最終回「MOTHER2」
みしぃっ。
僕の悲鳴に重なるように、またあの音がした。重く湿っぽいものをぶら下げた、何か頑丈なロープのようなものがきしむ音。絶望と暴力と狂気の奥底に沈んだ母親の愛と。腐乱した肉体を置き去りにしてもなお現世を彷徨う壊れた精神。
「おかあさん……?」
みしぃっ。
「おかあさん、おかあさん……」
人形が、世にも美しい中性的な少年の姿のまま時間を失くしたヨシダさんが動きを止めた。何にもいない、部屋の片隅の中空を見つめながら。
「おかあさん……」
ぽたっ。と音がした。ハッとして彼の顔を見つめると、涙を流していた。人形が泣いている。凄まじい母親の情念と、情欲と執着で狂った男の財力で生み出された悪魔の子が涙を流している。彼の言ったことは本当だったんだ。明らかにこの人形は実体を持っている。精神が分離したものでも、彼そっくりに作られた精巧な人形でも、どちらでもない。あまりに精巧に作られ過ぎた人形に宿った母親の強い念が、彼の精神を呼び寄せて憑依させた。この人形は紛れもない、ホンモノのヨシダさんだ。もう一人の。
「アーーーーアーーーーー」
だけど、彼を産み出したお母さんは、もういない。この世に残されたのは彼女の無残な怨念だけ。壊れた心だけが現世の片隅の暗闇の小箱に閉じ込められて、実体を持たない親子は対面を果たしてもなお抱擁も語り合うことも、笑い合うことさえも許されず、ただ風に乗った枯れ葉が袋小路に吹き溜まったように、流れ流れてこの小さな部屋に集まってきた。
母親の気配がどんどん強く、濃くなってきているのを感じる。あまりにエネルギーを持ち過ぎた念がついに質量を伴うようになってしまったようだ。彼女こそが自らの血を飲ませてまで生かしたかった我が子の精神を肉体から分離させ、また自らの執着によって殺すことも許さなかった。彼女さえ成仏していれば、こんなことにはならなかったんじゃないのか。だけど、そんなことは本人が一番わかってたはずだ。一番の被害者が全ての元凶だなんて。
「そうだね、もう大丈夫」
人形は何もない部屋の中空に向かって優しく語り掛け、何度も頷いた。
「みんなでいこう、いっしょになろう。おかあさん、おかあさん……」
さらに優しく右手を差し出し、そっと伸ばすと……そこに覆い重なるように黒い霧のようなものがぼんやりと見えた。電気ランタンの明かりに照らされて、白すぎて透き通るほどの素肌をした人形の爪の先から手のひら、手首に絡みつくように。やがてその黒い霧が人形の胸へ、肩へ、首筋から顔の周りに。そして下半身から足の先まで。まるで乾いた砂に水が沁み込むように覆い尽くして包み込んだ。それは人形にまとわりつく暗黒のオーラ、この親子が辿ってきたどん底の苦しみがそのまま時空の隙間からにじみ出たようなものに思えた……そのとき。
みしぃっ。
ぱきぃっ。
みしみし、ぱきっ。
何かがきしむ音と、乾いたものが割れるような音が鳴り出した。黒い霧が細長い腕に、手指になって人形にまとわりつき覆い隠したその中で何が起きているのだろう。想像するだけでおぞましい、時々うっ! とか、ぐっ! とか低い唸り声が途切れ途切れに漏れ聞こえてくるところを見るに僕の想像は当たっているのだと思う。やがて
がしゃんっ!
と一際大きな音を立てて人形のヨシダさんは畳の上に倒れ伏した。這い上がろうとするように伸ばしたその手にも黒い霧が追いすがりまとわりついている。
僕はこの黒い霧こそが、これまで僕を恐怖のどん底に叩き込んで来た母親の怨念が可視化された姿だと確信した。廃屋に封印されていた精神と、人形塚に封印されていた依り代が今まさに時を超えて一つになった。その人形に母親の怨念が憑依した完全で純粋な悪意の権化が、いま僕の目の前でガタピシとひび割れながら再び立ち上がって僕を見上げニッコリと笑った。悪意に満ちた目で。殺意でゆがんだ唇で。
「わ、わわわ……」
後ずさる僕に尚も黒ずんだ腕を伸ばし、ふらふらと近寄って来る。この手に触れたら終わりだ、霧に触れたら終わりだ……! そう思った僕は一目散に逃げようとして、足元に転がったままの二人に蹴躓いて派手にスッ転んだ。埃と荷物がもうもうと舞い上がるなか、僕は声を絞り出して叫んだ。
「ヨシダさん! Jさん! 起きてよ、ねえ!」
倒れた拍子に僕の右足のつま先がこめかみにヒットしたJさんが唸り声をあげ、かぶりを振って起き上がった。
「うっ……。わ、私は……?」
そう言って周囲を見渡し、絶句したJさんの顔色がサっと青ざめてゆく。即座に事態を飲み込んだJさんがすっくと立ちあがり、なおも力なく横たわったままのヨシダさんの腕を肩にかけて起き上がらせ電気ランタンを拾い上げて人形に向かって突き付けた。
「ぎぃっ!」
一瞬、白すぎる強い光で人形が怯んだ。その隙を過たず僕はヨシダさんを反対側の肩から支えてJさんの目を見た。Jさんは鬼気迫る顔のまま無言で頷いた。
三人分の体重を全力でぶつけられた隠し扉は若干の抵抗を残しながらも呆気なく開いた。勢いよく倒れ込んだものの、散らばる荷物もそのままに僕たちは走り出した。電気ランタンの明かりが気の触れた蛍のように上下左右に激しく揺れる。そのまま部屋のドアも蹴飛ばして廊下に転がり出て、なおも三人で走った。走った。足がもつれて、息が上がって、この長い長い夜がもうすぐ終わる。それだけを望みに重い足と破裂しそうな心臓を引きずって走ろうとした。足が、腕が、動かない。Jさんを見るとJさんも喘ぐように走っていたがやはり手足が動かないようだ。
「Jさん……こ、これは」
「いけません、強い、強い怨念の、影が……」
「か、影ぇ!? うわああああああ!」
電気ランタンの明かりが立ち込めるホコリに反射して、僕とヨシダさんとJさんの三人分の影を浮き上がらせていた。その影に、暗闇からまとわりついている無数の手、手、手。影だ、あの部屋で見た影が暗闇を媒体にして繋がっているんだ、そしてその先には……。
「お、ど、う、ざ、ん……お、が、あ、ざ……ん」
ぬっ、と忌まわしい小部屋から姿を見せた人形は、あの美しい顔がすでにところどころひび割れて剥げ落ち、眼は血走って真っ赤になり、口からどす黒い液体を垂れ流し、髪の毛も抜け落ちた無残な姿になっていた。
「わあああああああああああ!」
恐怖に駆られて叫び続ける僕の腕を強く掴み、無言のままJさんが走り出した。あっ! 動いた、体が動くぞ! それに気づいた僕も走り出した。渦を巻いて追いすがる無数の手と、尚もガタピシと壊れながら僕たちを追う人形。
「逃げましょう、逃げなくては……アイツは……」
「あ、アイツは……?」
「いいから。とにかく、走りましょう。アイツに、捕まったら、その時は……」
最後まで聞くまでもなかった。けれどJさんは走りながら途切れ途切れに話し始めた。息も絶え絶え、まとわりつく影の手を振り払いながら、目線だけは暗闇の先をじっと見つめながら。
我が子を失った母親のゆがんだ愛の成れの果ての狂気。理不尽に蹂躙され続けた子供に宿った純粋な悪意。この二つが混じり合い、複雑に癒着した怨念の結晶があの人形を支えている。従って両者を引き離せば無事では済まない、母親の意志は消滅し、癒着していた精神は支えを失って崩壊する。どっちに転んでも無事では済まない。しかし、ヨシダさんを目覚めさせるにはそれしかない。彼の魂の半分はもう一人の自分となって封印され続けていたが、それが解き放たれた後も成長した体に融合することが出来ず母親に導かれるまま人形へと宿らされ利用されてしまった。つまり母親に取り込まれているだけなのだ。母親の怨念を消滅させることが出来れば、子供のころに分離してしまった彼の魂は解放される。長い間ずっと半分のまま闇に触れ続け、蝕まれ続けた現在のヨシダさんの魂が枯れ果てている今ならば融合も可能かもしれない。そして、これが最後のチャンスだ……。
そんなことが果たして出来るのか!? 恐怖と疲労でいっぱいいっぱいになった脳裏に湧き上がった疑問が再び深く暗い闇の中へ吸い込まれて行った。文字通り転がり落ちるように階段を下りて、三人揃って体ごと床に叩きつけられた。左の肩から背中にかけて激痛が走る。だが、そんなことには構っていられない。立ち上がろうとすると右の足首にも激痛。どうやら階段を転げ落ちた時に捻挫したらしい。しかめた顔に生暖かい感触。血か? と思った瞬間Jさんの電気ランタンが眩く光った。振り向くとそこには、人形。
「アーーーーーガーーーーアーー!」
「わああああああああああーーっ!」
僕の悲鳴とほぼ同時に、ひび割れた顔面から片目が零れ落ち、ところどころ歯が抜けて顎の外れた口からはひどい臭いがするどす黒い何かをぼだぼだびだばだと噴き出しながら、肩は外れ右足が折れ曲がったまま人形が再びぎくしゃくと動き出した。
「やはり、こ、コイツも、限界、ですね」
痛みに顔をしかめながらも起き上がろうとするJさんが言う。
「げ、限界ぃ……?」
「膨らみ過ぎた、母親の、怨念と、人形の、思念を……憑代の、に、人形が支えきれなく……崩壊が、始まって、います……い、幾ら精巧でも、所詮は、人形。うぐっ」
「じゃ、じゃあコイツ、ほっとけば」
「ええ、時間の、問題でしょう……融合、してみたものの、あまりに、強過ぎた、自らの、力。彼女の、力……その源となった、恨みや、怒り。膨れ上がった、憎しみ……つまり自分自身が、自らを、破壊して、しまっている……だから」
「生身の体が、要るわけですね」
「その通り、です」
足首から頭のてっぺんまで激痛が走る。だが、あの人形に捕まったらそれじゃ済まない。再び走り出したものの、数メートルも走れないうちに転倒してしまう。
何度も立ち上がっては転び、三人でもつれるようにして出口を目指した。その間も人形は着々と距離を詰め、やがて僕の右足首をゆっくりと掴もうと骨だけになった手を伸ばして来た。
怨念という名のガラクタの塊と化した人形が迫りくる。Jさんも苦痛に顔をゆがめたままついにその場に仰臥してしまった。僕は尻餅をついたままじりじりと後ずさることしか出来なかった。片目を失い、鼻も削げ落ち、ひび割れた頬と唇から腐った舌が見え隠れする。電気ランタンに照らされた無残な顔で人形のやつが
「ひひ」
と笑った。
その瞬間。
僕の前に、黒い影が敢然と立ちはだかった。そして彼は躊躇うことなく踏み込んだ右足を軸にして、左足を振り上げて、人形の顔面を思いっきり蹴り飛ばして、こちらを振り向くことなく叫んだ。
「走れ、カズヤ!!」
僕は反射的に立ち上がって、無我夢中で走り出した。脳裏にじんじん響く懐かしい怒鳴り声。痛みも疲労も感じず、息切れもしていない。、あるで夢の中で走っているような感覚だった。ただし、まだ僕の後ろからは悪夢の成れの果てがずるずると追跡を諦めずに追いかけてきていた。ついには頭ごと真後ろに反り返って、今にも落っこちそうになったまま。
夢心地のほうも長くは続かなかった。あっという間に目がかすみ、手足がもつれ、心臓が張り裂けそうなぐらい激しく脈打って、全ての音ががくぐもって聞こえる。そんな満身創痍の視覚装置を刺すように照らすまばゆい光で目がくらんだ。出口だ、白くハレーションを起こした四角い光に向かって最後の力を振り絞って向かってゆく。
不意に硬い施設の床から草いきれに埋もれた石畳へ、そして地面へと足元の景色が次々に移り変わる。明るい。いつの間にか外は夜明けを迎えていた。振り返るとそこには朝日に照らされた人形……いや、もはや美しかった姿など微塵も留めていないガラクタが今まさに玄関を出ようとしていた。そこへすかさずJさんが手に持っていた電気ランタンを投げつけた。ガツッ! と鈍い音を立てて胴体にブチ当たったそれが人形の足元に落っこちて、それに躓いた人形がよろめきながら倒れ込んだ。悪魔のような人形は蚊の鳴くような断末魔を上げ、その身体は崩れる傍から灰になってゆく。頭に残ったわずかばかりの髪の毛、白く濁り切った目玉、抜け残ったものの黒ずんだ歯。そして首から上がついにゴロンと落ち、喘ぐように中空を舞った骨だけの腕、引き裂けた胸板から突き出したあばら骨、まるで老人のもののような性器、じたばたとわずかに動く脚……。
全てが風に舞って消えていったあとに残っていたのは、数本の髪の毛がカラカラに干からびた赤黒いひものような物体に絡みついたもの、だけだった。
終わっ、た……のか? 僕はその場にへたり込んで、全身の力が抜けてゆくのを感じながら空を見上げた。どこかで小鳥の鳴く声がする。リーリーと虫の鳴き声も聞こえる。緑の匂いが濃い。生きている。僕は、まだ生きている……。
傍らには同じく息も絶え絶えのJさん。
そして、うつ伏せに倒れ込んだままのヨシダさん。どうやらJさんが無事連れ出してくれたらしい。だけどそれより……。
さっきの声は?
僕の前に立ちはだかり、憎き諸悪の根源に強烈な顔面蹴りをお見舞いした、あの影の正体は。僕がそれ以上考えるよりも先に、頭の上で
がさっ
と音がした。まさか。まだ奴は!?
絶望に骨の髄まで絞られながら恐る恐る音のした方に目を向けると──。
そこには美しい真紅の着物に身を包んだ、つやつやした黒いおかっぱ頭の少女がたたずんでいた。白い足袋に草鞋を履いて、透き通るような白い素肌をしていた。五歳か六歳ぐらいのその子は、目玉が一つしかついていなかった。
この子は……!
ヨシダさんが子供のころ、誰にも心を開けなかったときに見たという話を聞いた、あの一つ目の少女?
澄んだ瞳が額の真ん中できょろりと動く。興味深そうに、無邪気そうに彼女は笑う。かすれたカセットテープから流れるカン高い声のような音が脳裏に響く。
「コ ワ イ?」
僕は震えながらも、黙ってゆっくりと左右に首を振った。自分でもわかるぐらい目が虚ろになっている。もう体中どこにも力が入らなかった。着物の少女は静かに踵を返して、ぴょん、ぴょん、と跳ねるように茂みの中へ消えていった。
「佐野君、行きましょう……」
「へ……?」
「行かなくては……」
いつの間にか起き上がったJさんはヨシダさんを肩で支えたままふらふらと彼女を追って歩き始めた。僕も置いて行かれたくない一心でそれについていった。足がが痛むのも忘れて、どこをどう通ってきたのか全く覚えていない。ただ背の高い茂みの向こうに見え隠れする赤い着物と黒いおかっぱ頭を見失わないようにするのが精一杯だった。行きにも通った道だろうか? いや、もはや道などと呼べるような代物ではなかった。道なき道、木々の間を縫うように歩き続けた。すっかり高く上った太陽の下で、見知らぬ山奥で再びこの世の者ならぬ赤い着物をまとった一つ目の少女の後を懸命に追いかけている。ぐったりした親友と、その父親と一緒に。
さっきまでの恐ろしい時間がまるで長い長い悪夢のようだった。そしてこの草いきれは、目覚めに向かう覚醒の道なのかもしれない。濃い緑のにおいを吸い込みながら、僕はそんなことを思っていた。
やがて少女の頭はすっかり見えなくなり、辛うじてJさんの靴のかかとだけが見えるぐらい、僕は半ば這いつくばるようにして草むらの道を進んだ。もう頭を上げて、普通に歩く気力も体力も残っていなかった。だけど、ここで倒れたら、もう二度と戻れなくなる──。なんだか無性にそんな気がして、それだけで前に前に進んだ。芋虫のような姿勢で、芋虫ほどのスピードで。視界の端がだんだん暗くなってくる。眠い、猛烈に眠い。気を抜くとフッと意識が一瞬途切れてしまう。あれほど苦しかった息が今はもう何も感じなくなってしまった。太ももがぼわん、と熱をもってひりひりと痛む。足の裏から頭のてっぺんまで、わずかに前へ進むだけで鈍くて深い衝撃波が上って行くようだ。すでに視界の半分が黒く塗りつぶされて、意識は途切れ途切れにしか持ちこたえられなくなっている。もうダメだ、何度も頭をよぎるギブアップを最後の力でねじ伏せて、鉛のような足を引きずり、ただでさえ重い身体を殊更に重く感じながら亡者のように進む。意識も殆ど無いままに。
いま自分が立っているのか横になっているのかもわからない。空が青いことと、地面が青々とした草むらであることを同時に感じている。へその辺りを軸にしてグルグルと回っている。縦にも横にも回る。寝たまま眩暈を感じているようだ。ああ、やっぱり寝転んでいるんだ。ここはどこだろう。自分ん家のベッドか……? いや違う。だけど、じゃあ、ここは。
一瞬、何が起こったのか全く分からなかった。絞め落とされて気絶したときと似た感覚だった。まさしく僕は遂に意識を失い、その場にぶっ倒れてしまったらしい。絶望が動脈を駆け巡り、体中で泣きたくなるほど怯えながら半身を起こすと、目の前にJさんの車が停まっていた。あの忌々しい廃墟へと続く、最早訪れるものもなくなった、あの道の入り口で僕は倒れていた。Jさんは後部座席にヨシダさんを寝かせると、ゆっくりと僕の方に向かって歩いてきた。かなりふらついている。僕も起きなければ。そう思って腕を踏ん張ったつもりが、もう力が入らない。そのまま頭の重さに負けて、仰向けに倒れ込んでしまった。見上げたJさんの後ろに太陽が燦燦と輝いて、立ちはだかるJさんの姿は、さっき僕の目の前で人形を蹴り飛ばしてくれたシルエットにそっくりだった。
エピローグ。
僕はJさんの車の助手席を倒して、ぐったりとしながら息をしていた。後部座席ではヨシダさんが横になって死んだように眠っている。明るいところで見た彼は、本当に見るも無残なほど痩せこけて、まさしく枯れてしまっていた。廃人といっていいぐらい悲惨な状態だった。あのカッコよかった彼の面影はほとんど残っていない。そんな彼が、果たしてあの時本当に、おぞましいアイツを蹴り飛ばし、僕を怒鳴ってくれたのだろうか。それとも、心のどこかで、こんな時いつも彼なら必ずそう言ってくれると思っていた僕が幻覚を見たのだろうか。今となっては、もう何もわからない。
かすかに覚えているのは、帰りの山道からかろうじて見上げた山肌のはるか向こうでもうもうと空に伸びて行く黒煙と、ほどなくして完全に意識を失ったことだけだ。
あれから十年以上が経った。僕は仕事を何度も変わり、バンドを組んだり、恋愛をしたり、こっぴどくフラれたりして過ごしてきた。相変わらずあちこち出かけては色んな人と出会ったり、友達と遊んだり。以前と変わらない怠惰で幸福な日々を過ごしている。ただそんな出来事を報告して、バカにしたり罵ってくれる親友とはずっと連絡が取れないでいるのがさみしい。
ヨシダさんはJさんのお寺に着くと、そのまま奥の部屋に運ばれて行った。そしてJさんは何があっても、何年かかっても、必ず彼を元通りにしてみせると誓ってくれた。それは息子に対する、父親としての誓いでもあり、償いでもあったと思う。この一件は僕たちだけの胸に仕舞いこまれた。
あのおぞましい隠し部屋のあった施設が今どうなっているのかもわからない。もう確かめに行く勇気も、そんな暇とお金もない。何よりあんな怖いところにも、その他の心霊スポットだとか廃墟だとかにも、もう全然行かなくなってしまった。一人で行ってもつまらないし、僕は僕であの一件以来、何にも見えたり感じなくなった。あの時に触れた闇の副作用なのか、なんなのか。今もってそれもわからないでいる。
Jさんからは、今でも年賀状が届く。電話番号もお寺の住所も場所も知っているのだから、気軽に連絡してもいいとは思うのだけれど、いつも何となくしないで過ごしている。便りの無いのは達者な知らせ、ともいうし。そんな風にして、なんとなく目を背けてきていた。
ヨシダさんには、あまり会わない方がいいと言われていた。だけどそれも何年も前の話だから、今度改めて聞いてみようと思ったまま、何年も経ってしまった。
いつかひょっこり電話がかかってきて、呼び出されて、またどこかの居酒屋の座敷でビールとツマミを並べてバカな話をしたり、彼の白いスカイラインでどこかに出かける日が来るのを楽しみに待っている。
ここに書き出した物語を、いつか彼が思い出したら、答え合わせしてもらおうと思う。
ヨシダさんと出会えて楽しかったし、幸せだった。色んな怖い目にも遭ったけど、僕はあの家族の事を忘れないし、ヨシダさんにも、僕のことを覚えていてほしい。
そしてこの物語に触れて下さった皆様にも、この世のどこかでこんな話があったことを、覚えておいてもらえれば幸いです。
タクシー運転手のヨシダさんを終わります。ありがとうございました。




