完結編・その10 血脈
手に持った電気ランタンの白く眩しい光が、砂にまみれた廊下にぽつんと置かれた能面をはっきりと照らしてしまった。確かに僕が持ってきた能面。僕とヨシダさんを狂わせた能面。ヨシダさんがかつて生み出した、もう一人の自分。
「あ、ああ」
僕は完全に足がすくんでしまい、歩くどころか動くことも出来なくなってしまった。あれは確かに僕のリュックに仕舞い込んであった筈。
「な、な、なんで? なんで?」
そして当のリュックは、僕が閉じ込められていた部屋を飛び出したときに置いて来てしまったハズなのだ。
がたん! と大きな音を立てて電気ランタンを落としてしまったが、慌てて拾い上げようにも身体が全く動かなかった。傾いたランタンからまっすぐ伸びた眩しすぎる光が、廊下のはるか先まではっきりと浮かび上がらせる。そこはさっき僕が必死で辿ってきた地獄の回廊などではなく、単なる荒れ果てた建物の砂まみれ埃まみれの廊下だった。
でも、僕の足元には確かに今も、地獄からやって来た死神が能面に姿を変えて、無表情のままじっとこちらを見つめている。
「さあ、行きますよ」
Jさんが僕をすいと追い抜き、砂埃まみれの床に「居た」能面を事もなげに拾い上げた。まるで土産物のお面でも持ち歩くように平気で掴んだまま僕に振り向いて、ヨシダさんを背中に乗せたまま微笑んだ。
「大丈夫、このお面は、我々を、連れて行きたいのですよ」
余計怖いわ。
「ど、何処へですか?」
僕はランタンを拾い上げながらこわごわ訪ねた。
「家族の、ところ、ですかね」
へっぴり腰で歩き出した僕の少し前をJさんがスタコラ歩いてゆく。僕はヨタヨタと追いかけながら尚も聞いた。
「家族って、何処にいるんです?」
「この先です」
この先って……。
「そこを右に」
階段だ。僕がさっき死ぬほど怖い思いをして飛び降りた、天国ならぬ地獄へと昇る階段。ランタンで照らされた床一面に、僕やおそらく二人の足跡、そしてこの丸が幾つも重なったような歪な模様は、僕が飛び降りて着地した時についたのだろう。
じゃあ、あとの無数に残された小さな、この小さな裸足の足跡は一体何なんだ!?
「うっふっふ。みんな嬉しいのでしょう」
「み、みんな?」
Jさんは愛おしそうにお面を撫でて埃を払いながら階段を上がってゆく。
「さあ、お友達が待っていますよ」
それは僕ではなく、ヨシダさんに向かって囁いたのだろう。ヨシダさんはぐったりとしたまま、Jさんの背中で力なく揺れた。
コトン、コトン。
カタン、カタン。
乾いた足音が二つ、少し重い足取りで闇夜を進んでゆく。前を歩くJさんの電気ランタンが通路の先を照らすので、僕の後ろは真っ暗だ。階段を一段上るたびに、背後から長い闇に蠢く指先が伸びて、僕の後ろ髪や腰の辺り、踝、衣服の裾に纏わりついて引きずり込まれそうになる。ヨシダさんを背負ったJさんの肩越しにランタンの光が伸びて、さっき僕が潜り抜けた暗闇地獄をワケもなく照らし出してゆく。それは時間の止まった空間と命を失った生活の成れの果てであり、冥府の魍魎どもが跋扈する常世の回廊などでは決してなかった。僕を追いかけ足元に群がった無数の赤子や闇に浮かぶ鬼火のような光も何もなかったように唯の廃墟がそこに広がる。
「な、なんだったんだ……」
僕は思わず呻いた。あれだけ怖い思いをして来たというのに。今は全く何も感じない。必要以上に研ぎ澄まされていたような、あの慄然とした感覚が最早思い出すことも難しくなっている。
「恐怖、とは、そういう、ものですよ」
ヨシダさんを担いだJさんが、背中越しにそう言った。
「佐野君。いま、怖いですか?」
「怖いですよ!」
「では、何か見えますか?」
「え、い、いえ……」
「私もです」
「え?」
「私にも、何も、見えません」
階段を登り切って二階へやってきたが、二階の廊下も同じような有様だった。埃の積もった床に大きな足跡が幾つか。そして相変わらずの無数の、小さな足跡。これだ、これさえ無ければ本当に何も居ないと、なんともないと信じ込めるのに。
「此方です」
そして歩調を緩めずに進むJさん。僕は再び彼の後ろについて、二人分の背中を追いかけながら闇の中をそろりそろりと歩いて行った。辛うじて後ろに漏れてくる灯りが足元を照らして、舞い上がる埃や大小無数の足跡が浮かび上がる。僕はじわりと汗ばんだ背中にうすら寒さを感じながら歩を進めた。
そのまま廊下を突き当たった。この部屋に僕はついさっきまで閉じ込められていた。この建物の一番奥の部屋。ドアは叩き壊されて無残な姿になっている。さっき僕が決死の突破をしたからだ。
「随分と、派手に、やりましたねえ」
「そりゃあ、まあ……」
誰のせいだと思ってるんだ。実は、ちょっと根に持っていた。
部屋の中には荷物がそのまま残っていた。畳に積もった埃が滅茶苦茶な模様なのは、例によって僕が七転八倒したからだ。Jさんは部屋の奥にあった押し入れの襖に手をかけた。そういえば、さっきJさんはこの襖に背を向けて座っていた。一見何の変哲もないただの襖。だけど、それに手をかけたJさんの背中からは言いようのない緊張が伝わってきた。指先をそっと添えたまま少しのあいだ黙り込んでいたが、スっと短く息を入れて襖をスーっと開いた。その向こうには押し入れではなく……もうひとつの扉があった。
電気ランタンが照らしたその扉は、これまで以上に異様な様相を呈していた。一階の倉庫と同様に厳重に封印されているのだ。それも無数の縄や鎖だけではなく、赤や黒の呪文の書かれた大量の護符によって。
「……」
Jさんは扉の前に立ち、口の中だけで何かを唱えている。
「う……?」
ヨシダさんが少し瞼を動かした。枯れ木のようになった身体を波打たせ、またぐったりと目を閉じる。
「……」
Jさんの呪文は続く。左手でランタンを持ち、右手で何か印を結ぶような動きをしている。ランタンの眩しすぎる光線がJさんとヨシダさんの影を長く伸ばして、僕の足元をなめている。背筋の伸びたJさんの、その背中に背負われてぐったりしている痩せ細ったヨシダさんの、その背中にも、影!?
「Jさん!」
僕はあまりに驚いてJさんに駆け寄ろうとして気が付いた。この影は全部、繋がっている。ヨシダさんにしがみつくようにして現れたもうひとつの影。それはJさんにも根を張り、ずっと付いてきていたんだ。ずっと、ずっとコイツは一緒に居たんだ!!
「Jさん!! ねえ、ちょっと!!」
「……」
Jさんは口の中で呪文を唱えることをやめようとせず、此方を向こうともしないまま呪文を唱え続けていた。僕はその場から動けなかった。長く伸びた影が僕の足元に触れそうで、でも、逃げ出す事も出来なくて。
「……、……!」
一瞬、Jさんの口元が固く引き締まった。その瞬間。
カターーーン!
何か硬くて軽い物が落っこちたような音がして、僕は思わず振り返った。
僕の背後三十センチほどの擦り切れた畳の上に、ランタンの光を浴びた能面が落っこちていた。さっきまでこんなものは、確かに落ちちゃいなかった。そういえば、いつからJさんは能面を持っていなかったんだろう。あの時、確かに拾い上げてから歩き始めたのに。
「これで、よし」
Jさんが漸く口を開いた。そしてランタンを持ち直すと、あの影もヨシダさんの背からすっかり消えていた。
「いいですか?」
僕は一瞬、何の事だかわからなかった。僕に向けて言っているかもわからなかった。だけどそれは、いよいよ突入の合図だということを次の瞬間に理解した。
「あ、ひゃい!」
こんな時にひどく間の抜けた返事をして、僕は覚悟を決めた。いよいよ、家族との対面だ。足元を見ると、一際大きな、しかし完全に錆びついて腐食しきった赤黒い南京錠が床に転がっていた。錠前の弧を描いた部分が綺麗に折れている。驚きのあまり思わず振り返ると、床に落ちていた能面も消えていた。
「よっ、こいしょ」
すっかりさび付いた扉は重く、Jさんだけでは開けるのが困難だった。僕も加勢して、一気に力を込めて扉を開けた。扉はガリガリと音を立てながらも呆気なく開いた。まるで僕の手がかかるのを待っていたように。
ぐいっ、と手ごたえを感じたその瞬間。
ぶわあっ。
と生ぬるい風が吹いて、僕の頬と髪の毛を撫でて行った。あの時と同じだ。あの廃屋、能面の居た、あの廃屋の閉ざされた扉を開けた時と同じだ。黴臭くてじめっぽい、濃密な気配の塊が解き放たれたようなあの感触。
「やはり、此処、でしたか」
「これです、この風です! 僕があの家で浴びたのは!」
「さあ、行きますよ」
Jさんは僕の話を聞いてか聞かずか、ヨシダさんを背負ったまま部屋の中に踏み込んだ。僕は後ろからランタンを突き出した。部屋の中は壁という壁、古びきった畳、天井に至るまでが何かで書きなぐられたような文字で埋め尽くされていた。それは平仮名もあれば片仮名もあり、酷く歪んで、また何かに怯えたような感じもした。こんな現世の最果てまで追い詰められ、閉じこもった末に発狂したのは、そう、この異様な部屋に垂れ下がったさらなる異形、まさにこの人だったのだろう。
僕は扉の前に立ち尽くして歩けなかった。足が動かない。でも、目を背けることもできない。何度となく怖い目に遭った時、僕は決まってこうなるんだった。怖い、怖すぎる、それなのに見るのを止める事が出来ない。目を閉じることも出来ない。この時も同じだった。部屋の真ん中に忽然と落ちている、擦り切れた古いロープ。どす黒い重油のように染み込んでいるのは恐らく血液だったものだろう。ランタンの目映い光に照らされて、それが不気味にじっとりと、僕の視線にも染み込んでくる。
「Jさん、これは」
「これこそが、彼の母親。私の妻。その最期の姿です」
そうではないかと思っていた。でも、聞くべきではなかったのではないか。でも、聞かないわけにもいかなかった。だってそれなら、昼間に倉庫で見たあの首吊り死体は一体なんだったんだ!?
「でも、それは下の倉庫で……」
言いかけて僕は、ついに足を一歩前に出した。
そして、何かが僕の爪先に当たって鈍い感触を残した。
思わず視線を下げたその先には、古びきった畳に横たわる赤黒い腐乱死体がひとつ。丸裸のそれは髪の毛がまばらに抜け落ち、身体中の肉が腐り、抉れた双眸に目玉は無かった。ごろり、と首が転がって向きを変え、僕に向かってぽっかりと開いた空っぽの口を広げて見せた。小さく黄ばみきった歯が廃寺の墓石のように並び、干からびた舌が伸びている。それらの残像がゆっくりと、しかしくっきりと僕の視界に侵入し、脳裏にじわじわと染み込んでゆくその感触を身体中の神経が感じ、全力で拒んでいた。しかし、抗うすべもなく僕は忘られた恐怖の小部屋に吸い込まれるかの如く足を踏み入れてしまった。
重い、いつになく重い右足をのっそりと持ち上げ、傷みきった畳を踏みしめる。乾いたごく薄い感触が靴底に伝わる。みし、という微かな音。そして左足。重い。持ち上がらない。掴んでいる、誰かが。僕の左足を、腐りきってほとんど骨だけになった、何かが。
「ひいっ! Jさん!?」
あまりの事に思わず助けを乞うため、僕はJさんの姿を見た。
そこには、もう一つの腐乱死体が、頭髪の殆どが抜け落ちるほどカラカラに干からびた幼子を背負って呆然と立ち尽くしていた。そして僕の方にゆっくりと首を動かして、目玉も歯も鼻も無い顔で、
にたあ
と笑った。視界が揺らぐ、ランタンの灯りが心の中まで染み込んできて、彼らの正体を晒す。驚きと絶望で声も出ないまま、僕もその場に立ち尽くした。
その時、急にパリン! と乾いた音がして、目が覚めた。透明な何かが割れたような音だった。
「佐野君」
とJさん。そこには、一瞬前の腐乱死体など欠片もなかった。足元にも、僕の隣にも、この小さな部屋のどこにもだ。あれは一体……。
「だいぶお疲れのようですね」
「え、あ、いや、すみません」
部屋の中は、ひどく埃臭かった。何年も使っていない倉庫の臭いそのものだ。ランタンの光が隅々まで届くほど狭く、四方を分厚い壁で閉ざされている暗い部屋。恐る恐る踏み出した靴底越しに感触が伝わるほど埃が積もりきっていて、ざらりとした足音が背筋を走ってくる。一方で床の染みと部屋一面に書き殴られた断末魔はそのままだった。どうやらこいつは幻覚じゃないらしい。
「さて、と」
Jさんは部屋に上がり込むとヨシダさんをそっと畳に横たわらせ、自らもゆっくり腰を下ろした。
「佐野君が見た、あの能面。彼が生み出した、もう一人の自分。それらの正体が、今、ここに居ます」
「へ?」
掠れ切って声にもならない疑問符を絞り出す。
「彼を支え、君を選び、ここまで私たちを導いたもの。それは。」
「それは……?」
Jさんは畳に残ったどす黒い染みを指さして言った。
「この血です」
「ち、血?」
「そう。血。この血は、私の妻、彼の母親、そう、あの明るく優しかった、彼女のもの」
「……」
「彼女……私の妻は明るく、聡明で、いつも、陽気なひと、でした。しかし、その生まれは東北の、雪深い、山郷で代々続く、巫女の、家系だったのです。実は、私以上に、強烈極まりない、能力者でした。それはもう凄まじかった。彼女の力は、私なんぞの、遥かに上を、ゆくものでした。所詮ヤサグレて、放蕩三昧を続けた身と、血筋を持って生まれた者が修行を重ねたのでは天地の差がありました」
「そうだったんですか」
「だからこそ、だからこそ。その力が、彼女の心そのものがゆがみ、ねじ曲がった時は」
「その強烈な力が全部、悪い方に……」
「そうです。そして彼女をねじ曲げ、いびつにしてしまったのは、あの大家。と、この私。忌々しい時代。彼女は今まで経験したことも無いような屈辱と暴力、この世のすべての絶望を味わったのです。そうしてゆがみ、腐りきった、心、が、その……ま……ま……干からび……て……いっ……た」
「そんな……Jさん?」
どさ、っと鈍い音がして埃が舞い上がった。電気ランタンがガラガラとけたたましく転がっていって部屋の中に無数の明かりと影を生み出した。その一瞬の影の中に、奴が居た。
僕のカバンの中に居た、さっきまでJさんが持っていた、そしていつの間にか逃げ出して廊下に転がっていた、あのおぞましい能面が。それも……ヒトのカタチで。
「やあ」
どこからか声がする。僕の目の前には倒れた電気ランタンの真っすぐな光が斜めに伸びた壁と、その明かりを間接的に浴びて浮かび上がる、能面を被った少年。
「久しぶりじゃないか。やっと会えたね」
「だ、だ誰、だれ!?」
「声が出ないなら心でもいいよ」
「こ、こ、ここころ……!?」
「そうじゃない、落ち着いて心の中に言葉を浮かべるんだ。ボクを見て。ほら」
(心……?)
「そう。出来るじゃないか」
(君は一体……)
「ボク? ボクは、もう一人のボクだよ。ほら、そこで寝てるだろう?」
(ヨシダさん?)
「そう。君の友達さ」
(あの時の、お面……?)
「そう。ボクはね、あのボロ家にずっと封印されていたんだ。君も見ただろう、あのひどい扉を」
確かに、あの家の、あの部屋のドアにはびっしりと呪文が書かれたうえで厳重に封印がなされていた。だが長い年月のせいで文字は消えかけ、ドアの立て付けにもガタがきていた。
「ボクはあの家で生まれて、あの部屋でずっと待ってたんだ。誰をって? ボクをさ。大人になったボクをね。自分じゃあの部屋から出れなくってさ。けど君があのドアを蹴飛ばしてくれたおかげで封印が解けたんだ。危うく死んじゃうところだったんだぜ。感謝してるよ」
(死ぬ……? 死ぬって)
「ボクはボクの魂の半分でしかない。肉体を持たず、成長もしない。カタチを失った精神はやがて風化してゆく。忘れられるって事さ。人は二度死ぬ。肉体的な死と、精神的な死。誰からも忘れ去られたとき、人は完全な死を迎えるんだ。ボクは子供の頃一度肉体的に死にかけてた。だからボクが生まれた。君も聞いているよね。子供の頃のボクたちがどんな暮らしぶりだったか。理不尽な飢えと極限の暴力に耐えられなくなりそうだったとき、ボクたちの母さんはどうしたと思う?」
(……)
「血だよ。もうお乳も出なくなった母さんは、辛い現実から逃れるために自分で自分を切り刻んだ。そうして出た血を飲ませたんだ、飢え死に寸前だった自分の子供にね」
(ウソだろ……)
「その時ボクの体に、母さんの強力な血が生のまま入ったんだ。喉を、胸を、腸を通ってボクの体中にしみ込んだ。毎日、毎日、繰り返しボクは母さんの血を吸って生きていた」
(そんな、そんな惨いことが……)
「そうしてボクは知らず知らずのうちに強力な念を持つようになった。最初はどう思ってたのかわからない。だけど、いつしかボクはボクの中に居たんだ。ある日気が付くとボクはボクを見ていた。あの家の、あの部屋の、あの箱の中で泣いていた。そしてボクは二人になった。ずっとボクはボクの傍に居た。ボクの憎しみが黒い血になってボクの中へ流れ込んでくる。お母さんの強い力は、やがてボクの憎しみを具現化してしまった。それが、あの時あいつらを殺した力だった。ボクの中にはそのぐらい強力な憎悪が渦巻いていた。だけど、それで力を使い果たしたボクは呆気なく封印された。それから長い長い間ずっと一人で待ってた。自分の体を、もう一人のボクを。意識を保つこともままならないぐらい長い間ね。怖かったよ、自分がどんどん消えて行くのは。あの光も風もない部屋で、ボクは何年そうしていたと思う?」
(……)
「そしてあの日。君がやって来てドアごと封印をブチ破ってボクを解放した。だけど実はあの時、もうボクはボクに戻れなかった。ボクの肉体は大人になっていて沢山の記憶を持っていた。そこに、長年封じ込めてたもう一つの魂が乗っかってしまった。重量オーバーだったってわけさ。それでボクの肉体は徐々に麻痺していってしまった。だから安心してくれ、そこに居る大人のボクは、壊れたんじゃないからね」
(そうだったのか……)
「ボクはボクで弱り切ってたから、それ以上は何もできなかった。ただ一つだけ誤算があった……君さ」
(え、え!?)
「ボクは君の事も良ぉく知ってるよ。記憶も仕草も全部、大人のボクが感じてきたもの全てをね」
(……)
「ボクとボクが引き離されてから、あまりに長い年月が経っていた。ボクと同じでオトナのボクのほうも限界だった。ずっと欠けたままの魂で生きてたわけだからね。義足も無しに片足だけで生き続けていたようなものさ。だけど、そこに君が居た。君はオトナになったボクを実によく支えてくれていたんだよ。知らなかったかい? 君はボクの心の支えだったんだ。精神的に結びつきの強い君が居たから、ボクはボクと出会えた。とっくに闇に堕ちていてもおかしくなかったハズなのにずっと持ちこたえていたのは、カズヤ! 君が居たからさ。だからボクは君を利用させてもらう事にした」
(どういう事……!?)
「ボクは再び能面に姿を変えることで君の傍に居ることが出来た。恐怖、後悔、八つ当たりにボクを恨むその気持ちこそが、ボクを強く蘇らせた。お面だけの姿になってしまったけど、そうやってボクは力を蓄えていたんだ。だけど、実はこのお面は君が作り出したものなんだよ。君はボクが生まれた時の話を聞いて、心に能面のイメージを強烈に刻み込んだ。あははは。君は実際に能面を目の当たりにした恐怖に囚われてボクに心を侵された。悲鳴も苛立ちも美味しくいただいたよ。ははは、君はボクに身も心も浸食されていたのさ! さあ、お面を外すよ? ボクの顔をよぉくご覧。きっと思い出すハズさ」
少年はゆっくりと能面に手をかけて、素顔を露にして見せた。
(あっ、ああ……!?)
「綺麗な顔だろう? 誰だってボクを見たらそんな顔をしたものさ」
(ま、まさか……血を、ってことは君はやっぱり!?)
「そうさ、ボクがあの吸血鬼だったのさ。あの話はボクが君に吐いた沢山の嘘のひとつ。あの場にN君なんて居やしなかった。居たのは友達のA、哀れなB、そしてボクだった。鶏もハムスターもみんなマズい、マズ過ぎる! ボクは人間の血が何より好きになっていた。あの頃は特にね……」
脳髄に直接響く声が頭の中でグルグル回って反響している。まさか、吸血鬼の正体はヨシダさん自身だったなんて。そしてそれよりも、この少年の顔には確かに見覚えがあった。僕はこの顔を、この子の事を知っていた。あれは遡る事数か月前に、僕とヨシダさんが出掛けたある山奥での出来事だった。




