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タクシー運転手のヨシダさん  作者: 佐野和哉
タクシー運転手のヨシダさん
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完結編・その12「MOTHER」

「思い出したかい?」

 少年が僕の顔を上目遣いで覗き込みながら尋ねてきた。その顔はなんとも蠱惑的で、そんな瞳で見つめられたら誰だってぐっと心を惹かれてしまうだろう。

「あの、あの小屋……」

「そ」

「じゃあ、あのあとで付いてきたのは……?」

「ああ、あれはボクじゃない。君がボクの幻を見ていたのさ。だってボクは、そのあと君がやって来て解放するまでずっとあの廃屋に封印されていたんだからね」

「あの人形は」

「あれは本当にただの人形。ボクの姿かたちをそっくりそのまま作った精巧な人形さ」

「な、なんで? 誰が……」

「ふふふふふ、誰だと思う?」

「……え、あ、まさか」

「そ。ボクのお母さんさ」

 まただ。この忘れられた聖域で最後に残された小部屋の空気がぐっと重たくなった。お母さん。Jさんの奥さんで、ヨシダさんのお母さんの話をすると、空気の質量が急に濃くなってゆくようだ。そう、今この部屋の中にはその彼女の濃密な気配が渦巻いているのだ。気配。質量。気配が段々と質量を持ち始めているんだ。


「お母さんはボクらがバラバラになったあとも、あの街でしばらく抜け殻のように暮らしていた。なんの希望も、生き甲斐もないまま。ただ朝が来て、街が動き出して、西日が部屋の中に差し込んで、夜になって一日が終わる。割れた窓ガラスも破れた障子も壊れたドアも家具も血や吐しゃ物や排泄物で汚れたものまで、何もかもそのまま、ただ呼吸だけをしていた。そのうちにもう何も出なくなって、血も涙も唾液さえも枯れて、汚れ切って破壊しつくされた部屋で彼女は死を待つだけだった。それで良かった。あの部屋は、あのアパートは、彼女も含めて生きている廃墟のようなものだった」

「……」

「夏の暑い日のことだった。アパートの部屋は焼け付くような陽射しが差し込んでいたけど、もう流れる汗も、身をよじるような気力も無かった彼女は、そのまま悪臭を放つ煎餅布団の上で今日も呆けたままでいた。そこに」


「ちょっと待って」

「なんだい?」

「その、どうして君は……そんな、見てきたみたいに」

「ははは、その通りさ。だって見てきたもの。だから何でも知っているよ」

「見て……きた?」

「そ。ボクはずっと見てきた。……この人は、ボクはボク自身が、君がヨシダさんって呼んでる人が創り出したって言ってたよね。でも、ホントは違う」

 少年はJさんを指さして冷たく この人 と言った。


「本当にボクを作り出したのはお母さんなんだ。ボクの体にはお母さんの血が、本当にのまま流れ込んでいるって話は、したよね。だからなのかな、ボクはある時から目の中に……オデコの辺りなんだけどね、目を閉じてお母さんのことを考えると、本当にお母さんのことが見えるようになったんだ。それは妄想や幻覚なんかじゃなかった。カメラで撮っているみたいに上から見下ろす映像が浮かんできていたのさ。それがずっと見えてたってわけ。それでね、話を続けてもいいかい?」

「あ、う、うん」

「ボクはお母さんを上から見ていた。そこへ、見知らぬ男たちが部屋の中に雪崩れ込んで来た。最初は驚いたよ、だけどそれは救急隊の人たちだった。あんまりひどい臭いがするんで近所から苦情が来て、調べに来たらこの有様なので助けを呼んでくれたんだ」

「なるほど……」

「だけどお母さんは病院に入っても治療費は払えないし、身寄りも無いからってそのままたらい回しにされてね。結局最後に辿り着いたのは、どこか遠い田舎の山奥のさらに奥にある隔離施設だった。麓の病院が経営しているそのサナトリウムでお母さんは少しずつ回復していった。ゆっくり、ゆっくりと生きる力を取り戻した。何もない、本当にただの山奥だったから良かったのかも知れない。じっと耐え続け、受け続けた心と体の傷を癒していった。周りの人々も親切で暖かかった」

「やっと安住の地を見つけたんだね」

「それも長くは続かなかったけどね。何もない山奥の隔離施設にわざわざお見舞いに来る人なんてほとんどいない。まして家族が居て面倒を見てくれるような患者も少ないときて、いよいよ施設の存続が危うくなってきた。お母さんが入院してから、三年後のことさ」

「万年赤字だったわけか」

「そ。医療保険や補助金だけじゃとてもやっていけない。かといって追い出したりなんかしたら患者たちに行き場は無いし、なにより世間からの風当たりが強い。どうしてもお金が必要だったんだ」

「ど、どうしたの」

 僕は背後ににじり寄る嫌な予感と、重苦しい気配で胸がはくはくして苦しかった。やっとの思いで尋ねたが、返ってきた答えは想像以上に胸糞の悪いものだった。


「暖かかった人たちは豹変した。いや、顔はそのままだった。だけど目が笑っていなかった。中身が畜生だったんだよ、本性ってやつさ。誰にも知られていないと思って、あいつら好き放題やってたんだ」

「そうか、君は……」

「そ。ぜーんぶ見えてたんだ。ボクのお母さんが、どこの誰ともつかない男たちの慰みものにされている一部始終をね。他にもお金になりそうな人は誰でもいいからベッドに寝かされて仕事をさせられた。カラダの使えない人たちは何かの薬や暴力の実験台にされたりもした。アイツらはそれでお金を儲けていたんだ。毎日毎日、正気じゃいられない生活だったと思うよ。だけど、あの施設に正気の人間なんて、もはや誰一人いやしなかった」


「……イタイ」


「えっ?」

「お母さん」

 不意に、部屋の片隅からか細い声が聞こえた。蚊の鳴くような声とはよく言ったもので、まさにそんな感じだった。隙間風が吹いたのかと言われればそう思えなくもないくらいの、かすかな声。だがそれを、目の前の少年は確かに呼んだ。

 お母さん、と。

「イタイ、イタイ……」

「え、あ、ああ」

「キ モ チ イ イ」

「お母さんは」

「えっ」

 少年は部屋のどこか遠く、高いところをぼんやり見つめながら話を続けた。きっとそこに、お母さんがいるのだろう。

「お母さんは、ついに限界を超えてしまったんだ。そして」

「そして……?」

「アーアーアー、ウー、イタイ」

「自分で自分を破壊してしまった」

「自分で……自分を?」


「そ。あまりの辛さ、あまりの怖さ。心身に負った極限のダメージから逃れるため、お母さんは自分で自分を破壊してしまったんだ。もうお母さんは、いや、彼女は……人間が残した意思、残存思念ですらない。自分の持つとんでもない力のせいで、人格さえ破壊してしまった。もはや会話することも、意思を持つこともない。純粋な怨念そのものになってしまったのさ」

「カズヤ!!」

「ひいいい!?」

 突然、物凄い声で名前を呼ばれた。地獄の底から響き渡るような低い低い声に、悲鳴のような甲高い声が混じった、声と呼ぶにはあまりに異常な音だった。さっきのか細い声とは大違いだ。

「どこにも逃げられず、誰にも助けられず、また寝たままの地獄を味わう羽目になった。なんで、どうして、そんなことはもうとっくの昔に考えなくなってた。そう、あの大家に襲われて、この男が狂って、僕に自分の生き血を吸わせてまで暮らしていたあの時からね」

「イタイ、イタイ」

「別に壊れてたって関係ないんだ、体がある程度使えればね。栄養剤の点滴と抗生物質の注射を打たれて、あとは寝ていれば勝手に仕事が始まって、それが終われば一日も終わる。寝る前にまた注射と点滴。少しずつ膨らみを取り戻していった心と体が、また急速に萎んでいった。天井だけを見つめながら壊れた体に崩れた心を抱えて彼女は生きていた。ただ死なないまま、生きていた」

「アーアーアー」

「ただ、それも長くは続かなかったんだ」

「……」

「だってそうだろう? つまらないんだ、いくら好き放題出来ると言っても寝たきりだからね。それに山奥まで来るのも大変だし。日に日に仕事は減っていって、職員も一人、また一人いなくなった。彼らはこう考えたんだ。患者を放り出すことは出来ない。でも自分たちが出ていくことは出来る、ってね」

「入院してる人たちを見捨てて逃げたってこと?」

「そ。お金にもならないし、自分たちの懐も大いに潤った。お母さんたちが仕事で稼いだお金は、施設になんか一銭も入っちゃいなかったのさ。ぜーんぶ奴らが持って行った。ひどい感染症で死にかかってる人が居ても、精神が壊れてしまっても、お構いなしさ。自力で身動きできない人は、その場で衰弱していった。お母さんもそうだった」

「キ モ チ イ イ……」

「お母さんたちは隔離されていた。流石に普通の施設のなかで大っぴらには行えないから、隠し部屋を作ってそこで仕事をさせられていたんだ。山奥の、親切で暖かい人たちがいる、静かで穏やかな施設。清潔な白い部屋」

「まさかそれって」


「そ。この部屋さ。ここはお母さんたちの仕事部屋だった。窓もない、トイレも、水も食べ物もない。朝になったらここに置いて行かれて、食事は決まった時間に運んで来る。だけどロクに食べられなかったから、三度のものが二度になり、二度が一度と、どんどん減っていった。トイレも最初は連れていかれていたけど、それも面倒になったのかしまいには様子を見に来ることもなくなった」

「うああ……」

「まあ、殆ど飲まず食わずなせいでトイレにはあまり困らなかったみたいだ。さしたる後始末もしてもらえずに部屋に戻されて、栄養剤と抗生物質を打たれて寝る。その繰り返しさ。もっとも、本人たちはすでに寝ているんだか起きているんだかもわからなかったと思うけど」

「それで、そのまま」

「放っておかれた。だけどそれに気付く人すら、もうここには居なかったんだよ。みんな天井を見つめたままじっとしているしかなかった」

「どう、なったの……?」

「お母さんたち、ここで仕事をさせられてた人たちはみんなで六人いた。正確には、六人だけ残った。ある日、それが一人ずついなくなっていった。もちろんお母さんたちは、誰もそれについて物申したり、もう考えることすら出来なくなっていた。空の点滴袋のチューブが刺さったままの細くて白すぎるほど白くなった腕から、長い針が音もなく抜けるころ。お母さんにもお迎えがきた」

「それって……?」

「ああ、お迎えっていっても死んだんじゃないよ? お母さんをここから連れ出そうとした人がいたんだ。実はここに残されてた人たちも、そうやって誰かが個人的に引き取っていってたんだ。何しろ好き放題出来る、死にかけの肉人形だからね。性根は腐ってても医者ってわけさ。衰弱しきった人間を回復させることぐらいは容易かった」

「アーアーアー」

「お母さんを連れ出したのは若い男の医者だった。良く晴れた冬の朝に何食わぬ顔をしてやってきて、お母さんを担いで車に乗せた。お母さんはもう骨も皮も透けてしまいそうなほどにやせ細っていて、太陽の光を浴びることすら久しぶりだった。僕もお母さん越しに外の景色を見た時は不思議な気持ちになったものだよ」


「どうなったの?」

「この医者は町医者の息子でね。父親が麓の田舎町で唯一の大きな病院をやっていたんだ。」

 僕は思わず彼の話をさえぎって割り込んだ

「ねえ、その病院って」

「よくわかったねえ。そうさ、この施設を運営していた病院だった。だけども、この施設で行われていたことなんて誰も知らないから、町の評判は上々。何しろ周囲でここにしか病院が無いんだけど、優しくて腕のいいお医者さんだっていうんで人気があった。若先生はこの施設に修行に出されてたんだけど都合よく閉鎖されたんで、実家に舞い戻って気楽に二代目をやってたんだ。施設に居たときからお母さんの事をコッソリ狙ってたのも知ってたよ。痩せちゃう前、まだお母さんがこれよりは綺麗な頃に何度か夜中に来ては他のお客よりよっぽど熱心に体を貪っていたからね」

「アーー……」

「で、この若先生が回復して来たお母さんに何かプレゼントをしようと思ってある日聞いたんだ。君、何か欲しいものはないかい? なんでも差し上げよう、ってね」

「あっっ! じゃあ」


「そ。お母さんはボクのことを片時も忘れてはいなかったんだ。ボクが欲しい、ボクに会いたいと言って聞かないものだから、若先生は困り果ててしまった」

「アーーーーー……カズヤ!! うう……」

「ボクの居場所なんかわからないし、当然写真も何も残ってない。というか、そもそも撮ったことなんて一度もなかったんだよ。それどころじゃなかったからさ、我が家は」

「それで、どうしたの」

「ボクの心だけはお母さんの真上にずっと居たんだけどね。それはともかく、お母さんはボクと会えないとなったら狂ったように……まあ、もう狂ってたけどさ、今度は一心不乱に机に向かったんだ。それで何枚も何枚も絵を描いた。来る日も来る日も、ひたすら書いた。それはあらゆる角度から描かれたボクの似顔絵だった。まるで写真のような、いや、写真なんてものじゃない。念写したかのように凄まじく正確できめ細かい描写を続けたんだ」

「まさか」


「そ。膨大なその絵を一枚一枚参考にして、当時有数の人形師を若先生が雇ってね。作らせたんだ、精巧なボクの人形を。それは全くの推測、もしかしたら妄想だったのかもしれないけど、出来上がって来た人形はボク自身も驚くほど正確だった」

 美しい少年は続けてこう言った。

「そしてこれが悪魔になった」

「あ、悪……魔?」

「ボクそっくりの悪魔。そしてそれに魅入られたのは、その悪魔を産み出した張本人。ボクと、ボクそっくりの人形。お母さんは悪魔を二度産み出しているんだ。初めは寂しさを紛らわせているのだろうと思って見守っていた若先生も、あまりに人形にばかり執着しているのでしまいには愛想が尽きてしまった。元々、肉入りの性欲処理人形のつもりで引き取ったのに、その役目も十分に果たせないわけだからね」

「アーー、ウーウーウー」

「ある夜、お母さんが寝静まったところを見計らって若先生がやってきた。青白い月明かりが雲の切れ目からスーっと差し込むと、ピンクの薄い寝間着越しの白い肌に黒々とした腋毛が見え隠れしていて、ごくり、と思わず生唾を飲んだ。これっきり捨ててやろうと思っていたはずなのに、気が付くと夢中で覆いかぶさって貪っていた。──ボクの体をね」

「へ!?」

「ただの人形のハズだと思うだろう? ボクだって不思議だったさ。だけど、あんまり精巧に出来ていたうえにお母さんが持っていた強烈な力が再びの養生によって蘇って、それをボクの人形がマトモに浴びたんだ。オマケに肝心のボクの精神はすぐそばにいた。お母さんの心の依存先でもあったから、ボクは難なくこの自分そっくりの人形を依り代にすることが出来た。流石に自由に動かすことは出来なかったけど、この人形に憑りついて強烈に結びつくことで現世にとどまることが出来たんだ。だから、ボクは今でもこうして君と話をすることも出来るってわけさ」

「そうだったのか……」

「さらに、ボク自身の精神が加わることでわずかに体が成長したみたいなんだ。魂が宿ったっていうべきなのかもしれない。あちこちに毛が生えたり、肌がなめらかになって弾力を持ったりね。唇や眼差しも感触が変わった。狂っていたのはお母さんだけじゃなかった。元々マトモなんかじゃなかったと思うよ、だけど、若先生は若先生でさらに狂っていった。ボクを夢中で蹂躙するうちに、今度はお母さんが邪魔に思えてきてね。勝手なもんさ」

「え、ちょっと待って。さっき、あの人形小屋で見たのはただの人形だって言ってたじゃ」

「まあまあ。その通りさ、あれはただの人形。若先生はお母さんとボクの血のつながり、精神的な癒着に酷く嫉妬した。初めはお母さんの体に、次は心に執着して狂って行った。お母さんの事を全部支配したかったんだ。そのために、施設に居たころは正攻法でお母さんの心を正そうとし続けてきた。お母さんの心と体を治して、幸せに暮らそうと思っていたみたいだ。だけど……それが叶わないと見るや、今度は壊してしまおうとした。施設での搾取、奴隷化だけじゃない。やがて麻酔や向精神薬だけでは飽き足らず」

「イタイ……イタイ、キモチイイ」

「違法な薬物にも手を出した。若先生がボクにもお母さんにも飽きた時に会ってた女の子から貰ってたんだけどね。お母さんを自宅に引き取った若先生は仕事もせず、日がな一日お母さんに付きっ切りで注射をしたり薬物入りの食事を摂らせたりした。自分も注射を打って興奮してくるとボクを犯して、またお母さんにかかりっきり。たまにお金と薬のために女の子にも会いに行って。そんな生活が少しのあいだ続いてた。お母さんは朝から晩まで違法合法を問わずありとあらゆる薬漬けにされた。流石のお母さんの精神力も持ちこたえられず、すっかり薬物依存に陥っていた。そして若先生はボクの体に依存した」

「アーーーーウーーーー」

「そんなある日、この異常な生活は突然終わった。若先生が逮捕されたんだ。薬物を受け取ってた女の子が捕まってね、つまらない話さ。女の子も別の男から薬を買ってたんだけど、そこから芋づる式にってわけ。で、若先生がいなくなったあとにも、あの家にはまだ狂ってる奴が居た。先代の先生、つまり若先生のお父さんさ。自分が散々見逃して目を逸らしてきた息子の犯罪と倒錯行為を、全部ボクたち母子のせいにした。こいつ等のせいで、こんな奴らが居るから、息子が狂っちまったんだ! ってね。何しろこの町にはここにしか病院と呼べる施設も無いし、これ以上周りもこのことについて触れなかった。ただ先代の先生もこの一件を境に狂ってしまったんで、結局はじりじりと没落していった。ボクとお母さんは捨てられたも同然で町を出た。もはや完全な薬物依存ジャンキーだったお母さんは官憲の手を免れたお薬をありったけ持って、ボクを背負って旅に出た。歩いて、歩いて……やがて辿り着いたのが、あの集落。君がボクを見つけた、あの小屋だったのさ」

「じゃあ、あの小屋に君がいたのは、お母さんが連れてきたってこと?」


「そ。だけど、そこでボクの精神状態が限界に達したんだ。実際のボクがどんな目に遭ってたかは知ってるよね。それで、もうお母さんのそばにいることが出来なくなってしまった。それどころじゃなくなってしまった、ってことかな。お母さんはお母さんで、そこで薬が尽きてしまって行き倒れ。このまま野垂れ死にかなと思ったところでお母さんは村の人に保護された。どこかへ連れて行かれてしまったみたいだ。警察か、病院か。それはわからない。ボクはあの小屋に置かれたままになった。ボクもお母さんとはそれっきりさ……」

「じゃあ、本当に僕があの時見た人形は」

「抜け殻だよ。ボクの精神も心もとっくになくなってた。あの能面もそうさ。全ては君の恐怖が見せた幻。でも、無意識のうちに君は大人になったボクの身に何かが起こっていることに気付いていた。あるいは、認めたくなかったのかも知れないね。あんなに頼りにしていたボクだもの。君にとってそれは恐怖への敗北だったんだよ。その相手がまさか、子供のころのボク自身だなんて……皮肉なもんだね」

 かりそめの美少年はそう言って意地悪く笑った。

「ここに集まったのはみんな小さな負け犬なのさ。世間に、自分に、恐怖に、過去に負けた人間の浅ましい姿。ボクは生きていたかった。ボクだって生きたかった。だけど、もういいんだ」

「イタイ、イタイ……キ・モ・チ・イ・イ」


「お母さんの最期は呆気なかったよ。ボクはボクで親戚をたらい回しにされた挙句、君の見たあの家でもう一人のボクを作り出し分離した。君は知らなかっただろうけど、この施設と人形塚のあった施設と、あの家はすぐ近くにあるんだ。それぞれの町からは遠く離れているけれど、この裏の山をずっと進んでいけばすぐだよ。だから子供のころのボクでもあの集落に辿り着くことが出来た」

「じゃあ、そこで」

「そ。ボクは再び、完全な憑代を得たんだ。怒りや痛みが体も心も蝕んで出来上がったボクは前よりもずっと凶暴になっていた。そうしてあの夫婦を殺して、ボクの体はあの施設に入った。そうそう、あの現場を封印したのは、この男だったね。夫婦、親子揃って惨めなもんさ。封印されたボクはあの部屋でずっと待っていた。あの扉の封印が破られるのをね。そして、それを果たしたのが君だった。ボクは大人になったボクの記憶を浴びて色んな事を知った。君の事もね。そしてお母さんを探した。お母さんは」

「見つかったの……?」

「うん。いたよ、すぐそばに」

「えっ」

「言っただろう、施設ココとあの家はすぐ近くだって。子供のボクが入れられて吸血鬼事件を起こした、この施設。ボクのお母さんが閉じ込められていた、この施設。お母さんはボクが児童養護施設に変わったここに入ったことをどこかで突き止めたらしい。それで遠路はるばるやってきたけど、その時には施設はとっくに閉鎖されていたんだ。あの事件のあと、早々に決まったみたいだね。もぬけの殻になった施設を見て、お母さんはついに絶望してしまった。これまでなんとか首の皮一枚で繋がっていた、薬物と暴力に蝕まれ続けた肉体も精神も何もかもが膝から崩れてしまったんだ。それがまさかボクのせいだとは思いもせずにね。もう生きる気力を失くしたお母さんは、そのままふらふらと施設に中へ入っていった。荒れ果てた廊下、砂だらけの窓、割れたガラスから入り込んだ蔦。階段を上がって」

「アアアアアア……クルシイ、イタイイタイ」

「たどり着いたのは、いつかの小部屋だった。そう、ココさ。君が大人になったボクを探してやってきたこの部屋。手にはこの施設を閉鎖していた頑丈なロープ。君がココに閉じ込められた時、暗闇の中で何かの気配を感じて必死で暴れまわっただろう? あれも君の恐怖がそうさせただけなんだ。だけどその元凶はすぐそばにあったのさ。この隠し部屋のなかにね」

「……じゃあ、あのとき」


「そ。ずーっとみんな見てたよ。そして待ってた。お母さんとも、ようやく一緒になれたんだ。そして大人になったボクと、この男の事もね……」

「これから……これから、どうするの?」

「ん? これから?」

「そうだよ、こうしてみんな……こんなになっちゃったけど、みんな揃ったじゃない。だから、これから」

「これから、なんて、ないんだよ。ボクたちはココで終わりさ」

「そんな」

「だからね、カズヤ。君もいっしょに行こうよ」

「へ」

「行くんだよ!」

「わあああああああああー!!」

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