完結編・その9 家族壊散
「ある日現場から戻ると、あいつは粗末な台所の床に突っ伏して呻いてた。息子は──ボロボロになった居間の畳で見覚えのない人形を大事に抱えてスヤスヤ寝てやがった」
「ううううう……う……うう」
ヨシダさんが僕のすぐそばまで来て、相変わらず苦しそうな声を出している。
「俺がアパートに戻ってからというもの、息子にオモチャなんか買ってやった覚えはねえ。大方あいつがどっかから貰ってきたか拾ったんだろう。そう思ってた。それよりも」
「ううううう、ううううう……うう……う……うう」
今にも力尽きそうなか細い呻き声は伸びきったカセットテープのような響きを残し、冷たく暗い部屋にじわじわと漏れて溶けていった。そして僕の背後の濃すぎる闇が、また少し気配を強くした。
「疲れ切って帰ってきたってのにいつまでも台所で突っ伏してるあいつのケツを見てたらな、無性に腹が立ってきてよ。四つん這いのそのケツッペタに思いきり蹴りを入れた」
「ううう、うう」
「息子が抱えてた人形は俺のほうをじっと見てた」
ふううう、と微かな音がした。部屋の闇が濃さを増すときに周りの光や僕たちの気配を飲み込むような、にぶくて重たい音。
「それが頭にきて、人形をむしりとってじっと見た。赤と緑の毒キノコみてえな汚ねえ水玉の服を着たピエロだった。三角帽子に真っ白い化粧してな。目玉は黒い十字で赤い口してやがって。そんで、そいつの目が異様だった」
「う……うう」
ふううううう、と、また音。
「黒く透き通った目だった。底なしに冷たい、嫌な目付きだった。刺すような視線ってのは、ああいうのを言うんだろうな。俺は心の内を見透かされているような気がして癪に障ったんで、そのまま割れた窓越しに外へ投げ捨てた。あいつは砂利道で転がりながらまだ、俺の事を見てやがった」
……コトン。
!?
どこかで微かに物音がした。この部屋の中だ。電気ランタンの灯りも届かない、濃すぎる闇の片隅から確かに聞こえてきた。突っ伏したヨシダさんの指先がじりじりと畳を這う音、Jさんの荒い息遣い、そして僕の背後から迫ってくる風音。それらに混じって、何か乾いた軽いものが畳に落ちた様な、そんな音。
「その日から毎日、そいつは家に居た。朝起きると息子が持ってる。夜家に帰るとまた持ってる。捨てても捨てても気が付くと必ず息子が持ってる。朝でも夜でも……そんである朝だ。俺はいい加減に気味が悪くなったんで取り上げたピエロを八つ裂きにして袋に詰めて、その日の現場に埋めちまった」
「奥さんは、何も言わなかったんですか?」
「あいつ? ああそうだな。何も言わなかった。と言うより、ほとんど口も利かなかった」
「息子さん、いや、あの、ヨシダさんも、何も言わなかったんですか?」
「ああ」
「……」
「何でだと思う? あの人形を手放したと思っちゃいねえからさ」
「でも、埋めちゃったんでしょう?」
「埋めたさ! 埋めてやったとも!! この手でバラバラに引き千切ってズダ袋に突っ込んで、コンクリートの基礎の下にな!」
「ううううう……うううあう……うう」
「でも、ダメだった。その日の現場がハケて部屋に帰ると」
「おおうあう……うううあう……」
「あいつが、あのピエロが俺ん家の玄関の土間に転がって、俺の事をじーっと見てやがった。千切れた身体も元通りで、縫ったり貼ったりした痕もねえ! 薄っ気味悪りい、そのまま蹴り出してドアを閉めた。あいつらはゲッソリして、まるで死人みてえな顔して薄っぺらい布団にくるまってた。それがまた陰気くせえと思って布団を蹴り飛ばすと、息子の腹んところにピエロが居た」
「げっ!」
「玄関を出て外を見た。人形なんざ影も形もなかった。確かに蹴飛ばして、廊下の柵に当たって跳ねっ返るところを見た。けど、あの人形はここでガキが抱えて寝てる。糞みてえな人形のピエロが……ピエロが俺を見ているんだ! ピ・エ・ロ、がああああああ!!」
「Jさん!?」
「それからピエロの奴、俺のそばを離れなくなった! 朝起きて部屋を出るまで、奴はずっと俺の視界に入りこんできやがる。蹴飛ばしても放り投げても目の端っこに必ず居る! 最初はそれだけだった。だがすぐに、現場に出てる時も、飯場の便所にも、家に帰る道っ端にも、飲み屋の隅にも、この世の何処に居ても奴が付いてくるようになった、ずっと居るんだ! 物陰から……窓の外から! ゴミの山に埋もれながら! 目の端に入るか入らねえかのところに! ぴ、ぴ、ピエロがよおおおおおお!!」
「Jさん! Jさ」
ゴキッ! と音がして、僕は床に倒れ込んだ。埃っぽいかび臭いにおいと熱い衝撃が顔中を包む。どうやら暴れたJさんの握り拳が、僕の左頬を直撃したらしい。
「うううううううううう」
「ピエロが居る! ピエロが居るんだ!! ぴいえろおがよおおおおおお!!」
とうとう畳の上をのた打ち回り、手足を出鱈目に振り回し始めたJさんに、ヨシダさんが唸りながらにじり寄っていく。よく見ると、ヨシダさんの顔中がぐずぐずになった埃ですっかり汚れていた。ああ、泣いている、ヨシダさんは、ずっと泣いていたんだ。
「ピエロが居るよお! 消えろ!! 消えろよおおお!!」
「ううううう……おううあう……おうう……あう」
ヨシダさんが、暴れるJさんの身体に縋りついた。痩せこけて骨のようになった指先から手のひら、腕までを胸のあたりに乗せ、そこに顔を近づけて尚も呻いた。
「うううあう……おおうあう……お」
「消えろ! 消えろ!! 消えてくれ!!」
にじり寄るヨシダさんを振り払い、尚も暴れ続けるJさん。呆然とする僕の背後で、また風が吹いた。ふううう、と低い音をたてて、僕の身体に纏わりつくように。生臭くて、すっぱい。生ごみか何かが腐って、それがまた乾いたような匂いがする。僕は眼前の惨状を見て、耳をつんざく叫び声を聞いて、さらにこの悪臭からも逃れることが出来ずにいた。一体どうすれば。一体どうしてこんな事に。吐き気と後悔と焦りで混乱する頭と苛立つ心持を抱えた僕の目の前で、二人は泣き喚き、唸りながら、枯れ果てた畳の上ですっかり狂っていた。じんじんと痛む頬をさする間もなく、僕はヨシダさんを起こそうと左の脇腹から手を差し込んで肩に回し、うんと力を込めて持ち上げようとした。
軽い。すっかりと痩せこけてしまったヨシダさんは、まるで枯れ果てた流木のように軽々と持ち上がってしまった。腕も、脚も、髪も指も首筋も、すべてが細く節くれだっていた。今にも折れてしまいそうな、老人のような身体つきに成り果てたヨシダさんを見て、僕まで涙がこみ上げてきた。どうして、どうしてこんなことに。
「消えろおおおおおおおおお!! うおおおおおおおおおおおお!!」
「おおうあう……おおうあう……」
僕の肩にもたれながら、ヨシダさんはJさんに縋りつこうと必死に身体を揺らした。しかしそれはかつて彼が持っていたパワーや覇気が一切感じられない、枯れた枝が風に揺られているような虚しい抵抗であった。
「おおうさあ……おおおあう」
ん?
「お、お、あう、おと……おお」
えっ?
「おお……う……あ……ん」
僕はこの時初めて気が付いた。ヨシダさんの呻き声は、さっきからずっと同じことを言っていた。いや、ずっと同じ人を呼んでいたんだ。そしてその人は、すぐそばに居る。
「お、と、う、さ、ん」
「消えろ! 消えろ!! 消えちまえ」
「おとうさん……おと……お……さん……おとうさん……」
「えっ!?」
「ぐっ!?」
僕とJさんの身体が、同時に止まった。
「おとうさあん」
「よ、ヨシダさ」
「おとうさああん!」
「やめろ!」
「ヨシダさん!?」
「おかあさん! おとうさん!」
「やめろおおおおお!」
「ヨシダさん!」
「おかあさん!!」
ぎいっ──
今でも僕は、その時はっきりと感じた気配を覚えている。僕を背中の上から見下ろすように、彼女は確かにそこに居た。さっき見た幻影。それはこの倉庫で首を吊って死んだあの人。Jさんの奥さんで、ヨシダさんのお母さん。
そう、此処に居るのは、かつて幸せだったひとつの家族だった。
Jさんの叫び声が止んだ。ヨシダさんの呻き声も低く微かになった。そして僕の背中の上からは、頑丈なロープか何かが軋むような音が聞こえる。みしっ、みしっ、ぎい……と嫌な音を立てて、風もない部屋で何かが揺れながら軋んでいる。僕はヨシダさんを抱きかかえたまま、身動き一つ取れないでいた。もうどうしたら良いのかわからない。いつも頼りにしていたヨシダさんも、そのヨシダさんが居ない間の頼りだったJさんも狂ってしまった。僕が、僕がなんとかしなきゃ……。そう思ったけれど、身体がいう事を聞いてくれない。いつの間にかぼろぼろと溢れてきた涙で、目の前がかすんでよく見えない。手足がガクガク震えて、これ以上立っている事もままならない。あ、あ、と声にならない叫び声をあげて抵抗するも虚しく、肩の力がへなへなと抜けていった。ヨシダさんが畳の上に崩れ落ちて、驚くほど軽く、乾いた音を立てた。その上から覆い被さるように、僕もかび臭く埃まみれの畳の上に崩れ落ちた。
薄れていく意識、急激に頭の中で膨らんでくる眠気。身体ごと地の底に引きずり込まれるような、ぐわんぐわんする感触。恐ろしかった。今でも思い出すと背中から延髄にかけてぞわぞわと嫌な気配が蘇るほどに。
電気ランタンの白く強い灯りがハレーションを起こしたようなぼんやりとした光景の中に、黒く大きな影がゆらりと揺れた。僕は手を伸ばしたいけど、肩から先が麻痺したように重くて言う事を聞かない。頸動脈を絞められて落ちる寸前の感覚がずっと続いているようだった。影は天井からするすると伸びて、風もないのに揺れていた。大きな影は胴体、その上にある小さな影は頭、そして垂れさがった長い髪の毛。記憶の中にはっきりと刻まれたそれは、紛れも無くあの首吊り死体だった。同じにおい、同じ気配、死にながら生き続けた闇より深く夜より暗い彼女の情念。そして此処に居るのは僕以外にもう二人。生きながら死んでいったヨシダさん、死んだはずの幻影を引き摺りながら生きてきたJさん。離れ離れだった家族は時間も、魂も、あの世とこの世の境目も越えて此処に集まった。僕と言う闖入者を触媒にして。いや、もしかしたら、この場所は現世と冥府の境目を超えてしまったのかも知れない。
ああ、もうだめだ。目の中に星が跳び始めた。ちかちかと明滅する細かな星たちの向こう側で天井から垂れさがった影が、かすかに揺れながら笑っている。僕を見下ろして、見たことないぐらいの悲しい顔で笑っている。目玉も鼻も口もない、腐った血液で汚れきった醜い顔で。
笑っている?
どうしてそれがわかるんだろう。ああ、もう目が開かない。これは目の前が見えているのか、それとも。ついに僕も狂ってしまったのだろうか。ああ、首吊り死体が僕の頭上で笑っている。嬉しそうな顔で。目玉も、鼻もないけど、僕にはわかる。
「おとうさん、おかあさん」
真っ暗闇に響くヨシダさんの呻き声。ぎいぎい、と揺れるロープの軋み。Jさんはひー、ひーと今にも死にそうな甲高い息を吐いて蹲っている。僕はと言えば、惨めにもかび臭い畳に横たわって気絶寸前……ヨシダさん、Jさん、起きてくれ。頼むよ、もう、ダメだ。
「あ、あれは……」
Jさんの声だ。やっとのことで絞り出したようなか細く上ずった声が何処からか聞こえてくる。
「あれはきっと、あの死神だった。影が、俺に感づかれた影どもが形を変えてまた俺のところへやって来たんだ。思えばあのピエロが、俺の部屋に出やがってから、影は、あの嫌な黒い影は、ぱったり見えなくなってた。俺はそれに気が付いて、今度こそ気が狂いそうだった。次に死ぬのは、こいつらだ。そして、こいつらを殺すのは、俺なんだ」
ぎい……ぎい。
僕は最早返事も出来ず、Jさんの喘ぐような告白と、何かが軋む音を黙って聞いている事しか出来なかった。
「俺は、俺は兎に角アイツが怖かった、そして自分自身も怖かった。あれだけ憎たらしくてくだらねえと思ってたこいつらを殺してしまうかもしれないと、急に、それが心の底から怖いと、思えてきた。げ、現金なもんさ。俺は自分を守る為にこいつらを盾にして、生活が満たされなきゃサンドバッグにして。今度は殺すつもりになっておいて」
ぎいっ。ぎいいっ。
「おとうさん……おかあさあん……」
ああ、ヨシダさんも居る。ちゃんと居る。お母さんもいる。僕の頭上でちゃあんとぶら下がってる。この家族は今、暗闇の団欒で、それぞれの懺悔をしているのかも知れない。
「結局俺は、俺はあいつらを道具にしか思ってなかった。半端モンがいっぱしのツラして生きてく為に、ガキと嫁が必要だったのさ。そうすりゃ何を投げ出したって、何を諦めたって、でも子供が、でもかみさんがって、みんな言いやがるんだ」
上ずったJさんの声に、すすり泣く様な音が混じり始めた。
「満足だったさ、幸せだったさ。ああ。……ああ。良き日々だった。きっと俺はいい父ちゃんしてたさ。自分の為にな。でも、その時気が付いた。それでも良かった、それでも俺は寂しくなかった、幸せだった、ってな。それが、ちくしょう、あんなことになって。俺は何もかも投げ出したくて、でも結局、どこにも、逃げることも」
「Jさん?」
「逃げることも、投げることも出来ねえでよ、惨めだよ、あんまりだよ。ちくしょう、あのピエロ、あの野郎。あの大家、安い売女、ちくしょう……ちくしょう」
ひゅーっ、ひゅーっとか細い呼吸音がしばらく続き、苦しそうな声でJさんは再び話し始めた。泣いていたような声が、少し落ち着いていた。
「はあ……そうだ。それで俺はあの家を出た。今度こそお別れだ。仕事も辞めてどこか遠くへ行こうと思った。こいつらの事は忘れようってな。でも忘れられなかった。俺は真冬にある街で行き倒れ寸前になったところを近くの寺に拾われた。そこの住職が俺を世話して、修行を積ませてくれたんだ。道化師の人形も、もう見えなくなってた。いつの間にかな。俺はそれがとにかく嬉しくて、真面目に修行とやらをしたさ。行くとこも帰るとこもねえ。ここで捨てられたら、今度こそ体が動かなくなって飢えてくたばるまで飯場で重労働だって思ってな」
「Jさん?」
おかしい。
「俺は必死でこなした。元々見えるタチだったからか、うまくいったようでよ。修行に出された先に……あの、廃墟が、あった」
「Jさん!?」
「そう、君とヨシダさんが能面を見た、あの家がね」
「えっ、あっ、Jさ」
「うふふふふ」
やっぱり!これだ、声が、声が戻っている。いつの間にか、あの狂ったJさんが、いつもの落ち着いた様子に、まるで何事もなかったかのように。
「そうして、あの家に駆け付けた時、私は一目見て、あの子が、自分の息子、だと、気が付きました。何故だか……わかりますか?」
一瞬、部屋の中を静寂が切り裂いた。
「わ、わかりません」
「見えたん……ですよ」
えっ!?
「死神がね……道化師の格好をしたあいつが」
「げっ」
「まだ、居たんです。彼の、私の息子の背中にしっかりと。それを見て、私はあらゆる記憶が土砂崩れのようによみがえったんです。無我夢中で走りました。そして奴を、あのおぞましい死神を封じ込めた……あの部屋にね」
「でも、」
「そう。あの時君が見たのは能面だった」
「じゃあ」
「そう。あの、能面こそ、死神の正体」
「ヨシダさんの分身じゃなかったんですか!?」
「そうです。それは間違っていません。彼は確かに、心の中に親友を作り出した。ですがそれは、結局のところ精神的な存在でしかなかったのです。そこに奴の付け入る隙が出来た。奴はその分身と融合する事で、じわじわと、真綿で首を絞めるように、彼の生命を蝕んでいった」
「ああ……」
「さあ、もう良いでしょう。佐野君、立てますか?」
「な、なんとか」
「では、行きましょう。もう其処まで来ている筈ですから」
「え?」
「ふっふっふ。家族ですよ、もう一人の」
「家族……。あの、Jさん」
「どうしました?」
「やっぱり立てません」
「どうしてですか?」
「あの、その……」
「ああ。大丈夫ですよ。彼女も、今は此処には居ません」
「じゃ、じゃあ何処に」
「ですから、家族のところにいるのです」
「ヨシダさんはどうします?」
「無論連れて行きますよ。私が背負っていきます、佐野君は、扉を開けてください。案内します。着いてきてください」
なんとか立ち上がると、身体中が痛かった。心なしかさっきより明るく見える電気ランタンの白い灯りに照らされて僕たち三人の影が狭い物置の中でゆらゆらと揺れた。あのぶら下がる気配もいつの間にか消えていた。
よいしょ、と取っ手に手をかけて、砂を噛んだ重い扉を押しあけた。電気ランタンで暗い廊下を照らし、Jさんたちの方を振り向いて
「じゃ、じゃあ行きましょうか」
と、言って前を向いた瞬間、僕は何度目かの、あまりに情けない悲鳴を上げた。
「ひああああああああああああああああああああ」
僕の足元には、忘れもしない、あの恐ろしい能面が置かれていたのだ。
「ほら。お迎えが、来ていたでしょう」




