その2「灯台守」
寒い寒い、とにかく寒いとしか言えないぐらい寒すぎる二月上旬の真夜中。痛いくらい冷たい風の吹き荒れる海沿いの小さな集落に僕たちは居た。時刻は二十二時ちょっと過ぎ。民家や建物の明かりもすっかり消えて、自動販売機はおろか街灯すらまばらな通りをトボトボ歩く。海に向かって曲がりくねった道がまっすぐ伸びている。ビュービューと潮風が吹き付けているうえに完全に真っ暗闇なのだが、僕が懐中電灯の明かりだけを頼りにどうにか歩けているのにはワケがあった。僕のもう少し前に、やっぱり真っ暗闇に懐中電灯ひとつなのに何の迷いもなくスタコラ歩いている男前で背は高いが頗る口の悪いオッサンがいるのだ。このオッサンはヨシダさんというのだが彼には怖いものとか、恐怖に対する躊躇とかいった類のものが全くない。たぶん持って生まれてくるのを忘れたんだろう。だから毎回、こうしておっかない場所に連れて来られては散々な目に遭っているというのに、残念ながら懲りるということも知らないときた。まあ、来いと言われてついてくる僕も僕なのだが、来なきゃ来ないでずーっと馬鹿にされ続けるのだ。それが何より癪なので今回もこんな寂しいところまで、寒い中ノコノコとやってきてしまったというわけで……。
「まだあ?」
口を開けると冷たくてほのかに潮の気配がする風がゴォーっと音を立てて飛び込もうとしてきて、舌先や前歯までキンと冷たくなる。
「せえな、まぁだだよ」
「んな黒澤明じゃねえんだから」
「こんなとこ羅生門のババアだって凍えてら、黙って歩け」
何が羅生門だ、こちとら気分はどん底だ……と言いたかったがこれ以上歯向かうと何を言われるかわからないし、そもそもこのオッサンの車に乗ってきてしまった以上は置いて行かれるのが何よりコワイ。
「でさ」
黙れと言われて早速だが、言いたいことより聞きたいことの方がたんとある。
「このまま行くと海じゃん、何があるのさ。まさか崖っぷちで突き飛ばすつもりじゃないだろうな」
「バァカ。でも半分せーかい」
「崖?」
「そ」
「じゃあ突き飛ばさねえで蹴飛ばすってこと?」
「バカ。崖は崖だけどな、そこにあんだよ」
「何が」
「灯台」
「とーだぃい?」
「そ。今は使ってねえんだけどな」
「何が出るの? 船ゆうれい?」
「バカ、船ゆうれいが出るような灯台なんか立てたって
役に立つかよ」
「じゃあー何さ」
「おじさん」
「おじさん?」
「そ」
「おじゆうれい?」
「船ゆうれい、みてえな言い方すんな」
「穴の開いた柄杓を渡すとソイツで頭をコンコーン! って叩いてくんの」
「灯台じゃなくてそのへん化けて出て叩いて回りゃいいだろそんなもん」
「幽霊じゃないよねもうそれは」
「るせえな、おじさんの幽霊はホントに出るんだよ」
「どうして灯台でおじさんなのさ」
「この先のは昔っからある灯台でな、代々の灯台守もちゃんといたんだ。バブルの終わりまではな」
「ふーん?」
「でまあ、その灯台が無人になったときの話ってのが……」
「あっ看板があるじゃん」
海へと続く砂利道の入口にくたびれた看板が立っている。写真や詳細なデータも書かれた立派なものだったのだろうが、今ではすっかり色あせてしまい文字もかすれてよく読めない。
「いつ頃まで灯台守のおじさんがいたんだろうね、もうよく読めないや」
「ああ、それが今の話でな」
ただでさえ読みにくい看板を懐中電灯の明かりで解読することをあきらめて、二人して歩きだしながら話を続けた。
「七十年代の初め頃の、ある台風の夜まで、だな」
「なんでわかるの」
「わかってるから来たんじゃねえか」
なんだか嫌な予感がする。けどつい訊ねてしまう。
「台風の夜、おじさんに何があったのさ」
「なんとなく想像つくだろ」
「まあ、ねえ」
また言葉少なになって暗い夜道をザック、ザックと歩き続けた。吹き付ける風の音に混じって、ごおお……と海鳴りが聞こえる。心なしか潮の匂いが濃くなった気がする。歩いているうちに、灯台はすぐに見つかった。防風林の黒いカーテンのようになった木立の上からこちらを見ているかのように頭だけをにょっきり出して立っているのが見える。
「結構デカいね」
「そりゃそうだろ」
「そりゃそうだ」
「十四メートルったかなあ確か」
徐々に近づくにつれてその威容を増す灯台。白く静かな佇まいだが既に灯す明かりもなく、冷たい風の吹き荒れる真冬の晩に見上げると流石に少々不気味である。そのまま砂利道をずっべずっべと歩いていくと、やがて入り口が見えてきた。
「ねえさあ」
「あん?」
「これ、入ってもいいの?」
「ああ、別に構わねえよ」
いやアンタの建物じゃねえだろ、あーあ行っちゃったよ。
「もともと観光用に残してあるんだよ、公園の遊具みてえなもんだ」
「だけどさ、ホラ鎖が……あーあ」
行っちゃったよ。
白い塔にぽっかり開いた入り口ではサビついた鎖にぶら下がった立入禁止の看板がキイキイと虚しく鳴っている。これも所々サビて塗装も剥げかかっていて、残念ながらその役目を果たせずに二人の侵入者を許してしまった。僕も仕方なく(ホントは好奇心もかなりあったが)中に入ると壁に沿って階段が続いていて、ヨシダさんは早くも二階ほどの高さまで登っていた。白く頑丈な造りをした巨大な筒状の空洞を懐中電灯の明かりだけを頼りに登ってゆく。
「全く元は灯台だってのにこう暗くちゃおっかねえや」
「るせえな、黙って登れ」
「だってさあ」
「だぁいじょうぶだよ、この灯台はそんな怖いもんじゃねえ」
「ふうん?」
「そもそも最後の灯台守のおじさんってのがな、この辺りじゃ評判のいいおじさんだったんだ。真面目で温厚、五十過ぎだったが他に身寄りもないんでちょうど灯台と集落のあいだに小屋を建ててそこで寝泊まりしてたんだそうな。いつもこの周りはきちんと掃除されてるし、近所の人に会えば挨拶したり世間話もする、毎日そうやって務めを果たしてたってわけだ。ところが、その真面目さが災いする。巨大な台風が上陸するってんでこの辺りは観測史上まれな超ど級の暴風雨に見舞われた。雨が横殴りどころか地面から斜めに吹き上がってくるぐらいのデタラメな雨と風んなか、灯台守のおじさんは小屋を飛び出して灯台に向かって走ってった。万が一、沖に船が居たら。そのとき灯台の明かりが途絶えていたら……そんな風に思ったんだろうな」
かつーん、こつーん
かつーん、こつーん
二人分の足音をこだまさせながら、明かりの途絶えた灯台は黙って寒空の下に立っていた。
「ちょうど近所の住民が屋根や雨戸の補強をするんでオモテにいて、走ってくおじさんと手に持った明かりを見たんだそうな。おーい、あぶねえぞお! と叫んだものの物凄い嵐んなかで聞こえやしねえ」
吹きすさぶ風、横殴りの雨、逆巻く波。おじさんは行く手を阻む暴風雨にも負けずに灯台を目指した。台風はどんどん近づいてくる。灯台の灯は? 海は? そう思うと居ても立っても居られないで走った。おりしも満潮を迎えていてただでさえ潮位が上がっていたところにこの嵐の高波だ。それを、どうやらマトモに食らったらしい。
ふううううぅぅ……
殺風景で寒々しくすらある真夜中の、無人の灯台を潮風が通り抜ける音がひときわ大きく聞こえた。
「次の日の朝、台風は過ぎたものの辺りは酷い有様だった。電柱も防風林も家の柱もなぎ倒されてへし折られていた。波にさらわれたり壊された船も無数にあった。家や店や小屋も、壊れてないものを探す方が簡単なくらいのな。そして、おじさんはどこにも見つからなかった。それどころか遺体は今もって上がって来ていないらしい」
「そんな……気の毒に」
「おっ、着いたぞ」
顔を上げると階段はあと数段で途切れていて、その先にぽっかりと暗い夜空が口を開けて待っていた。風が吹き込んできて汗ばんだ肌をひんやりと冷やしてくれて気持ちがいい。その冷たさに励まされるようにして数段を軽く登って表に出る。途端に
どおっ
と目の前にどこまでも暗く静かな海が広がった。
「それで、おじさんはどうなったのさ」
僕は伸びをしているヨシダさんに話の続きをせがんだ。
「ああ、おじさんは結局見つからなかった。だけどこの辺りのみんなは彼を忘れなかった。いつでもおじさんが帰って来られるように、また海の安全を願う意味でも、この灯台を残すように役場へ働きかけて観光用に開放したんだ。何度か修繕をしたりしてな。だから今も、灯台としては使われてはいないものの──」
「えっ?」
「あっ!」
そのとき。ヨシダさんが僕の後ろを見て固まった。驚いた彼の表情を見て僕も思わず振り向いた。そこを、眩しい光が回転しながら通り過ぎていった。黄色っぽい光の帯のなかに一瞬だけ、温厚そうなゴマシオ頭でずんぐりむっくりの男性の姿がハッキリ見えた。そして闇夜に溶けて行く光と共に消えていった。後には真っ暗な海と波の音だけが残った。
「よ、ヨシダさん……見た?」
「見た。てか、居た」
「たぶん、あの人、だよね……?」
「だな」
「この灯台、まだ現役の灯台守が居たんだね」
「ああ、デカい墓かと思ったが違ったな。まだここにはおじさんの心が残ってる。この灯台はおじさんそのものなのかもしれないな」
「肉体は失っても、代わりに白くて綺麗な、大好きな灯台と一つになったってわけか」
「……帰るか」
「そだね」
汗も冷えてきたし、僕とヨシダさんは言葉少なに階段を降りて行った。そして灯台を出るときには二人とも小さく聞こえるかどうかくらいの声で
「お邪魔しました」
「ご苦労様です」
と呟いた。
灯台は今日も地域のシンボルとして、海の安全を祈るモニュメントとして大切に残されている。




