメのキャラクターが描かれたサンダルで歩くと鳴る、あの音だ。靴底に笛が仕込んであって、それがプキュプキュ鳴っている、あの音。

プキュ、プキュ、プキュ、プキュ

 この暗闇の廃病院の、廊下の奥で。

プキュ、プキュ、プキュ、プキュ

「ねえコッチ来てない?」

「そうだな」

プキュ、プキュ、プキュ、プキュ

「どうしよう」

「どうもしねえよ」

「だって来とるじゃん!」

「来たらいいじゃねえか」

プキュ、プキュ、プキュ、プキュ

「ねえやっぱ来とるよ!」

「っせえな! じゃあどーすんだよ」

「どうって……」

プキュ、プキュ、プキュ、プキュ

「き、来た」

プキュ、プキュ、プキュ、プキュ

プキュ、プキュ、プキュ、プキュ

「あれ……?」

 サンダルの足音は確かにロビーまでやってきた。そしてそのまま僕たちのいるところを通り過ぎて、また別の廊下を歩いていった。


プキュ、プキュ、プキュ、プキュ……


「ありゃ、行っちゃったね」

「ああ」

「……なんだったんだろ」

「聞いてみるか」

「は?」

 ヨシダさんが懐中電灯を顔の下からかざしてニヤニヤしている。こういうとき、このオッサンはロクなことを言わない。モーレツに嫌な予感がする。


「ついてってみようぜ」

 ほらきた。

「バカじゃねえの!?」

「あにが」

「あにが、じゃねえよなんでわざわざそんな真似すんのさ!」

「あんで」

「怖くねえのかよ、なんだかわかんねんだぞ! ほっときゃいいじゃん!!」

「っせえな、じゃ置いてくぞ。どこでも勝手に行けよ」

 必死の抗議もこの一言にあったら太刀打ちできない。あの山道を一人で降りて、クルマもナシに電車のある町まで帰るのは不可能だ。いや出来ないことはないが、絶対嫌だ。それならまだ一人じゃないぶんだけ廃墟の方がマシだ。……たぶん。


 プキュプキュ鳴るサンダルの音を追いかけて廊下を曲がってみると、すぐ角のところにドアがあった。可愛らしいピンクの板に子供向けキャラクターのシールやイラストがふんだんに散りばめられている。どうやらここに入ったらしい。

 外から見た感じでは結構広そうな部屋の中からは可愛らしいメロディがうっすら漏れてくる。

「オルゴール? メリーゴーランドかな」

「さあーな、中に入って聞いてみようぜ」

「ホントに開けるの……?」

「ああ?」

 ドアだけは可愛らしい模様と色合いだが、ここは真夜中の廃墟。無人の廃病院だ。

「だって何がおるかわからんじゃん」

 それなのに、このドアを開けるといって聞かないのだ。このオッサンは。

「さっきのガキだろ、サンダルの」

 だけど、やっぱり気になる。

「もう音、せんに……?」

「脱いだんだろ」

「そうかねえ」

「だからそれを」

 あっ、と止める間もなくヨシダさんがドアノブを掴んでガチャリと回した。

「確かめねえと」

 そのままグイっと手前に引くがビクともしない。ガチャ、ガチャと二度三度引っ張るがやはりダメ。

「あークッソ! なんだよ開かねえのかよ」


「よ、ヨシダさん」

 ああ気付いてしまった。このオッサンに恥をかかせてやりたいのはヤマヤマだけれど言うと怒るし、言えば開けちゃうんだろうなあーこのドア。


「あんだよ?」

「そのドア、引くんじゃなくて、押すんじゃない……?」


 このオッサンがこんな顔を赤くしたの初めて見た。恥ずかしいのかと思ったらやっぱり怒って僕のケツに強烈な蹴りをぶっこんで来た。

「痛ってえな! 自分が間違えたじゃんよ!!」

「っせえ! お前言ったからには入るんだろうな」

 あーあやっぱりな……。

「押してもかなんだら諦めりんよ、もう」

 ガッッッチャ……キイィ

「開いたぞ」

「あーあ……あっ、ヨシダさんあれ!」

 観念してドアの向こうをのぞき込むと、そこは明るいパステルカラーで彩られた部屋だった。が、もちろん明かりなどはついていない。懐中電灯でふりふり照らすと、どうやら託児所か小児科の待合室みたいな場所らしく子供用の古いおもちゃ、小さなブラウン管テレビ、キャラクターが描かれたコップやぬいぐるみが散乱している。そうやって部屋を見渡したすぐ足元に、これまた古ぼけた子供用のピンク色をしたサンダルが脱ぎ捨てられて転がっていた。

「これかあ」

「行儀の悪いガキだな」

「幽霊なんだからいいじゃん」

「バカお前、幽霊がサンダル履くかよ脚もねえのに」


 外まで聞こえていたメロディの正体は、空っぽになって傾いたベビーベッドに吊るしてあった古いメリーゴーランドの音だったらしい。が、今はもう何も聞こえない。当然、そんな古いおもちゃが動いているわけもない。一つ一つのおもちゃは言うまでもなく、積み木もミニカーも

「おっ、こんな奴もいるぜ」

 ヨシダさん、いくら打ち捨てられているからってそんな熊の(ピー)さんをつま先で甘く踏まないで。そんな超メジャーキャラのぬいぐるみに至るまでがすっかり埃をかぶっていて、ここ数年は人の出入りなどなかったことがよくわかる。


 ゥウーーン……

 ブゥーーン……

 ブゥーンブーン

「ヨシダさん、何か聞こえない?」

 ゥウーーン……

 ブゥーーン……

「ああ? 虫でも入ってんだろ」

 ブゥーンブーン

「コッチの明かりに寄ってきてんじゃねえのか」

 ブゥーーンン……

 ヨシダさんが手にもってる愛用の赤い懐中電灯をコツコツ叩いて見せたが、部屋の中を結構な数の虫が飛び回っているような音がする。けれどその明かりには影もうつらないし、だいいちこれだけ飛び回っているなら体にぶつかってきてしまいそうだ。でも、それもない。ただがらんとした部屋の中に羽音だけがブーンブーンと響き続けている。

 それはどんどん数が増えて、どこかからどんどん飛び出してきているような気がする。ブーンブーンだった音がどんどん大きく、分厚くなって、いつの間にか

 わあああああああああん!!

 という身の毛もよだつような不協和音になって部屋中に充満し始めた。


「うわ、うわあああ」

「なんだ、虫じゃねえのか」

「うっ!」

「ぐっ、こ、これは……!」

 突然、ズキリと頭の右側が痛み始めた。わんわん鳴り響く虫の羽音がどんどん重なり、やがて

キィィィーーン

 という高周波になって、それがそのまま脳に突き刺さってくるような感じだ。と同時に、目の前が急に明るくなった。音が脳に突き刺さっている針になって、そこから映像が流し込まれてくるみたいに、真っ暗だったはずの目の前で異様な光景が繰り広げている。そして幾ら強く目を閉じても頭を左右に振っても、それから逃れることは出来なかった。


車椅子の少年

波打つ視界の中で、可愛らしい子供用の部屋にひとり

暗い表情。屈辱に満ちたゆだんだ眼差し

足元に転がっている四駆のミニカーを左足でコーンと蹴飛ばした

赤いミニカーは部屋のドアに当たって止まった


 そのドアをノックするコン、コンという音が深く、嫌なエコーを伴って脳に響いてくる。酷く憂鬱な、脳裏から背骨を通って腰まで血の気がサーっと引いてくる感覚を思い出す。いや、まさに今この車いすの少年はそれを味わっているのだ。それが蒼白となった顔からも伝わってくる。


再びノックの音。

コン……! コン……!

残響と反響

深い不快なエコーが

心の扉をこじあけようと

無数に伸びてドアを叩く


 部屋に入ってきたのは全部で四人の少年たちだった。彼らはみな一様に笑顔を浮かべていたが、その瞳の奥には別の理由がずっしりととぐろを巻いているような目つきであった。

「……なに」

 車椅子に座ったまま俯いた少年は彼らに向かって少し怯えた顔を隠すようにつぶやいた。

「元気そうだね」

「ねえねえ、天気いいし外に出て遊ぼうよ」

「そうだよ。ずっと部屋の中じゃ体に悪いよ」

「たまには外の空気を吸ってさあ」

「さあ押してあげるから、ドア開けて」

「いいから、ね! 行こうぜ」

 一見すると健気で賑やかな、友情に篤い少年たちの微笑ましい見舞いの光景であったが、車椅子の少年の顔はそんな雰囲気とは真逆の、不安と恐怖ですっかり引きつった表情をしていた。

「いいよ、やめろよ」

 絞り出すようにしてそう言ったときには、既に車椅子は出口を向いてゆっくりと進み始めていた。車輪の軋む音がキィと少し鳴って車椅子が止まる。

「へえー、せっかく見舞いに来てやったのにさ」

「いいのかよ、そんなこと言って」

「みなしごのくせに」

「おじいちゃんに言いつけて、この病院から追い出してもらうぞ」

 最後にトドメを刺すようにそう言い放った、四人のうち一番小柄で痩せている陰気な少年はこの病院の院長の孫だった。骨の髄まで溺愛され尽くして育った彼だったが発育は遅く、そのせいで非力かつ運動神経がにぶかったうえに少しぼんやりしているところがあった。そこに付け込んで日々散々様々に虐め抜いていたのが、今まさに車椅子で項垂れている少年だった。彼はクラス、いや学校でもトップクラスの札付きの悪ガキでいじめっこグループのリーダー格でもあったが、突然の交通事故で半身不随になってしまった。一緒にいた家族──父親と母親も病院に担ぎ込まれたが彼が麻酔を嗅がされ眠っている間に息を引き取ったという。しかし遺体には対面させてもらえず、また遺族には多額の保険金が支払われ少年のケアも病院側が生涯にわたって保証するということで全ては解決した。


 家族三人を一気に轢いたトラックの運転手が依然として行方不明なままなことと、この少年の世話を誰も引き受けたがらなかったがゆえの結末だということを除けば。


 少年の家は近在でも指折りの貧乏で、元々さして裕福では無いこの辺りにあっても生活レベルはかなり低かった。それは少年の親戚一同みな同じで、誰も腹を痛めて産んだわけでもない悪ガキの面倒を見るような余裕などなかった。少年の家で行われていた、遺体もなく粗末な祭壇のみが置かれた形ばかりの葬儀の席でも遺族たちはみな物凄い剣幕で声高にお互いの貧乏と困窮を叫び合い、少年の世話を押し付け合っていた。時限爆弾のバケツリレーのようなその阿鼻叫喚に終止符を打ったのは、突然そこに現れた名士と名高いこの病院の院長だった。そして先に述べたような約束を交わし、その場で多額の保険金と見舞金が手渡された。院長先生のご降臨とお裁きに異議を唱える者は一人としておらず、みな彼をさすが地元の名士、やはり素晴らしい人格者だと褒めたたえた。罵詈雑言と貧乏自慢の葬式は一変、酒池肉林の乱痴気騒ぎになってひと晩じゅう続いたという。

 いじめっ子の少年はその一夜をもって、かつて従えていたいじめっ子グループとその新たな首魁のオモチャになった。その首魁こそ、自らいじめ抜いた院長の孫だった。土気色の顔をした陰気な少年はまるで墜落現場から連れて来られた宇宙人のようなシルエットをしていて、大きな頭の中にはいつも卑屈な妄想が渦巻いていた。

 彼は家庭では溺愛され、学校ではボンクラ扱いをされるうちに、自らの心の中に悪魔を飼い育て始めていた。やがて少年に巣食う悪魔は彼自身の体を着ぐるみにして独り歩きをし始めた。近在で絶対的な権力を誇る祖父のもとへ向かい、祖父の膝の上でウソ泣きをし冷たい涙をポロポロとこぼして見せた。そしていじめっ子の彼が憎い、憎いと囁いた。祖父はゆっくりと頷いて、なにより可愛い孫の貧相な背中を優しくぽん、ぽんと撫でた。


 目を覚ますと少年は病室のベッドの上だった。自分が交通事故に遭ったことも、両親がその場で即死であったことも、居合わせた看護師からきわめて事務的に告げられた。そしてショックを受けるよりも先に、自らも半身不随、よくて一生車椅子。経過次第では寝たきりであることも告げられた。

あなたのことは、この病院が面倒みるわ

困ったことがあったら、なんでも相談なさい

さあ、もう少しおやすみ……

 そう言って中年の女性看護師は病室を後にした。一人残された少年は再び眠りについた。貧乏で、世を拗ねて家族を憎んで学校では自分より力の弱い同級生や下級生に暴力をふるい鬱憤を晴らしていた。家では父親からの拳と踵、母親からは金切り声の罵詈雑言が飛んできた。背中と言わず腹と言わず顔面であってもお構いなしに、ひっきりなしに。朝起きてから眠りにつくまで毎日毎日毎日毎日それが続いた。物心ついたとき既に家庭は荒れ果てて、物質的にも精神的にも何もかも、足りないままで育った。家で食事のようなものを摂ったことは稀で、両親が笑っていることすら滅多になかった。小遣いや菓子やおもちゃを与えられたことなど一度もなかった。

 だから彼は奪い取ることにした。ある日、隣に住んでいた同級生の飲んでいた缶ジュースの味が自分の脳裏にもじわじわと広がっていくのを感じた。カラメルの風味も砂糖の甘さも炭酸の刺激までがしゅわしゅわと音を立てて喉から脳の奥まで広がっていくのを感じたのだ。そして気が付いたら同級生を殴り倒し、その缶ジュースを奪って飲み干していた。口の中いっぱいに広がるその味は、頭の中で描いていた味とぴったり一致した。その瞬間、脳天から脊髄を通ってつま先までパキーッ! と電流が走った。まるで天啓のようなイカヅチが彼を衰弱した虐待児から札付きのクソガキに変えた。

 幼稚園などという洒落たものは、この近在には存在しなかった。院長が経営する保育所がその代わりを果たしていた。そこに集まる子供たちを片っ端からぶっ飛ばし、商店をやっている家の息子なら店の菓子を持ってこさせ、土建屋をやっている家の息子から小遣いを巻き上げ、会社員をやっている家の息子のおもちゃを取り上げ、そして院長の孫をサンドバッグにして過ごしていた。

 同級生たちはこぞってこのクソガキの暴力から逃れるために自ら進んで貢物を差し出すようになった。菓子も小遣いもおもちゃも、それで殴られずに済むのなら安いものだった。親たちもあの面倒な一家にさわらないよう、子供たちに度々言い聞かせた。もし抗議にでも向かおうものなら、あの農家の親父みたいに目玉をえぐられ頭を割られるまで引きずり回され二度とここには住めなくなるからだ。その家の息子も苛烈ないじめに遭い、一家は代々続いた農地も家もそのままにして夜逃げしていったという。

 そもそも他所へ引っ越していけるほど暮らし向きも良いわけがなく、このまま過ごせるならその方が。そんなことでこの狭い社会は回り始めていた。そしてその暴風域の中心に居たのは、痩せっぽちで今にも死にそうだったあの虐待児の変わり果てた姿。

 子供ではあったが、彼は間違いなく鬼だった。


そしてその鬼が、新たに生まれた悪魔によって屈服されようとしていた。

ただただ顔を合わせるたびに金をむしられ殴られ蹴飛ばされ引きずり回されてきた、ひ弱ないじめられっ子の形をした悪魔の揺り籠。

しかしその祖父は絶対的な権力者だった。

土気色の顔をした、卑屈な心を持つ悪魔。

暴力でしか生きる術を与えられなかった子鬼。

この先の人生から

歩くこと

そのものを失った子鬼を乗せた車椅子が

静かに動き出す

俯く少年の土気色の顔が涙と鼻水でくしゃくしゃに

ゆがむ、いびつに、ゆがむ


 車椅子が向かった先は暗い部屋。一階の奥の奥の部屋。そこには一般の患者はおろか看護師や医師ですら近づくものはいない。院長とその一族、関係者だけが立ち入りを許されている区域。その最奥の間の重い扉がゆっくりと開いて、車椅子の少年と、もう一人の悪魔を飲み込んでゆっくりと、閉じた。この部屋の中で何が行われていたのかを知る者は今やどこにも存在しない。ただ時折漏れ聞こえてくる苦痛と屈辱にまみれた叫び声と、悪魔の含み笑いが混じった吐息だけがひんやりとした廊下に溶けてすぐ消えた。


 病院の裏手に広がる広大な山。その一部に面した裏庭の大きなクスノキの木陰に車椅子が押されてきた。四人の少年たちが代わる代わるに車椅子を押して廊下を通り抜け、ロビーを通過して玄関を飛び出し、裏庭に向かってゆく光景はさぞかし微笑ましく映っていたことだろう。看護師たちも苦笑するやら可愛らしいやら、みんな明るく見送っていた。

 本当はすべてを知っていた。彼らの目的も、車椅子の少年の正体も。

 これから何が起こるのかも。


「よーし、ここかな」

「オイ、大丈夫なんだろうな」

「俺たちまでやられないか」

「大丈夫だよ、早くやっちゃえよ」

 車椅子の少年は怯えながらあたりを見渡す。日当たりのいい芝生と花壇に面したベンチ。その向こうに病院の建物。窓越しの廊下をせかせかと歩き回る看護師。

 みんな見ないふりをしていた。

「あった、あれだ!」

ブゥン

「うわ! もう飛んでるぞ」

ブゥン、ブンブン

「怒ってる……大丈夫かなあ」

「早く落とせよ、早く」

 少年たちの中で一番背の高い男の子がクスノキの根本に置いてあった物干し竿を拾い上げて、木の枝めがけて振り回した。

ブゥンブゥン

 低い羽音とカチカチという不気味な音が聞こえる。カチカチカチカチ、と嫌な音。ブウン、ブゥン、と飛び回る音。

「あっ!」

 のっぽの少年が悲鳴を上げると同時に、車椅子の彼の膝の上にどすんと何かが転がってきた。それは口をぽっかり空けたのっぺらぼうのシャレコウベ。

 に一瞬見えるほど巨大な、つるんとしたスズメバチの巣。途端にブウンブウンと飛び回っていたのが

わあああああああああああああああああん

 という、無数のスズメバチが唸りをあげて辺りを覆い尽くす音に変わった。

「うわーっ!」

「早く、ほら!」

「逃げろ!!」

「あはははははは! あははは!」

 一目散に逃げだした四人組の一番後ろでノタノタ走るシルエットが高笑いして、大きな頭がのすのす揺れた。

「わあーーーーーっ!」

 膝の上の巣から無数の怒り狂ったスズメバチが飛び出して、最初の一匹が素早く彼の右手の甲を鋭い毒針で突き刺した。

「痛い、痛いーっ……!」

 逃げることはおろか立ち上がることすら出来ず、周囲を飛び回り全身にまとわりつくスズメバチにただただ怯える少年。髪の毛に、鼻先に、瞼に、指先から肩口から足の先まで、あちこちにかぎ爪を立ててしがみつく。やがていつまでたってもその場を去らない外敵に次々と針を刺す。恐怖のあまり振り払うことも出来ず身をよじるが、スズメバチの巣を壊された怒りはおさまらず、あっという間に彼を滅多刺しにした。

「助け、痛い、た、助けて!!」

「だずげでーーーーーっ!」

 泣いても喚いても悲鳴をあげても、誰にも聞こえてはいない。

 誰も何も聞こえてなどいない。

 誰も何も見なかったし、聞かなかった。

 日当たりのいい芝生と花壇に面したベンチ。その向こうに病院の建物。窓越しの廊下をせかせかと歩き回る看護師。庭先で今まさに起こっている惨劇に関心を向けるものなど、この病院には、いや、この集落には一人として居なかった。

 居てはいけなかったのだ。

 やがて真っ黒に見えるほどスズメバチに覆われていた車椅子と少年が徐々に姿を現した。スズメバチは気が済んだのか、もう敵は居なくなったと判断したのかどこぞへと三々五々に飛んで行った。

 あとに残されたのは、無残な姿になった少年がひとり。

 車椅子から背中がずり落ちて、ぐったりと首を反らせて、白目を剥いて小刻みに痙攣している。口から垂れた涎がツーと真っすぐ芝生に伸びて、傾き始めた日差しを浴びて、濃い黄色に輝いた。顔も、手足も、パジャマの中の体も、少年らしく可愛らしい性器すらも惨たらしい姿に変わっていた。叫んでいるときに口の中に飛び込んだため、頬肉の内側から針が飛び出したまま死んだハチもいる。

 舌や歯茎や喉の奥まで刺されたのと叫び過ぎたのとで粘膜が破れて血反吐になって、パジャマに飛び散っている。ぐったりとした少年は日暮れまで放置され、薄暗く顔も見えないくらいになってからやっと寄越された看護師によって事務的に院内に運び込まれた。

 そして彼を見たものは、その後ひとりも居なかった。


 彼が運ばれたのはこれまでの可愛らしい子供部屋でも、院内に設けられた彼専用の病室でもなかった。

 いつもの暗く冷たい地下の一室。悪魔が鬼を嬲るための閉ざされた小部屋。

 そこが彼の終の棲家となった。

 院長の他ごく限られた人間以外はその部屋の存在すら知らない、秘密の暗闇に放り込まれたまま彼は死んだ。

 明かりも点けられず、一切の手当もなされず、膿んだ傷口が腐って、流れっぱなしの血が固まって、瞼も目玉も唇も鼻も爛れて、頭皮と一緒にズルっと落ちた。

 あまりの痛みと恐怖で悲鳴をあげたくても、すでに一日中叫び過ぎて潰れた喉からごぼり、と血反吐があふれて埃の積もった床に飛び散っただけだった。

 身体の自由も、尊厳も、貞操も、声も音も光も失ったまま彼は腐って死んだ。もともと弱り切っていた体は呆気なく限界を迎えた。変わり果てた暴君の遺体はどこかへ運ばれていって、それですべては終わりだった。


暗い。暗い部屋がもっと暗くなる

静かな部屋が、もっと静かになる

深い。深いところへ沈んでいって

いつか何にも見えなくなってゆく

このまま暗く深い静かな部屋から

誰からも忘れられてゆくのだろう


「ヨシダさん、見た……?」

「……ああ」

「何だったんだろうね、あれ」

「さあーな。でも、案外ウワサは本当だったのかもな」

「なんの?」

「この病院の院長のさ。言ったろ、人さらっちゃ血ぃ吸ってたって」

「ああー」

「あの院長のウワサはそれだけじゃねえんだ。これも乗っけた客から聞いただけの話だけどな……」

「何したの」

「あの院長、孫のことイジメてた村のクソガキを家族ごと運転手雇ってトラックで轢かせたんだと。孫のことで話があるから病院まで来てくれ、って呼びつけてその道すがらでな。んで、その場で殺すつもりだったが幸か不幸か子供だけ助かっちまった。地元の名士としちゃあ生き残ったもんを見殺しには出来ねえが、殺してやりたいほどその子供が憎かった。だから、誰が引き取るかで揉めてるところに恩着せがましく出て行ってもらい受けてきた」

「なんて奴……」

「それだけじゃねえ、孫を使って他のガキけしかけて殺させたのも院長だし、半身不随で動けねえのをいいことに性根の曲がった孫にヤりたい放題させてたのもだ」

「それで、あの子どうなったんだろう」

「さあーな、そこにいるから聞いてみちゃどうだ……」

「は?」

 ヨシダさんが僕に向けてた懐中電灯を、スッとずらした。僕の背後に何かが居て、そいつを照らしているような格好だ。僕は振り向くことも出来ず、自分の手に持った懐中電灯の丸い明かりの中で年の離れた親友が引きつった顔をしているのを呆然と見つめているしかなかった。

「なに? なに、ねえ何がおるの!?」

「シッ! 静かにしろ……動くな、動くなよ、いい子だから」

 最後の言葉でそれが僕に向けられたものではないことがわかった。

 何かいる。

 キィ。

 何か動いた。かすかな、錆びついた金属質の何かが動いた音がした。

「よせ、動くんじゃない」

「よ、ヨシダさ」

「動くなっつってんだろデブ!」

 今度は僕のことだとわかった。

 キィ、キコ

「ひっ、ひぃ……」

 僕は思わず目を閉じて情けない声を出してしまった。これが間違いだった。ただでさえ暗くて目がよく見えないから耳が澄まされてしまって些細な物音にも過敏になってたのに、完全に聴覚に頼ることになったからだ。

 僕の背後に誰かいる。か細い息遣いと、埃の積もった床を踏みしめるタイヤの音が聞こえる。おそらくきしんでいるのは、その車輪の軸だ。

 つまり、後ろにいるのは


い た い よ ぉ


「わあーーっ!」

 部屋全体に響き渡る地獄のような低い声。空っぽのはずの部屋をびりびり震わせるくらいの大音量が脳に直接ぶつかったみたいだ。僕は思わず走り出して、目を開けて、振り向いてそれを見てしまった。

 ヨシダさんの懐中電灯と窓の外のかすかな光が照らしていたのは、車椅子に腰かけている膝から下が腐ってなくなった子供の患者だった。それも両腕ともボロボロに朽ち果てて右腕はほとんど骨だけになっている。

 顔はボコボコなうえ目も鼻もなく、折れたり抜けたりした歯の隙間に腐った舌が詰まってて、頭皮は額からズルっとずり落ちるような形でぶら下がっている。

 そして何より力なく垂れた頭の中は空っぽだった。

 よくある比喩表現ではなく、本当に頭蓋骨をカパっと開けて中身を綺麗に取り出してしまったようにすっかりと空洞になっていたのだ。

「うわ……!」

 あまりの惨たらしさに思わず呆然としていると、後ろから僕のド頭を引っぱたいて腕を引っ張る奴が居た。

「バカ! 走れ、カズヤ!!」

「え、あ、ああ!」


い た い よ ぉ


 また聞こえた!

 そして車椅子はまるで床の上を滑るようにしてこっちに向かって真っすぐ走ってきた。もう今度はキコキコもキイキイも鳴らなかった。スィーーっとそのまま近づいて来る。浜辺で潮が引いて足元の砂だけが持っていかれてくような感じだ。こっちが動いていても向こうがそれよりも早い。もつれるようにしてドアに向かうが、車椅子がすぐ後ろにいる。どうしよう!?


た す け て ぇ


 ガッターン!

 脳裏に直接響いたその声がだんだん遠ざかって消える。そして同時に僕の真後ろで何かが地面に転がった。

 恐る恐る振り向くと、そこには埃まみれで車輪の錆びた車椅子が一台、ぼろぼろになって横たわっていた。

「ああ、あの子……」

「うん?」

「助けてほしかっただもんね」

「かもな」

「よいしょ」

「オイよせよ」

「だって可哀そうじゃん。そりゃあ、あの子だって悪かっただろうけど」

「だからってなあ、無暗に優しくするとお前、後ろついて来るぞ」

「ほんなことわんでよ。いいじゃんか」

 僕はその車椅子をそっと起こして、軽く埃を払ってから部屋を出た。


 ドアを開けると、また静まり返った廃墟の病院だった。

 当たり前だ、ここはそういう場所なんだ。かつては病院。いま廃墟。何もいるはずがない、誰もいるはずがない。

 じゃあ、さっきから懐中電灯の明かりの片隅でちょこんと座っているあのハゲ頭に眼鏡をかけた痩せぎすの老医師は一体誰なんだ…!?

「ヨシダさん」

「……アイツだな」

「院長?」

「ああ」

 小声で話す僕とヨシダさんをじっと睨みつけるように、猛禽類のような鋭い眼差しを離さない。如何にも昭和の偉い人といった感じの丸い小さな眼鏡の奥で、懐中電灯の明かりに照らされた瞳がギラリと光っている。

 濃い。凄い気配だ、只者じゃない。まるで本当にその場に生きた人間が座っているみたいだ。場所と時間を考えなければ全く違和感がないくらい、当たり前のようにロビーの長椅子に腰かけている。

 君たちこそ何者だ、私の病院に何の用かね?

 とでも言いたげに。


 スッ

 と白衣の男が突然立ち上がった。背が高く、長い手足をぎくしゃく動かすようにしてコチラに向かって歩いてきた。足取りも確かで、とても亡霊とは思えない。パリっとした白衣に黒いスラックス。頭頂部以外の残った頭髪もしっかり整えられ、黒々とした立派な口ひげと繋がった顎髭。

 医者と言うよりどこかの国の独裁者みたいだ。

 不機嫌な老医師は重厚かつ上質とわかる室内履きをスタスタ言わせて、僕たちにお構いなく進んでくる。あまりの光景に呆然としていると、ちょうど僕とヨシダさんの間を

 スッ

 と通り過ぎて、そのまま暗闇の廊下へ消えていった。スッタスッタスッタスッタ、と乾いた足音を残して。

「ねえ、あれじゃホントに居るみたいだよ」

「そうか。これが、この場に残った念と記憶ってやつか」

「何それ……?」

「ずっとそこにある岩だとか、あまりに酷いことが起こった場所なんかには、その念が集まって残ることがあるんだ。こりゃあ、いよいよタダゴトじゃ済まねえことばかりだったみてえだぞ」

「この病院がそれを見せてるってこと?」

「どうだかな、答えはアイツが知ってるかもよ」

「……行くのぉ?」

「一人で帰るか?」

「ほいだでなんでそういう事をうだん、まー」

「ババアみてえにボヤいてねえで、早く来い」


 院長はどうやら階段を上がって二階に向かったらしい。たっぷり砂ぼこりの積もった階段を懐中電灯で照らすと、明らかに真新しい足跡が残っている。昨日や一昨日でもなく、形のハッキリした足跡。

「誰か来てたのかねえ……」

「いま行ったろ」

「やっぱそうか」

「上にフツーに生きてるオッサンが住んでても怖いけどな」

「こんなところに!?」

「こんなところでもマシってぐらいの生活してりゃ構わねえだろ、雨風は凌げるだろうし」

 あながちあり得ない話でもないか。世知辛いな。


 踊り場を通り過ぎてもう半分の階段を登り切ると、二階の病棟に入る。正面にナースセンター、左右に伸びる暗い廊下、窓からさすわずかな明かり。

 向かって右奥の廊下からこっちに向かってヨチヨチ歩いて来る点滴の繋がったパジャマの爺さん。

「……は?」

「今度は患者さんのお出ましか」

「医者も患者も死んでるのに出ていかないのかよこの病院」

「さぞかし居心地の良い病院なんだろ。まごころとぬくもりのケアを」

 ありがちな病院のキャッチコピーみたいなことを言っているヨシダさんと僕の目の前までやってきたその爺さん。すっかり洗いざらしてペラペラのヨレヨレになったグレーのパジャマと、履き古してペタンコのスリッパ。

 前開きのボタンが幾つかズレているせいで薄い胸板がちらりと覗く。

 袖や裾から伸びた手足がまるで骨のように細く青白い。

 その細すぎて白すぎる腕に深々と刺さった点滴の長い針。一体何を注がれているのか真っ赤な点滴袋をお馴染みのキャリアに乗せてカラカラと動かしながら。呆然とした目だけが真っ赤にぎらついて、懐中電灯の明かりを跳ね返して光る。

 陶酔しているようだ、何かに。ひどく。

 ゆっくり、ゆっっくりと歩いてきて、そのまま僕らのそばを素通りして反対側の廊下の奥へ。

「えっ」

「わっ」

 鼻先をくすぐったのは紛れもなく、老人独特の枯れたにおい。加齢臭の枯れたやつ、もっと熟成乾燥したやつ。

「今の爺さん、生きてるの……!?」

「生きてたって死んでるみてえな爺さんだったがな」


 呆然と見送る僕たちが照らし続ける懐中電灯の明かりの中で、爺さんはゆっくり、ゆっっくりと歩いていって、廊下の奥のドアをガチャッと開けて入って行った。

 パタ、パタと二人分の足音が廊下に吸い込まれて消える。壁に貼られた古い啓発ポスターや標語、新聞の切り抜きなどを見るにやはりそこそこ古い建物のようだ。僕はこわごわ歩く重い足取りを誤魔化すようにヨシダさんに尋ねた。

「どのぐらい前の建物なのかな……?」

「さあーな、これが建ったのは昭和の半ばだって言うけど」

「ああ、リニューアルオープンしたのね」

「お前それは言い方おかしくねえか」

「だってそうだら」

「そうだらもスケソウダラもねえんだよ、他に言い方ねえのか」

「改装記念出血大サービス」

「血ぃ出してどうすんだ止めろよ病院だろ」

「吸血大サービスじゃないといいね」

「ちったあ吸われて痩せろデブ」

「アンタも吸われてデトックスしりんよ」

 さんざん罵り合ってついた先のドアには小さな古いプレートが張り付けてあった。でも、文字がかすれちゃって何て書いてあるのかわからない。

「なんの部屋だろうね」

「爺さんが入って行ったし診察室か……?」

「デイルームとかそういう部屋とかは」

「んなもんこの時代の建物にはねえんじゃねえのか」

 確かに言われてみればそうだ。それにこのドアは実に簡素というか貧相で、明るい談話室のような雰囲気ではない。

「今度は引くだに?」

「うるせえ」

 例によって迷わずドアノブに手をかけたヨシダさんに意地悪を言ってみる。ヨシダさんはこっちを見ずに吐き捨ててドアノブをガチャリと回して引いた。


 ギィ。


 とだけドアが鳴って開け放たれたその向こうには、寒々しい木製のテーブルが置かれ、それを挟んで対面する形でイスも二脚。ひと目でガタついているとわかるオンボロ応接セットだけがぽつんとあって、公民館みたいな硬い床に木目のパネルが敷かれている。机の上にはこれまた粗末で古い電気スタンド。

「談話室、かな……?」

「どっちかというと取調室みてえだぞ」

「前にさ、精神病院に入ってる友達の面会に行ったことある。そんとき通された部屋がこんなだったよ」

「お前どこでも入ってくんだな」

「外は改装して綺麗だったんだけどね、その病院。中も入ってすぐの待合室とか受け付けは白くてお洒落な感じだったけど……」

 そこもここも似たようなもので、まるで心に塩辛い寒風が吹くような部屋だった。

 窓もなく、ただテーブルとイスが置かれただけの小部屋。誰からも忘れられようとしていた廃病院の片隅にある、この狭くて四角い箱。

「なんもないね」

「なんもねえな」

「出よっか」

「だな」

 踵を返して、開けっ放しのドアから部屋を出る。瞬きをした次の瞬間には、元の暗い廊下と窓が見える。

 はずだった。


 ところが目の前に広がっているのは遥か彼方まで通路の左右にベッドが一対ずつずらっと並ぶ長い長い部屋。真っ暗だったのが白すぎて明るすぎるほどの光に包まれていて、そこには……

「ヨシダさん、これ」

「おお、ジジイとババアばっかりじゃねえか」

 良かったヨシダさんにも見えてた。

 ベッドの上には今にも死にそうな老人が腕に鼻に喉に点滴や酸素のチューブを挿し込まれて、目も虚ろでうめいている。どのベッドにも、どこまで行っても、老人、老人、また老人。見渡す限り果てしない老人回廊。


 深緑色をしたあの硬くて冷たい床、消毒と炊事の匂いの混じった老人施設独特の匂い。ムニャムニャ、クチャクチャ、モゴモゴ、何か言っているのか口が乾くのか、かすかなうめき声と口を動かす音が混じって響く。

 恐る恐る足を踏み出してみると、床はちゃんとある。そして一歩踏み出して進むごとにかすむほど向こうのほうで通路が生まれている。歩いても歩いても老人、ベッド、うめき声。


「ヨシダさん、これどうしよう……!?」

「ちくしょう、どこまで行ってもジジイかババアの違いしかねえぞ」

「出れないの?」

「知るか、そこのジジイにでも聞いてみろ」

 ところがコチラが幾ら話しかけても、泣きそうな顔で話しかけても、必死で肩を揺さぶって話しかけても、老人たちは一向に反応を示さない。目の前に人間がいる、ということすらもはや認識出来なくなっているのだ。そのレベルの人でも、人は人、長生きこそ正義、寿命は全てに勝る価値を持つ。

 これを否定すれば即座に人でなし、何人なんぴとたりとも如何なる否定も許されない人命と尊厳を繋ぐ透明のチューブ。


 歩いても歩いても老人。

 狭い通路なので僕の前をヨシダさんが歩いている。彼の背中越しに見える遥か前方までずらーっと老人を繋いだ粗末なベッド。老人施設特有の匂い、緑の床、点滴、チューブ、老人。

 ヨシダさんの背中がどんどん遠ざかってゆく。

「待ってよ、ねえ」

 そう言っても答えるどころかますます足を速めてゆく。

「ねえ、ちょっと!」

 聞こえてないのか……!?

 初めは、またトロくさいことして……と思ってたけど、これはまさか。そう思い始めてからのヨシダさんの足取りの早いこと。僕はいつの間にか小走りになって追いかけていたけど、全然追いつけない。もともと足は遅いけど、そうじゃない。なんだか潮がグーっと引いていくみたいに離されてしまう。


 どうしよう


 焦りと恐怖と不安と疲労で心臓が破裂しそうなくらい脈打っている。頭に血が上ってクラっときた。視界が一瞬ゆがんで、ふと見上げると部屋というよりも白いドームのようになっていて、そのだだっ広いドーム状いちめんに老人ベッド。一斉にうめき、もがもが話し、クチャクチャ鳴る。老人、老人、老人、老人。

 老人の無限曼荼羅だ。

「わあああああああ!」

 と叫んで次の一歩を踏み出した瞬間、その足が空を掻いた。

「あっ!」

 と叫んだときには、あれほど頑丈そうだった床が崩れて、僕はベッドに繋がれた老人曼荼羅を見上げるように真っ暗闇に落ちていった。


みるみる白い光が小さくなっていった

どこにも触れない数秒間

空気だけがひゅるひゅる笑って

落ちてく僕の無様な姿を笑って

地下室の床が待ってる

一人ぼっちの僕を待ってる


 ぼんやりとした意識が戻って来た。僕は愛知県の実家の自室で寝ているけど、全身にまとわりつく違和感のせいで眠ることが出来ないでいた。手足が思うように動かない。息苦しくてたまらない。

 ずり

 嫌な肌触りは背中から。使い慣れた柔らかいマットレスで寝ているはずなのに、硬くて冷たい。おまけに小石のようなものが多くどうにか寝返りを打つとそのたびに次々食い込んでくる。顔に砂が付いた気がする。吸い込む空気が埃っぽく、幼稚園の頃スッ転んで顔を突っ込んだ物置小屋の裏側の匂いがする。いや違う、それよりも、もっとイヤな臭いが充満している。それを無意識のうちに全力で拒絶している。


 そんなはずはない。


 僕は自宅で寝ているんだ。どこか暗い場所に落っこちてきて、その場で気絶などしていない。だんだん頭が冴えてくるけど、全部無視だ。そんなことはない、と思っていたい。だけどどんどん覚醒してしまう。この感じ、久しぶりに味わうなあ。柔道の練習をしてて絞め落とされたあとに、よくこんな感じで目が覚めたっけ。そういえば今日はヨシダさんが一緒に……

「ヨシダさん!?」

 つい反射的に跳ね起きてしまった。あの年の離れたバカ運転手の顔が脳裏に浮かんだ瞬間、僕は全部を認めて諦めなければならなくなった。思わず吸い込んだ空気があまりの臭さで、暫く咳込んでいた。なんなんだこれは……魚や肉が腐ったような臭いの、もっと酷いやつだ。それも、腐って乾いてを何度も繰り返して、もはや取り返しがつかないくらいにしみついた、とんでもない悪臭。

 ああそうだ。ここは山奥の廃病院。最後にヨシダさんを見たのは遠ざかってゆく背中。そして蠢く老人の巣窟。あれは一体なんだったのか。

 そしてここは一体どこなのだろうか。真っ暗だ。何も見えない。懐中電灯は……懐中電灯が……懐中電灯……。


 ない。


 落っこちた時に失くしてしまったらしい。どこかに転がってないだろうか、僕は手探りで周囲をあさってみたけれど、とくに何もれるものはなかった。何もさわらなくてよかったのかもしれない。何があるかわかったもんじゃない。

 そう思ってしまったが最後、今度は手を伸ばすことも怖くて出来なくなってしまった。虫、死体、血反吐、内臓、ありとあらゆる嫌なものを想像して、悪臭に満ち満ちた暗闇の中で突っ立ったまま一歩も動くことが出来なかった。


(どうしよう)


 自分の顔が今にも泣きそうになっているのがわかる。声も出ないし足も動かせない。どうしてこんなことに、なんでこんな目に……。ひたすら後悔しても恐怖は誤魔化せない、あの時こんなところへ来なければ、あのオッサンの言う通り一人ででも帰っていれば……ズキリと痛む膝からはきっと血が出ている。じんじん熱いのは膝だけじゃなく、腰も肩もしたたかに打っているらしく今になってにぶく痛み始めた。


 ゆっくりと体を起こしてみる、骨は折れていないようだ。腰や膝を伸ばすとググっと抵抗を感じる。どのぐらいの間ここでひっくり返っていたのだろう。そもそも何か起こるなら、その間にとっくに起きているはずだ。でも今のところ僕は打ち身や擦り傷くらいで大した怪我はない。

 大……丈、ぶ、だよ……な?

 恐る恐る、一歩、いや半歩だけ踏み出してみる。ジャリッと砂を踏む音がするだけだ。もう半歩、さらに半歩、やっと一歩と歩いたところで壁にぶつかって止まった。ここが壁と言う事は、これに沿って歩けば……。

 右手を湿っぽくべとついた壁にそっとつけて、そのままゆっくり歩いてみる。目が慣れてきたのか何となくわかったのは、この部屋には窓がないということだった。天井の高さ、床の様子も全然わからない。ただ、そのおかげで見つけることが出来たものもある。一メートル先くらいのところにごく薄く差し込んできている、ごくごく僅かな光。

 これだ!

 僕は少し足を速めて駆け寄った。ドアノブ、ドアノブはドコだ!? 焦る指先がガリガリと擦れてもお構いなしに手を這わす。やがて無意識に押していたドアが


 ガタリ


 と鳴って、外の明かりが少し膨れた。やっぱりドアだ! 開くんだ、ここ!

 早く、早くここから出たい! もうこんなところは御免だ、さっさと逃げよう。だけど、さっきから幾ら探ってもドアノブらしきものに当たらない。うっすら差し込む光を頼りに懸命に辺りを探るが、それでもない。

 ちくしょう! 出せ! 開けろバカヤロウ!!

 両手をグーにしてドアをガンガン叩いた。ガタガタとドアが揺れる。でも開かない。ドアノブもない。もうダメか、ちくしょう。

 カチャン!!

 ガラガラ


「うるせえぞ、デブ!」

「ヨシダさん!?」

 突然目の前が明るくなったと思ったら、ヨシダさんが立っていた。手に持った懐中電灯で僕の顔をふりふり照らしてニヤニヤしている。

「どこ行ってたのさ」

「そりゃオメェーだろうがよ、急に穴に落っこちてどっか行っちまいやがってバカ」

「アンタがどんどん先に進んじゃうから」

「バカ言え、すぐ前に居たよ俺は。そしたらお前だけ急にストーン! と消えたんだ。嘘じゃないぜ、ホレ」

「あっ、ありがとう……」

 ヨシダさんが差し出したのは僕の持ってきた懐中電灯だった。

「よくこのドア開いたね」

「ああ? さっきどっかのデブが教えてくれたからな。このドア、横に開くんだよ?」

 暗闇のうえ焦っていて気付かなかったが、これはドアじゃなく引き戸だったのだ。それをこのオッサンが実に得意げに、何度も何度もガラガラ、ガラガラと古い引き戸を開けたり閉めたりして見せた。

「……根に持ってやがったか」

「けどよ、これ妙だぞ、こっち側にカギがついてら」

「ほんとだ、そういえばそうだね」

「いったい何の部屋だったんだろう」

「そんなに長いことノビてたわけじゃなかっ、た……んだな……」

 ヨシダさんが懐中電灯で部屋の中を照らした。僕がさっきまで閉じ込められてた小部屋。そこが何の部屋だったか、すぐにわかった。それは小さな丸い光を少し動かすだけでも十分すぎるほど、すぐにわかった。


 そこは、死体置き場だった。


「わあああああぎゃあああああああ!! やだやだやだやだなんだんもーーーーーやだああああ!!」

「うるせえ!」

 ヨシダさんの蹴りが僕のケツにヒットしたが、そのぐらいじゃこのこみ上がってくる叫びは止まらなかった。


 床一面におびただしい血が垂れたり飛び散ったりしている。もちろん壁にも。そしておぞましいことに、そこいらじゅうを血だらけの手で這いずり回ったような跡があるのだ。つまり、ここには

「まだ生きてるうちに放り込まれた奴もいたみてえだな」

 しかも地面に転がっているのは無数の白い小石。のようなもの。そして大小さまざまな骨、骨、骨。骨格標本のようにきれいに残った肋骨、頭の部分が半分かけてる頭蓋骨。僕が暗闇の中で想像していた通りのものが、斜め上の方向で現実になった。


 さらに

「ヨシダさん……あれ」

「マジかよ、どうやったらあんなとこ」

 僕の懐中電灯が照らした天井にも、びっちりと手形のついた場所があった。普通の部屋よりは確かに小さいがそれでも天井まで二メートルはある。取っかかりもハシゴも当然ない、あるはずがないこの部屋で、一体どうやって……考えれば考えるほど、僕はこの部屋でつかの間でも気を失っていたということが信じられなく、いや、信じたくなくてたまらなくなってきた。


「うげ、うげええ」

「バカ、今更吐くんじゃねえ!」

「だっでえ……」

「汚ねえな、やるなら向こうでやれ!」

「鬼! 悪魔! ひとでなしぃ!」

「文句なら鬼や悪魔じゃなくて吸血鬼にでも言ったらどうだ」

ったらってやりたいよ!」


 いったいどれほどの死体が、どれほどのあいだここに閉じ込められていたんだろう。そして死体の山のなかで生きながらえてしまった人は、いったいどんな状況になっていったのだろう。想像したくも、想像のしようもないほどグロテスクな現実が目の前で真っ暗な口を開けている。いや、僕はその口の中で暫くの間とはいえ眠っていたのだ。なんておぞましい、なんて恐ろしい……!


「オイ、こっちだ」

 ヨシダさんが僕の肩を指で突いて、首をしゃくって合図した。そっちには別のドアが開け放たれていて、懐中電灯の明かりがスーっと黄色く伸びていた。

 その先に置かれていたものは

「げ、ヨシダさんこれ」

「あの院長先生のご趣味だろうなあ」

「うへえーー……なんて言えばいいんだろう」

「四字熟語で言えるよ、拷問部屋ってんだコレ」

「それ四字熟語に入るのかよ。いやしかし凄いね」


 映画やテレビゲームでしか見たことのないような道具、器具が盛りだくさん。

「三角木馬なんか初めて見たよ」

「オイオイ血がベットリ付いてるぞ」

「いったいドコをそんなに擦ったんだろうね」

「頭でもカチ割らねえとこうはならんだろ」

 他にも床や残った机の上に散乱しているのは鎖のついた首輪、拘束台、顔に被せる頭陀袋、錆びてひしゃげたバーナー、液体を入れておくビーカー、それに金属製の丸いポットのような容器。


「なんじゃこりゃ」

「マホービンか……科学の実験とかで使うんだよ。液体窒素入れとくヤツだ」

「炙ったり冷やしたり吸血鬼も忙しいんだね」

「おい、カズヤ、おい」

「え、うわ、え……!?」


 さっきまで饒舌だったのが、急にヨシダさんの声が強張ってつんのめった。それにつられて、僕もつい振り返ってしまった。言葉を失う、とはこのことで、もうなんて言ったらいいか脳が判断を下せなかったんだと思う。え、とか、うわ、とか取り敢えず出る声を絞り出すのが精一杯だった。


 それは巨大な試験管いっぱいに詰まった、何かの内臓。それが二つや三つじゃなくズラッと並んでいる。壁から壁まで広い棚にズラッと。何の内臓、どこの臓器、そんなこと言ってられないぐらいの内臓。当てずっぽうに肝臓でも腎臓でも言えば、この中に二つや三つ必ず入っているだろう。そのぐらいの量の内臓。


 右から左へ、棚を見まわす。内臓、内臓、まるで透明な胴体にぎっちり詰まった標本のような物体から次々に目を逸らしていくと最後にたどり着いたのは……小さな、ホテルの部屋にあるような白い冷蔵庫だった。すっかり汚れて埃にまみれたその四角い冷蔵庫の取っ手を

「あ、ヨシダさん、ちょっとやめりんって!」

 という僕の制止も全く聞かず、このオッサンがアッサリ開けて見せた。

「冷たい」

「ヒヤっとしたね」

 開いた扉からは、確かに冷気が漏れてきた。そんなバカな、と思ってガバっと開けた冷蔵庫の中には

「わあー!」

「うわ、これ」

「の、の……」


 脳みそだ!!


「院長、この脳みそ食ってたのかな……」

「さあーな、考えたくもねえや」

「これ、もしかして」

「あん?」

「あの子の……じゃない、かな」

「あの子って」

「ほら、さっきの、車椅子の」

「なんでわかんだよ、んなこと」

「だってあの時、あの部屋にいたあの子、アタマ空っぽだったじゃん!」

 僕は確かに見た。彼の頭は比喩表現じゃなく、まさしく空っぽだった。オデコの辺りから頭蓋骨をカパっと真一文字に切り取られて、中身をすっかり抜き取られていたように見えた。

 その中身がきっと、ココに入っていたのだ。


「吸血鬼どころか食人院長だったよ」

「アミンもビックリだな」

「今どきアミンは古いよ」

「バカ野郎、人食い大統領に古いも新しいもあるかよこんなもん」

「そりゃヒトを食った話だこと」

「お前ずいぶん余裕があるじゃねえか」

「こんなとこったら、まーちょっとやそっとじゃ驚かんて」

「ほう、じゃアレ見ても平気か」

「はん? うわあああ何アレ!?」


 それは、もはや拷問の道具なんてものではなかった。

 装置だ。巨大な、緻密に精密に構築された一大装置だ。つまり

「患者を捕らえて血を抜き取って」

「集めて自分で飲む装置?」

 ヨシダさんと僕が思わず声を合わせて呟いた、このフレーズ以外に形容の仕方をおそらく誰も持ちえないと思う。そのぐらい、異様過ぎるくせに物凄くわかりやすいカタチをした装置だった。


 円形の台座にずらっとリボルバーみたく据え付けられた巨大な試験管が並んでいる。それぞれに人間が詰め込まれていて全身に刺さった針から絶えず血を抜かれ、あるものは痛みに耐えきれず泣き叫び、あるものは真っ白になって震えながら崩れ落ち、またあるものは力尽きて試験管の底に溜まった自分の血の海に沈んでいる。


「ええ、これって」

「吸血院長のウワサはホントだった……いや、ウワサ以上だったようだな」

「でも、ここ、廃墟だった……よね」

「さっきから何度も見たろ。これがこの場所に染み付いた記憶だ、残存思念ってやつか。そいつがあんまり濃くて強いんで、俺たちにも見えるし」

「こんなに血の臭いがするわけね」

 地下室の中はむせ返るほどの鉄臭さが充満しているうえに、何かが腐ったみたいな生臭くてじめっぽい臭いも混じっていた。端的に言うと、あんまり臭いんでまた吐きそうだ。

「これ、血を汲んでるのはココだけど飲んでるのは別の部屋なのかな……」

「配管がある、このコンプレッサーで送ってるんだ」

 試験管の底から伸びているそれぞれのパイプは束ねられてコンプレッサー付きの四角い箱に繋がっていた。その箱の反対側からは、太いパイプが一本伸びている。床から壁を伝って天井に。そして、建物の奥に。


「この向こうか」

「行くの……?」

「行かねえの?」

「……止めても行くんだろ」

 ヨシダさんはそれには答えず、黙って配管の下にある重厚なドアに取りついた。鉄製のレバーをガチャっと下ろすと、ドアは大儀そうにギギギギィと鳴るだけで開こうとはしなかった。錆びついているのか、砂を噛んでいるのか、あるいは両方か。

「あーもう! このクソッタレが!!」

「ちょっと、ヨシダさん!?」

 ドアの働きがお気に召さなかったと見え、この年の離れたバカな親友は苛立ちをドアに直接ぶつけることにした。思いっきり蹴飛ばしたのだ。


 バタン! ガタガタ!!


 激しい音と共に二度三度バウンドしてドアが開いた。砂ぼこりの立ち込める廃墟の地下室に懐中電灯の明かりが二つ。その真っすぐ広がった線の向こうに、デスク。ランプ。光る眼鏡。

「げっ……い、居た」

「ホラお出ましだぞ、文句でもなんでも言ってやれ……この吸血院長さんによ」


 言葉が出ない……けどそこに座っていたのは、紛れもなくさっきロビーにいた白衣の老医師。

 彼の背後の壁には、精緻に描かれた肖像画が大袈裟な額に入れられて飾ってある。やっぱりコイツが院長だったんだ。

 だけど、その油絵よりも数倍リアルな姿をした奴が、いま目の前にいる。丸い小さな眼鏡が再びギラリと光った。そして真一文字に固く結んだ不機嫌極まりない口元から、濃い顎髭に向かって一筋の紅い筋がツーと漏れた。

「あっ!」

 ランプの影からそっと取り出したワイングラスには、それと同じ紅い液体が半分ほど残っていた。それを美味そうにクイーっと飲み干してそっとデスクに戻し、吸血院長は音もなくスーっと消えていった。

「今のも、記憶……?」

「ああ、美味そうに飲んでたな」

「これか」

 デスクの上のグラスにはすっかり埃が積もって、どす黒い筋が中心からグラスを傾けたと思しき方向に伸びている。中に液体が入っていた名残だろう。


「コイツで汲んでたんだ」

「じゃあ、これが……」

「ウォーターサーバーならぬ」

わんでいいでね!」

 わなくても、これが何を汲んで何を供給してたかはわかる。隣の部屋で集めた患者の血液を混ぜ合わせたものをここに送って、グラスに注いで飲んでいたんだ。


「オイ、こりゃあお前レシピじゃねえのか」

「へ?」

 ヨシダさんがデスクに放置されていた汚い紙きれをペラペラめくりながら言った。どうやら何かの成分や分量が描かれた図と、名簿のリストが付いている。

「氏名、年齢、血液型、体脂肪率血糖値……げっ!」

「よーするに、アイツ自分好みのブレンドを作ってやがったんだ」

「うげえー、ひどい話だ」

「さすが違いの分かる男は、やることも違う」

「それで装置に色んな人間が一度に入ってたんだ。あれは誰でもいいから入れたんじゃなく」

「自分で患者の食事や運動量まで管理して、それをココに連れてきて厳選された材料だけを絞ってた、ってわけだ」

「うげげえ」

「見てみろ、こっちは腎不全の若い女。それに糖尿のババア、こっちは動脈硬化に心筋梗塞……結構コッテリしたもん飲んでたんだなアイツ」

「郊外のラーメン屋じゃあるまいし、贅沢な奴だね」

「きっと清らかなオトメの血なんぞ、サッパリし過ぎててすぐ飽きたんだろ」

「アンタまで吸血鬼みたいなことわんでよ」

「元の年増の濁り恋しき、ってか」

「色んなところから怒られろ、いっぺん」


忘れられた地下の底に

沈み眠り続けた

血と骨とはらわた

訪れる者もいない

耳を傾ける者もいない

誰からも忘れられた場所の

誰にも思い出されずに

消えていくはずだった

血と骨とはらわた

廃病院は巨大な棺桶

鉄筋コンクリートの霊廟

忘れられた地下墓地で

蠢き出した者たちに

鎮魂歌さえも届かない

思いにすがり、光に飢えた

蠢き出した者たちは

思いにすがり、光を求めた


 ガタン!

 突然、背後で何か大きな物音がした。

「ねえ、今のなに……?」

「さあーな、院長先生が忘れ物でも取りに来たんじゃねえの」

 ドカン!

 ガタガタ!

 ガターーン!

「こっちに来る!」

「随分と騒がしいな、よっぽど大事なモン忘れたのか」

 どんどん近づいて来る。あらゆるものをなぎ倒しぶつかりながら迫ってくる物音。それと、かすかに聞こえてくる猛獣のような息遣い。


「逃げよう!」

「どこへ」

「どこって」

 バターーン!!

「来た!!」

「げえっ!?」


 グシュルルルル……と獣のような呼吸音とともに、再び血生臭い空気が一瞬で地下室いっぱいに広がった。そして唯一の出口の扉を弾き飛ばして現れたのは、廊下いっぱいに広がる四本足の巨大な腐乱死体の塊だった。

 剥き身でブドウのように繋がれた幾つもの目玉が一対と、へし折れてウチワのように背骨を繋がれた5人の男女、それぞれの身体からこぼれ出たハラワタ、どろどろに溶けていびつに固められた首と手足。それはまるで

「なんだこりゃ……死体のパズルか」

「いや、違うな」

「なんでさ」

「生きてるうちに拵えられたんだ、コイツは」

「げ!? じゃ、じゃあそれってやっぱり」

「ああ、アイツの仕業だ!」


 吸血院長の作り上げた恐るべき化け物は相変わらずしゅうしゅうと悪臭を放ちながら、幾つもある目玉や頭でかわるがわるこちらを見ている。

「どうしよう……なにあれ」

「ゴチャゴチャ言ってねえで逃げるんだよ、お前もあのバケモンに取り込まれて豚足にでもなりてえか」

「なんでブタなんだよ! せめて他にねえのかよ」

「豚足がイヤならとっ捕まって絞られて豚骨スープにでもされりゃいいだろ! いいから逃げるんだよ」

「だからどうやって」

 僕が言い終わるよりも前にヨシダさんはそばにあった切断機を引っ掴むと、化け物に向かって猛然と走り出した。

「カズヤ! 酸素、酸素だ!!」

「えっ? あっ! わかった!!」

 ヨシダさんの怒鳴り声を聞いて慌てて辺りを見渡すと、切断機から伸びたホースの先には3㎥の黒いガスボンベが転がっていた。細長い、消化器によく似たような形をしていて、アタマのところに黒いバルブが付いている。そいつを思いっきり開けると、先端の火口から勢いよく酸素ガスが噴き出した。


 そこにヨシダさんがライターで火を点けた。

 ボウンッ!!

 と音がして、無色透明の可燃性ガスが燃え上がり、炎がいびつな化け物を包み込んだ。

「ギャアアア」

 化け物は体中に火傷を負って地団駄を踏み、地下室が大きく揺れた。

「こっちだ!」

「待ってよ!」


 ヨシダさんの後について地下室を駆け抜けた。どうやらあの化け物が歩き回ったらしくアチコチ滅茶苦茶になっていた。廃墟から事故現場になったって感じだ。だけど、このまま走ってて大丈夫なんだろうか。

「ねえヨシダさん!」

「んだよ!?」

「出口あんの?」

「あるだろ!」

「どこに!?」

「知るか!!」

「じゃあなんで走ってるのさ」

「だからテメエあのバケモンに食われて豚骨になりてえのか!」

「んなこと言ったって、こんな走りっぱなしじゃコンキィですぐ捕まっちゃうじゃん」

「ババアみてえにボヤいてねえで走るんだよ!」


 真っ暗な地下室を狂った蛍のように飛び回る二つの懐中電灯。その背後から、地獄の底から響くような彷徨と、血と膿と腐肉の悪臭が追いかけてくる。

 グシュルル……グジュグジュ……グェギャアアアー!

「ギャー! 来た来た!」

「わあーってんよ! うるせえ!!」

 すぐ後ろをアイツが、あの巨大な化け物が追いかけてきている。どう考えたって冷静じゃいられないだろう。だけど、どっかでヨシダさんは何かを待っているような、考えがあるような気がしていた。だけどそれを聞き出すどころか、もう息が上がって苦しくて苦しくて、それどころじゃなかった。と言うかコレ、同じとこグルグル回ってないか……だってそりゃそうだ、僕はあの地下室に、どっかから落っこちてきたんだ。出口なんてあるわけが……いや、ヨシダさんは、ヨシダさんはドコから来たんだ!?


「ねえー! ヨシダさん、ヨシダさんはドコから」

「あぁん!? なんだって」

「アンタさっきどっから来ただん!?」

「それなら今、アイツが教えてくれるぜ!」

「は?」

 ギャアアアアアアア!!

 背後で物凄い絶叫が聞こえた。こんな真後ろに居たなんて、まったく気が付かなかった。


「カズヤ、左だ!」

「わーっ!」

 ヨシダさんの怒鳴り声で咄嗟に左手にジャンプして、通路の窪みのようなところに飛び込んだ。その一瞬あとに、あの化け物の巨体が突っ切って行った。

「……行ったかな」

「ああ」

「なんだったの、あれ」

「ああ」

「ねえ!」

「っせえな、散々見たろ。あれもこの場所の記憶だよ」

「んなこと言ったって、あんなもんどう考えても」

「この世に存在しないって? じゃあこの地下室は、あの拷問部屋は、院長先生の秘密の小部屋は」

「だけどさあ」

「お前だって見ただろ、あの巨大なビーカーん中の臓物や骨を」

「うん……うん!? じゃあ、あれは」

「そ。アイツを拵えた時の残骸」

「あの部屋で作ってたってこと?」

「そ」

「そんな……そこまで残酷に人間を弄べるもんなのか」

「そりゃあ出来るさ、何しろ田舎の神様だからな」

「その実態は吸血鬼なのに、誰も何も言えないもんだから」

「好き放題いじくり回してたってわけだ。でも」

「でも?」

「一つだけあの院長にもいじくれないモノがあった」

「それは」

「ココだよ」

 ヨシダさんは心臓の辺りをトントンとつついて見せた。

「心臓?」

「バカ、ハートだ。心だよ」

「ああ」

「精神の方はどうにでもなったかもしれねえ、ロボトミー手術でもオーヴァードーズでもさせればよかった。でも、患者の心の中までは作り変えたり、壊しちまうことは出来なかった」

「だけど実際に、あの子や今の化け物みたいのが……」

「そ。アイツらは下手に壊れなかったせいでココに残っちまった。そして」

「そして?」

「自分たちの代わりを待ってた」

「げっ!」

「初めはただ残っちまっただけだったんだ。まあ院長はケタ外れに強かったんでそのまま残れたんだろうな。ところがフツーの患者たちはそれほど強くないんで、みんなで集まってより強く結びついて残ろうとした。そこで小さな憎しみや悲しみ、恨みつらみも一緒になって結びついて」

「あんな姿になっちゃったってこと……?」

「そ。だから今から始末つけに行くんだ」

「どこへ」

「田舎のインチキ吸血鬼カミサマのところだよ」


 そーっと曲がり角から顔を覗かせてみる。どうやら化け物も、院長もいないみたいだ。

「オイ、コッチ」

 ヨシダさんが手招きをする方を見ると、さっきは見えなかったけれどハシゴがある。あそこは行き止まりだったはずなのに。

「こんなとこにハシゴがあったんだ」

「ああ、そういうことだ」

「へ?」

「いいから早く来い、豚もおだてりゃハシゴ昇るだろ」

「アンタさっきからヒト馬鹿にしかしとらんじゃん!」


 話す声がゆわんゆわん響くほど細長いハシゴが暫く続いた。円筒形の空間は懐中電灯の明かりだけ。もう下の方は真っ暗で見えない。一体何メートルぐらい登っただろう。明るかったら怖くてムリだったかもしれない。流石に腕がぼわんと熱くなって、指先にも力が入らなくなってきた頃。

「オッ、出口だ」

「ほんと? よかったー」

 先に登っていたヨシダさんが何かのフタを押して外に出た。僕もそれに続いてよっこらせっと地上に出た。

「ああー疲れた……ここドコ?」

「よく見ろ」

「へ? あ」

 僕の足元に転がっていたのは、見覚えのある壊れた公衆電話。正確には、スチールパイプのようなもので誰かさんが思いっきりブン殴って壊した公衆電話。

「ココだったんだ」

「さて、行くぞ」

 電話をぶっ壊した誰かさんはそれに見向きもせず、そのまま真っすぐに階段室を目指して歩き始めた。さっき二階まで上がった階段を、そのままさらに上に向かって進む。


二人分の足音だけが、暗い宙に向かってゆく

廃墟の階段を足掛かりに

暗い宙へ、宙へ

他に何の音もない、風の色も雲の形も

暗い宙へ、宙へ


「ねえ」

「あ?」

「静かすぎない……?」

「別にいいだろ、なんか出たほうがいいのか」

「そーじゃねえけどさあ」

 辺りは不気味なぐらい静まり返っている。だけどヨシダさんの言う通り、当然と言えば当然だ。本来、廃墟なのだから。勝手に入り込んでうるさくしているのは僕たち二人の方なのだ。

 それにしたって、さっきまでの狂乱は一体何だったんだと思うくらい、いまこの廃病院は静寂の暗闇に沈んでいるようだ。もういっそこのまま何も起こらずに……


 ッッターン……!

「ねえヨシダさん、い、いま」

「走れ! カズヤ!!」

「えっ? えっ!?」

「バカてめえ! わからねえのか」

 グジュルルルルルル……!

 グルルッ

 わかった。幾らニブくても、あの声、あの吐息、あの臭い。


 ガタガタガタガタ!

 ガッターーーン!!


「わああああああ!」

「ちくしょう、あの野郎ども!」

 最悪。最悪だ、最悪だ!!

 階下で猛烈な物音がする。無数の足が階段をベタボタバタベタと乱暴に踏みしめて駆け上がる音、当たるものすべてをぶっ飛ばして走る音、そしてケダモノのような呼吸音。さらにさっきの火炎放射で腐った肉の焦げた臭い。

 狂った男に産み出された、最悪の化け物!


「カズヤ、振り向くなよ!」

「ヨシダさん! どーすんのさ!!」

「屋上、屋上だ……! とりあえず上だ!!」

「うえええ!?」

 極度の疲労と恐怖で僕は泣きそうだった、いやもう半分泣きが入ったまま走り続けていた。涙と鼻水と埃とで、きっと顔はクシャクシャになっているだろう。

 息が苦しい、吸っても吐いてもひたすら苦しい。もうダメだ、足が重くて熱くて動かない。汗と涙で前もよく見えない。

「よ、ヨシダさあ」


 グシュルル……!

 あっ。

「カズヤ! バカ、早くしろ!」

「わわわわわ」

 あまりのことで、もう手足がマトモに動かない。前に進みたいのと、力尽きてひっくり返りたいのと、この化け物から逃れたいのとでしっちゃかめっちゃかになってしまう。足を前に動かして階段を走って昇る、というだけのことが出来ない。今までどうやってそれをやっていたのか、まったくわからなくなっていた。

 アタマでは前に進みたい、体は力尽きてしまいたい、だけど化け物からは逃れたい……

 あわわわわ、もうダメだ!


 グゲャギャアアア!


「しっかりしろ!」

 バッシーン! と暗闇を切り裂くような音がして、ヨシダさんの左ビンタが炸裂した。僕に。

「痛い!」

「当ったりめぇーだ! 走れ!!」

 言うが早いか、ヨシダさんは走り出していた。僕も咄嗟に走り出した。動ける、動けるぞ! 踊り場を曲がると最後の階段、そして引き戸がある!

「あそこだ! 早く!!」

「ヨシダさん、待って!」

 後ろからは再び化け物が追いかけてくる。一段、また一段とサッシの引き戸を見上げて走る。あと少し、あと少しだ。だけど、やっぱり足も限界……。

 目で見て数えられるくらいの階段しか、もう残っていないのに。

 あと六段、五段、四段……!

「ちくしょう、開かねえぞ!」

 グルルルル、グシュシュシュ

 三段、二段、「あっ!」

「カズヤ!」

 僕の両足が遂に限界を迎えたようだった。最後の階段を踏み外した足が空を掻いて、そのまま前につんのめって倒れこむ。ヨシダさんを巻き込んで。

 どおーん! と彼にぶつかったその勢いで、ヨシダさんは僕を受け止めずにそのままサッシの引き戸に向かって巴投げにした。


 バァーーン! バキバキ!


 体重百キロ近い肥満児の激突で、明らかに引き戸がひしゃげて壊れた音がした。僕が頭から真っ逆さまになって床に落ちて転がったその上を、さらにヨシダさんが蹴りまくった。最初の一撃でグラついたところを、さらに蹴破ろうというわけだ。

「起きろデブ! お前もやれ!!」

「あーもう! 痛いじゃんか!」

 恐怖と痛みと焦りと投げ飛ばされたことへの怒りで、僕の理性はすっかり飛んでいた。

「やってやるよバッカ野郎こん畜生この野郎め!」

 完全にリミッターが外れたときというのは恐ろしいもので、今までで一番きれいで素早く力のこもった一発が出た。廃病院の屋上の引き戸相手に。

 本来は踏み込んだ右足を軸にして体を横に流しながら左太ももを引き付けるように足を上げ、そのまま体重を乗せて足刀と呼ばれる部分で相手のみぞおちを蹴り込む技だったが、それが引き戸のど真ん中に命中したおかげで綺麗にサッシを押し破ることが出来た。


「やりゃあ出来るじゃねえか」

「次やったらアンタにもお見舞いするに」

「やれるもんならやってみろ、ホレ外だ」


 ヒョオ、と風がひとつ。今まで散々走り回った体温を一気に持っていかれて、汗がスーッと引いていくのがわかった。

 そしてそれ以外の物音は殆どしなかった。真後ろに居た筈の化け物の気配も、他の生き物や動くものの気配もない。ただ冷たい夜風だけが時折吹いている。

 山肌と木立の切れ目から、遠くの街の夜景が見える。あの光る窓の向こうにいる人々と、いま僕たちのいる世界はまるで別物のようだ。あそこまで飛んでいければ、すぐにでも暖かい部屋と熱いシャワーにありつけるし、お風呂上りには日清カップヌードルとか森永パルムだって好きなだけ食べられるというのに……。


「お前、どうせなら寿司とかステーキでもいいんじゃねえのそこは」

「いいじゃん! 好きなんだで……なんでわかったの!?」

「バカ、あんなデカい声でブツブツ独り言してりゃイヤでも聞こえるよ」

 どうやらあんまり恋しくて声に出ていたらしい。

 恥ずかしいやら気まずいやらで見上げたら、あんまり空気が澄んでるせいでこっちが落っこちてしまいそうなくらいの星空。その静かな夜の青白い星明りに溶け込むようにして、反対側の給水塔の下で仁王立ちしてこちらを睨みつけている男がいた。


 痩せぎすの長身で白衣に黒いスラックス、立派な髭面に丸眼鏡。

「またまた院長先生のお出ましか」

「なんでここに」

「お前の脂っこい血も絞って飲むつもりだろ」

「コッチのオッサンの血はクドくて美味しいですよ!」

「バカてめえ年長者を敬えよな! さっき助けてやった恩を忘れやがって!」

「投げ飛ばされた方も忘れてねえよ!!」


 僕たちの罵り合いをよそに、こちらに向かって院長がゆっくりと歩いて来た。小さな丸眼鏡の奥で銀色の瞳が冷たく光る。相変わらずの仏頂面で何を考えているのか全くわからない。ただ視線だけは絶対に僕たちから外そうとしない。金縛りにあったように体が言う事を聞かなくなって、後ずさりをしようとしたままその場に立ち尽くしてしまった。外気のせいか冷たく冷えた汗が、背中の真ん中をツーっと垂れていったのがわかる。


 コツ、コツ、ジャリ。


 院長の靴が屋上の床を叩き積もった砂を噛む音だけが、懐中電灯の丸い光の中で響く。体が動かない……顔も動かせない。引きつった首筋を、まるで他人のような足を、どうにか動かそうと焦れば焦るほど膝から肩へ恐怖が満ちてくるばかり。

 じり、じりと追い詰められてゆく。この真っ暗な廃病院で今も現世に執着する吸血院長に捕まったら一体どんな目に遭わされるか。想像するだけで身震いがする。

「わわわわ……」

 動かなくなった代わりにガクガク震える足。喉を震わせ蚊の鳴くような声を出すのが精いっぱい。院長の肩越しに広がる遠くの夜景が、さっきより綺麗に見えるなあ、と思った次の一瞬、不意に暗く遮られた。透明な液体がゆっくり溶けて流れるその向こうでゆらめく街の灯。


 グルルルル、ウォォォオン……!


「げっ!」

 来た。

 僕たちを追いかけてきたあの化け物が、遂に院長の影からゆらり、と浮かび上がるように現れた。

 心臓が口から飛び出す前に、体の中で裏返っちゃうぐらいビックリした。

「ぎゃああああああ!」


 ウギャアアアアアアアオ!!


 ガチンッ! と音がして鋭く不揃いに並ぶ牙が空を噛んだ。そして狙ったのは僕ではなく、院長の首だった。

「えっ!? え??」

 不意を突かれた院長が上体を起こすと、頭から顔面の左側三分の一くらいと左肩の辺りをごっそり持っていかれていた。冷たい眼差しが苦痛に歪む。おそらく丸かじりにしようとしたのだろう。呆気にとられた僕を誰かが思い切り突き飛ばして、引きずり起こした。


「バカ! 逃げるんだよ!」

「ヨシダさん!?」

「お前、幾ら呼んでも全っっ然聞こえてねえのな! 何べん叫んだか。したらあの院長の後ろからバケモンは来るしで、ホントに何もわからなかったのか!?」

「何もって、体は動かないし、あの化け物の声がしただけで……」


「あっ!」

「え? ああっ!?」

 ボヤく僕たちが振り向いた先で広がっていた光景は、院長の足元であの化け物が踏みつけられて、目玉や手足のいくつか飛び散って踏みつぶされた無残な姿だった。

「野郎、やっぱり半端じゃねえな」

「彼らはみんな、院長を探してたんだ」

 そうか。自分たちの代わりを待ってた、というのは、


 自分たちの代わりに院長を葬ってくれる人を待ってた


 ということだったんだ。

「ヨシダさん! 危ない!!」

 遂にその本性を現した院長が、ヨシダさんに向かって欠けた頭で掴みかかっていった。血と、その他いろんな液体がドクドク流れる院長と取っ組み合いながら、ヨシダさんが屋上のフェンスに押し付けられてゆく。みしみし、と古びたフェンスが軋む嫌な音。ヨシダさんは院長の両手を制しながら踏ん張っている。

 と、そこへ最後の力を振り絞って立ち上がった化け物が院長の背中から激突、フェンスごと圧し潰してしまった。


ズシン!!


 と、


バキャン!!


 という音が同時に、真っ暗な夜空に響いた。化け物の陰になって二人の姿が見えない。

「よ……ヨシダさん……? ヨシダさん!?」

 僕は慌ててフェンスに駆け寄った。すると化け物の足元からヨシダさんが転がり出てきた。僕は彼の腕を引っ張って後方に倒れ込んだ。それと同時に、化け物がバランスを崩してゆっくりとフェンスの外へ滑り落ちて行くのが見えた。

「あっ!」


 グルルル、グル……グギャーー!


 真っ黒な虚空に断末魔を残して、化け物が消えていった。それを見届けたのと同時に、今度は僕の右肩にドスン! と、にぶい痛みが走った。振り向くと院長が立っていて、手にはひしゃげた角パイプ。折れた屋上のフェンスだろうか。コイツでぶん殴られたらしい。真ん中で引き裂かれた眼鏡の奥で片方だけの目玉が怒りに燃え、恨みで煮えくり返ったままもう一度その角パイプを振り上げた。

「あわわわ」

 もうダメだ! と思わず頭を抱えて目を閉じた。が、次の一撃が来ない。こわごわ目を開けると、院長の足元に無数の手がまとわりついている。血まみれのもの、指が欠けているもの、腐ったものもいる。色んな手、手、手。

「伏せろ! カズヤ!」

 反射的に這いつくばった僕の頭上を、ヨシダさんの矢のような左ハイキックが飛んでいった。そして爪先が院長の残ったこめかみにめりこみ、吹っ飛ばされるのと同時に化け物の手に引きずられるように屋上から真っ逆さまに落下していった。

 そして硬い地面に何かが勢いよくぶつかった音がして、それっきり何も起こらなかった。

 静けさを取り戻した廃病院の屋上に、冷たい風がヒョオと吹く。


「お、終わったのかな……?」

「たぶんな」

「あの化け物たちも、車椅子のあの子も、みんなこれで成仏出来るのかな」

「さあーな」

 二人して大の字になりながら話しているうちに視界の片隅がうっすらと赤みを帯びてきた。

「ヨシダさん、朝だよ」

「ああ、長い夜だったな」

「あっ! ねえあれ」

 僕とヨシダさんが同時に体を起こした。まだ光の届かない病院周辺の暗がりから、白い光が音もなく天に向かってしゅーっと飛んで行くのが見えた。それも一つや二つじゃない。

「あれは患者たちかな」

「だろうな」


 ぐんぐん明るくなってくる紫の空に向かって、幾つもの光がまるで逆再生した流星群のように朝陽を浴びながら飛んで行くのをすっかり見送った後で僕たちも病院を後にした。明るくなってから見る廃病院は、どこにでもある忘れられた廃墟でしかなかった。ロビーにはどこから入り込んだのか誰かが持ち込んだのか、スナック菓子の袋とかビールの空き缶、タバコの吸い殻なんかも目についた。

 それはさっき確かにここで味わった狂乱の地獄絵図を忘れさせてくれるものではあったが、実に興ざめする、むしろもっと嫌な気持ちになるものでもあった。


 病院の玄関を出たヨシダさんがポツリと言う。

「やれやれ、幽霊も蹴飛ばしゃ当たるんだな」

「ヨシダさんのが幽霊に近いんで、幽霊同士だから当たったんじゃない…?」

「そうかもな。……バカ野郎てめえ化けて出るぞ!」

「勘弁してよ、生きてる間でたくさんだ!」


タクシー運転手のヨシダさん・つづく

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